本編②
五月中旬、夕暮れ時の御園家のリビングにて。
「ええと、皐月さん?
その、准教授が素敵なのはよーく分かったんだけど、どんな見た目なのかがよく分かんないや。写メとかある?」
嬉しそうにマシンガントークを繰り広げている皐月さんの発言を、私は両手を眼前に翳して遮り、気になっていた点についてを尋ねてみる事にした。
共通ルートから、一番友好度の高かった攻略対象の乙女恋心ルートに分岐するのだが、皐月さんが准教授&チャラ男先輩ルートに乗っかったのは……攻略対象が両方とも年上だからだろうか。彼女は年下を恋愛対象には見られないようだし。
皐月さんは自らのハンドバッグからスマホを取り出しつつ、「もっちろん!」と、頼もしいお返事。そして、手慣れた様子で指先を閃かせて画面をタップし、私にそれを突き出した。
……恐らく、キャンパス敷地内のどこかでランチタイム中に撮った一枚なのだろう。芝生の上に車座に腰を下ろしてお弁当を広げている男女数人のグループ、その中で白衣を着た柔和な笑みを浮かべている二十代後半の男性と、彼の傍らで片腕を伸ばし……多分、スマホを構えているからだ……楽しげに小さくピースサインをしている皐月さん。ああ、日差しを浴びて天使の輪っかが綺麗に浮かび上がるサラ艶ロングと、チラリと覗く八重歯が可愛らしいですね……じゃなくて!
私はじっくりと、スマホの中の准教授を見詰める。やっぱりというか何というか……デフォルメが入った二次元の顔を、三次元に変換したところで、『これがそう!』と断言されれば、(ふ~ん? なるほど)とは一応納得は出来るけれど、事前情報も無く闇雲に探したところで、特定は難しそうだ。毎日鏡を見ていて実感していたけれど。
何が言いたいのかと言うと、ゲームの立ち絵はあくまでも絵。現実として向き合うのは立体的な人間だという事だ。
喩えるのなら、最後に二つ残ったパズルのピースの形ならば、空いている箇所にどちらをはめれば良いのかなんて一目瞭然だけれど、数百個全てバラバラの状態から、たった一つ目当ての場所に当てはまるピースを見つけ出すのは至難の業だ。
「それでえーと、この准教授の先生……お名前はなんでしたっけ」
「柴田雲雀 (しばた・ひばり)先生だよ」
……あ~、うん。言われてみれば確かに、そんな名前だったよーな気がする。何しろ、肝心のゲームを遊んだのは軽く十五年以上は前の話だからな。これが曖昧模糊ってやつか。
おっとりした雰囲気と合間って、生徒からは『ヒバリちゃん』と呼ばれたりもしてるんだっけ?
もはやどっちが情報提供アドバイザーだか分かりゃしないが、今、私が生きているこの世界が現実である以上、攻略対象について一番詳しいヒロインから情報を集めねば、バッドな未来を回避出来ない。
私が更に彼らについて質問を重ねようとしていた矢先に、玄関先から「ただいま」という声が聞こえてきた。
「あっ、お兄ちゃんお帰りなさい!」
皐月さんは、飛び跳ねるようにして私と向かい合って座っていたソファーから下り立ち、リビングのドアを開け放って廊下に顔を覗き込ませた。スリッパがフローリングの床をペタペタと移動する足音と共に、ドアの前にぬぼ~っと現れた人影。
手入れのされていない無精髭に、伸び放題のざんばら髪を後ろで一つに括った年齢不詳の男。
「こ、こんにちは、お邪魔しています嘉月 (かげつ)さん」
髭と長い前髪のせいで顔立ちが分かり難いが、あれで整えさせればなかなかの美男子になる、ヒロインたる皐月さんの実兄、広瀬 (ひろせ)嘉月。妹と名字が異なるのは両親の離婚で兄は母に、妹は父に引き取られたからである。
嘉月さんと皐月さんのお母様がこのたびめでたく再婚が決まったのだが、そこで問題になるのが同居している二十二歳になる息子である。嘉月さんは一応社会人として収入を得てはいるのだが生活能力の方が皆無であり、母の新婚家庭にそのまま連れて行くのも何だが、一人暮らしに放り出すのは不安だ。
