綺麗なお兄さんは好きですか? がキャッチコピーの年上男性を籠絡していく乙女ゲーの世界で暮らしてるわたし。⑤
最近のお兄ちゃんはまたしても、毎晩毎晩ミステリのネタについて考え、眠れない夜を過ごしているらしい。夜、怖い事を考えて眠れなくなるだなんて……お兄ちゃん。
「お兄ちゃん! 今何時だと思ってるの!?」
朝食の支度の為、わたしがリビングの前を通りかかると、ノートパソコンをテーブルの上に置き、ソファーに腰掛け『考える人』のポーズで静止していたお兄ちゃんは、手の甲に乗せた顎を軸にわたしの方を振り返った。
「ああ、皐月か……皐月の方こそ、眠らなくて良いのか?」
「今は朝の六時だよ、お兄ちゃん……」
恐らく昨夜から点けっぱなしであっただろう、煌々と灯るリビングの照明スイッチを脱力しながら切り、わたしはツカツカとリビングを横切り容赦なくカーテンをシャッ! と開く。
お兄ちゃんは大きな掃き出し窓の向こうを透かし見て、大きく目を見開いた。
「……いつの間に夜が明けていたんだ。もしや俺は、自分でも気が付かない間にタイムスリップを……」
「そこ座ったまま、半分寝てたんじゃないの?」
「……」
私が両手を腰にあてがい睨め付けると、お兄ちゃんは『考える人』のポーズのまま視線を斜め上方に泳がせた。
「もー。わたしはこれから朝ご飯作ってくるから、もう部屋で寝るか休憩するか、どっちかにしてくれない?」
「だが、何かを掴みかけている気がするんだ」
「それ、昨夜わたしが寝る前にも、そこで今と全く同じポーズしたお兄ちゃんから聞いた。
電気代の無駄だから、早く休んで」
パソコンを眺めつつサラリと髪をかき上げ、一見したところでは物憂う好男子然とした横顔を朝日に照らし出され、どことなく切なげな風情漂う兄から『今、やらなくてはならないんだ』と訴えられたが、妹歴十九年たるわたしは騙されない。あれは単に、寝不足でボーっとしてるだけだ。
「……皐月、やはり俺は天啓を求め、心身の血流を良く……」
「お兄ちゃん。出掛けるぐらいなら休んでよ」
「……分かった」
仮眠や休憩をとってはいるんだろうけど、流石にこう何日もまともな就寝による睡眠時間を削られると心配になる。
わたしの訴えに、もそもそとパソコンを片付け、のっそりとした動きで自室へ向かう兄に、わたしはやれやれと肩を竦め、キッチンに向かった。
朝ご飯を作るべく冷蔵庫を開き、ふんふ~んと鼻歌を歌いながら朝ご飯を作っていく。
我が御園家の朝の定番は和食だ。炊きたてのご飯にお味噌汁、それからおかずはあり合わせで日替わり。今朝はほうれん草のお浸しに納豆と玉子焼きと、昨夜の残り物である切り干し大根の煮物を温め直す。
あ、お兄ちゃんがお昼過ぎに起き出してきた時に備えて、手軽に食べられるおかずも取り分けて用意しておかないと。
赤味噌を少量ずつ溶いてかき混ぜ、お味噌汁のお味を確認。
「うんっ、今朝も良い出来!」
味見をしながら窓の向こうをチラリと眺め、この好天気だし、急げばお布団干していけるかな……? と、思案するわたしの視界の端を、見慣れない紫色の何かがふっと現れ消えた。
「ん?」
窓の向こう側は庭なんだけど、その窓の端っこに数秒だけ浮かんで現れる謎の紫色の物体。
……ピーンときてしまった。またお兄ちゃんの、『身体を動かしたらアイディアが閃くかも』行動だ!
