本編⑱
私の通っている学校の日直の仕事、それ自体はさほど多くはない。朝八時前までに職員室へ日誌を取りに行き、植物の世話や黒板を綺麗にしてチョークを揃えておく。
授業開始や終了時の「起立! 礼!」という号令やら受けた授業終了毎に日誌記入、移動教室の際に窓の戸締まりや電気の消灯確認、とにかく休み時間のたび、忘れないうちに日誌記入。そして放課後には一日の総括を日誌に記入し、黒板をまた綺麗にして、日付を書き換え職員室への日誌返却。
掃除やらプリント配布に回収といった役目も当番制であり、結果として各当番が回ってくる頻度は高いが、一人の生徒へ一日に掛かる負担はそう重くない。まあ、声が小さくて日直の日が憂鬱だというクラスメートも居るが、私はむしろひたすら一日向き合わねばならない日誌記入がとにかく七面倒臭い。
そうして本日の日直当番の為、前述の通り日誌を受け取らねばならず、早めに登校するべく慌てていた私が家に忘れ物をした、という事実にようやっと気がついたのは、午前中の授業を無事に終わらせて、さあ今日も腹ヘリ椿にーちゃんへデリバリーに……と、いそいそとロッカーを開いた時だった。
おや、自分用のお弁当箱はあるのに、いつもの巾着袋とマグがございませんよ?
「どうしたんだい、美鈴っち。愛しの椿さんの下へ、今日もすぐさま駆けて行くのかと思ったのに。まさかロッカーとお見合いを始めるとは」
「……アイ……」
背後から肩をポンと叩かれ、私は困惑しつつ友人を振り返った。
「どうしよう、お弁当忘れちゃった」
「忘れたのなら、それはまあ仕方がないのではないかい。だが、椿さんと約束したのだろう?」
「うん」
「それなら、忘れた旨、謝罪の電話なりなんなり入れて、向こうに都合を付けてもらうべきでは?」
「う、うん」
おお、(お弁当が無いよ、どうしよう!?)で、固まってたけど。まごまごして、椿にーちゃんを食いっぱぐれさせる訳にもいかないもんね。
しかし、『ごめんなさいお弁当おうちに忘れちゃった』を、伝えた時の椿にーちゃんの反応が今から心配だ……昨日、細かくおかずリクエスト尋ねて、無駄に期待させまくったし。
机のサイドに引っ掛けていたカバンから、授業中はマナーモードにしていたスマホを取り出すと、新着メールが届いていた。確認は後回しでも良いか、と普段ならば判断するのだが、もしかすると椿にーちゃんからの催促かもしれん。
そう思って開いたメールの差出人は、皐月さんだった。
『やほー、美鈴ちゃん。
お兄ちゃん経由でおじさまから聞いたんだけど、今日、椿先輩に差し入れるミェハリー? っていうお弁当箱、テーブルに置き忘れたまま登校しちゃったんだってね?
お弁当ならわたしが預かって、午後から来る椿先輩に渡しておくから安心してね! (ブイ!)』
皐月さぁぁぁんっ!?
何してくれちゃってんの中年ーっ!?
いやっ、中年も嘉月さんも皐月さんも、三者三様に気を回した善意でしか無いんだろうけどっ。でも皐月さん、夢見るロマンチスト男子な椿にーちゃんが、よりにもよって片思いの相手であるところの皐月さんから、他の女の子の手作り弁当を代理でお届け~なんてされたら、何か色々駄目押しと言うか、地味にダメージ食らいませんかそれ!?
ヤバい、とザーッと青褪めた私は、大慌てで教室を飛び出し、
「あ、葉山。丁度良かった」
「すみません急いでいるので!」
「あ、そう、か?」
珍しく一年生の教室が並ぶ廊下を歩いていた時枝先輩が、私の勢いに驚いて仰け反るように立ち止まった。そして口振りからして、何かしら連絡なり話があったのかもしれないのだが、今は緊急事態である。中等部と大学の敷地を遮る校舎裏に向かって、私は全速力で駆け出した。
校舎裏に回り込む頃には疲労と体力残量の関係で、走るというよりは歩いていたが。何とか辿り着いた敷地のフェンスの向こうには、椿にーちゃんの傘が見えない。
よほど早めにこちらの授業が終わらない限り、腹ヘリにーちゃんが私よりも遅く待ち合わせ場所にやって来る事は、これまでになかったケースだ。
「ヤバい、まさかもう皐月さんから手渡された!?」
ガシャン、と、小雨に濡れたフェンスに手をかけ、周囲を見回す。だが、椿にーちゃんの姿はやはり見当たらない。
「こうしちゃいられんっ!」
私は大慌てでフェンスに足を掛け、濡れて滑るそこを慎重に上って一番上の金属の部分を両手で握り、身体を持ち上げ跨ぐ要領で反対側に向き直り、足を……
「をっ!?」
フェンスの穴はしっとりと雨露に濡れており、靴の爪先が滑って体勢を崩したせいで、思いがけず体重を支える事となった手の平と、打ち付けた膝に痛みが走る。
「ううっ……やっぱり、雨の中のフェンス越えは難易度高い……」
よろよろと下り立ち、見下ろした手の平にはフェンスの塗料が付着して白く汚れてしまっていた。
足は痛いし、既に全力疾走出来る体力も無い。小雨に打たれながらとぼとぼと大学の建物に向かって林道を歩いていたら、前方から見覚えのある傘が駆け寄ってきた。
「えっ、ミィちゃん傘も差さずに何やってるの!?」
「椿にーちゃん」