そこで声を上げたのが、元の旦那の母……早い話が御園夫人である。自分達も長期海外旅行を計画しているが、皐月さんを一人日本に残していくのも心配なので、嘉月さんを呼び寄せよう。
話はあれよあれよと言う間に決められ、そうして嘉月さんは御園家で暮らし始めたのである。因みに、嘉月さんと皐月さんのお父様のご意見は、元妻からも実母からも求められなかった。転勤族で現在は遠方に単身赴任中の身の上なので、あえなく黙殺されたという見方が強い。
「……ああ……美鈴さん、いらっしゃい」
嘉月さんは、私の挨拶の声ででようやく私がリビングに存在している事に気が付いたのだろう。ぼーっとした動きで首が動き、私の姿を認めるなり、コクリ、と小さく頭を上下させた。
身に着けている衣服は毎日洗濯しているし、強制的に毎晩お風呂にも向かわせている、とは皐月さんの言だ。髪や髭がアレでも、さほど近寄りがたい雰囲気や臭いは発していないのだが、如何せん全体的に覇気が無い。
「……もしかして、また睡眠不足ですか?」
「うん……徹夜三日目……」
「お散歩で、何か良いアイディア浮かんだ?」
「何も……」
嘉月さんは推理小説作家志望である。とはいえそちらの知名度はあまり無く、担当からもまだ商業レベルではない、と様々なダメ出しを食らっているらしい。
そんな彼の本業は翻訳家である。主にミステリーや恋愛物など、幅広く様々なジャンルの小説を翻訳し、彼の翻訳著書は大勢の固定ファンもついているらしい。嘉月さんのお引っ越しの荷物は、参考資料の書籍を段ボールで山ほど配送し、手荷物は仕事道具のノートパソコンしか持って来なかった、とだけ記しておく。
「……皐月、ご飯は?」
今度こそ担当さんに納得してもらえる話を作るのだと意気込むも、煮詰まって三日徹夜して気分転換に散歩に行っていたらしい、見た目不審人物は、妹にエサ……もとい夕飯を催促してきた。
「……あ! ごめんなさいお兄ちゃん。美鈴ちゃんとお喋りに夢中になって、全然支度出来てないや。
今から作るね。カレーで良い?」
「……ん」
壁に掛けられた時計を確認し、皐月さんは慌てふためきながら立ち上がった。嘉月さんは、自分が作ってもらう側である事を承知しているからか、それともただ単に毎日がひたすら眠いのか、大抵のメニューに異論を挟まず何でも食べる。
時刻は午後五時半、そろそろ私も晩御飯の支度に取り掛からねばならない刻限だが、当面の懸念事項である『攻略対象対策・個人特定問題』が、まだ本題にさえ入っていない。私は皐月さんの後を追う形で立ち上がった。
「良かったら私も手伝いますよ、皐月さん」
「わあ、本当? 嬉しいな。
……あれ。でも、おじ様がもうすぐ帰ってくる時間なんじゃないの? 美鈴ちゃんがうちでご飯食べていって、お待たせしたりしない?」
皐月さんとの友好度が低いからか、幼少期から接触させないよう私が努力したからか。皐月さんの中で、あくまでもうちの中年は『美鈴ちゃんのお父さん』であって、『雅春 (まさはる)さん』という一人の男性という感覚は無いらしい。自分でそうなるよう仕向けておいてなんだが、何か複雑だ。
この御園家に、あまりにもナチュラルに私が来訪する事が馴染んでいるせいか、実のところ勝手知ったる他人の家とばかりに、キッチンへお手伝いに向かうのも頻繁にある。だが、休日の昼下がりやおやつ時ならばともかく、皐月さんが大学に進学してからこっち、そう言えばお夕飯の支度を申し出た事はなかったな。
ここは一つ、うちの中年をダシにさせて頂こう。
「大丈夫ですよ。うちのお父さん毎日お仕事忙しいんで、帰宅は大抵夜遅いんです。
お父さんと私の二人分の夕飯の支度をしても、ほぼ毎晩先に一人で頂いてますし」
誰かと一緒に食べる食卓って、良いですよね。と、ワザと明るい声を出しながらキッチンに向かうと、皐月さんは廊下の真ん中ではっしと私の手を握った。
「いつでもうちで晩ご飯食べていって良いからね、美鈴ちゃん!
