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本編⑰

 

「よし、それならお兄ちゃんが泊まっていってあげよう」

「帰れ」


 パッと表情を輝かせ、名案だとばかりに膝を叩く椿にーちゃんに、私は笑顔で即座に切り返し、椿にーちゃんは湯呑みを両手で抱えて拗ね始めたのだった。



 夕食を終え、帰る前にもう一回温泉に入ろう! などと言い出した椿にーちゃんに付き合って湯を堪能し、旅館にてお土産を購入してから電車に乗って無事に帰宅する頃には、既に夜九時を回っていた。

 で、家まで送ってもらってキッチンダイニングでお茶を出し、父の出張が日帰りではなく泊まり掛けであると知った椿にーちゃんによる、先ほどの発言である。


 私は椿にーちゃんの隣に腰を下ろしてカットした寒天を小皿に少し盛り、匙とお箸を置いた。たらふく夕食を詰め込んできた後なので、本当に量は飾り付け程度だ。

 父が適当に作り上げたこのフルーツ寒天、失敗作なのか元々こういう品なのか、かなり千切れやすいのでお箸で挟むのはもちろん、フォークで突き刺し持ち上げようものならば裂けてツルリと滑り落ちる代物である。


「椿にーちゃん、温泉から上がった後も、『もうちょっとゆっくりして行こうよー、ミィちゃん』って駄々こねてたけど、要するに温泉で温まってそのまま寝ちゃいたい気分なだけでしょ?」


 移動が面倒臭いだけだろう、と指摘すると、椿にーちゃんはお茶菓子のフルーツ寒天を口に放り込み、不満げに噛んで飲み込んだ。

 ……この、やたらと箸使いに長けたにーちゃんがどうやってこれを食べるのかと、半ば実験的に出してみたんだけど。ゼリー感覚で呆気なく匙ですくって食べなすった。おかしい。私も同じように匙ですくおうとしても、寒天は皿の上でツルリと滑って優雅に逃げてゆく、だと……!?


「湯冷めは身体に悪いのだよミィ君。確かに、未だ義務教育期間中の君を、保護者の許可なく遅くまで連れ歩くのは望ましくはない、と同意はした。だがっ、既に成人であるこの私がいずこへ泊まろうとそれは自己責任であり、また幼いミィ君が一晩一人きりという状況を鑑みるに……」

「別に一人で留守番とか慣れてるから」


 椿にーちゃんの役者がかった口上を遮り、私はスパッと一言で不要である、と断じた。

 みるみるうちに、椿にーちゃんはわざとらしい演技を取り止め、眉を下げた。


「……どんなにミィちゃんが自分で『大丈夫』って言っても、一人ぼっちで留守番させるのが凄く心配なんだよ、俺」

「……」


 いかにも自分のワガママです、と装っていた態度をかなぐり捨て、真っ向からそう言われて頭を撫でられると、何も言えなくなってしまう。

 けれど、椿にーちゃんを我が家に一晩泊めるだとか、そんな状況は断固として防がなくてはならない。自意識過剰だとかなんとか言われようとも、絶対に無理だ。

 椿にーちゃんが一つ屋根の下で一泊していくとか、考えるだけで無理っ! ずぇったいに、逆に眠れないし!


「あー、もー。ほんっとにミィちゃんはのんびりしてて、ハラハラする」


 逃げ惑う寒天を匙ですくうのを遂に諦めて、小皿ごと持ち上げて直接皿の縁に口を付けてずずず……と吸い込む暴挙に出る私の肩に腕を回し、ガバッと抱き付いてくる椿にーちゃん。毎度の事ながら、私の視界に映らない頭上に椿にーちゃんの顔が寄せられていて、人の頭の匂いを嗅いでやしないかと心配になる。

 人の頭に擦り付いている椿にーちゃんはひとまず置いといて、私はもぐもぐ、と寒天を噛みながら小皿をテーブルに戻した。


「戸締まりと火の元、きっちり確認してから就寝するから、そう心配しないでにーちゃん」

「無理。後ろ髪引かれちゃって、ミィちゃんを一人残して帰れない。

俺が出て行った後、押し込み強盗とか放火魔とか偏執狂変質者とか誘拐犯が現れたらどうするの」


 私の頭から顔を離した椿にーちゃんは、真っ向から真剣な眼差しで問うてくる。その場合、仮にうちの中年が在宅していたとしても、全く頼りにならないのだが……

 というか、椿にーちゃんにとって我が家周辺のこの界隈はどれだけ危険性と犯罪率の高い地域として認識されているのだろう。物心ついてからこの方、下着泥棒やら空き巣といった事件がご近所であった、といった噂を耳にした事すら無いのだけれど。


「いざとなればほら、お隣さんが気が付くよ。嘉月さんって大抵、夜に眠らないでネタを考えてるし」

「……俺より、お兄さんの方を頼りにするんだ?」


 エコロジーの時代を逆行する生活スタイルを送っている隣人の名を出すと、椿にーちゃんは低く呟き、やや不満げに眉をしかめた。……うん、うっかり忘れてたけど、そういや椿にーちゃんと嘉月さんって、何でか仲が悪かったね。