お弁当を預かっている旨、皐月さんから連絡がまだいってないのか、いつものようにお弁当を受け取る待ち合わせ場所に向かっていたらしき椿にーちゃんは、昇降口を飛び出す際にうっかり傘を忘れていた私の姿に驚き、フェンスにぶつけて少し擦り剥けた膝に気が付いて悲鳴を上げた。相変わらず大袈裟な人である。
「にーちゃん、私、お弁当忘れちゃった」
「と、とにかく手当てしよう。えっと、ここから一番近いのは……学食か!」
話を聞くよりも先に、椿にーちゃんは私を雨の林から連れ出す事にしたらしい。傘の柄を押し付けられ、両腕で抱き上げられたかと思うと、歩きにくい足下も気にせず駆け出した。
短い林道を抜け、キャンパスの人気の少ない芝生の広場を通り過ぎ、真っ直ぐに駆け込んだ建物の中では、表の静けさが嘘のように、学生が行き交い活気に満ち溢れていた。
高い天井と広いホールに、幾つも置かれた四人がけテーブルとチェア、そこで思い思いに食事を取る若者達と、あちこちに置かれた観葉植物がこの空間の良いアクセントになっている。
食券と交換で料理を受け取るカウンターでは、いかにも学食のおばちゃんといった風情の女性達が、並んでいる学生達に忙しなく料理を出している。
この学食は現在、明らかにランチタイムの戦場といった雰囲気だが、慌てて傘を畳んで傘立てに立てる私を下ろした椿にーちゃんは、調理場への出入り口に堂々と突撃していった挙げ句、ものの数秒で救急箱を携え引き返してきた。
「さ、借りてきたからそこ座って」
「えと、でも良いの?」
「良いから。また抱き上げられたいの?」
学食の利用者でも、ましてやこの大学に通う大学生でもないのに、片隅とはいえテーブルとチェアを一つ占領してしまっても良いのかという疑問と、その救急箱は問答無用で調理場からかっぱらってきたのでは? という、二つの躊躇をバッサリと切り捨て、手当てが先だと断じるにーちゃん。
ただでさえ附属中学の制服姿の私は場違いで目立つというのに、やっぱり大学内でも人目を引く椿にーちゃんがセットになっている現状は、学食の利用者からの好奇の眼差しがあちこちから寄せられてくる。
せめてもの視線除去にと、一方行からならば観葉植物の陰となる位置にあるチェアに大人しく座ると、椿にーちゃんは何も躊躇わずにホールの床に跪いて私の膝の手当てを始めた。
「俺、前にミィちゃんが怪我した時にも、ちゃんと気をつけなきゃ駄目だって、注意したよね?」
「は、はひ……」
少し皮が剥けて血が滲んでいるだけの膝に、消毒液を染み込ませた脱脂綿をぽんぽんとあてがいつつ、椿にーちゃんは低い声音で確認してくる。
こ、これは……私のお転婆っぷりに怒気を堪えていらっしゃる……!?
「雨の日にフェンス越えは危ないって、ミィちゃん自分で言ってたんだから、それはもう、重々承知のはずだよね?」
「はひ」
ガーゼを当て、大袈裟に包帯をぐるぐると巻き付けていく椿にーちゃん。
「さあ、それならどうして、もっと大怪我を負っていてもおかしくない、危ない真似をしたのか、詳しく聞かせて貰おうか? ん?」
手当てを終え、道具をテキパキと片付けた椿にーちゃんは、救急箱をテーブルにドンッ! と置きつつ、私の腰掛けるチェアのすぐ隣に移動させたチェアに横座りして、私と膝を突き合わせてお話し合いの体勢に入った。そしておもむろにポケットに片手を入れる。
あっれぇ~? おかしいな、何か思いもよらない事態で謝罪項目が増えたっぽい。何故だ、何故こうなった。『ちゃんと話すまで逃がさない』的オーラを発していらっしゃる椿にーちゃんの、有無を言わせぬ空気が私を圧倒してくる!
「えと、えと、椿にーちゃんごめんなさい」
「何が『ごめんなさい』なのか、それだけじゃあお兄ちゃんには分からないなあ……?」
ポケットから出したハンカチで、私の濡れた髪や肩を拭いつつ、椿にーちゃんは笑顔なのに低い声音で、私はびくりと身を震わせていた。
「あの、椿にーちゃんの分のお弁当、おうちに忘れてきちゃって」
「うん」
「そしたら皐月さんからメールがきてて、『わたしから椿先輩に渡しておくね!』って。
それで、皐月さんがにーちゃんに手渡す前に、私が受け取らなきゃと思って、焦って……」
「……」
しどろもどろな私の説明に、椿にーちゃんはぎこちなく視線を逸らした。
「ミィちゃんって、ほんっとに考え無しって言うか、猪突型だよね……」
「後先考えずにフェンス越えたりして、心配させてごめんなさい」
人目があろうが構わず、椿にーちゃんから座ったまま抱き寄せられ、髪の毛の水気をハンカチで拭っていた手が、わしゃわしゃと頭を撫で回していく。きっと今頃、私の髪型はぐちゃぐちゃになっているに違いない。
「ええー、俺もうどうしたら良いのこれ」
人の頭の匂いを嗅ぎつつ? そんな事を呟かれても知らんがな。
学食で普通にランチを楽しんでいらっしゃる、隣のテーブルの男子大学生のあんちゃんが、めっちゃ気まずそうにこっちから顔背けていらっしゃいますよ。あっちのテーブルでは、女子大学生の二人組が、こっち指差してキャーキャー言ってますよ!? 椿にーちゃん、これはまず離れるべきだと思うんだが!