コンロの火を消して、大急ぎでリビングの掃き出し窓をガラッと開き、わたしはこちらに背を向けているお兄ちゃんに向かって叱り飛ばした。
「お兄ちゃん!」
一応パジャマには着替えていた兄は、紫色の物体……フラフープを手にビクッと身体を震わせた。
お兄ちゃん……だからどうして、いきなりフラフープなんか持ち出してきてるの? 何でそこでフラフープなのか、関連性や必然性がまったく分かんないよ。
何で庭でフラフープなのかは分からないけれど、今朝は早起きしたらしい美鈴ちゃんと仲良くさせるチャンスとばかりに、兄の手からフラフープを取り上げ、わたしは久々にそれに挑戦してみた。懐かしいなー。これ、小学生だった頃にあっ君とよく競争したっけ。
フラフープを回しつつ、柵越しに何か話しているお兄ちゃんと美鈴ちゃんを、チラッチラッと盗み見る。
美鈴ちゃんが椿先輩とラブラブなのは知ってるんだけど、でも付き合ってる報告はまだ聞いてないんだよなー。
もしかしたら、万が一、億が一ぐらいの確率で、お兄ちゃんにもまだチャンスはあるんじゃないかって、ほんのちょっぴり期待してるんだけど。
「そうだな。もっとも有り得るケースは、経験則による推定、統計的な予測といったところだろうか。
これらはあくまでも、過去の歴史から導き出された未来予想ではある」
それなのにお兄ちゃん、何故、朝っぱらから小難しい話題を繰り広げてるの……美鈴ちゃん、口ポカーンとしてるじゃないっ。
軽い朝の運動を終え、用意していた朝食をとる。今日はご飯を食べてから眠るそうで、こうしてお兄ちゃんと向かい合っての朝食は久々だ。
「お兄ちゃん、さっき美鈴ちゃんと何話してたの?」
「……いわゆる一つの、人生観を左右する難問があって」
「うん?」
「そのフォローを任された」
「……お兄ちゃんが?」
「ああ。雅春さんならばともかく、やはり、俺には向いていないと実感した」
……? その割にはお兄ちゃん、美鈴ちゃんがちょっと圧倒されるぐらい、イキイキと喋り倒していたような気がするけど。
というか、それってもしかして美鈴ちゃんのお父さんから頼まれたのかな? お兄ちゃんって、美鈴ちゃん本人よりも、美鈴ちゃんのお父さんとの方が仲が良いよね。
その翌日から梅雨入りをし、わたしはうっかり布団を干しそびれた。
雨の降りしきる休日の最中、布団が干せないと落ち込みがちなわたしのところへ、美鈴ちゃんが遊びに来てくれて……何故か、背後から両目を隠す「だーれだっ?」をされた。
これが、数多の男性陣を惑わすロリータヒロインの小悪魔テク……!
可愛かったので全力でハグしたら、美鈴ちゃんに首を傾げられた。お兄ちゃんにもしてくれるようお願いしたら、「それはちょっと……」と遠回しに遠慮され、リビングの片隅でお兄ちゃんはガッカリしていた。
お兄ちゃん……
小雨がパラパラと降る、週明けだというのに薄暗いある日。
受講している講義が始まるのは二コマ目なのだけれど、その時間よりも少し早く大学に向かい、構内で寝耳に水な噂を小耳に挟んだわたしは、大慌てで柴田先生の研究室を訪れた。
「柴田先生、いらっしゃいますか? 御園です」
「御園さん? どうぞ」
コンコン、とノックをしながら声を掛けると、室内から柴田先生の応えがあったので、ありがたく入らせてもらう。
「おはようございます、柴田先生!」
「はい、おはようございます。
今日はどうしたの、御園さん? そんな真剣な顔で全力疾走してきた後、みたいに息を切らせて」
回転椅子に座っていた柴田先生が、読みかけの本をパタンと閉じて腰掛けた体勢のまま椅子を回転させ、こちらに向き直る。そしてわたしの常日頃とは違う、焦りを滲ませた姿に小首を傾げた。
「あのっ……柴田先生が、近いうちに海外の大学に招聘されるって噂、本当ですか!?」
「え?」
「ついさっき、玄関ホールで噂になってて、わたし、そんな話一言も聞いてなくてっ……」
今日、初めて聞いた噂の真偽を確かめるべく、当の本人に直接事の真相を問い質し息せき切って詰め寄ると、柴田先生はどうどうと宥めるように眼前に両手を掲げた。
「多分、御園さんは誤解してると思うんだけど……アメリカの大学から話がきたのは僕じゃなくて、教授だよ」
「先生が仰る教授、と言うと……」
「臨床心理学の講義をされている、平川教授だよ。僕と教授を誰かが混同しちゃったのかな?」
柴田先生が突然海外に行く事が決まった訳じゃない、と知り、わたしは力が抜けて床にへたり込んでいた。
「あっ、御園さん!
ごめんね、最近掃除を手抜きしてたから、床には座らない方が良いよ」
「すみません、びっくりしたのが単なる勘違いだって分かったら、凄く力が抜けちゃって」
柴田先生は椅子から立ち上がってわたしに手を差し出し、引き立ててくれた。そのまま一脚しかない先生の回転椅子に座らせてくれる。
そして、左右の手置きの部分に先生は両手を突くと、上からわたしの顔を覗き込んできた。……あれ。わたしは普通に座ってるだけなのに何だか、やたらと柴田先生の顔が近くない?
絶対これ、先生が敢えて顔近付けてきてるんだよね? うん、間違いないよっ!? と、焦りながら現状確認をしていたら、わたしの目を覗き込みながら柴田先生が唇を開いた。
「ねえ、御園さん」
「はいっ」
緊張し過ぎて、声がひっくり返る。
「僕がこの地を去る、って聞いて、君が焦ったのはどうして?」
「そ、それは」
「真実かどうかも分からないような噂を少し耳に入れたぐらいで、狼狽えて半泣きになって一生懸命走ってまで、僕の研究室にやって来るだなんて」
「うっ」
わ、わたし、みっともなく泣きべそかいてた?
「僕の講義を心の底から楽しみにしてくれていたから? それとも?」
「あ……」
ゆっくりと瞬きを繰り返した柴田先生は、意味深に言葉を切った。
「僕は、君の口からはっきりとした言葉で聞きたい。
僕の勘違いや独り善がりじゃなくて、君も僕を想ってくれてるって。君が今、僕と同じように、特別な存在だから痛いぐらいに胸を高鳴らせていると」
えっ? ええ!?
