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本編⑯

 

「……んー、なんかちょっと肌寒くない? 濡れて体感温度下がったかなー?」


 私の頭から手を離した椿にーちゃんは、雨でけぶる紫陽花を透かし見ながら唐突にそんな事を言い出した。

 細やかな日常の雑音も、何もかも吸い込み覆う雨の音が聞こえる。時が止まったような、静まり返った静寂の世界に突然放り込まれたような。そんな錯覚を覚えたのは、ほんの一瞬の出来事だったらしい。


「そうだね、少し冷えるかも」

「それはいけない」


 謎の雰囲気からの脱却に乗っかるべく、私も同調してこくこくと頷くと、自主的モデル中には脱いでいたスプリングコートを、椿にーちゃんは私にふわりと被せてきた。


「ミィちゃんは俺より華奢なんだから、冷えは大敵だよ?」

「うん、ありがと」


 四阿で休憩をとると決めた際、レインコートは脱いでいたのだが、こうしてにーちゃんのコートが掛けられると、何だか背中がぬくぬくとする。

 それからしばしの間デッサンを続けてから、私達は四阿を後にした。



「やっぱり、紫陽花は雨の中眺めるのが一番だよね~」

「そ、そうね」


 山 (と、言ったら山なのである)の斜面を再び登ってゆきながら様々な品種の紫陽花を眺め、時折写真を撮りつつ、椿にーちゃんは私のバッグを肩に掛け、もう片方の手で私の背中に腕を添えて支えつつ、のんびりと景色を堪能している。

 ……チクショー、たっぷりお昼休憩をとったのに、こっちは早くも心臓がバクバクし始めた。何故、椿にーちゃんは私のペースに合わせて階段を上りながら、全く疲れた様子を見せないのだろうか。


「紫陽花って、日にちが経つにつれて少しずつ色合いが移り変わっていくのも魅力だよね」

「土の性質で色が変わるってホント?」

「そう言われてるけど、全部が全部、一概に酸性アルカリ性に左右されてる訳じゃないらしいよ」


 私は周囲を見回しながら、「へー」と相槌を打った。まるで鞠のように可愛らしい丸い形で咲き誇るホンアジサイが階段の道沿いに植えられ、歩く者の目を楽しませる。


「へー。私は赤い紫陽花よりも、青い紫陽花が好きだなあ」


 右手側に赤い紫陽花左手側を青い紫陽花と、その間に敷かれた階段で色合いが丁度くっきりと分かたれており、見比べた私はそんな結論を下した。午前中はガクアジサイに心が傾いていたけれど、こうして改めて眺めるホンアジサイも甲乙つけがたい……むむぅ。

 ようやく足下が山登り階段から紫陽花を楽しむ小道に辿り着き、私が何気なく答えたその時。椿にーちゃんが「あ」と何かに気が付いたような呟きを零し、私のレインコートのフードを深めに被せ直した。


「ミィちゃん、ちょっとこれ持って」

「うん」


 そして、手にした傘の柄を私に手渡してくる。何気なく受け取り、少し高めに腕を掲げて椿にーちゃんが雨に打たれないよう傘を差す私の両脇に腕を回して、抱き上げてきた。


「……急にどうしたの、にーちゃん?」

「ん? 足下の水溜まりがドロドロにぬかるんでたから。いくらその対策の為の長靴でも、せっかく可愛いのに泥汚れが付くのは何となく嫌な気分かなあ、と思って」


 俺なら簡単に避けられるしね、と、椿にーちゃんは私を抱き抱えたまま水溜まりを避けて進んだ所で私を下ろした。……このにーちゃん、人を簡単かつ気軽に持ち運び過ぎだと思う。いや、ご厚意は有り難いけどさ。


「にーちゃんは私に気を遣いすぎな気がする」

「このくらいの気配りは、して当たり前なの」


 地面に無事に下ろされて、向かい合って傘を返しながら呆れた感想を漏らすと、椿にーちゃんは私の額を軽くつつきながら、笑顔で言い返してきた。そしてまた、私の手を握る。


「さっきの話の続きだけど」

「えっと、好きな色の紫陽花?」

「そうそう。俺は白い紫陽花が好きだなー。清らかな雰囲気がして可愛い」


 ……このにーちゃんの口から『清らか』なる単語が出ると、妙にむず痒い気分になるのは何故だろう? と、私は歩きながら内心首を傾げてしまった。


「……白い紫陽花なんて、どっかにあった?」

「んーと、あっちの方だね」


 立ち止まり、登ってきた傾斜の一部を指し示す椿にーちゃん。その方角に目を凝らしてみると、確かに周囲を鮮やかなピンクや青色に囲まれたうちの一部を白く塗られたように、雨の中でしっとりとした存在感を醸している。