「……ちょっと冷たい。ミィちゃん、服濡れちゃってるけど、ちゃんと着替えとか持ってる?
すぐに着替えた方が」
「大丈夫大丈夫。中学生には体育の授業でジャージ必須という不文律が」
「ああ、そうか。それなら大丈夫……なのかな」
椿にーちゃんから体温を分け与えます! と言いたげにガシッと力強くハグされつつ、適当に言葉を返してうろうろと視線をさまよわせていた私は、観葉植物の葉っぱ越しに学食の出入り口……芝生側ではなく、建物内部と繋がるドアの方に、見慣れた隣人の姿を捉えていた。
「あ、皐月さん」
「ん?」
辺りをキョロキョロと見回しつつ、皐月さんは我が家のお弁当の包みを片手に学食のホールを横切り、こちらの姿を認めて「あ」と唇を開いた。次の瞬間、何故か皐月さんは微妙に頬を赤らめていたけれども。
「やあ皐月ちゃん」
「こ、こんにちは椿先輩。お届け物があったんですけど、メールの返信は来ないし、こちらにいらっしゃるって聞いて」
私をハグしていた腕は離してくれたが、座ったまま皐月さんを見上げて平然と挨拶する椿にーちゃんに、むしろ皐月さんの方が狼狽えていた。人前でこんなあからさまにベタベタとしたスキンシップを行う日本人はそうそう居ないし、対応に困りますよね。
てゆーか椿にーちゃん。ついさっき学食に来たばかりなのに、もう現在の動向と所在が噂になってるとか、どんだけ有名人なんだ。
「わざわざすみません、皐月さん……」
「ううんっ! て言うか、美鈴ちゃん何でここに……?」
預かっているお届け物を忘れた張本人であるところの私が、昼休みとはいえ大学の校内学食でちょこなんと座っている事実にも、皐月さんは目を白黒させていた。
「それには色々と、深い訳が……」
「気にしないで、皐月ちゃん。お弁当有り難う」
まさか、皐月さんから椿にーちゃんへ手作り弁当手渡しを未然に防ごうとして、この通りあえなく失敗した結果です、だなんてまさか本人を前にして言える訳もなく口ごもる私の言を遮り、椿にーちゃんは笑顔で皐月さんに両手を差し出す。
「はい、どうぞ。
それじゃあわたしはこれで。美鈴ちゃん、ゆっくりしていってね」
皐月さんは頬を染めたままお弁当の包みを椿にーちゃんの手に乗せ、それでここでの用は済んだのか学食を後にする。
ああ、皐月さん。せめてもう少し、お話しをしませんかぁぁぁぁっ!?
「さ、それじゃあ早速一緒にお弁当を食べようか、ミィちゃん」
カムバーック! と、去り行く皐月さんの背中へ向けて内心で叫んでいる私の肩に、椿にーちゃんが手をポンと乗せて笑顔で宣言してきた。
「い、いや、私、自分の分のお弁当、教室に置きっぱなしにしてきちゃったから……」
「大丈夫大丈夫。このお弁当を二人で分けよう? ね?」
大丈夫じゃないよ。さっきから『場違いな奴が居る』ってジロジロ見られてるし、そのお弁当二人分には少ないし!
……という、私の真っ当な主張を伝えたはずなのに、
「俺、ミィちゃんと一緒にご飯食べたいんだ。どうしても、ダメ?」
と、しゅーんと意気消沈した面持ちの椿にーちゃんからおねだりされ、深い罪悪感と機嫌を損ないたくないという焦りに押され、気が付いたら意見を翻して「良いよ」と口が勝手に答えていた。
お、恐るべし石動椿。このあんちゃん、自分の思い通りに事を運ぶ為の表情や仕草、言葉運びや声音といった人心掌握術を、熟知して使いこなしておる……!
私が了承した途端、パァッと表情を輝かせ、いそいそとお弁当を広げ始める椿にーちゃん。
にーちゃんや、本当についさっきまで、深くお怒りを示しておいででしたよね? それが、皐月さんが姿を現し一言二言言葉を交わしただけで、あっと言う間にご機嫌メーターが回復ですかそうですか。いやむしろ、目の前に差し出されたお弁当の存在が大きいのかどっちですか。
「今日のおかずはなんだろなっ?」
椿にーちゃんは鼻歌交じりにお弁当の蓋を開き、「おおっ」と小さく歓声を上げ、箸箱からお箸を取り出す。
「今日は全面的に和食か。美味しそう~。いただきます!」
「どうぞ召し上がれ」
腹ヘリはご飯に全力で気を取られているお陰で、平坦な棒読みになる私の様子に気が付いた素振りも見せず、椿にーちゃんはきんぴらをパクリと一口。
「んん~っまいっ!」
もぐもぐ、と噛み締め、甘辛いきんぴらが口に合ったようで、空いている左手を握り締め、感極まっている椿にーちゃん。この人、本当にご飯食ってる時は『幸せ全・開!』な顔してるよな。椿にーちゃんの幸福は金額的な意味でお手軽だ。
「椿にーちゃん。私、喉乾いた」
「あ、ごめんごめん。ちょっと待ってて、今お茶持って来るね」
きんぴらに無条件降伏していらっしゃる椿にーちゃんの、服の袖を掴んで要求を突き付けてみると、ハタと我に帰ってお箸を置き、チェアから立ち上がった。うん、流石にお茶無しでご飯食べたら、喉に詰まらせかねないんじゃないかと思うんだ。
というか、私はちゃんと朝に、お茶とお味噌汁のマグも用意しておいたんだけど。皐月さんにお弁当の包みを渡すなら、ちゃんと汁物の有無も確認しろよ、中年っ!