ちょっと待って、わたし、これまでただ、柴田先生にからかわれてただけじゃないの?
「ねえ、御園さん。君は僕を、特別な気持ちで想っていてくれている。そうでしょう?」
カーテンが半分閉じられた、薄暗さにより深みが増す柴田先生の研究室で。
わたしの瞳に映るのは、先生の瞳だけ。金縛りにあってしまったように、わたしは柴田先生の瞳に吸い込まれて動けない。頭の中が、焦りからか極度の緊張からか、段々ボーっとしてくる。
「わ、わたし……せ、先生の事がっ」
「うん」
「……好き、です……」
「ああ、びっくりするぐらい嬉しいな……僕も君が好きだ」
気が付けば柴田先生の手がわたしの背中に回されて、ギュッと抱き締められていた。
「せ、せせせ、先生?」
「本当はね、御園さん」
「はい?」
「僕、ちょっとだけズルしてたんだ」
「えっ?」
ズルって何の話だろう?
意味が分からず、思考が空転していくわたしわたしのほっぺたに、先生の唇がチュッと軽く触れた。
「でもナイショ。教えてあげない」
「ええ?」
そ、そんな意味深な言葉だけ残して唇に人差し指を一本立て、ふふふ、とか笑う先生も胸がキュンときて好きなんですけどっ。でも、ナイショって何なんですか、先生っ!?
「御園さんは僕の告白をいつもスルーしちゃうから、ひょっとして僕、弄ばれてるのかと思ってたけど……」
「いっつもいっつも、他の生徒の前で意味深な言葉を言われたら、からかわれてるんだって思いますから!」
「おや、御園さんは酷いな。
僕は自分の気持ちに正直に行動してるだけなのに」
キャスター付きの回転椅子に座っているわたしに、先生が重心を寄せてきたせいで、椅子が押されて背もたれが机にぶつかった。乱雑に詰まれていた書き付けや書籍の山が、背後で崩れた音がする。
「柴田先生、良かったらわたし、お掃除お手伝いしますけど……」
「それよりも、御園さん。僕のお願い、聞いて?」
照れ臭くて真っ正面から柴田先生の顔が見れないぐらい気恥ずかしいのに、顎の辺りを優しく持ち上げられているせいで俯く事すら出来ない。
「二人っきりの時は、名前で呼んで? 皐月」
「雲雀、さん」
段々近付いてくる柴田先生の顔、魔法でも掛けられたかのように、わたしは従順に瞼を閉じ……そして唇が重なっていた。
うっかり早とちりをして、柴田先生の前で醜態を晒した訳だけれど。結果的にはそれが転じて、関係発展に繋がったのだから、うん、良しとしよう!
柴田先生もわたしの事、好きでいてくれてただなんて……! と、キャーキャーはしゃいで喜び転がり回りたいぐらいだけれど、曲がりなりにも大学でそんな事は出来ない。
それに、決して悪い事をしている訳ではないのだけれど……柴田先生は大学の准教授で、わたしの先生で、わたしは生徒だ。他の大学関係者から余計な勘ぐりをされたり、大学に居づらくなっても困る。
なので、「皐月が大学を卒業するまではなるべく秘密にしておこう」って、事になったんだけど……わ、わたし、卒業まで周囲に隠しきれるかどうか今から心配。
ま、まあでも、お兄ちゃんへは近いうちに挨拶に来て下さるって……ああっ、まるでプロポーズみたいじゃないっ! ど、どどどどうしよう!?
と、まあ、内心ではにまにまキャーキャーと大はしゃぎしているわたし。
今日の受講予定は、午前中と午後の講義で一コマ分ずつ。午前中を心ここにあらずなフワフワ気分でも何とか乗り切り、これから午後のお昼休み……なんだけれども。
柴田先生はお昼休みの時間、予定が入っているそうで、一緒にお昼ご飯を頂けないそう。とは言え、わたしの方の受講予定で午後一の講義が入っていないので、「少し遅くなっても良ければ、一緒に食べましょう?」と誘ってもらえた。
「皐月、本当にお願いしても良いんですか?」
「任せて下さい!
えーっと、床に落ちてる紙の類いは捨てて大丈夫なんですよね?」
「ええ、本以外の必要なメモは、引き出しに纏めて入れてありますから」
「任せて下さい、雲雀さん。ピッカピカ……は時間的に難しいかもしれませんが、お戻りまでに綺麗にしてみせます」
「ありがとう。では、教授との用事が終わったらすぐに戻ります。僕が戻るまで、鍵は掛けておいて下さいね?」
「はい、分かりました。行ってらっしゃ~い」
柴田先生はわたしの見送りに少し目を見開き、そして照れたように微笑んだ。
「それでは、行って来ます」
柴田先生は平川教授に呼ばれているとの事で、早足に研究室を後にした。最近、先生が頻繁に平川教授と会っていたのって、もしかして教授が海外招聘されるからなのかなー?