 階段登りにひーこら言っていたせいで、見落としていたらしい。


「大丈夫、ミィちゃんの背景の一部として、バッチリ写真撮ったから!」

「さいですか」


 グッ! と親指を立てて寄越す椿にーちゃんの背後では、徐々に強まってきた雨足がざあざあと音を立てている。


「本降りになってきたね」

「向こうが出口だし、土砂降りになる前に園内を回れて良かったよ。

ちょっと早いけど、夕飯の予約してある旅館に移動しよっか」


 暗い空を見上げながら促す椿にーちゃんに、私は了承して名残惜しく周囲の紫陽花を見回した。こうやってにーちゃんと一緒に花を見に足を運ぶ機会が、またあると良いなあ。



 さて、紫陽花の里を後にした我々は、お夕飯の予約を入れているという旅館に到着し、あれよあれよと言う間に露天風呂の温泉につかっていた。

 ……こうして言葉にするとあっさりとした一文だが、出迎えてくれた仲居さんに椿にーちゃんは超絶イイ笑顔で「予約していた石動です」と告げた後、「早速ですが、夕ご飯の前に温泉に入らせて下さい」と。

 お花見気分だけで観光していた私はすっかり忘れてたけど、この街は温泉街なんだよね。で、椿にーちゃんはご飯だけではなく、この旅館の温泉入り放題な日帰りプランを予約していたそうだ。


「……いい眺め」


 雨雲のせいで薄暗い夕方頃の空と、高台から眺める開放感溢れる屋根付き展望露天風呂は南方に三河湾を臨む眺望で、遠目には紫陽花の里のカラフルな色彩も鮮やかに見える。


 広い浴槽の縁の役割を果たしている、大きさも形もバラバラな大岩の一つに軽く両腕を置き、私はのんびりと柵越しに風景を眺めていた。ピークの時間帯がズレているせいか、さほど利用客の姿が無いのを良いことに身体をゆっくりと伸ばし、たゆたう湯に身を預ける。湯の中で伸ばした足のふくらはぎ辺りを両手でむにむにと揉みほぐし、疲労回復マッサージに勤しんだ。

 形原温泉の泉質はアルカリ性単純温泉で、効能はリウマチ、神経痛、関節痛、健康増進などに効くらしい。泉質案内表記より。お湯は透明でサラサラしている。


「実に気持ちが良い、けど……」


 単なる、お食事所での豪勢な夕飯ではなく、温泉+夕食+しばらく休憩出来る部屋付き、アメニティ色々有りな日帰りプランって……高くないのかな? 費用は折半するって申し出ても、椿にーちゃんは笑顔で「俺が温泉入りたいからミィちゃんを付き合わせちゃってるだけだし」とか、はぐらかしてきそうだ。

 確かに、プランを事前に確かめずに、疑いもせずほいほいと椿にーちゃんの後を付いて来た、私が悪いのかもしれないが。こんな高そうなサービスが待ち受けているだなんて、たいしたお小遣いの持ち合わせも無い中学生であるところの私は、『温泉奢りだワーイ』と、安易に喜ぶ訳には……ああ、あったかまったり極楽~。


「……にーちゃん、さっきは何を言ってたんだろうな」


 しばし目を閉じて湯を堪能していると、自然と先ほどの椿にーちゃんの不可解な発言について疑問が頭をもたげてくる。

 出会ってからこれまでに、椿にーちゃんと交わした会話を反芻してみるが……何だか改めて考えてみると私、交流をし始めてから短期間でとても気に入られてるな、という感慨しか湧いてこない。

 ふと、思う。


「……もしかして、私とにーちゃんは今年の五月に初めて出会ったんじゃない、とか?」


 突拍子もない考えではあるが、何となく思い至った予想に、私は思わず湯をざぱっと揺らしながら勢い良く立ち上がっていた。そのまま何も考えずに一歩踏み出したら、浴槽の底でつるりと足裏が滑ってバランスを崩しそうになり、私は慌てて体勢を整え……大人しくお風呂に座り直した。

 うん、考え事に没頭して、天然温泉だってうっかり失念しかけてた。慌ててにーちゃんに事の真意を確かめに突撃するよりも、もったいないからもう少し温泉につかっていよう。湯あたりとか、のぼせ上がるような感覚には程遠いし。


 柵の向こう、暗く夜に向かって沈んでゆく海と街の風景に、分厚い雲の向こう側の太陽の傾きを思う。そろそろ、日が完全に地平線の向こう側に隠れる頃合いだろうか。

 雨に打たれ、風もないのに揺れる木々の枝葉が奏でるメロディーに耳を傾けつつ、先ほどの突飛な予想について考えを巡らせる。


 私が覚えてないだけで、椿にーちゃんと以前にも会っていたと仮定しよう。ご実家の住所を正確には知らないが、少なくとも椿にーちゃんはここ二年間、私の家のご近所に存在する大学に通っていたのだから、絶対に活動範囲が重なってはいなかった! とは、言い切れない。

 ただ、流石に去年や一昨年に出会っていたとすると、あんな個性的で面白系あんちゃん……もとい、視線吸引イケメンであるチャラ系兄さんの事を、私が全く覚えていないというのもおかしい。


 まあ、じっくり去年や一昨年の記憶を掘り返してみても、変わり映えのしない日常生活と、中年の中年による中年な中年たる中年の中年らしい中年が中年をして中年たらしめた中年しか、思い出せない訳だが。

 ……我ながら、今世の己の思い出が全面的に中年で染め上げられているという事実に、軽くショッキングだ。割りと最近の行事であるはずの、小学校の卒業式や中学校の入学式も、式の内容そのものではなく、その日の滂沱中年の顔しか思い出せん……!