「いやその、椿にーちゃんを信頼してない訳じゃなくて、その……」


 何で私、椿にーちゃん相手にこんな言い訳っぽい釈明を、妙な後ろめたさを感じながら、俯いてもごもごと口の中で転がしてるんだろう? 彼女に浮気疑惑が浮上したカップルで、身の潔白を証明しろと嫉妬に狂った彼氏に迫られてるみたいな空気って、こんな気まずさじゃない? 多分。


「……ミィちゃん」

「ひゃい」


 俯いていた顎の下に椿にーちゃんの手が伸ばされ、強引に上を向かされた。笑顔、なのだが、何故だか怖いと感じる表情を浮かべている椿にーちゃんに間近で目を覗き込まれて、返事を噛んでしまった。


「確かに、お父さんが居ない家に、現状、赤の他人でしかない俺が急に『泊めて』なんて言い出したら、困るよね。それはしょうがない。ミィちゃんは女の子なんだから」

「にーちゃん?」

「仕方がないから、今日のところは大人しく引き下がっておくけど……」


 実際のところ椿にーちゃんが無茶言い出したのに、何で、私のワガママを叶える形で椿にーちゃんが譲歩した、みたいな言い草をされるのか、非常に納得はいかないけれど。私の顎を軽く掴んでいるにーちゃんの親指が、下唇をなぞるようにゆっくりと撫でていく感触に、何だか分からんが本能的な恐怖心が背筋を這い上がってくる。


「帰る前にちゃんと、この家の全部の窓がきちんと施錠されているのを、この目でしっかり確認しないと、俺を追い出せれないからね?」

「……どんだけ心配性なの、にーちゃん?」


 私が怯えているのに気がついたのか、謎の恐怖体験を煽るうっすらとした笑顔から、いつもの緩~い笑みに戻った椿にーちゃんに、我知らず安堵感からガクリと全身の力が抜けてしまう。

 そして椿にーちゃんは宣言通り、しっかりと家中をチェックしてから、やっぱり今夜も玄関先にてくどくどと戸締まりと火の元の注意を促してから、「それじゃあまたね」と、私をぎゅぎゅっと抱き締めて帰って行った。

 それにしても、私の部屋は二階なのに、チェックが一番厳しく入念だったのは何故だ。


「……中年が泊まり掛けで出張の日は、次からはお隣に泊まらせてもらう事にしよう」


 でもまた、自分よりも嘉月さんを選ぶのか、って椿にーちゃんが拗ねるかも。いや、あれが拗ねてたのかはよく分からんけど。


「お父さん、早く帰ってこないかなあ」


 あの、椿にーちゃんとの訳の分からん攻防再来を防ぐには、中年が自宅に収まっているのが一番なのだ。

 父への土産である紫陽花の鉢植えを飾り付けつつ、私はふうと溜め息を吐いた。中年のなるべく早い帰宅を願うのは、もしかしてこれが私の人生において初めてではないだろうか。


 椿にーちゃんの言い付け通りに、玄関鍵の施錠とチェーンがしっかりと取り付けられているのを確認し、カバンを抱えて二階に上がった。にーちゃんってば本当に、窓の鍵と二重ロック、家中の施錠にセンサーライトや防犯砂利がきちんと機能するのかを、隅々まで確認してから帰って行ったからなあ。

 自室に戻ってスマホを充電器に差し、椿にーちゃんから貰った簪をアクセサリーボックスの中に、大切にしまう。また今度、浴衣を着た時にでも髪に飾ってもらおう。


 手早くパジャマに着替えてベッドにごろんと転がりぬいぐるみを抱っこしたところで、スマホがメールの着信を告げた。むくりと上半身を起こして机の上の充電器からスマホを取り上げる。

 今夜も椿にーちゃんからのお休みメールが届いていた。開封すると、毎度のごとく『今日のお出掛け、とても楽しかった。またデートしようね』と、妹分相手ではない、まるでとても大切な人に宛てたラブメールのような、受け取り手の気分を巧みに高揚させるサービス文っぷりである。


「何だかなあ……」


 こうまで過保護に甘やかされていると、内心で(そのうち構わなくなるくせに!)と拗ね続けるのも難しい。椿にーちゃんの本心はどうあれ、現時点で私は間違いなく可愛がってもらっている訳で。

 こんな状況で「どうせ、近い将来では飽きて捨てるんでしょ?」なんて言い草は、完全にべったり依存して駄々をこねて、「今も未来も、私がにーちゃんの一番でなきゃ嫌なの!」と泣き喚く幼子同然ではないか。


『おうちに一人きりでもしも眠れなかったら、真夜中だろうが呼んでくれたら駆け付けるから、遠慮なく電話してくれて良いからね?』


 メールの文末に付け加えられている念押しに、私はくすくすと笑い声を零していた。やっぱり椿にーちゃんは、うちの中年よりもよっぽど父性に溢れるというか、頼りになるあんちゃんである。


『ありがとう、にーちゃん。ずーっと一緒にいてね。大好きにゃん』


 今日も間抜けなにゃんっ娘なりきりでつらつらと認めたメールを返信すると、椿にーちゃんからとても素早くお返事が返ってくる。いや、常日頃から文章作成スピードが早い早いとは思ってたけど、私が返信してから更にもう一回椿にーちゃんから返ってくるまでに、一分も経ってないよ?