先生が研究室をお留守にする間、時間が空いたわたしは柴田先生の研究室のお掃除を申し出たのです。
やっぱり、大学構内で完全に見つからずに二人っきりになれる場所って限られてるからね。たとえ外に出ても、大学から足を伸ばせる範囲だと、いつなんどき、誰に見られるか分からない。
つまり、ちょっと甘い空気を楽しみたいと思ったら、柴田先生の研究室が最適という……
わたしの脳裏に、「皐月? 目、開いて僕を見て?」と、切なげな声で囁く柴田先生のお声が……
あわわわっ。決して、ふ、不埒な目的じゃなくて、そう、健康の為にはハウスダスト退散!
頭の中に浮かんだ今朝の柴田先生とのやり取りを再生しかけて、早速借りてきた掃除用具を手に、ぶんぶんと頭を振った。
モップと雑巾二枚、バケツに箒と塵取りとゴミ袋複数枚。
これだけあれば、一応大ざっぱには室内掃除が出来る。
「頑固汚れとかあったら、どうしよう」
ひとまず廊下側の出入り口脇に掃除用具一式を置き、わたしは研究室内を見渡した。
机の引き出しには鍵が掛かっている箇所があるけれど、一見して、ほぼ丸々柴田先生の研究内容が覗けてしまう状況だ。
それだけ信用されているのは嬉しいけれど、不用心さが少し心配になります。と申し立てたら、研究の要になる物は最初からこの室内に放置していない、との事。
……まあ仮に研究横取り泥棒が入っても、この、見渡す限り本が山積みの部屋の中じゃあ、そもそも探しきれないのかもだけど。
本棚が二つに、窓際には机と椅子が一揃い、そしてドアから机までの細い小道を残して、後は床一面を埋め尽くし積み上げられ、壁と化している書籍……床が抜けないか、何だか心配になってきた。
机の上の物と引き出しの中身は、そのままで良いですよ。と言われているので、わたしが整理するのは床に平積みされた書籍の埃を払って本棚に戻し、出来れば分類しておく事だ。
……先生、机の上が一番、物がゴチャゴチャ置かれているんですけど。そして、掃除に取り組む前から明らかです。床に積まれた書籍の数は、本棚の収納可能容量を軽くオーバーしています……!
「んっと、まずは窓を開いて……」
直射日光を浴びせて本を痛めない為か、ほぼいつも半分引かれた状態になっているカーテンを開き、窓の鍵に手を伸ばす。外は小雨がパラついているけれど、空気を入れ換えない事には室内に埃が舞い上がっちゃうだけで掃除が出来ない。
が、伸ばされた腕が積まれた本の山に当たって突き崩してしまい、ドサドサーッと机と本棚の間、部屋の角の隙間に雪崩落ちてゆく。
「うわっ、やっちゃった……」
机の上と引き出しには手を着けなくて良い、って事は、逆に言えばなるべく触らない方が良い、って事だよね?
マズい、元通りに積めるかどうかは自信ないけど、なるべく戻しておかなくっちゃ。
わたしは堆く積み上げられた本の壁、それが一番薄い層の本を慎重に退かしながら角っこに移動し、机の真正面からサイドに移動する。うっ、ちょっと埃っぽい。
「えーっと、落ちた本と紙がこれとこれと……」
机の上の紙については、要不要の判断がわたしじゃ下せないから、分類しておかないとね。あ、机から雪崩に巻き込まれて落ちちゃったのかな。柴田先生の予備の眼鏡と眼鏡ケース発見!
「わあ、後でお願いして、ちょっと掛けてみたいな……」
好きな人の私的な持ち物って、ちょっと興味が湧く。別に視力が悪い訳じゃないんだけど、先生の眼鏡とか……あと白衣もちょっと身に着けてみたいというか。
「柴田先生、居ます?」
内心、誰にともなく言い訳を繰り広げていたら、研究室のドアがノックされた。この声は……ドア越しで少し聞き取りにくいけど間違いないっ。風見先輩だーっ!?
予想外の出来事に、わたしはわたわたと慌てて……その場にしゃがみ込んだ。柴田先生が不在の研究室に入り込んで、いったい何してるの? って聞かれたら、何でもない顔して切り抜けられる自信が無いっ。
「あれ? 柴田センセー、不在?」
「おっかしーなー。人に用事押し付けてほったらかしって、そりゃないだろ」
あわわ、風見先輩だけじゃなくて、椿先輩と永沢さんの声もするっ!?
「……廊下に掃除道具だけがポツンと用意されてる辺りに、柴田先生の何かを含んだ意図が思い浮かぶ……」
「平川教授の地下倉庫後片付けお手伝いだけじゃなくて、俺ら、掃除まで期待されてる……?」
すみません、風見先輩椿先輩っ。その廊下に置いてある掃除用具は、先輩達に掃除をお願いしたいという柴田先生からの無言の意思表示ではなく、単にわたしが整頓に入る前に置いていただけなんです。
そうだよ、どうして考えておかなかったのわたし? ここ、柴田先生の研究室なんだから、わたしみたいに不意に教え子が訪ねてくる可能性だってあるんじゃない。だから柴田先生だって、「掃除中は鍵掛けてね」って……
って、あ。そうだった。この研究室、鍵掛かってるんだった。
「あれ? でもなんか、鍵掛かってないよ?」
ふう、と安堵の溜め息を吐いたわたしは、永沢さんの脳天気な声と共にガチャリと回されたドアノブの音を聞きつけ、血の気が引いた。
かっ、鍵、掛け忘れてた……!?