 うん、こんな中年だらけの日常の中で、例の、朝でヘロヘロ駄目男状態な椿にーちゃんと出くわしていたとしても、三日と覚えていられた自信が無い。


 よし。椿にーちゃんとの謎の約束は、うちの中年のうっかりのせいで脳の記憶スペースで中年が上書きされたんだ。だから私が悪い訳じゃないんだ。向こうも思い出さなくて良い、って言ってたし。どーしても思い出せないものは仕方がないから、気にしないでおこう。


 自分の中で結論付けて開き直り、私は今度は慎重に立ち上がって露天風呂から上がる。ふう、身体ほっこり良い湯だった~。

 高台からの景色を見納めし、露天スペースと屋内お風呂場スペースを区切るドアをガラガラと横にズラして引き開け、洗い場と屋内温泉の傍らを通り過ぎ、脱衣場に戻った。

 そろそろ夕飯時だからだろう、ポツポツといた温泉利用客は既に先に上がっており、私が脱衣場に入ると浴衣姿のお姉様方が楽しげに語らいながら、化粧台スペースで乾かし終えた髪の毛を結って、立ち去る所だった。


 この日帰りプランはタオルだけじゃなくて、宿泊客でなくても浴衣を貸し出してくれるんだよね。えへへ、ちょっと楽しみ。

 バスタオルで丹念に身体の水分を拭い、下着を身に着けお借りした浴衣を広げる。白地に青い紫陽花の柄がプリントされた、なかなか可愛らしい浴衣だ。


「えーっと、まずは左右の襟部分を合わせて、丈が長いからおはしょりを作って……?」


 化粧台スペースの鏡の前に立ち、袖に腕を通して身ごろを合わせ、だいたいこのぐらいかなあ? と思われる丈になるように、浴衣の生地を折って適当に長さを調節して作ったおはしょりを、用意されていた腰紐と帯で結ぶ。


「……さっきの華やか浴衣美人なお姉様方と、何か違くない?」


 鏡に映る浴衣姿の私は、よくよく見てみると左右で丈の長さはだいぶ違うし、何だか野暮ったいし、帯もぐちゃっとしていた。

 浴衣の着直しは一旦棚上げしてひとまず腰掛け、ドライヤーを取り上げまだ濡れている髪の毛を乾かす。手早く乾かした髪の毛をブラシで整え、髪ゴムで頭の後ろに一纏めにしてお団子を作った。

 もう一度浴衣の着付けに挑戦するべくイスから立ち上がると、先ほどよりも片方の裾が更に落ちて床に引きずる格好になっていた。あれ、ギュウギュウに締め付けたら苦しいからって、逆に緩すぎた?


「う~ん……」


 とにかく帯と腰紐を解き、改めて結び直してはみた。だが、鏡の中に映る自分はやはり何というか……しっとりと洗練されつつも浴衣をピシッと着こなして、日本の古き良き情緒たっぷりの温泉街に自然と溶け込んでいる、といった雰囲気は皆無。

 一言で言うと雑。寝起きでもないのに、早くもヨレヨレだ。

 他の利用客に浴衣の着こなし方をお尋ねしようにも、皆さんお夕飯の時間があるのか、だーれもやって来ない。


「頑張れ、思い出せ、私。

浴衣を着たのは、これが生まれて初めてじゃないだろう」


 浴衣の正しい着付け方を記憶の底から発掘しようと、頭を抱えてうんうん唸る。

 一番最近着たのは……確か去年の夏祭りの日だったな。お隣の御園夫人が、「皐月が小学生の頃に着ていた浴衣だけど、良かったら美鈴ちゃん着ておいき」と、わざわざ箪笥から出して下さって、慣れた手付きで着付けて下さったのだ。

 家には女物の浴衣は亡き母の物が数枚あるぐらいで私自身は持っていないし、旅館に泊まるような旅行が出来るほど余裕のある暮らしでもない。恐らく御園夫人のご厚意を有り難く受け取らず辞退していたならば、この年まで浴衣を着たことが無いまま、成長していたに違いない。


「よし、とにかく夫人の手付きを思い出せ、思い出すんだ……!」


 身ごろを合わせ、おはしょりを作り、帯が回ってきたかと思えばギュウギュウに締め付けられて息が詰まり、「はい、出来た。うん、美鈴ちゃんよく似合ってるね」と、背中を軽く叩かれ……あれ? 肝心の着付けタイムの詳細が『苦しい』という感覚しか思い出せない。

 駄目だ……達人級の夫人の着付け手順は、手際良くも手早過ぎて、目にも記憶にも留まっていない。


「もうこうなれば、奥の手を思い出すしか……!」


 私の人生は、葉山美鈴としての十三年だけではない。いつどこで生まれ暮らしどう亡くなったのか、殆ど覚えてはいないが、とにかく成人はしていた日本人女性の記憶がかすかにある。

 じーっくりと、思い出そう思い出そうと頑張ってはみるのだが、まるで霞のかかった向こう側のように、曖昧でボンヤリとした印象しか分からない。

 前世の人、あなたも日本で暮らした日本人女性なら、浴衣を身に纏った経験の一つや二つ……!?


 ――別に、お前が自分一人で着れなくても構わねえよ。どうせ俺が脱がすんだし、着せてやるのも俺で良いだろ?