 訝しみながら受け取ったメールを開くと。


『俺も大好き <3 ミィちゃん ilu

  xoxo 椿』


 ああ、短い文章を一気に打ったからこんなに返信速くなったんだ。

 んと……三、で私に、えー……いる? えっくすおー椿……?

 うーん、分からん何だろう。こんな単語、英単語にあったっけ?

 スパルタ神よりの御言葉を解読するべく、私は慌ててぬいぐるみを放り出して机に向かい、英和辞書を引く。最早これは、スパルタ家庭教師たる椿にーちゃんから刷り込まれた、条件反射と言っても過言ではない。


「載ってねぇぇぇぇ!?」


 しかしせっかく辞書を引いたというのに、肝心の単語が載っていない。最近使われだした造語か略語か、そもそも英語ですらない可能性も考えられる!

 だが、これで『ごめんなさい、意味がよく分かんなかった』などと馬鹿正直に返信を送っては、スパルタ神のスパルタ魂がメラメラと燃え上がってしまう! ここは、日本人らしく穏便に、かつ曖昧に流して場を濁すしかあるまい。

 取り敢えず、『俺も大好き』とあるからには、多分悪い意味ではなかろう。


『うん、ありがとう椿にーちゃん。良い夢見れそう。お休みなさいにゃ』


 ひとまず先ほどの内容に触れてるんだか違うのだか、どうとでも取れるメールを作成。

 さあ、どう返ってくる。とんちんかんな返事になっていなければ、きっと椿にーちゃんもお休みと返してくれるはずだ。

 妙に心臓に悪い待ち時間の後に、椿にーちゃんからお返事が返ってくる。


『お休み、ミィちゃん。俺は必ず、夢の中の君へ会いに行くよ』


 よ、良しっ。メールの意味がイマイチ分かってないという真実を悟られず、なんとか乗り切ったー!

 しかし、夢の中で会いに来るって……意外とロマンチストだな、椿にーちゃん。いちいちそう書いてくるのが気障ったらしいというか、むしろにーちゃんは恥ずかしくてのたうち回らないのかと疑問に思うが、これがチャラ男のメール文に求められる必須技能なのかもしれん。


 私は無事、椿スパルタ神降臨を未然に防ぎ、晴れ晴れとした気持ちでスマホを充電器に戻してベッドに潜り込んだ。ぬいぐるみを抱きかかえる。

 疎まれたり憎まれずに可愛がられてんだから、もうそれで良いじゃん。


 その夜、本当に椿にーちゃんが夢に出てきた挙げ句、膝に乗せられベタベタと引っ付かれて、つつかれ撫でられながらお菓子を食わされまくる、という色んな意味で甘ったるい夢が繰り広げられた。

 ……自覚してなかっただけで、実は私には(ポッキーゲームがしたいなあ)なんていう願望でもあったのだろうか……?



 スッキリしないどころか、疲労感を覚えながら目覚めた日曜日。中年はまだ帰ってこない。

 天気予報によると、まだまだ雨模様の日々は続くのだが、お天道様の機嫌になど全く関係無く、洗濯物は溜まる。部屋干ししても雑菌が繁殖しない柔軟剤を使って洗濯し、家中を掃除しても予定の無い日曜日、午後の時間は余る。


「これで晴れてたら、どこかに出掛けるんだけどなあ」


 二階にある自室で机に向かい、宿題を片付けて本を読んでいても、なかなか集中出来ない。ともすれば、やけにリアルな上にちっとも色褪せていかない昨夜の夢の光景が、瞼に蘇ってくる。うう、何であんな夢を見たんだ……

 ぬおおおおと、呻きながら頭を抱え込む私の傍ら、充電器に差しっぱなしのスマホがメールの着信を告げた。誰からであろうかと確認してみると、皐月さんからだ。


『やほー、美鈴ちゃん。

もしお時間があれば、うちで一緒にお茶しない?』


 読み終わって隣家の庭先を見下ろしてみると、リビングの掃き出し窓を開いて半身を出し、こちらを見上げて片手をヒラヒラと振る皐月さんの姿が。

 私は皐月さんからも見えるよう大きく頷いて、了承のお返事を出し、階下に下りていった。



「今日のお茶菓子はね、わたしのお父さんが単身赴任先から送ってくれた北海道土産だよ」


 御園家のリビングにて、皐月さんと並んでソファーに腰掛ける。ポットを傾け馨しい紅茶を淹れ、私にカップを差し出しながら皐月さんはにこにこと嬉しそうな笑顔で、お菓子と一緒に勧めてくる。