お兄ちゃんも、良いよね!?」
リビングの出入り口付近でぼや~っと突っ立っている嘉月さんを振り返り、皐月さんは強い口調で叩き付けるように同意を強要した。一応のところは疑問系に語尾が上擦ってはいるが、そこに反論は許さないとの強い意志が見て取れた。それに、お兄さんはのっそりと頷く。
「……皐月の妹なんだから、皐月の好きなようにしたら良いと思う」
嘉月お兄さん。私は皐月さんの実妹でも義妹でもありません。その辺、ちゃんと分かってます? うちの中年は、あなたと皐月さんのお父さんとは、何の法的手続きも取っていませんよ?
……と、とにかく。多分、原作ゲームの『葉山美鈴』も、似たような手段で嘉月さんにちょっとづつ近付いていったのだろうなあ、と思われる、兄と妹の力関係がそこはかとなく垣間見えるやり取りである。
「今日は、お野菜がたくさん入った野菜カレーにしようとおもってて、昼間に買い物済ませてあるんだ」
「わあ、良いですね、野菜カレー!
皐月さんは、隠し味に蜂蜜かチョコかリンゴにバナナ、どれ派です?」
「……え、蜂蜜にチョコに果物? うちのカレーは、すり下ろしニンニクを入れるけど……」
「おおぅ」
皐月さんと並んでキッチンに立ち、具材となる野菜の皮を剥きながら尋ねると、御園家のご家庭の味・ザ・カリーはどちらかというと大人の味であるらしい事実が判明した。
さてどうしましょう、我が父よ。帰りしなに思いっきりカレーをお裾分けして貰って、仕事帰りのあなたに素知らぬ顔で供してやるつもりでいましたが、どうやらあなたの『甘口カレー派』な舌には合いにくい味わいのようですが。
もしかしたら予想外に早く帰宅なされてちょっとお腹を空かせていたり、持ち帰った辛口カレーでお口の中が大火事炎上になるやもしれませぬが、それもこれも、全ては可愛い一人娘の身の安全を図る情報収集の為です。男なら黙って受け入れる度量をお見せ下さい、我が父よ。
「うちのお父さん、甘口カレー派なんですよ。だから我が家の隠し味には、他にもメープルシロップとか……」
「メープルシロップ! カレーって、家庭によって色んな物を入れるんだね」
いえ、小さな子どもの居ないご家庭でありながら、甘口カレー派な我が家は多分少数派かと。
「ところで皐月さん、大学って色んな方がいるんですよね?」
「うん、中学校よりもよっぽど個性的な人がたくさんいると思う。えーっと、坩堝って言うんだっけ?」
私はカレーを作る手を休めぬまま、軽い世間話のノリで准教授と同じルートに存在する、もう一方の攻略対象について探りを入れるべく、慎重に言葉を選ぶ。
コレが攻略対象の中でも、皐月さんの兄の嘉月さんだとか、私の父をどう思っているのだか意識調査だとか、私と同じ中学のショタ担当こと時枝芹那 (ときえだ・せな)先輩についてならば、皐月さんの手を煩わせる必要も無いのだけれども。皐月さんの幼馴染み君だとか、チャラ男先輩に関しては、接点が無いだけにさっぱり分からない。
製作グループは、何故にアドバイザー役を皐月さんと同い年の女子大生にしなかったのか。いや、私がこの年齢とされたのは、主にうちの中年とツンデレ先輩の設定と、皐月さんの関連性を持たせる為だろうけど。
「えーっと、そうそう。小学校の頃の幼馴染みに再会したとか言ってませんでしたっけ?」
結局、『あなたの周囲に居るチャラい先輩について教えて下さい』を、オブラートに言いくるめて聞き出す言い回しが思い浮かばず、取り敢えず幼馴染み君の動向についてを質問してみる。
「ああ、あっ君?」
……幼馴染み君の話題は幾度か挙がったというのに、未だに彼のフルネームが不明なままなのは、このようにずっと愛称で呼ばれているからである。
「そう、その方。良いなぁ、皐月さんの回りには格好良い男性がたくさんいて。私の回りの男子なんて、皆ガキっぽくて困っちゃう」
「あはは、そんな事も無いんだけどな。
でもそっかー、美鈴ちゃんも男の子に興味抱くお年頃かー」
でもそっかー、美鈴ちゃんも男の子に興味抱くお年頃かー」
チャラ男先輩の情報を引き出す為の話への取っ掛かりなのだが、皐月さんからニマニマとした笑みを寄越されると、何か妙に動揺してしまうのは何故だ。母親が勝手に自室を掃除してくれて、隠していたエロ本を見つけられた男子の心境ってこうなのか?