券売機とはカウンターを挟んで反対側に設置されているドリンクサーバーに歩み寄り、カップに二人分のお茶を注いで戻ってくる椿にーちゃん。
よく考えたら、学食のご飯を注文してないのに学食のテーブルを使ったり、無料で飲めるお水やお茶を堂々と貰っても良いもんなのか? やや不安を抱いた私は、観葉植物の大きな葉っぱ越しに学食の様子を観察してみる。
利用している学生の多くは学食で提供している料理を食べているようだが、持参したらしきお弁当を広げている学生の姿も何人か見受けられる。……あ、良かったお弁当持ち込みもOKなんだ。
「はい、どうぞ。温かいほうじ茶で良かったよね?」
「うん、にーちゃんありがとー」
小雨とはいえ、少し濡れた私を気遣ってか、温かい飲み物を選んできてくれたらしい。
椿にーちゃんが運んできてくれた湯呑みを両手で包み、ふーふーと息を吹きかけ、冷ましながら一口。
私がお茶を頂いている間に、更にチェアをこちらに近付け移動させ、座り直した椿にーちゃんは再び箸を手に取り、我が家の中年、唯一無二にして至高の一品、シイタケの煮物に箸を伸ばした。
私が食べたかったので、夕べお父さんにリクエストしておいた品だが、流石は目に見えて褒められるべき点がこれだけしか見当たらない中年、口の中の大火事を押して半泣きになりながらも作ってくれる辺り、私ってば中年から超愛されてる。
むう、にーちゃんには是非とも中年の渾身の煮物、とりわけシイタケを味わって頂きたいが、しかし私も食べたい。
「ミィちゃん煮物好きだよね? はい、あーん」
「あーん」
どうやら、『一つのお弁当を分け合って食べる』案は椿にーちゃんの中で確定事項らしく、私の口元に好物シイタケが……そりゃああなた、思わずパクッといってしまいますがな。
「美味しい?」
「うん」
もぎゅもぎゅ、と噛むたびに溢れ出てくる旨味! やはり中年の煮物、その中でもシイタケは他の追随を許さぬ領域に達している……!
ひたすらシイタケを噛み締め続ける私を、椿にーちゃんはお箸を手にしていない左手で肩に腕を回して抱き寄せ、指先が私の頬を撫でてゆく。食べにくい。
一口食べては私に差し出し、また自分で一口……と、お箸を握るにーちゃんのご意向でやたらまどろっこしい食事をとっていると、学食の出入り口がバーン! と大きく開かれ「椿はここかぁぁぁっ!?」という、怒鳴り声が学食のホールに響き渡った。
ギョッとしてそちらを振り返る私と、名指しされた張本人であるにも関わらず、全く気にも留めずにお弁当のおかずを口に運ぶ椿にーちゃん。そして、私の口元に差し出されるほうれん草のお浸し。
「はい、ミィちゃん」
「え、ちょ、え?」
学食のホールをズカズカと大股で横切ってくる男子学生の姿と、椿にーちゃんを交互に見やって、あちらの人物にはノーリアクションで良いのかと、戸惑っているうちに、彼はテーブルと観葉植物を回り込んでこちらに人差し指を突き付けてきた。
「見つけたぞ椿っ! お前、よりにもよって学食なんぞで、またしても皐月ちゃんと美少女を両手に花で侍らしたりして、うらやまけしから……って、あれ?」
意気込んでいたクセに、後半は何だか台詞から勢いが無くなり失速していく男子学生の言はさておき、私はとりあえず目の前のほうれん草を「あ~ん」してもらった。それにしても椿にーちゃん、『またしても』って評価、よくつけられるよね。日頃の行いが目に浮かぶようだわ。
「……永沢。誤解を招く言い草を改めろと、俺、前にも言ったよな……?」
みるみるうちに機嫌が降下した低い声で、椿にーちゃんは学食への闖入者を見据えて目を細めた。
あ。あの人、前に会った椿にーちゃんの友達、通称ツレその2さんだ。あれ以来顔合わせなかったから、うん。うっかり顔忘れてたや。
「い、いやでもあれっ!?