 視界が揺れて、ふらりと身体が傾いていた。三半規管が一瞬、仕事を放棄していたのか、私は危うく倒れ込みかけたところを、先に足から力が抜けて床にへたり込んでいたらしい。

 小さな頭痛と共に、何だか妙な幻聴も聞こえたような気がするが、きっと気のせいだろう、うん。今日はたっぷり歩き回ったし、疲れているのだろうか?


 どうせ旅館で着る浴衣は寝間着で、外出着ではない。上から羽織りを着てしまえば、みっともない姿もよくは見えないから構わない!

 私はのろのろと立って上から羽織りを着て荷物を纏めると、脱衣場を足早に後にした。


「あ、ミィちゃん! 良かった、随分ゆっくりだから、中で倒れてやしないかと冷や冷やしちゃったよ」

「わっ?」


 そして、脱衣場の出入り口に掛かっている『女』と書かれた暖簾をくぐるなり、人待ち顔でロビーに佇んでいた椿にーちゃんの表情がパッと輝き、スタスタと駆け寄られて抱き付かれた。湯上がりなせいか、更にハグの心地よさがアップしている……この兄さん、絶対に抱っこだけで人を安らげる天賦の才を持っているに違いない!


「ごめんなさい、にーちゃん。もしかしてすごくお待たせした?」

「ううん。やっぱり花風呂の予約にしとくべきだったかと、ちょっと考えたぐらいだから平気」


 ……微妙に会話のキャッチボールが成立していない気がするが、気のせいなのだろうか?


「花風呂ってなぁに?」

「湯船に、花びらがたっぷり浮かべられてるお風呂」

「それはまた、豪華だね」


 頼んでいた場合にはきっと、現状のプランよりも更に料金が嵩むに違いない。その場の勢いか何かで予約してくれなくて良かった、と、思わず安堵の溜め息を漏らす私をようやく解放した椿にーちゃんは、まじまじとこちらを見下ろしてくる。


「ミィちゃん、その、浴衣姿……」


 椿にーちゃんはそう呟いて口元を片手で押さえ、耐えられないと言わんばかりにそっと視線を逸らした。

 そんな椿にーちゃんは、男物の浴衣が異様に似合っていた。頭は軽そうな茶髪だというのに、和装に違和感が無いというのは何故なのか。そして胸元を開き気味に着崩して、通りすがりの若い女性客からピンク色の視線を引き寄せているのは、にーちゃんなりの使命感か何かですか隠しなさいけしからん。


「何? にーちゃん」

「そ、その前身ごろ……左右が逆になってる。それだと、亡くなった方に着せる着物の着せ方になっちゃうよ?」


 不愉快さを湛えながら半眼で見上げて続きを促すと、椿にーちゃんは必死で笑いを堪えつつ、そう忠告してきた。


「……ちょっ、そういう事は早く言ってよにーちゃん!

部屋で直すもん。ご飯食べる部屋、どっちだっけ?」

「こっち」


 どうやら全く正しくない着方をしていた事実が判明し、仰天した私がにーちゃんの『繋ごう?』とばかりに差し出す手を敢えて無視して部屋に向かおうと一歩踏み出したところで、ビミョーに垂れていた浴衣の裾を踏んづけ、またしても転びかけた。


「のわっ!?」

「おっと」


 自分の着ている服を踏んでバランスを崩す、という、世にある数々のよくある話の中でも、最大級に情けない事態にみまわれ、受け身をとる暇もなく、危うく無様に転ぶところだったのだが。私などよりもよほど反射神経の優れた人種が、今日はすぐ隣に居た。

 椿にーちゃんの腕が伸びてきて上半身が支えられ、転倒を免れた。ついでに、にーちゃんの笑いも深まった。


「お、俺が部屋で、くっ……着付けて、あっ、あげるからね……」

「無理に笑いを堪えながら、話さなくても良いのよ?」

「あはははは」

「だからって遠慮もなく笑わないっ!」


 決まりが悪くて怒りに転換する私の、膝裏と背中に手をやり、椿にーちゃんは軽々と私の身体を抱き上げた。ありゃ、これはまた珍しい。これまでの俵担ぎやら子供抱っこを経て、運搬方法がお姫様抱っこに進化したぞ。


「また裾踏んだら危ないから、俺が運んであげる。落ちないように捕まっててね」

「はーい」


 運ばれていく途中で「あ、手が滑った」とか言われて落っことされる危険性を懸念し、素直に椿にーちゃんの首に両腕を回し、体重を預ける。


「……今度は何だか楽しそうだね? ミィちゃん」

「うん、楽しい」


 間近にある私の顔を見下ろし、突然機嫌が良くなった事が不可解なのか、きょとんと瞬きをするにーちゃん。

 だってあなた、これは大発見ですよ。俵担ぎだと胸やら腹やらが圧迫されて、息すら苦しく。子供抱っこだと両脇の下に自重が全て掛かって脇の下がめちゃ痛い。

 ところがお姫様抱っこだと、膝裏やら肩や背中を支えられてるせいか、身体への負担がかなり軽減されてる。これは画期的だ! 比較検証に、次の機会にはおんぶもやってもらおう。


「あーもー。にっこにこしちゃって……」


 遠慮もへったくれもなく、すりすりと椿にーちゃんの胸元にほっぺたをすり寄せる、私という大荷物を運んでいるにーちゃんは、ぶつぶつと不満げに零している。うむうむ。人間一人を運ぶのは、毎度の事ながら重たかろうて。良きに計らえ。