 クッキー生地の間にホワイトチョコレートが挟まった、素朴なお菓子だ。


「ありがとうございます、頂きます」

「このお菓子って、焼きたて熱々のラングドシャでホワイトチョコレートを挟むんだよ。それで『恋人』だなんて商品名に付けたりして、素敵なセンスだよね」

「アツアツの……」


 ミルクを注いで飲みやすい温度になった紅茶を頂きながら、小袋から取り出したお菓子を頬張り、頬を染める皐月さんを見返す。

 ええー、つまり『白い』の部分にかかってるホワイトチョコレートが、ラングドシャに両側から挟まれて蕩ける。……あー、つまりは情熱的なハグで恋人さんがときめいてる的な情景を想像させる訳ですね?


「そんな発想をする皐月さんの方が、乙女だと思います」


 正直、私は(この菓子美味いなあ)としか感想が出てきませんでしたよ。北海道は冬の雪原のイメージもあるから、ホワイトチョコレートと合わせて『白い』って商品名にしたんだろーなー、ぐらいにしか実物を目の当たりにしようが思わなかったし。

 というか、皐月さんのお父さんはマトモな土産センスでめちゃくちゃ羨ましいな。うちの中年は、謎の置物レベルだからな……せめて銘菓を買って来い。


 お茶とお菓子を頂きながらお喋りをするが、皐月さんの周辺に不穏な空気が漂っているような気配は無いようだ。彼女が語るキャンパスライフは、のんびりとしていて温かな毎日だ。キラキラ眩しい……

 柴田先生素敵話に辛抱強く耳を傾けながら、恐ろしい危険の芽は無いかと神経を尖らせるが、どう聞いても単なる『憧れのあの人カッコイイ』トークでしかない。


 現実の柴田先生はバイオレンス方面では動かないのか、皐月さんへの関心は教え子でしかないのか、椿にーちゃんが大学での生活で皐月さんへの気持ちを態度に出さないよう自粛しているのか。

 恐ろしい未来予想図、その全ては私の杞憂だったのだろうか。それとも……


 一人で考えても事態は解明されないし、めでたしめでたしのエンドマークも付かない。そんな事を一人で悩むのは一旦棚上げし、もぐもぐと熱心にお菓子を食べる皐月さんの背後に回り込み、かねてよりの疑問点であった『だ~れだっ?』に挑戦してみた。

 お菓子頬張りを中断させられたにも関わらず、皐月さんは「美鈴ちゃん可愛い!」と抱き締めてくる。

 通りすがりの嘉月さんへの実行を勧められるが、そちらはやんわりと遠慮しつつ、皐月さんの反応に首を傾げる。


 むう……急に『だ~れだっ?』をされたならば、悪戯犯に抱き付くまでがベターなのか? 何だか意外な気がするんだけど。しかしまあこれで、次に椿にーちゃんから仕掛けられたなら、完璧な反応を返してやれるな。今に見てろよ、にーちゃん!



 皐月さんの近況を伺いつつのティータイムを終え、夕飯とお風呂を終えて寝支度をすっかり調えた頃合いに、ようやく父が出張から戻ってきた。


「美鈴ただいまー! 寂しい思いさせてごめんね」


 ドッタンバッタンと、賑やかな物音を立てながら、父は廊下を駆け抜けキッチンダイニングに突撃をかましてくる。


「お父さんお帰り!」

「美鈴ー!」

「良かった、今夜中に帰ってきてくれて」


 私はガタンと音を立てて勢い良くイスから立ち上がり、荷物を放り出してバッ! と両手を広げて待ち構える体勢を取る中年の立つそちらへ、歓喜を湛えて駆け寄る。

 そして、父の眼前で微妙に突進方向を逸らしてしゃがみ込み、中年が放り出してドアの辺りに落ちている荷物を猛然と漁り、目当てのブツを発掘する。


「あったあった、出張見栄張り用お弁当箱! もー、帰ってくるのがこんなに遅くなるから、明日の椿センセーに用意するお弁当箱はどうしようかって、やきもきしちゃったよ」


 綺麗に空になっているお弁当箱を手に立ち上がると、父は片足を踏み出し両腕を胸の前方でクロスさせる、謎の前傾姿勢で固まっていた。新手のヨガポーズであろうか?

 気にせずお弁当箱をシンクに持っていき、水洗いはされていたそれを丁寧に洗って水気を拭き取った。これで明日の朝からまた、憂いなく椿にーちゃんにお弁当を用意してあげられる。


「お父さん、お風呂は沸いてるから入ってきたら?