椿、侍らせてた美少女をどこに隠したっ?」
「ここに居るだろうが、ここに」
「こんにちはー」
狼狽え慌てふためくその2さんに、椿にーちゃんは不愉快そうに私の肩を殊更強くグイッと引き寄せ、私はにーちゃんの肩に寄りかかるような体勢になった。おおっと危ない。湯呑みの中身が零れる。
「美鈴ちゃんは美少女じゃないっ……いや、えーと」
微妙に傾いた姿勢のまま、ずずーっとお茶を啜る私とその周囲を見渡し、その2さんは赤いヘアピンを付けた頭に手をやった。その2さんの方は、ちゃんと私の顔と名前を一致させられるんだなー、記憶力良いなー。
「俺、もしかして担がれた?」
「この上なく。つい今しがたの侮辱発言、今日のところは特別に大目に見てやるから、吹き込んだ首謀者をキリキリと吐け。光か?」
「光は今日、バイト。
首謀者って言っても……すれ違う奴ら皆、そんな噂してたし。
本命を差し置いて、他の女の子とも楽しく遊んでるとか許せんっ! と……」
「これ、いつもの美鈴ちゃんの手作り弁当なんだが。そしてすぐ隣に居るんだが」
「噂って尾ひれどころか、背びれや胸びれまで付いて怖いな!」
椿にーちゃんってもしかして私が考えてた以上に、この大学の名物チャラ男なのかなー? すぐに噂になるって事は、にーちゃんの人物像をある程度知っていて、話題にのぼらせるぐらい関心を抱いている人が大勢居る、って事だよね。
義憤……いや、私憤か? とにかく何かに駆られて、椿にーちゃんの行いを改めさせようと乗り込んできた、らしきその2さんは、『は~。問題解決』とばかりに清々しくホールを後にしようとしたのだが、椿にーちゃんに「待て」と呼び止められ、騒がせたお詫びに缶ジュースを奢らされていた。ご馳走様です。
「せっかくのランチだったのに、バタバタしちゃってごめんね、ミィちゃん」
昼休みが終わる前にと椿にーちゃんに促され、中等部の正門へ向かって歩道を歩きつつ。差した傘からはみ出し雨に濡れないようにと、抱き寄せられていて私としては逆に歩きにくい。
申し訳なさそうに謝ってくる椿にーちゃんに、私はふるふると頭を左右に振った。急がなきゃと焦って駆け出したものの、それで結局何が成されたかと言えば、今日の椿にーちゃんの昼飯の量を減らしただけ。皐月さんがお弁当を運んでくるのを、さり気な~く椿にーちゃんの目から隠す、という重要ミッションを失敗してしまったのは大きい。
「今日はうっかり、場所の選定をミスったから騒々しくなっちゃったけど。また今度、二人でゆっくりしようね」
「うん」
流石に雨の中、敷地を遮るフェンスをもう一度乗り越えるという選択肢は椿にーちゃんが許容しなかった為、本日の授業がまだ終了していない時間帯に正門を潜るという、非常に他の生徒から見つかりやすく、かつ脱走の事実が窺いやすい先生方から叱られそうな帰還方法と相成った。踏んだり蹴ったりである。
しかし、椿にーちゃんにとっては人前でベタッと引っ付く行為は全く問題ではなく、人出があり賑やかな場所で、騒々しく落ち着かない環境でご飯をとった、という結果が不本意であるらしい。でも、その2さん笑顔でミルクティー奢ってくれたじゃないか。
それにしても。私、何か色々と調べねばならない事があった気がするんだけど。椿にーちゃんの怒気に気圧されて、スコーンとどっかに飛んでいっちゃったよ。
落ち着いて考えを巡らせ、そしてようやく私は思い出した。
「あ」
「ん? どうしたの」
「柴田先生だ」
「え?」
「大学構内で……」
柴田先生の周辺をそれとなく調べようと思っていたのだが、それを考え無しに勢いのまま椿にーちゃんの前でペラペラと喋りかけている事に気が付き、慌てて口を噤んだ。
だが、私の口から出てくるには関連性の低い名前を、不審に思ったのだろう。椿にーちゃんがぴたりと足を止め、腰を屈めて私の顔を覗き込んできた。
「ミィちゃん、どういう事?
柴田先生と知り合いだったの?」
「えーと、知り合いってほどでも……」
殺害の可能性がある以上、椿にーちゃんと柴田先生って、もしかして普段から仲悪いという可能性があるのかも? と、今更ながらに私は失言に青褪める思いだが、椿にーちゃんの眼差しには訝しげな色が混じっているのみ。
「前、喫茶店のモーニングで相席になって。
その時の話が面白かったから、私もあの大学に進んだ時は、柴田先生の講義受けてみたいな~、って思って。今度機会があったら、評判調べてみようと思ってたのを、今思い出した」
「……それはまた、世間は狭いね。柴田先生の講義なら、俺も受講してるよ?」
にっこり、と、笑みを浮かべる椿にーちゃんの様子からは、柴田先生をどう思っているのかが今一つ読めない。
「じゃあ、どんな講義なのかとか、柴田先生ってどんな人なのか、にーちゃん教えてくれる?」
「うん、良いよ。その前に、ミィちゃんが喫茶店で聞いた話って、どんなやつだった?」
学校の敷地をぐるりと囲む柵を大回りする歩道を再び歩き出しつつ、椿にーちゃんが興味を引かれたように尋ねてくるので、私は記憶を浚った。
「んとね、兎と亀の童話を、生態から読み解く! って感じだった」
「ああ、あれか……」
どうやら既に、講義で話した内容だったらしい。まあ、入門編って感じで取っ付きやすい内容だったしな。
「兎は昼間は活発的に表をうろうろしないし、兎と亀の寿命の違いが体感時間に大きく差が表れるとか、言われてみるとなるほどって納得して」
「ミィちゃんそれは……素直過ぎるというか、選別されていようがいまいが、何でもかんでも鵜呑みにするから心配になるね」
「え?」
中等部の正門の前で立ち止まった椿にーちゃんは、私に傘を差し出しながら頭をぐりぐりと撫でていく。
「柴田先生の講義は、『これが絶対的に正しい』って頑なに受け止め固執するんじゃなくて、むしろ読解力や独自性、柔軟な発想力を育てる事を主眼にしてるんだよ。だから結構、ディスカッションとかあるし。柴田先生の解釈は毎回ぶっ飛んでて、笑いとツッコミの嵐だし」
「柔軟な発想力……」
確かにそれは、皐月さんに必要な素養かもしれん。そして思ってたよりも、ずっと和気藹々としてて楽しそうだな、柴田先生の講義。
……って、ハッ!? いかん、柴田先生はラスボスなのだから、絆されて簡単に受け入れてはいかんっ。騙されるな、私! 他の学生にとっては良い先生でも、椿にーちゃんに危害を加える可能性が存在する以上、私にとって奴はラスボスの座を不動のものとしている!