「何だ? 柴田センセー、まさかの研究室での居眠り?」
「ツバキちゃんじゃあるまいし、それは無いんじゃない?」
縮こまって部屋の角、積み上げられた本の影に隠れ、わたしは必死で気配を隠す。こんな努力をしなくても、素直に『柴田先生に掃除を頼まれました』って言って出て行って、追及されようが『点数稼ぎですっ』て言い張ればいいような気がするんだけど、何というか……先輩達三人がドヤドヤと研究室に入ってきて、タイミングを見失ってしまった。
「あれ? 柴田センセ、居ないね」
「これはアレだな。さてはヒバリちゃん、どっかで女子生徒に捕まってるな」
わたしが泥棒よろしく、本の影に隠れて隙間から様子を窺っていると、風見先輩は空っぽの椅子を前に肩を竦めた。
「鍵を掛けずに不在って事は、案外近くに居るんじゃ?」
「……なるほど、突発的緊急性に襲われ鍵を閉め忘れ……ズバリ、お手洗いだな!」
静かに息を殺しているわたしの方に、永沢さんや椿先輩の視線がチラッと投げかけられるのだけれど。壁になっている本の山の向こう側に窓があって雨天と言えど多少は明るく、こちら側は暗い影になるせいか、わたしの方からは本のかすかな隙間から先輩達の姿が見えても、向こうからはわたしの姿が見えにくいようだ。まあ、隙間をまじまじと覗き込まれたら、流石に気が付かれると思うんだけど。
「んー、良し。じゃあ、擦れ違わないよう、ここでちょっと待ってるか。
まあいくら何でも、一時間や二時間も待たせたりはしないっしょ」
風見先輩はそう言って、勝手に平積みされている本を一冊手に取り、パラパラと捲り始めた。椿先輩も、気になる本があったのか出入り口付近に積まれた本を手に取る。
「えーっ? こんな本だらけの部屋で? 課題でもないのに、分厚い本なんか読みたくねぇぇぇ」
永沢さんは不満そうに文句を呟き、スマホを取り出して弄り始めた。
「……永沢、お前何で文系進んだの……?」
「理数系より可愛い子多いかと思って。
……あっ、アイちゃんからの着信だ。ちょっと電話してくる!」
椿先輩の呆れ顔に全く無頓着に答えた永沢さんは、パッと表情を輝かせてスマホ片手にスキップしながら研究室を後にする。どこか、人気の少ない場所で電話に出るのだろう。
ううっ、椿先輩や風見先輩も一緒に出て行ってくれないかなー? と期待したけど、こちらは本を手放す気配すら無い。それなのに、本に視線を落としたまま小声でお喋りしていた。
「女の子目当てで学部選んだ割には、対象の女の子はほぼ常に年下で、現状、女子大生ですらないとはこれ如何に」
「仕方がない、仕方がないんだ光……何故なら奴は、可愛いモノ好きの筋金入りなんだ。当人が自覚してないだけで」
「せめてエリナにしとけばなあ……」
「あー、それはちょい無理だろ。エリナはあれで中身無いし」
「えっマジ? あんだけ丁々発止やり合えんのに」
……? エリナ先輩って、けっこうしっかりした人だけどなあ。同じ学年の先輩達からしてみると、主体性が無く見えるのかな。
「永沢がヘタレじゃなきゃいけたかもしれんが、エリナから上手く誘導出来ん以上、無理だろ。永沢だし」
「永沢、どこまでも不憫な爆笑系萌えキャラ……」
「俺はむしろ、あれに萌え? られるお前が分からん。どこまでもブレない変態だな、光」
「見てて飽きねえ面白さ、って意味ならツバキちゃんと永沢がダントツ」
「……見せ物じゃねえよ」
あ、椿先輩がちょっとご機嫌を損ねた。
「つーか、この間の週末みたいな急用とか、もう勘弁しろよ光。これまで上手く進んでたのに、予定がおじゃんになる」
「あ~。先々週の? それに関してはスマン。だから対処頼んだんじゃん」
「結果的にあれで予想外に永沢が転んだんだから、お前はヤツを面白がるなよ」
「あ、それとこれとは話が別」
相変わらず、風見先輩は全然悪びれない。椿先輩は読む気が失せたのかパタンと本を閉じ、積み上げられている山に戻した。
「……しかし、こうやってると待つ時間が余計長く感じるよな」
風見先輩は肩を竦め、パラリとページをまくって呟いた。
いやいやいや、ちょっと待って下さい先輩達っ。お待たせしているも何も、柴田先生ならもう平川教授の所に行かれましたから。
……あれ? もしかして『待ってても、一時間くらいは柴田先生戻ってきませんよ』ってこれ、わたしが教えてあげるべきなんじゃ……? いやでも、「何で今まで隠れてたの?」って聞かれたら、それはそれで言葉に詰まるし……
「で、こないだの週末は確か、ツバキちゃん温泉デート行ったんだっけ? 首尾はどーよ?」
柴田先生不在の研究室にたむろしている事について、わたしは少し難しく考え過ぎていたのかもしれない。現に、先輩達は慌てる事もなくのんびりしているし。
わたしが本の影から表に出ようと決意を固め始めたところで、風見先輩が美鈴ちゃんと椿先輩の進展具合に関して話を振ったので、わたしは立ち上がりかけていた膝を抱え直してよりいっそう息を潜めた。今のわたしは、柴田先生が所有する本だ。そう、単なる、背景に描かれた本なのよ!