じゃあお休み~」

「み、みみみみ美鈴!?」


 出入り口付近にて、未だ謎のポーズを固持している通行の邪魔臭い中年の傍らを苦労してすり抜けようとしたところで、ガッと二の腕を鷲掴みにされた。


「どうしたの、お父さん?」

「出張から帰ってきたお父さんに言うべき事やお出迎えは、それでおしまいなの!?」


 滂沱中年は鬱陶しいが、私は中年の出張土産に関して、欠片も期待を寄せていないので、言うべきや済ませるべき事柄は既に実行済みのはずである。


「あ、思い出した」

「なになに?」


 だが、じとーっと湿った眼差しを向けられて、私はある事を思い出していた。


「温泉街での、お父さんへのお土産。紫陽花の鉢植え」


 キッチンダイニングに飾っておいた鉢植えを指し示すと、滂沱中年はパアッと表情を輝かせた喜色中年に早変わり。我が父ながらチョロイン過ぎる。


「わあ、可愛いし綺麗だね!」

「紫陽花祭りで撮った写真も、椿センセーが現像してくれるってさ。会場すごく綺麗だったよ。

お父さんへのお土産に、鉢植え勧めてくれたのも椿センセー」

「そうかあ、石動さんが……」


 ガクアジサイの鉢植えで癒やされているのか、ウットリする中年は殊の外嬉しそうだ。


「で、椿センセーが教えてくれたんだけど、紫陽花の花言葉は~」

「さらりと披露できるぐらい花言葉をご存知だなんて、石動さんはやっぱり、奥ゆかしくも理知的でウィットに富んだ方なんだね!」

「……あー、まあそうね」


 私の発言を遮って、興奮した面持ちでのたまう中年には悪いが、椿にーちゃんは奥ゆかしいという言葉からは、かけ離れたお方であるよーな気がする。中年の夢を完膚無きまでにぶっ壊し、灰燼に帰するのも不本意なので、曖昧に同意しておく。理知的とウィットに関しては、まあ否定する要素も無いし。


「で、花言葉なんだけど、紫陽花は『あなたは美しいが冷淡だ』って言うらしいよ」

「れい……」


 中年がショックのあまりよろけて、危うくテーブルに頭をぶつけるところだった。


「まあそれは西洋でついた悪いイメージで、日本では昔から『家族団欒』とか『団結』って考えられてたんだって」

「なるほど! そうだよね、石動さんがお父さんへ勧めてくれたお土産の意味が、『冷淡』の方だなんて有り得ないもんね!」


 あっさり立ち直り、うんうんと頷いて納得している我が父。

 そうだね、お父さんに贈る物としては、まず有り得ない花言葉だね。『あなたは美しい』って辺りが特に。


「そうだ、お父さんも美鈴に東京土産があるんだ!」

「え……」


 全くサッパリ一ミリたりとも期待していないと言うのに、中年は嬉々として荷物を漁り始める。そして自慢げに「ジャーン!」と取り出したのは。


「……」

「これはね、スカイツリーを模してある壁飾りで……」


 逆三角錐の何かが刺繍されている布地を手に、熱弁を奮う父の声を聞き流し、私は遠い眼差しを彼方へ向けた。……無駄に場所を取る邪魔臭い置物よりは、まだしもこちらの品の方が、スペースを必要とせずマシであろう。

 我が父の土産選定センスは、確実に成長してきている。亀の歩みの千分の一ぐらいの速度で。中年にしては、感心するほどの猛スピードであると称えよう。このままのペースでいけば、恐らく私は一生涯、父の土産で喜ぶ事は無いであろう。



 紫陽花祭りから帰ってきて以来、私は比較的平穏な日常を送っていた。正直、柴田先生の思惑を探るという目的において、有効な一手を探りあぐねている状態である。

 椿にーちゃんは相変わらず私に優しいままだし、気のせいか日に日に構いつけてくる甘やかし頻度が上がったような気がする。


 そんな風に、まごまごと進展の無い日々を送っている私に、運命はまたしても容赦なく全力で襲い掛かってきた。


「実は、ね、美鈴ちゃん。

ついに、つーいーにっ!

わたし、御園皐月は柴田先生とお付き合いをする事と相成りました~!」


 学校帰りの雨道で偶然出くわした皐月さんが、妙にご機嫌な様子だったので話を聞いてみると……皐月さんはピースの形にした指を、ウィンクした左目の前辺りで横向きにビシッと構え、軽やかな口調で嬉しそうに宣言してくる。

 予想外のお言葉に、私は驚愕のあまりよろけていた。


 えっと、えっと……皐月さんが柴田先生とくっ付いたって事は、私……もう椿にーちゃんの足止めに奮闘する必要、無くなったって事?