「にーちゃん、送ってくれてありがとう。あと、傘は良いよ。にーちゃんが濡れたら困る」
「いや俺よりも、ミィちゃんが風邪ひいたら大変なんだって。
……あっ、こら!」
私の身体の冷えを毎回気遣う椿にーちゃんは、今日も傘を押し付けてこようとするが、私は無理やり椿にーちゃんの腕の中から抜け出して、校舎に向かって走り出した。今日が小雨で良かったよ。
「今日は日直で遅くなるけど、また放課後にね!」
流石に中等部の敷地内にまで、走って追いすがってはこない椿にーちゃんに一度振り返って大きく腕を振り、私は昇降口に向かって駆け出した。
椿にーちゃんは傘を差したまま、やれやれと呆れている風である。……一応、危惧していたよりも、深く気落ちしているようには見えないから、無駄でも行かずにいたよりは良い方向に向かったのかな。多分、きっと恐らく。
今後は、どれほど慌てていても、お弁当を忘れないように肝に命じておこう……
遅刻しないよう予鈴が鳴る中、足早に自分のクラスへ戻ると、何故か私の席の周囲には人だかりが出来ていた。中心部に座しているのはアイだ。
「おお、お帰り美鈴っち!
ハッハッハ、どうしたんだ濡れ鼠じゃないか。スマホをカバンに放置したままでいて良かったな!」
私の姿に気が付いたクラスメートが三々五々、自分の席に戻っていき、妙にテンションの高い友人に出迎えられた。
「あたしのタオルで良ければ、使いたまえ美鈴っち」
「ありがとー。アイの家は、フカフカで良いタオル使ってるんだねえ」
「何、学校持ち込み専用だからな。九割九分見栄だ」
雨天だからと、アイは念の為にタオルを持ち歩いていたらしい。頭から被せられたタオルで、雨に濡れた部分を拭っていると、濡れている上にグチャグチャになった髪を纏めていた髪ゴムが、アイの手で丁寧に外された。
それは良いのだが、私の席に広げられた私のお弁当箱の中身が綺麗に空っぽになっているのは、いったいどんなマジック?
「いやあ、美鈴っちがお弁当を放置したまま戻ってこないから、クラスメート一堂、有り難く仲良く分け合わせて頂いたぞ」
「そ、そう。傷むよりかは、うん。良かったよ」
しれっと「お弁当頂戴致しました」と告げられたが、この時期にお弁当を食べずに持ち帰っても、食中毒が怖い。
アイが化粧ポーチからブラシを取り出し、私の髪の毛を梳き始めたのでスマホを取り出し確認してみると、恐らく私が教室を飛び出した後に届いたらしき椿にーちゃんからの『ちょっと遅くなるね』メールと、お昼休み半ば辺りでアイからの『いつ戻るの?』メールがあった。これの返信が無かったので、私がスマホを持ち忘れた事に気が付いたのだろう。
「確認が取れないまま、置き去りのお弁当を見るのが忍びなかったのだよ、美鈴っち」
「……単に皆、他のお弁当に興味が湧いただけじゃあ……?」
今日は体育も無いし、お昼ご飯少なくても何とかなるけどさ。
クラスメートの皆さん、我々は共に机を並べ師を同じくする学友として学び始め、早数ヶ月経ちますが。「ごちそうさん!」とか仰る私に向けられるその笑顔、そんなにも明るく輝いていらっしゃるのを目撃するのは、今日が初めてなのですが。
いや、休み時間を丸々、いきなり言付けも何もなく育ち盛りのメンツの前へお弁当を置いて、そのまま行方不明になったのだから、仕方がないのかもしれないけど。
クラスの団結に一役買ったのなら、喜ばしい話です……うん、多分。前に見た二年生の教室みたいな気安い空気に、近付いてるならまあ良いんだけど。
「っと、そう言えばアイ、今日のお昼休み、時枝先輩が来てたよね。用件は何だって言ってた?」
「時枝先輩が?」
緊急性の高いトラブル勃発! と、混乱しながら駆け出したせいで、時枝先輩が何を言っていたか、どうにもよく思い出せない。偶然すれ違ったのではなくて、私に何か話があったらしき言葉を聞いた気がするんだけど。
部活関連の簡単な伝達事項だったなら、私の友人であると時枝先輩もご存知であるアイに、伝言するなりなんなりしていきそうなものだけど。
「いやあたし、昼休みは教室を出てないし。時枝先輩は尋ねてこなかったけど?」
「そっか」
私が脱兎の如く廊下を駆け出した後、時枝先輩は特に誰かに何かを伝えるでもなく、引き返したのだろうか。急ぎではなく後でも良いような内容だったのかな……?