 自発的にやらかしたくせにお姫様抱っこで周囲から注目を集めるのが恥ずかしいのか、椿にーちゃんは旅館の廊下を早足で通り過ぎ、本日のお夕食を頂くお部屋に到着。

 落ち着いた静かな和室で、襖で隣室と遮られており、出入り口の向かい側には風景が眺められる大きな窓と椅子が置かれ、室内の真ん中には大きな座卓と座布団が用意されていた。


「わあ、いい眺めだねにーちゃん」


 椿にーちゃんの腕の中から畳に下ろしてもらい、私は裾を両手で持ち上げながら座卓を迂回して、窓辺に歩み寄った。高台に建つ旅館の宿泊室であるこの部屋からは、美しい紫陽花の里が、眩くライトアップした景色をじっくりと見渡せる。


「ちょっ……ミィちゃん、素足出し過ぎ」

「え? ああ、着物を着てる時ぐらい、お上品を心掛けなさいって事?」


 注意されてストンと裾を落とす前はふくらはぎが丸見えになっていたが、洋服ではごく普通程度の露出度だ。


「じゃあ、着付けてあげるから羽織りは脱いで?」

「よろしくお願いします」


 椿にーちゃんはこちらに歩み寄ると、私の傍らに膝をついて見上げてきた。立ったままだと着せにくいのだろうが、普段見上げてばかりの椿にーちゃんを見下ろす体勢というのは、なかなか楽でよろしい。

 羽織りをスルリと脱いで床に落とすと、椿にーちゃんは私が適当に結んだ帯と腰紐を解きに、その長い指を這わせた。


「……何で固結びにするかなあ」

「だって、縛りにくかったんだもん」

「そこはせめて、蝶結びにするとか」


 椿にーちゃんはぶつくさ言いながらも器用に紐を解き、手早く前身頃の左右を入れ換える。左側が上、ね。よし覚えた。まあ、また何年後かにはコロッと忘れてそうな気もするけど。


「しかも下着を着てるし」

「何を見とるかスケベ」

「チラッと視界の端に映っただけで、別に見てないよ。大丈夫、うん」


 いや、そんな事故が起こらないようにしっかり顔を背けようよ、椿にーちゃん。浴衣の下に着込んでいなかったら、チラ見と言えども全裸晒し、という事態が待ち受けていたんですね?


「浴衣の下にこういった下着を着るとね、下着の線が浮き出ちゃうから逆に女性の品格を損なうとされてて、着ない方が良いんだよ」

「ふーん?」


 そう言えば、現代女性の下着の原型って、ブラもショーツも海外からなのかな。日本に古くから今に伝わる下着文化って……フンドシ? 男物だよね。

 喋りながらも椿にーちゃんは手を止めず、手早く衿を整え、おはしょりを作ってくるぶしが見える程度に丈を調節して裾を調え、腰骨の上辺りで腰紐を結ぶ。


「女性の和装における下着は、一番内側に着る白い着物だね」


 私の連想したブツを見透かしたように、ふっと笑いながら椿にーちゃんが付け加えてくる。

 帯を手にとって真ん中を腹部に当てて、伸ばした両腕で抱きしめられるようにしながら帯は背中で交差され、また前に戻ってきたそれは片方が腰紐の下を通してから一度結び。最後に身ごろの位置で綺麗に蝶々結びされた。


「はい、出来たよ」

「おおお……! 椿にーちゃん、着付け上手いって言うか、なんだか妙に手慣れてるね?」

「実家は昔ながらの日本家屋でさ。部屋は殆ど畳が敷かれてて、家長の祖父は毎日和服な雷親父って言ったら、想像つく?」

「あー、うん。把握」


 完成、と、軽くポンと肩を叩かれ自らの姿を忙しなく見下ろして確認し、感心すると、椿にーちゃんは苦笑気味にそう告げてきた。そいやこの人、ある種の古い家柄の出身だもんなあ。躾とか作法にも厳しかったのだろう。


「うん、ミィちゃんには浴衣もよく似合うね」

「……自分で挑戦して大失敗した後、椿にーちゃんに着付けてもらってからそれ言われると、なんか複雑」


 床に落としていた羽織りを拾い上げて再び袖を通していると、目を細めて浴衣姿の私を『可愛い可愛い』してくる椿にーちゃんに、不満を表すべく唇を尖らす。自画自賛かチクショー。


「ミィちゃんに着物が似合うのは、厳然たる事実なのに。

そうだ、さっきミィちゃんが長風呂してる間にお土産屋さんを覗いててね」


 椿にーちゃんはそう言って、浴衣の袂に手を差し入れた。……あの部分って、ポケット的な使い方をするもんなの?