 というか柴田先生、皐月さんの事好きだったんだ!? 皐月さんと柴田先生が一緒にいるところを、私は見た事が無いから知らんかった。


 そのまま皐月さんに連れられ御園家へお邪魔し、仲の良い兄であり、現在の保護者的立場である嘉月さんに嬉々として報告する皐月さんの姿を眺めながら、私はうーんと考え込んでいた。

 寝耳に水の嘉月さんは、目を見開いて顎を落としている。学生の妹が教師と交際を始めた、とか、今度改めて挨拶に来ますってそれ、まるで結婚のお許しを頂くみたいな手順……と、外野の私でさえびっくりするのだから、当事者の嘉月さんにとって、それはもう衝撃的な話なのだろう。


「その、皐月が柴田先生と交際を始めるにあたって、様々な障害があるであろう事は、きちんと理解しているのか?」


 それでも何とか立ち直った嘉月さんは、皐月さんの浮かれたマシンガントークの合間を縫って、静かに問い掛けた。それに、皐月さんは神妙な表情で頷く。


「うん。私はまだ未成年の学生だし、柴田先生は大学の先生だもの。

先生のご迷惑にはならないように節度が求められるし、普通の恋人同士の当たり前が、わたし達にとっても当たり前にはならない事も分かってる」

「そうか……」


 嘉月さんは皐月さんの言葉に一つ頷くと、


「そもそも何故、教育者と学生の恋愛関係が好ましくないのかと言えば、年齢差によって判断能力が未熟な学生を、教育者が誑かす事が容易であり、または立場を笠に着て、不適切な関係を強要している可能性があるからだ」


 お茶を一口含み、嘉月さんは言葉を続ける。


「まあ先生の方が上手で、皐月では太刀打ち出来なかった結果ではないかと、俺には些か不安も残るが……だがもう、お前も子どもじゃないからな。それが自分で考えて選んだ結果なら、俺は皐月の意志を尊重する」

「お兄ちゃん」


 まだ学生だからと強硬に反対するでもなく、妹の意見を肯定してくれる兄に感動の眼差しを向ける皐月さん。


「一つ、アドバイスをしておくとな、皐月」

「うん」

「学生だ教員だと、あまり枠に捕らわれてばかりいても、上手くはいかないと思う。

自由恋愛とは、対等な人間関係ありきで成り立っているものだからな。准教授の人となりを理解するのには、先生の研究そのものを知るのが良いんじゃないか。研究者の研究内容とは、その人の半生そのものだ。

大学ではきちんとTPOを考えて、それでいてプライベートでは、皐月なりに先生と対等な関係を築けるよう頑張れ」

「うんっ。ありがとうお兄ちゃん!」


 ……嘉月さんって、妹にアドバイス出来るぐらい、『障害アリな恋愛』について熟知してたのか。いや、翻訳した著書からの知識かもしれないけど、何にせよ恋愛なんてモノに欠片も興味を抱いていなさそうなイメージだっただけに、驚きの一面だ。

 普段、口数が少ない嘉月さんが皐月さんの事を思い一生懸命喋っているのを見ると、本当にこの兄妹は仲が良いんだな、と感心する。


 兄と妹の心温まるやり取りを見守り、ついでにお夕食をご馳走になるべく料理を手伝いながら、私はまだ考えていた。

 皐月さんと柴田先生が交際を始める、という方向へ一息に舵を切り大きく動いた現状は、未来に起こり得る惨劇への懸念が、全て私の杞憂に終わった、やれやれ一安心めでたしめでたし。と、安直に考えても良い変化なのだろうか?

 ……いや、何というか、むしろこれは弓矢が極限まで引き絞られた状態ではないのか、という不安が消えない。何故ならば、片想いの相手が自分以外の誰かと交際を始めたからといっても、多くの人は恋情が一瞬にして消え去りはしないであろう。


 つ、椿にーちゃんが遂に、規制されてるいけない道具を実家から持ち出すフラグ、なのか!?


「……皐月、今日のルーには何を入れたんだ?」

「今日は少し甘めに、七味しか入れてないよ?」

「そうか……」


 三人で食卓を囲んで完成したカレーを頂きつつ、私がうんうん唸っていると、嘉月さんは今日もグラスのお水を一息にあおって、文句すら言わずに大人しくキッチンからチョコレートを取り出してきた。今日はちゃんと少しずつ折り取って、味を調節している。嘉月さん……


「皐月さんの料理って、甘い味付けよりも辛かったりしょっぱい味付けが多いですよね。

うちも、父が甘党でなければ中辛カレーにするんですけど」

「美鈴ちゃんのお父さんも甘党だと、もしかして甘口・辛口が分かれる系の料理は甘口に偏ったりする?」

「ええ、麻婆なんて辛さ控え目ですし、他にもフルーツサラダ作ったり、玉子焼きももちろん塩でなくてお砂糖入りで」


 私自身は、皐月さんのような激辛党でこそ無いけれど、別に辛い味付けは嫌いじゃない。

 あ、でも椿にーちゃんもどっちかって言うと甘党だしな。今まで通り、やっぱり今後も甘口な味付け寄りになりそうな予感がする。

 口直しのデザートに皐月さんに林檎の皮を剥いてもらい、ほわ~んと幸せそうな表情で齧る嘉月さんと並んで、私も林檎を頂き。父用のお土産にカレーをお裾分けしてもらって、御園家宅を後にした。