「そいやアイ」
「ん?」
何やら私の髪の毛をいじくり回しているアイに、私はふとした疑問を抱いて背後の友人に問い掛けた。
「アイと時枝先輩って、何か接点でもあるの?」
「いや、別に何も?」
所属している部活はもちろん、委員会も異なるし、そうなると学年が違う上に異性の生徒は個人的な交友関係の繋がりでもなければ、名前を知る機会なんてそうそう無い。アイが学年を越えて有名だとか、時枝先輩が学年性別問わず友人を沢山お持ちだというのなら、さしておかしくはないけれど、そんな話は聞かないしなあ。
だいたい、時枝先輩は私が紹介するまでもなく、私が口にしない『渋木』というアイの名字を知っていたし。私が考えてるよりも、時枝先輩って自身を取り巻く周辺の状況への観察眼が優れていて、耳に入ってくる収集情報量と記憶力も段違いなのかしらん。
本鈴が鳴り響く中、アイは私の髪に髪ゴムを巻き付けて自分の席に戻る。私も慌てて教科書やノートを用意しつつ、広げられていた空っぽになったお弁当箱を慌てて片付けて、次の授業の用意を整え自分の席に着いた。
先生が教室に入って来る前に、後頭部に手をやってみる。ざっくりとした編み込みの感触が伝わってきた。学校ではサイドの髪の毛を後頭部で纏めているだけの、簡単な髪型で通している私だ。オシャレに私よりかは熱意がある上に、長い髪の毛の手入れもしていて、結うのもお手の物だなんて、アイは器用だなぁ……
それから真面目に午後の授業を受けていると、何だか身体が妙にぞわぞわするというか、肌寒いよーな感覚にたびたびみまわれた。
気が付けば何となく身が入らずぼけーっとして、授業を半分聞き流しているうちに、鼻がずびずびとしてくるという段階に至って、うむ、と私は頷いた。
どうやら私は、風邪をひき始めているらしい。どーせそんなに距離がある訳でもない上に小雨だし、と甘く見ていたなあ。いかん、今後は椿にーちゃんの過保護な行動を(大袈裟だなあ)とか流せる根拠が無くなっちゃうじゃん。
「美鈴っち、何だか頬がいつもと違ってやや赤めだが……」
「そう? んー、熱でも出て来たかなあ」
ホームルーム前にアイが後ろの席に着いている私を振り返り、心配そうにそう尋ねてきた。日誌を書く手を止め、額に手を当ててみるが自分ではよく分からない。
制服の水気は午後の授業中にほぼ乾いていたし、病弱ってほど風邪をひきやすい体質でもなかったから、過信してたかも。
「ホームルームは早引きして、保健室に行く?」
「咳も出ないし、頭も痛くなくて、何だかボーっとするだけだし。ホームルーム終わらせて、ちゃんと日直やり遂げるよ。またやり直しになるのイヤだし」
「無理はしないでくれたまえよ?」
「へーい」
途中放棄状態で早退すると、日直は後日再びやり直しを命じられてしまう。なんといっても、日誌を書くのが面倒臭くてしょーがない私としては、順番に従って回ってくるのは黙々とこなすが、やり直しで再び日直を任じられるのは断じてご免である。面倒臭い。
担任の話を聞き流してやり過ごし、ホームルームを終わらせた途端、ガヤガヤと賑やかになる教室内の空気を背景に、私は必死こいて日誌を書き上げ、放課後の仕事をこなす。
窓の戸締まりに、黒板を綺麗に消して、明日の日直当番さんの名前を書いておく。
「さて、終わった。あたしはこれで帰るよ。
美鈴っちは今日は、帰りに買い物だっけ?」
「うん」
クラスメートが支度を終えて、委員会の用事や帰宅していく中、帰る前にさらさらっと宿題を片付けたアイは、日誌と格闘している私に声を掛けてきた。
確かアイは、この後用事があるんだっけ。それなのにわざわざ教室で宿題を片付けていたのは、私が具合悪いんじゃないかと心配したからだよね、きっと。
「……いっそ、あたしが残り書いて職員室に届けておこうか?」
「それやったら、またやり直しになっちゃうじゃんー」
別に頭は痛くないけど、どうせ職員室に行くんだし、フラフラし始める前に保健室に寄ってから帰ろうかな……
私の様子を気にしつつ、アイは教室を後にする。ラストスパートをかけて日誌を書き上げたのは、アイが立ち去ってから数分、といったところ。うん、休み時間毎にきちんと記入していったから、そう手間取る事もなかったな。
パタパタと帰り支度を調え、日誌を手に職員室へ向かう道すがら、向かい側の特殊教室が並ぶ校舎の廊下を、階段の方に向かってアイが横切って行くのが見えた。
あれ、アイの用事って校内の話だったんだ……などと何気なく窓の向こうへ視線を向け友人の姿を追い掛けていたら、階段を下りてきた人物の姿が見えた。時枝先輩だ。多分、また美術室に行ってたのかなー、と、思わず先輩の様子を窺ってしまう。
お互いの姿に気が付いたらしき時枝先輩とアイは、向かい合って唇が動いているので、何事か言葉を交わしたようであるが、生憎と声は聞こえないし、読唇術の心得も持ち合わせていないので、何を喋っているのかサッパリ分からない。
「って、おお?」
何か会話を交わしたらしき時枝先輩とアイは、連れ立って階段を上がって行ったではないか。
え? やっぱりアイって、時枝先輩と何か繋がりとかあったの?