「ほら、これ」


 スッと取り出し私に見せてきたのは、一本の簪だった。青いホンアジサイを模した丸い飾りがサラリと揺れて、とても可愛らしい。

 私は浴衣の袖を指先で押さえつつ、その手を口元にやって視線をさまよわせた。


「案外似合いそうだけど、椿にーちゃんは和服の際には簪を身に着ける習慣が……」

「ちょっ、どうしてそうなるの? 無いって。これは、ミィちゃんへのプレゼント!」


 何となく意図を察し、ここで椿にーちゃんから「あげる」と言われる前にお礼を言うのも厚かましいというか、催促しているような形になってしまうので、あくまでも軽い冗談だったのだが、椿にーちゃんはやけに大慌てで否定してきた。

 コホンと一つ咳払いをしてから表情を引き締め、椿にーちゃんは私の髪にそっと簪を飾った。そして私の頭の天辺から足下まで、感慨深そうに眺めてくる。


「うーん、予想以上だめちゃくちゃ可愛い」

「にーちゃんありがとー。でも、この簪って何で買ってくれたの?」

「ミィちゃんに似合うと思ったから」


 私の誕生日は四月だし、今日はひな祭りといった女の子の祭日でもない。何故にプレゼントなぞ贈ってくるのか、その事由を問うと、全く答えになっていない回答が返ってきた。要は、思い付きと旅先の解放感から、突発的な衝動買いをしでかしたようだ。大丈夫かこのにーちゃん。


「紫陽花ってね、西洋では色彩の移り変わりから、『移り気』『あなたは美しいが冷淡だ』とか、そんなマイナスイメージの花言葉を付けられてるんだけど……」

「けど?」


 ふわりと抱き寄せられて、私は素直に椿にーちゃんに体重を預けた。あー、ぬくい。

 そして椿にーちゃん、また人の頭に顔寄せて、髪の毛の匂い嗅いでないか……?


「日本では昔から、花が集まってる様子から『家族団欒』とか『団結』って印象があるんだって」

「何だか正反対のイメージなんだねえ」

「オマケに花言葉は色によっても変わるんだ。ピンクの紫陽花は『元気な女性』で、青い紫陽花は『辛抱強い愛情』」

「ふーん?」


 それはまた、『冷淡』なんて言葉よりは断然良い意味だ。

 相変わらず、椿にーちゃんは雑学に詳しいなあと感心している私の顔を見下ろして、椿にーちゃんは優しい微笑みを浮かべた。


「その簪も浴衣も、本当にミィちゃんによく似合ってて可愛いよ」


 そうやって照れもせずに優しく笑って真っ向から誉められると、私は「ありがと」と、小さくなんとか返せれただけで、気恥ずかしくてそれ以外の言葉が出てこなくなる。

 どうしてこの人は、こんなにさも簡単そうに私をドロドロに甘やかして、包み込んでくるのだろう。これがあって当然のものだと錯覚したら、私はきっと、浅ましい生き物に堕ちてしまうのに。ここから動きたくない、手放したくはない、そう、思ってしまう。

 何も言えないまま、椿にーちゃんの顔を間近で見上げながら、にーちゃんが着ている浴衣の合わせをギュッと握った、その時。


「お客様、お夕食をお持ち致しました」


 閉めてあった出入り口の向こう側から、落ち着いた女性の声が掛けられて、私は慌ててその場を飛び退いていた。


「ど、どどどうぞ!」

「失礼致します」


 意味もなく自分の浴衣のあちこちを見下ろして、乱れが無いかを確認しつつ入室を促す。改めて見ようが、椿にーちゃんの着付けは寸分たりとも歪みなく完璧だ。

 私の声に応えて襖がスーッと開かれ、正座のまま深く礼をなされた仲居姿の女性。


「ん、ミィちゃん座らないの? あ、仲居さんの所作に見惚れてた?」

「う、うん」


 先ほどの出来事などまるで無かったかのように、椿にーちゃんはごく自然に座卓の前に敷かれていた座布団の上に正座し、ぼけっと突っ立ったままの私を訝しむように問うてくる。私は曖昧に頷いて、椿にーちゃんの対面に座った。

 私達が着席したのを機に、好ましい笑顔を浮かべた仲居さん方が、次々とお料理を運んで下さる。……えっと、本当に山盛り運び込まれて、卓上がお料理でいっぱいになっちゃったんですが。

 整然と配膳を終えた仲居さん方は、「それでは失礼致します」と下がっていった。そか、厨房から少しずつ運んでくるんじゃなくて、献立を一気に並べて給仕の煩雑さを簡略化してるのかな。次のお料理とか持って来られたら、確実に私の腹は破裂するところだったよ。


「わあ、美味しそうだね」

「う、うん」


 椿にーちゃんは瞳を輝かせているが、私は卓上を彩る海鮮尽くしに半ば圧倒されていた。

 お魚の切り身が入ってるお吸い物と、イクラ丼。更にお頭付きの鯛のお刺身にマグロらしきお刺身、天ぷら、茶碗蒸しに香の物酢の物。卓の真ん中では、固形燃料で今も温められているお鍋がグツグツと音を立てている。

 ……あれ? 椿にーちゃん、夕飯は『豪勢』にいくとは言ってたけど、『豪快食い倒れ』する、なんて言ってなかったよーな……


「いただきまーす」

「イタダキマス」


 両手を合わせて食前の挨拶を交わし、お箸を手に取る。まずはお吸い物かな……あ、出汁が効いてて美味しい。


「ミィちゃん、このお鍋色々入ってて美味しい!」


 私の対面に座る椿にーちゃんは早速お鍋の蓋を開け、卓上にフワリと白い湯気が立ち上った。……白日の下に晒された鍋の中では、巨大な椎茸達を優しく包容している、ぶっとい蟹の脚が四本、色鮮やかに存在を主張していた。