「むー……」


 カレーの小鍋をガス台のコンロに乗せ、炊飯器のご飯をセットして手早くサラダを作って、歯磨きやお風呂、着替えを済ませた私は自宅のキッチンダイニングの定位置に着き、大きく動いた状況を踏まえた今後の方針について、腕を組み考えを巡らせていた。

 恋に破れた椿にーちゃんが、思いあまって凶行に踏み切らないよう、平穏を望む私は慎重ににーちゃんの動向を見守らねばならない。スマホを手に取り、椿にーちゃんの番号に掛けてみる。

 二回ほど鳴ったコール音の後、電話の向こうと繋がった。


「もしもし?」

「にーちゃん、今電話しても良かった?」

「もちろん大丈夫だよ、ミィちゃん」


 事前に話題を決めて考えぬまま、衝動的に電話を掛けてあっさりと繋がった訳だが。今日も今日とて電話越しだろうが無駄に甘い声音だな、にーちゃん。私相手に甘さを振り撒いてどーするんだろう。

 椿にーちゃんの声には全く沈んだ様子が無く、傷心を押し隠しているとはとても思えない。なんかむしろ、耳に届く限り実に満ち足りてそーなんですが。

 ここでバカ正直に『皐月さんと柴田先生が、交際を始めたって知ってる?』なんて聞けない雰囲気だ。これは十中八九、椿にーちゃんその情報をまだ入手していない。皐月さん、ちゃんとその話を大学では隠しているのね。


「えっとね、明日のお弁当のおかず、何が食べたい?」

「鶏の唐揚げ!」


 話題に困って適当な質問を投げかけると、即座にリクエストが返ってきた。うん、椿にーちゃんがそう答えるのは今更驚くような内容でもない、返答が分かりきった事象でしたね。


「鶏肉無いから我慢して」

「……が、我慢強いのが俺の長所だと、最近考えてたとこ」


 毎回毎回唐揚げを用意出来るほど、食材を豊富に取り揃えていないと素気なく断ると、椿にーちゃんは震える低い声で答えてきた。何だ。また崩れ落ちて『神はこの地を見放された!』と、嘆きのポーズでも取ってるのか。


「鶏肉以外で食べたい物はある? そういやまだ、ブロッコリー尽くしのおかずが良いの?」

「いや……流石にそろそろ、ブロッコリー以外でも大丈夫だと思う」


 椿にーちゃんは「そうだなあ……」と、お弁当のおかずを真剣大真面目に考えてリクエストし、明日の学校帰りのお買い物にも付き合ってもらう約束を交わして、私は電話を切った。


「……今のところ、椿にーちゃんは平常運転だけど……」


 箍が外れて暴走を始めないように、出来うる限り気を逸らし続けねばならない。何があの人の殺意を強く育てるのかが定かでない以上、張り付けるだけ張り付いて、諫められる方が良い。


「問題は、柴田先生の動向なんだなー」


 何の接点も無い柴田先生の、人となりや気持ちを知るには、これから人間関係を築いて無理なく少しずつ知っていくのが一番確実、なのだが。街中で一回偶然顔を合わせたっきりの、大学の准教授と女子中学生が、一体全体どうやって自然なる交流を持てと言うのか。


「美鈴ただいまー。お父さんお腹ペコペコだよ!」


 毎度ながらの無理ゲーっぷりに頭を抱えていると、玄関先からとてつもなく呑気かつご陽気な中年の声が響いてきて、廊下をスリッパによるスキップにて進む、キュッキュキュッキュという異色的な足音が近付いてくる。てゆか、変なとこ器用だよね、お父さん。私が同じ事しようとしても、スリッパ脱げるだけだし。


「お父さんお帰り。今日の夕飯はポークカレーで、ご飯炊きたてだよ」

「わ、やったカレー!?

美鈴、お父さんはね」

「ハイハイ、半熟目玉焼きでしょ? 用意してあげるから、早く着替えてきて」

「はーい」


 お父さんのトッピングリクエストをみなまで言わせず早々に追い出し、カレーを温め直して半熟目玉焼きを作っている最中に、不意に嘉月さんの何気ない言葉が脳裏に蘇ってきた。