時枝先輩と友人の関係が、非常に気になって仕方がない。アイが時枝先輩に憧れてる素振りは特に無かったけれど、知己だったりするのかとか、好奇心が疼くではないか。
私は渡り廊下を抜けて特殊教室棟に向かい、慎重に階段を上がっていく。時枝先輩が階段を上がって向かう先と言えば、当然というかやはり美術室辺りだろうと見当は付くが、念の為にそろそろと各教室の様子を探る。
今日は部活動の活動日ではない為か、どの教室も無人だが、音楽室や視聴覚室など、まだ鍵が掛けられていない教室も多い。
本命の美術室の前で、前回のように磨り硝子に映って私の存在が時枝先輩にバレても間抜けなので、屈み込んで姿勢を低く保ちつつ、教室のドアを少しだけ、音を立てないように横にズラす。そうして覗き込んだ美術室の室内では、奥側の窓の方に時枝先輩が、私から見て背中を向ける形でアイ。アイと向かい合っている時枝先輩はどこか緊張しているようで、何か言おうとしては唇を開き、また閉じて……を繰り返していた。
……えっと、何だろう、この緊迫感。いかにも、これから重大な話を打ち明けます、って空気が美術室を包み込んでいる!
「それで、話っていったい何ですか、時枝先輩?」
いつまでも口火を開かない時枝先輩に焦れたのか、アイは静かに問い掛け、両腕を組んだ。おお、我が友よ。チミは相手が美術部の支配者様であろうが、全く臆さないな!
「……これからする話は、少し荒唐無稽なんだけど、オレは真面目に確認したいだけだ。それを踏まえて、聞いて欲しい」
「はい、何です?」
アイから促され、意を決したように言葉を選び始めた時枝先輩は、緊張気味ながらも真っ向からアイを見据えた。
「渋木は、この前の土曜日……えっと、もう先々週、になるか。
五月最後の土曜日は、葉山と一緒に駅前の繁華街に行かなかったか?」
……え?
先々週の土曜日って言うと、アイと映画を観に行った日だ。時枝先輩は、何故それを知っているのだろう。
私の脳裏に、あのやけにリアルな自動車事故に遭った夢の情景が過ぎる。あの日、時枝先輩の姿を見掛けたのは、あの夢の中だけだ。
「ええ、行きましたけど?」
「……その次の月曜日に、葉山の様子をそれとなく注意して見てみたけど普段とあんま変わりない様子だったし、部活で会った時にもさり気なく『相談事があれば言えよ』って言っても、ぽけっ? としてるし。
多分、あいつも覚えてない」
時枝先輩がいったい何を言っているのか、私の理解の範疇を、超えていた。
「なあ、渋木。お前本当は覚えてるんだろ? あの時、葉山がスピード違反の自動車に……!」
「時枝先輩」
言い募る時枝先輩に、アイは首を傾げて遮った。その表情は、こちらには背を向けているので、全く窺えない。
だが、私からも様子が手に取るように分かる時枝先輩の方は、見る見るうちに焦燥と必死さを湛えた表情から、困惑の色を滲ませ始めた。
「すみませんが、時枝先輩が何を仰っているのか、あたしにはサッパリ分かりません。
ええとそれで、分かり易く要約すると、何でしたっけ?」
そう疑問を呈するアイに、時枝先輩もまた首を傾げた。
「ああ、えっと。
……あれ? 何だっけ?」
「あたしは、美鈴っちに関わる話がある、って呼び出されたはずですけど? あの子が何か、美術部でミスをやらかすとも思えませんけど……」
「ああ、葉山は真面目に頑張ってるよ。
……オレ、何でわざわざ渋木を呼び出したんだっけか……」
首を捻り始めた時枝先輩に一礼し、
「じゃあ、お話がそれだけならあたしはこれで」
「ああ、悪いな。呼び出したのに用件ど忘れしたりして」
「いえいえ」
アイが身を翻す動きに合わせて、私は咄嗟に隣の教室に滑り込んで身を隠していた。今、アイと顔を合わせたりしたら、何か自分でもおかしな事を言い出しかねない気がしたのだ。
美術室を後にしたアイは私の存在に気が付いた様子も無く、軽い足取りで階段を下りてゆく。
とにかく、時枝先輩に事の真意を問い質そう。先々週の土曜日に、時枝先輩もまた、繁華街に足を運んでいて、『アレ』に遭遇したのかどうか!
「時枝先輩!」
「うおっ!? 何だ葉山か。今日は部活動の日でもないのに、描きにきたのか?」
美術室のドアをバンッ! と勢い良く滑らせ開いた私に、キャンパスに向き合っていた時枝先輩は驚いたようにこちらを振り返った。
「あの、五月末の……先々週の土曜日、駅前繁華街に時枝先輩も居たって本当ですか?」
「先々週……?
……ああ、兄貴と偶然バッタリ会って繁華街で買い物してたけど?」
あ、時枝先輩ってお兄さんいるんだ。って、それは置いといて。
「その時の事、私、ちゃんと覚えてます。てっきり夢だと思ってましたけど、時枝先輩の姿を見掛けて横断歩道を渡る途中、自動車に轢かれて……」
「ん……? 葉山、お前、何言ってんだ?
オレ、幸運な事に自動車事故に遭った事なんて一度もないぞ」
キョトンとした表情の時枝先輩は、私を訝しげな眼差しで見返してくる。
「先輩がじゃなくて、私が時枝先輩の目の前で轢かれて……」
「葉山、お前それ、何か悪い夢でも見たんじゃないか?
流石にオレも、後輩の事故現場に居合わせたくはないな」
話が噛み合わない。私は『アレ』を覚えていると告げているのに、時枝先輩は全く飲み込めていない様子だ。
「先々週の土曜日、私達、駅前繁華街で偶然会いました……よね?」
弱々しく確認すると、時枝先輩は「いや?」と、首を横に振った。
「あの日、オレは葉山を見てないと思うけど?」
時枝先輩の態度からは、嘘をついているようには全く見えない。
覚えている、時枝先輩がそう口にしていたのは、時間にしてほんの数分前の事なのに。