本の前で椿先輩が自らの想いを、赤裸々に激白もしくは訥々と吐露したところで、何らおかしな事は無い。無いったら無い。
「デート先が温泉って、いかにも所帯じみたツバキちゃんらにピッタリ。ぷぷっ」
「はー……」
冗談半分にわざとらしい吹き出し声を漏らす風見先輩に、椿先輩は憂鬱そうに溜め息を吐いた。
「おろ? どうしちゃったのツバキちゃん?」
「……永沢、しばらく戻ってこないよな?」
わたしが隠れている位置からでは、ドア付近の様子は見えないのだけれど、椿先輩はそちらに歩み寄って永沢さんの様子を確認するようにドアを開閉したような物音を立てた。
そして、回転椅子の傍らに立ってこちらに背を向けている風見先輩の肩に腕を置き、もう一度深い溜め息を吐くと、呟いた。
「……『石動椿』なんて、消えちまえば良いのに」
……うん? 美鈴ちゃんとの温泉デートの顛末で、何でそんなネガティブな発言が出てくるの、椿先輩。日曜日に会った美鈴ちゃんは、普通だったのに。
「ツバキちゃん、何言っちゃってんの? 『石動椿』って、お前の事だからねソレ」
「会うたびに笑顔満面で見上げられてウザい警告受ける、こっちの身にもなってみろ」
「いや、それは良かったね、としか言いようがないけど」
「全然良くねーよ」
椿先輩はボスッと、風見先輩のお腹に軽いパンチをかます。
「……嫌われたら満足だった訳?」
「んなもん、大問題に決まってる」
「訳分かんねー。自分から望んだクセに、何が不満なんだか」
風見先輩も椿先輩の背中に、パンッと平手をかました。
「どうしたって変えられない過去を、覆い隠す事でまるで存在しなかった事にして、俺だけがあの子の全てでありたかった」
わー。前から分かってはいたけど、椿先輩が美鈴ちゃんにメロメロなんだって具体的に言葉にされると、インパクトあるなー。
……でも、美鈴ちゃんの過去って何? 小悪魔ロリータヒロインは中学に上がる前、椿先輩との交際よりも前に、彼氏とか作ってたの? 聞いてないよ? うーん、時枝君に片思いの話かな。
「出た、ツバキちゃんのヘンタイ発言」
「他の男の追い出しも上手くいったは良いが、ところが今度は、『石動椿』が入り込んで独占出来ない事に気が付いた」
「……自分で自分に嫉妬とか、高度かつ真正すぎて、ツバキちゃんのヘンタイっぷり、常識人なオレにはついていけれねー」
「変態な光には言われたくない」
「だってバカだもんよ、お前。何でもっと気楽にモラトリアムを楽しめねーの?
結局また、表面取り繕って内側は猜疑心で真っ黒に逆戻りすんなよ」
「……」
風見先輩は閉じた本を元の山に戻すと、「うりゃっ!」と椿先輩の首に腕を回して締め上げる真似をした。
「こら光! こんな所でじゃれついたら本の山が崩れるだろ!」
「あー、あれ? 飛んでこねぇ……」
椿先輩の文句に、風見先輩は不思議そうに周囲を見渡す。風見先輩の目線はわたしの前に積まれた本の山を掠めていき、わたしは思わずよりいっそう身を縮こませていた。
と、バタバタと慌てた足音が近付いてきて、研究室のドアがバンッと勢い良く開かれた音が。
「おー、永沢お帰りー」
「ここ、防音じゃねえんだから静かにしろよ」
「おお、悪い。それより、大変な事に気が付いた」
背後から風見先輩を負ぶさったまま、永沢さんを出迎える椿先輩。そんなご友人方の忠告を簡単にいなして、永沢さんはスマホを翳してぶんぶんと振った。
「そうか、お前もツバキちゃんの温泉デートの進捗を聞いていない事に気が付いたか、永沢」
あ、そうだった。椿先輩の謎の葛藤を聞いただけで、そっちはまだ聞いてなかった。流石風見先輩。
「は? いや、そうじゃなくて……って、椿てめー、まさか美鈴ちゃんと温泉デートとか行ったのかぁぁぁ!?」
「行ったけど?」
「ぎゃああああ!?」
永沢さんの本来の要件が何だったのかは分からないけれど、ハッと何かに気が付いたような素振りを見せた永沢さんは、風見先輩の腕を首に巻き付けたままの椿先輩の胸倉を掴み上げた。相変わらず、椿先輩は人気者だなあ。
「椿、お前がそこまでケダモノだったとは……!」
「俺はむしろ、今、脳内で繰り広げてる妄想をまざまざと思い描ける永沢の方が、ケダモノだと思う。何考えてんだかは知らんが」
「『温泉』と『デート』ってキーワードだけで、めくるめく妄想ワールドを繰り広げられるとか。流石は永沢、妄想力逞しいな」
片手で服を掴み上げても、さして堪えていない椿先輩から手を放し、永沢さんはよろめく。
「つい最近知り合ったばかりの女の子に、もう手を出すとか、椿は手が早すぎると思うんだ……」