――准教授の人となりを理解するのには、先生の研究そのものを知るのが良いんじゃないか。研究者の研究内容とは、その人の半生そのものだ。


 相手と対面して直接言葉を交わさずとも、婉曲にかの人を知る手段はある。

 お父さんの席にサラダとカレーを出してやると、スーツから部屋着に着替えてきた中年は、私の真正面の席に着き、喜び勇んでスプーンを手に取る。


「ねえお父さん。前、喫茶店で柴田先生と知り合ったじゃない? ご近所の大学の准教授のセンセー」

「ああ、あの人ね。若いのに人に持論を講釈するのが上手かったよね。柴田先生の講義、きっと引き込まれて面白いんだろうなあ」


 「頂きま~す」などと言いつつ、さり気なくサラダの皿を遠ざけようとするお父さんの手元へ押しやり返しながら、私はなるべく不自然にならないように尋ねた。


「柴田先生の教えてるというか、研究してる分野って、どういう方向性なんだろ?」

「おや、美鈴は文系に進みたいの?」

「うーん、どっちかって言うと、そう」


 娘との無言の攻防の末、結局、サラダをお残しという選択肢を諦めた中年は、渋々といった風情で一旦スプーンを置き、改めてフォークを手に取った。


「テレビでたまにやってる、心理学実験! みたいなのとは何か違う感じだったよね」

「多分美鈴が観たのは、パフォーマンスを目的にしたバラエティー色の強い演出かな。

確か、『世界中の有名な逸話などに秘められた、当時の認識や常識、物の考え方や生き方などを探る研究』で、『心理学』だと仰っていたね。だからもっと、社会学的見地や民族学に分類されるのじゃないかな?」

「……どうしようお父さん。私、よく分からない」

「興味があるなら、調べてごらん」

「うん」


 サラダをもっしゃもっしゃと咀嚼する父に頷き、スマホのネット検索で心理学に関して色々と検索してみる。

 様々なアプローチから、人間の心を探る学問なのだろう、というのは分かる。ただ、どういった学問であるのか、というそのお堅い文章を読んでいると、難し過ぎて頭に入ってこずに目が滑る!


 なるべく噛み砕いて教えてくれるサイトをあちこち探してみると、とにかく目に付くのが『催眠』というワードである。私がテレビで見かけるのも、大概この類いだ。

 暗示をかけて人を意のままに操る、などというまるで魔法のような技術に、人はどうしても関心を寄せられてしまうものらしい。もしも本当に、催眠術が全世界の人を好き勝手に操れる万能技術であるのなら、世界はとうの昔に技術体系を確立した人物の手によって、好きなようにさせられているだろうに。

 催眠誘導は精神的な面を支援する目的で研究されている、臨床心理学に分類されるらしい。

 柴田センセーの研究とは、いかにもその方向性が異なっていそうだけど、でもラスボス的なあの人にはやけに似合ってるな、催眠誘導で他者をさり気なく操り罠に嵌める! 的な技能。いや、いくらなんでも柴田センセーは、畑違いだろうし催眠誘導なんて使えないだろうけど。


「……んっと、これかなー。『文化心理学』」


 サラダを完食し、にこにこ笑顔でスプーンを手に取った中年を後目に、あちこちのサイトを見て回っていた私は、ようやくそれらしいページに行き当たった。

 文化心理学とは何か、私が読んで理解した点を大ざっぱに纏めると、生まれ育った地域や国、時代によってそこに生きる人間の認識は大きく異なる、それらを知り研究する学問らしい。


 地域の常識の違いとしてもっとも使われる逸話は、国によって虹の色の見え方が異なるという話らしい。日本において、虹とは七色であるというのが一般的な通説だが、そもそもがはっきりと七色揃って見分けられるような虹を、実際に目撃したことがあるか? と尋ねられると答えに窮する。実際、かつての日本は虹を五色と考えていて、七色だと教育をし始めたのはごく最近の話なのだ。

 アメリカやイギリスが六色で、フランスやドイツ、中国などが五色、ロシアなどが四色と認識している。

 たとえ同じ現象でも、人によっては異なる解釈や見え方をしているものだ、という事実を端的に表している話だな、と、口から火を噴く中年の真向かいで、私はスマホを片手に真剣に考え込むのだった。


 またしても、温める際にミルクなどで中和せずにそのまま供したせいで、中年の涙を湛えた恨みがましい眼差し向けられたが、気にせずミネラルウォーターのボトルをテーブルの上にドンッ! と置いてから二階の自室に上がり、深く考え込みながらベッドに横たわる。


「明日から、なるべく柴田先生の動向を探れるように、大学に入り込む大義名分を模索するか……?」


 などと考えながら、ぬいぐるみをむぎゅむぎゅと抱き潰す。

 柴田先生の研究内容から言っても、ところ変われば常識も習慣も変わる、人間は十人十色だという認識を、深く理解している方なのではないか、という推測は成り立つのだが。

 それはつまり、過剰とまではいかずとも、皐月さんに想いを寄せる椿にーちゃんに対し、強く警戒態勢を取るに十分な人間性を持ち合わせているのではないか? という不安がどうしても拭えない。


 ……そんな風に、寝る前にも翌朝起床してからも、うだうだとよそ事を考えながらお弁当を詰めたりと通学準備をしていたせいか、私はうっかりポロポロと物忘れを発生させていた。

 まず、皐月さんの衝撃的な交際宣言の翌日は私の日直当番で、早めに登校しなくてはならない事を直前になって思い出したせいで、遅出の父にのんびりと見送られながら全速力で家を飛び出す羽目になったし、慌てて走り出したせいで、椿にーちゃんの為に用意したお弁当の包みを、キッチンダイニングのテーブルに置きっぱなしにしたまま、学校へ向かってしまったのだった。



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