しかし、幼馴染み君は皐月さんの初恋の少年だと思われるのだが、彼について語る上で随分あっさりしているものだ。昇華された子どもの頃の淡い初恋なんて、こんなもんなのだろうか? 自慢にもならないが、私は今世でまだ色恋なんてものを体験していない。前世に関しては別人なので省く。
「……それにしても変わった名前ですね。そのアックンさん」
「え? ああ、『あっ君』って言うのはあだ名なの。
太陽のヨウに炎で、陽炎 (かげろう)って書いて『あきほ』君って読むんだけど、本人は昔っから自分の名前の響きが女の子っぽくて嫌いみたいで。
友達には『アキ』とか『ヨウ』って呼ばせてるみたい」
「へえ。綺麗な響きだと思いますけどね。あきほさん」
紛れもない本心だが、うん。確かに漢字を見なければ女の子の名前だと判断しても全然おかしくないな。そんな事言ったら時枝先輩なんか、見た目も名前もまんま女の子で通りそうだけど。しかし、攻略対象の名前をほぼ把握するのに足掛け七年掛かりとか、私はどんだけ難易度高い無理ゲーに挑まされてるんだ?
鍋の中に、最後の仕上げにカレーのルーを投入している皐月さんの傍らでお皿を用意しながら、私はいよいよ本命の標的について第一歩を踏み込むべく、ゴクリと唾を飲み込んだ。
早炊き設定した炊飯器が、ご飯の炊き上がりを告げるピーピーという電子音を発し、私は早速ご飯を三人分よそう。
「それで、他にもやっぱり素敵な人とか居たりするんでしょう?
アイドルばりの美男子で~、ファッションセンスも良くって~、女の子の友達も多くて明るくて積極的な雰囲気で取っつきやすくって、話してて楽しいタイプ? な先輩とか!」
無い語彙を駆使し、精一杯チャラ男を好意的に表現してみた。これ以上は無理だ。ええ、貶める表現なら幾らでも湧き出てくるんですがね。
実家がアレだとか嫉妬したらアレだとか隠れロリコンの素質があるとか、そんなキャラ特徴を挙げたところで無駄だろうし、むしろ皐月さんが引いてしまうだろう。そんなヤバげな人種に好んで近寄りたがるのは、変人ぐらいなものだ。ああ、どうせ私は変人だよコンチクショー。
「そういう人が、美鈴ちゃんの好みなの? ちょっと意外」
まったくもって好みじゃありません! 取り敢えず、女遊びがだらしない類いのチャラ男はご遠慮申し上げる!
「格好良い人が笑顔で優しく話し掛けてくれたら、舞い上がっちゃいません?」
「分からなくは無い、かも。
柴田先生と偶然お話出来たら、その日はず~っとハッピーだし」
お、お手軽な幸せってステキですね皐月さん。
皐月さんは私が手渡すお皿にお玉でカレーをよそい、それを食卓に運びながら「んー」と何かを考え込むような素振りを見せた。
「そうだなあ、美鈴ちゃんが言う条件に当てはまりそうな先輩って、三人……いや、四人ぐらいいるかも?」
「……は?」
そんな爆弾発言をさらりとかまし、皐月さんは夕飯の支度が整ったと、兄を呼びに階段を上がって行ってしまった。
……攻略対象のチャラ男先輩が四人に分裂なんてする訳無いし、それはつまりあれですか。候補者の中から本当の攻略対象を探し当ててみせろ、と?