うんうん。それは確かに早い。早すぎると思いますよ、椿先輩。
永沢さんに同調して頷くわたしの存在に気が付かないまま、椿先輩は風見先輩の腕を払いのけつつ溜め息を吐いた。
「光の変態っぷりにはいつも辟易させられるが、永沢も相当だな」
「で、ツバキちゃん。首尾は?」
「俺は健全な紳士です」
「……待て、それはどっちの意味だ?」
「それより永沢、お前何か大慌てして戻ってきたが、何かあったのか?」
しれっと回答する椿先輩に風見先輩は食い下がるも、椿先輩は話題を逸らしにかかる。
「あ、と。そーだった。
いやー、実はさ、さっき柴田センセからのメール読み返してみたら、地下倉庫お片付けお手伝いの日付、今日じゃなかったー」
「……はあ?」
「おい、永沢」
「無駄足踏ませてすまんっ」
たはは、と後ろ頭をかいた永沢さんは、ご友人方から詰め寄られて両手をパンッ! と合わせて謝罪する。
ああ、わたしが研究室の掃除をしてるところを、先輩達に目撃される可能性だってあるのに、柴田先生がどうして先輩達との約束について教えておいてくれなかったのかとか、もしくは先輩達との待ち合わせ場所を変更したりしてくれなかったのかなー? なんて、思ってたけど。
ただ単に、柴田先生と先輩達の約束って、今日この時間じゃなかったってだけなのね……
「ったく。おかしいとは思ったんだよ。柴田先生って、たいてい五分前行動だもんよ」
「これはあれだな。用事がある場合は永沢だけじゃなく、俺らにも個別にメールくれって頼んどくべきか」
「だな」
「……ガーン、どんどん俺への信用度がダダ下がりしていく……」
「永沢だからな」
「ああ。永沢だからしゃーない」
うなだれる永沢さんの背中をぱしぱしと軽く叩いて促しつつ、椿先輩と風見先輩は研究室の出入り口に向かい、歩き出す。本の隙間から窺える視界の端に消え、先輩達の姿が見えなくなるその間際。風見先輩が軽く首を捻って顔だけこちらを振り返った。
何だろう? と、内心疑問を抱きながら、なんとなく風見先輩を見詰め返してみる。もっとも、鋭い椿先輩やお喋りな永沢さんがわたしが隠れている事について何も言わなかった辺り、向こうからはホントにわたしの姿なんか見えないのだろうけれど。
風見先輩の唇が笑みを象り、ゆっくりハッキリと動く。
『じゃ、またね』
……どうやら言及していなかっただけで、風見先輩にはわたしが隠れている事がバレていたようだ。ううっ、風見先輩の事だから絶対、わたしが出るに出られず、窮屈な思いをしながらしゃがんでいた事、面白半分に黙ってたに違いないっ。
「あー、なんか腹減ったなー」
「永沢、お前もう昼の弁当食っただろ」
「ちょい足んなかったんだよー」
「……弁当。オレにあの緑色の悪夢を思い出させるな、阿呆」
「はははは、ざまみろバカ光」
「なんなの? 弁当の中身が見渡す限りブロッコリーまみれとか、ツバキちゃんのカノジョちゃん、オレに何か恨み辛みでもあるの?」
「食い物の恨み、思い知れー」
「えー? 椿の弁当、普通に美味そうだったけどな~」
「ああ、美味いぞ。光以外にはな!」
「くっ、カノジョちゃんの味が忘れらんない……どっかの飯屋で厨房バイトとか始めたら、通い詰めそう。ツバキちゃん、カノジョちゃんはバイト始める予定は?」
「……さあ? どうだろう?」
ドアの開閉音がして、先輩達の賑やかな話し声が遠ざかっていく。心の中でゆっくり二十数えてから、わたしはそろりと立ち上がった。そして、ゆっくり本を動かして通り道に出る。
「はーっ、びっくりしたー」
ようやく好きなように声を出せるようになったわたしは、ぐるぐると肩を回し、張り詰めていた緊張状態と凝りをほぐす。
今度こそ掃除の続き続き、と、いそいそと窓に手を伸ばしつつ、わたしは先ほどこっそり盗み聞きした内容を思い返した。
「椿先輩が美鈴ちゃん大好きなのは知ってたけど。あんなに独占欲強かったんだ……」
あの調子で美鈴ちゃんを追い掛け回しているようなら、美鈴ちゃんが不安に思う必要なんかなさそうだなあ。お兄ちゃんの事を思うと、やっぱりまだちょっぴり悔しいけど。
「……あっ」
よそ事を考えながら伸ばした腕は、せっかく積み直した机の上の山をまた突き崩した。
柴田先生、普段から机の上ぐらい、整理整頓はしっかりして下さい。
柴田先生の研究室を軽く掃除してから一緒にお昼ご飯を食べ、わたしはご機嫌なまま大学での一日を終え、お夕飯の材料と明日のお弁当のおかずになる食材をスーパーでお買い物して帰途につく。
えへへ、明日は柴田先生にお弁当作っていく約束したんだ。よーしっ、頑張るぞーっ!