 椿にーちゃんは器用に蟹の身を解し、早速取り皿に取った具材を口に運ぶ、その箸を操る手付きは優雅なのだが、実に健啖な食欲を見せている。


「ミィちゃんの方からだと、お鍋ちょっと遠いでしょ。俺が取ってあげる」


 これが脂が乗ってて美味しい、って評価される魚の味かあ、と、感心しながらお刺身を口に運ぶ私に、椿にーちゃんは私のお鍋用取り皿を手に、そう申し出てきた。クドいようだが、鍋がデンッ! と鎮座しているのは、座卓のど真ん中である。つまり、椿にーちゃんの言はオブラートに包んであるだけで、私の腕が短……いや、考えるのはよそう。


「うん、ありがとー」

「何食べたい?」

「椎茸とお野菜と、お豆腐と、蟹脚一丁!」

「了解」


 よそうのは鍋奉行様にお任せし、私は正座から足を崩して楽な姿勢を取り、お茶を一口。ふう、あったかい緑茶が落ち着くわ。

 はいどうぞと、私の手が届く範囲に取り皿を置いた鍋奉行。ふむ、あのように袂を押さえて卓上の物を薙ぎ倒さないようにするのが自然な動きなのか。私が鍋に手を出そうとしていたら、確実に袂に引っ掛けていたに違いない。腕の長短の問題ではなく、着物を着慣れているかどうかという熟練度の違いを考慮されたのか。

 内心感心している私の顔を見て、椿にーちゃんは両手をポンと軽く叩いた。


「あ。ねえミィちゃん。お父さんに連絡って入れた?

今日、確か仕事で東京だよね?」

「うん、確かに東京にいるはずだけど……でも、連絡って何言うの?」

「ほら、俺達は蒲郡まで遊びに来てるのにずっと何の音沙汰も無かったりしたら、旅先で何かあったかもって心配させちゃうかもしれないし、『楽しんでるよー』って一言があったら安心するんじゃない?」

「そーゆーもん?」


 旅行と言っても日帰りだし、それでわざわざ連絡を入れる必要性が私にはピンとこないが、我が父への配慮に関しては、私より確実に椿にーちゃんの方が篤い。私はいちいち、うちの中年に構わないし。

 椿にーちゃんはスマホを構え、こちらに向けてきた。


「ほらほら、ミィちゃん。美味しくご飯食べてるところ、俺が撮ってあげるから」


 鍋奉行からカメコに早変わりし、私の返事やポーズも待たずにパシャパシャと撮る。取り敢えず、私は膝立ちになって袂を押さえてつつ、取り皿を手元に引き寄せる。取り分けてもらった蟹脚の身を解しつつ、口に運んだ。うむ、なかなかいけますな。


「うん、いい画が撮れた。

食事中だけど、ちょっとごめん、ミィちゃんのお父さんにメール出しておくね」

「わざわざありがとう」

「これぐらい良いんだよ。ミィちゃんのお父さん、面白いし」

「……」


 本人としては、とくにお笑い的なコミュニケーションを求めている訳でもない年下の大学生から笑顔で『面白い』と評価される、中年サラリーマン……私は、我が父であるがゆえの貫禄と、威風を思い知らされた。


「んっと、『温泉旅館にて。温泉を存分に堪能して、豪華な夕食を頂いてます。湯上がり浴衣の美鈴ちゃん、黙々と蟹脚を攻略するの図』っと」


 どうせまた、椿にーちゃん、デコレーションしまくったメールでも送信するんだろうなあ。軽く確認がてらにか、書き上げたメールの内容を読み上げる椿にーちゃんの声を耳に入れつつ、私は蟹を食べ終えお豆腐とお野菜をもぐもぐと噛んで飲み込み、肉厚の椎茸にかぶりつく。うむ、仄かな香りと柔らかくも弾力のある歯ごたえ、椎茸グレイト。


「わ、この天つゆ海老天に合う」

「こっちの白身のお魚も、こってりしてなくて食べやすいよ。良い油使ってるんだろうね」


 メールを出し終え食事に戻った椿にーちゃんは、今度は天ぷらを食して目を見開いている。椿にーちゃんは天ぷらを食べる際、衣がクタクタになるぐらい、つゆへとたっぷり浸す派のようだ。私は衣のサクサク感が好きなので、軽くつける程度。