そこまで考えて、私は更に恐ろしい可能性について思い当たってしまった。
この世界は例の同人乙女ゲームの世界によく似ているけれど、現実だ。
皐月さんはゲームのヒロインとして登場していたけれど、私と同じく現実世界を生きる、ごく普通にして当たり前の女子大生だ。当然、大学で知り合った男性を、ゲームでの攻略対象とその他モブとして振り分けたりなんかしない。
逆に言えばゲームでの攻略対象男性だろうと、必要以上に接さず交流もせず、それどころか皐月さんからしてみれば接点の無いままにチャラ男先輩を個人として認識していなくても、全くおかしくはないのだ。
私が時枝先輩との接触を断てば、自然と皐月さんと時枝先輩が知り合う可能性も無くなるように、ゲーム設定上、チャラ男先輩の立ち位置はそういった不安定な場所の上に成り立っているのだ。
チャラ男先輩が一方的に皐月さんに興味を持っていて、クリムゾンな危険性を孕んでいようが、皐月さんとチャラ男先輩はそもそもお互いに面識が無く、私の努力は全くの無駄であろうが、チャラ男先輩の名前さえ知らぬ私に、その現状を確認する術は無い。
確実に安全だと判断を下すには、私自身が自力で攻略対象のチャラ男先輩を探し出し、皐月さんの事をどう思っているのか、探り当てねばならない。
……ヤバい。毎度の事ながらの無理ゲー認識に、涙が出てきた。
「えっ、美鈴ちゃんどうしたの、カレー辛すぎた!?
それとも一緒に食卓を囲むのに、お兄ちゃんの鬱陶しい髭と前髪にほとほと嫌気が差した!?」
皆で揃って「頂きます」をし、カレーを食べながら突然涙ぐみだした私に、隣に座っていた皐月さんはガタンと席を立ちながらオロオロと狼狽えだした。……後半はもしかして皐月さんの本音ですか?
どさくさ紛れに妹から遠慮なく当て擦られた兄は、「皐月」と呼び掛けながらスプーンを一旦お皿の上に置いた。
「このカレーは俺にも少し辛いんだが、いったい何を入れたんだ?」
あ、嘉月さんが珍しくしゃっきり喋ってる。あまりの辛さに、嘉月覚醒ってか?
って冗談はさておき、鬱陶しい発言による兄の威厳云々よりも、カレーの辛さの方が最優先なの? 嘉月さん的に、それで本当に良いの? いや、私も皐月さんのカレーはちょっと辛いなあ、とは思うけど。
「え、普通にすり下ろしニンニクと、インスタントコーヒーと七味だけど?」
そりゃ辛くもなるわ。皐月さんがそんなの追加していたなんて、お米に気を取られてて全然気が付かなかったわ。
「出来たら、次回のカレーはもう少し甘くして欲しい」
うわあ。嘉月さんでも、ご飯に注文つけたりとかするんだ。今まで何でも食べて「皐月、有り難う」「美味しいよ」しか言わなかったし。ゲームのイベントでも、不味いとか食べたくないとか、一言たりとて言わなかったのに。
よっぽどこのカレー、嘉月さんの口では辛すぎたんだ……よくよく見たら嘉月さんの前に置かれたグラス、中にたっぷり注いでおいたお水はもう空になっていた。
「え、お兄ちゃんも甘口カレーが良いの?