「あれ、皐月さん。今お帰りですか?」
お買い物バッグ片手に、傘をさして雨道をルンルンと気分よく歩いていたら、どこかからか声が掛けられた。
立ち止まってきょろきょろと周囲を見回すと、背後からパシャパシャと水たまりを蹴立てながら、中学校の制服姿の美鈴ちゃんが足早に駆けてくる。
「美鈴ちゃんもお帰りー」
「はい、ただいまです」
家までの短い距離を並んで歩きつつ、わたしはふふふっと喜びの笑みが零れるのを止められなかった。今、わたしは幸せの絶頂期なのだから仕方がない。
「……皐月さん、なんだか嬉しそうですね?」
「えへへ、やっぱり分かっちゃう?」
わたしの、『聞いて! 聞いて! 話したい事があるのー』という無言の欲求を察知した美鈴ちゃんが、おずおずと尋ねてくる。
わたしはお買い物バッグを握り直し、傘を片手に笑み崩れた。
「実は、ね、美鈴ちゃん」
「はい?」
「ついに、つーいーにっ!
わたし、御園皐月は柴田先生とお付き合いをする事と相成りました~!」
「へ? えええっ!?
は、早くないですか!?」
柴田先生との交際開始報告をすると、美鈴ちゃんは理解が追い付かなかったようで口をポカーンと開いたけれど、次の瞬間には傘を取り落としかけるほど驚いていた。
「確かに、わたしと柴田先生は春に出会って、それからまだほんの少しの時間しか経っていない……でもね、美鈴ちゃん。
燃え上がった心の前に、時間は関係無いの~」
「はあ」
荷物を持っていなければ踊り出したいぐらいウキウキしているわたしとは対照的に、美鈴ちゃんはピンとこない様子で生返事を返してくる。むむっ。
「そういう美鈴ちゃんは、椿先輩とは上手くいってるんじゃないの?」
「え?」
もう、椿先輩が何か作戦練ってて口止めされてた温泉デート自体には出掛けたみたいだから、聞いても良いよね?
「聞いたよ? 椿先輩と温泉街でデートしてたんでしょ?
美鈴ちゃん、わたしには何にも話してくれないんだもんなー」
「えっ!?」
わたしがうふふ、と笑みを浮かべると、美鈴ちゃんはわたわたと大慌てして、今度は通学カバンを取り落としかけている。ほっぺた赤くなって照れてる。可愛いー。
しかし美鈴ちゃんは、ぶんぶんと首を左右に振って否定の意を示す。
「えーと、皐月さんのように、私と椿にーちゃんは付き合ってるとかじゃないです」
「そうなの?」
「はい。単なる家庭教師と教え子、よりは仲が良いと思いますけど。付き合ってないです」
……あれだけ椿先輩から熱烈アピールされてて、美鈴ちゃんも椿先輩にとっても懐いてるのに。
あれかなあ。椿先輩、美鈴ちゃんがまだ中学生だから、怯えられないように慎重に進めてるとか? その割には、選ぶデートの行き先が子ども向けテーマパークとかじゃなくて温泉街だとか、いかにもな雰囲気漂うけど。
「あっと、一応、わたしもまだ学生だし、柴田先生の教え子だし。
お付き合いしてる事は、周りには内緒ね」
これは忘れてはならないと、口止めの必要性を思い出したわたしが、人差し指を唇に当てて、「しーっ」と秘密だとお願いすると、美鈴ちゃんは表情を引き締めて深く頷いた。
「はい。教師と生徒の関係が、世間に取り沙汰されると厄介ですものね。
皐月さんも、柴田先生のご迷惑にならない程度に浮かれて下さいね」
「えーと……」
「今の皐月さんだと、高揚しきった心のまま、大学関係者の存在に気が付かず人前で交際宣言をしそうです」
「うっ」
冷静にズバリと突かれて、わたしは思わず言葉に詰まった。あり得る。実にあり得る。
お兄ちゃんへの、後日柴田先生がご挨拶にやってくるという連絡も含めた報告は、浮かれているわたしだけでなく、並んで帰った美鈴ちゃんに同席してもらった。うん、美鈴ちゃんの方が冷静なんだもの。
お兄ちゃんはわたしの柴田先生との交際報告に、唖然とした表情を浮かべて硬直してしまったので、そのまま放置して美鈴ちゃんと一緒に夕食の支度を調えた。今日は久々に、わたしの好物であるカレーだ。やっぱり、カレーは舌がピリピリするぐらい辛味がなくっちゃね。
夜には柴田先生から電話がくる約束になってるし、えへへ、こういうのが幸せってやつなのかな。