 普段の食事だと、骨が取るの大変だったり殻を剥くのが面倒だったり、そもそも高いので断念したりと、葉山家の食卓では頻繁に上らない海鮮料理だが。


「こうして出先でプロの料理を頂くと、美味しい以外の言葉が出てこないね」

「……ミィちゃんが俺に、グルメリポーターへ転身しろと言外に促してきてる」


 私のしみじみとした感想に、イクラ丼をかきこんでいた椿にーちゃんはハッと顔を上げて、衝撃を受けていた。


「言ってない。椿にーちゃんのご飯賛歌を、私は毎回毎回聞き流してる」

「またまた~。よし、じゃあこのお刺身から報告しよう」


 丼を静かに置いた椿にーちゃんは、薄く切られた鯛のお刺身に箸を伸ばし、一枚挟んで軽く持ち上げ目を細める。


「この、身を損なわない鮮やかな切り口。いわゆる鯛の薄造りと呼ばれるこの料理は……」

「うん、取り敢えずお預けみたいに解説しなくても良いから、食べたらどう?」


 張り切った椿にーちゃんのご高説は長くなりそうだったので、遮って食事に戻らせた。要は美味しいって結論でしょ。


「……身がぷりぷりしてて、口の中で旨味がとろけます。次の機会があったら、しゃぶしゃぶも良いな」


 もぐもぐ、と咀嚼した椿にーちゃんは、真顔で最終的な結論を発表した。

 私達はグルメ評論家じゃない、単なる一般人なんだからご飯の感想はそれだけでも良いんじゃないかね。



 食事を終えて部屋から食器が下げられ、室内に満腹によるマッタリと満たされた空気が漂う。ちょっと食べ過ぎちゃったよ。

 座卓で湯呑みを傾ける私を残し、椿にーちゃんは窓辺に歩み寄って窓枠に座った。転落防止の柵もあり、ちょっとした鉢植えでも置けそうな幅がある木製の窓枠だが、片足を投げ出すようにして腰掛けるのは危なくないのか? すぐそこに椅子だってあるのに。

 というより、片足を投げ出してるせいで、裾の合わせから素足がチラチラ見えているのですが。胸元の開き具合と言い、これがいわゆるチラリズムというやつですか。


「ミィちゃんもこっちにおいでよ。景色が綺麗だよ」

「うん」


 ふとこちらを向いた椿にーちゃんが、笑みを浮かべて片手を差し出してくる。私は座布団から立ち上がると、窓辺に歩み寄る。

 窓辺の椅子と、にこにこ笑顔で窓枠に投げ出してる自らの膝を、ぽんぽんと叩く椿にーちゃんを見比べる。ちょっ……にーちゃんの『ここに座って?』動作はいつもの事だけど、今日は叩く場所に問題が無いか?


「どうしたの、ミィちゃん? ほら、遠慮なんかしないで」


 確実に重たいだろうし、椅子に座るべきかなーと考える私に、椿にーちゃんは不思議そうに再度呼ばわり、両腕を軽く広げて歓迎の意思を表現してくる。

 足は床に乗せたまま、恐る恐る横座りのような姿勢で椿にーちゃんの膝に座ってみる。表情の動きや顔色を観察してみるが、私の重さで四苦八苦している様子は無く、むしろ笑みが深まった。

 転げ落ちない為にか、椿にーちゃんの両腕が私の胴に緩く回されて引き寄せられ、私は遠慮なくにーちゃんの胸元に寄りかかった。


「ほら、向こうの方。やっぱりライトアップされると雰囲気がガラッと変わるね」


 椿にーちゃんが指差す先へ振り向くと、高台から見下ろす紫陽花の里の色彩が幾つもの街灯に照らし出され、池を取り囲む紫陽花が小雨で揺れ動く水面に反射しているのもあいまって、こうしてじっくり眺めてみると、なんとも幽玄な風光である。

 昼間とは全く異なる雰囲気に、私は息を飲んだ。これは、園内で見たらもっと圧倒されるに違いない。


「綺麗……何だか、あそこだけ別世界みたい」

「普段の生活とは違う四季折々の世界を味わうのが、お花見ってやつでしょ」


 風景を目に焼き付けようと、熱心に見入る私の頭に、椿にーちゃんの大きな手のひらが置かれて撫でてゆき、私の髪を飾っている簪に触れたような感覚がかすかに伝わってきた。


「今日、ミィちゃんとお出掛け出来て良かった。

これからもこんな風に、季節を重ねていけたらいいね」

「そうだね」


 私と椿にーちゃんの年の差を考えると、こうやって呑気に旅行に行ける機会なんて、今年いっぱいあればいい方かもしれない。大学を卒業して社会に出れば今以上に忙しくなるだろうし、当然家庭教師なんか頼めやしない。世代差による話題のズレだって増える。


 何より、非常にしつこいと自覚しているにーちゃんが皐月さんを諦めて完全に手を引き、妥協して自分の周囲を見回し、釣り合う女性を選んだなら。私に構う時間なんか、殆ど無くなるはずだ。相手の女性の性格によっては、電話やメールだって許容しないだろう。

 年の離れた異性の友達関係を維持するのって、凄く大変な事なんだな。


「にーちゃん、またどっか連れてきてね?」

「もちろん。春のお花見に夏は海に夏祭り花火大会、秋は紅葉狩りして冬はスキーにスケート。ミィちゃんと行きたい場所はたくさんあるよ」

「海に夏祭りかあ……私、今度こそ浴衣を自力で着れる自信が全然無いや」


 今の寝間着と違って、外出用の浴衣は帯の結び方が想像も付かない。あの背中部分ってどうなってるのか。


「大丈夫。その時はまた俺が着せてあげるから、その時は正当な着こなしを実践しようね」

「……むしろ、不当な着付けって何?」


 椿にーちゃんの穏やかな提案に、私は首を傾げた。変に着崩したり、洋風のデザインを取り込んだ浴衣を選ばず、伝統的な物をビシッと着ようかって事かな?


「これから先の楽しみが、どんどん増えるね」

「うん」


 私の疑問には明確に答えず、椿にーちゃんは微笑んだまま、私の頬を撫でた。


 どうせいつか、そう遠くない未来で、私じゃない綺麗な女の人を優先して、構わなくなるクセに。

 椿にーちゃんの、嘘吐き。



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