もしかして男の人って、辛口苦手なのかな?」
「お兄ちゃん『も』?」
「あのね、美鈴ちゃんのお父さんも、甘口カレーの方が好きなんだって」
「……辛さの好みは人によると思うから、皐月は人様に勧める時は辛さを控えた方が良い」
「そっかな?」
「あの、嘉月さん。カレーの辛さを和らげるには、ミルクやチーズ、あとチョコや林檎や蜂蜜がおススメですよ」
兄と妹の会話に、私が控え目に口を挟むと……嘉月さんは「有り難う、ちょっと失礼」と一言断ってから席を立ち、キッチンに消えた。
しばらくして戻ってきた嘉月さんの手には、その辺のスーパーにてだいたい百円ほどで販売されていそうな、板チョコレート(ミルク)が。再び卓に着いた嘉月さんは、ガサガサと包装紙の類いを外して、板チョコ丸々一枚を自らのカレー皿にそのまま投入した。
「そこまで!?」
驚愕を隠せない皐月さんをヨソに、熱でチョコが溶けてカレーと混ざった部分を口に運び……嘉月さんは満足そうに頷いた。
「うん、今日の夕飯もとても美味しいな、皐月」
「なんかスッゴい複雑」
取り敢えず、嘉月さん。チョコを入れるのでしたら、少しずつ折り取って味を調整していった方がよろしいかと。よっぽど辛かったんだろうなあ……
カレーのお裾分けをちゃっかり頂いてから御園家を辞した私は、自分の部屋で秘密のノートを開き、唸った。
思い出せる限り、前世の自分が遊んだ例のゲームのイベント発生条件だの、選択肢だの見た事があるエンド条件を書き留めておいたものだが、はっきり言って現状なんの役にも立たない。
『①邪道逆ハー派生条件。
攻略対象のうち、美鈴の友好度が0、男性攻略対象の友好度が全て1以上かつ同一である事。』
これに関しては発生しないだろうと、まず確信していたのでこれだけしかメモしていない。だって私が皐月さんへの友好度0とか、ちょっと想像がつかない。
『②葉山雅春&時枝芹那ルート。
既知エンド……葉山雅春バッドエンド一種、ブラックエンド一種、薔薇エンド、ラブエンド。
時枝芹那バッドエンド三種』
『③広瀬嘉月&幼馴染み君ルート。
既知エンド……広瀬嘉月バッドエンド二種、ブラックエンド一種、薔薇エンド、ラブエンド、トゥルーラブエンド。
幼馴染み君バッドエンド四種、薔薇エンド、トゥルーラブエンド』
『④准教授&チャラ男先輩ルート。
既知エンド……准教授バッドエンド二種、ブラックエンド四種、ラブエンド、トゥルーラブエンド。
チャラ男先輩バッドエンド四種、ブラックエンド二種、トゥルーラブエンド』
アドバイザー役の葉山美鈴との友好度が低いと足止めが上手くいかず、トゥルーラブエンドじゃなくラブエンドになるんだよな。その辺に気が付くまでは結構クリアに苦労してたなあ、前世の私。
ひとまず、攻略対象の特徴を仮名として書いておいた部分を消しゴムで消し、柴田雲雀、??陽炎、と書き換えておく。そういや、幼馴染み君の名字は結局判明してないままだな。まあ良いか。
……それにしても、これは単なる偶然なのだろうか。何気なくメモしていたプレイエンディングだが、改めて『キャラ個別周回数記録』として見ると、一番プレイ回数が多いのは准教授……柴田先生で、逆に少ないのは時枝先輩だ。皐月さんの興味の方向性と、同一なような?
いやいや。女子大生が中学生男子を恋愛対象として見る場合の方が特殊というか少数派だろうし、きっと単なる気のせいだ。
椅子の背もたれに身を預け、秘密ノートを捲って新しいページに名前を書き付けていく。
『かざみひかる先輩』『永沢さん』『椿先輩』『たいすけ君』
皐月さんが、チャラくて女好きっぽい雰囲気の大学の先輩として挙げた四名の名前である。ていうか、チャラい先輩と聞いたらパッと思い出せる該当者が四人もいる大学ってどうなんだ。日本男児の大和魂はどこへ消えた。
一応、皐月さんのスマホで写真を撮った時に偶然映っていた、という面子の顔はこっそり見せてもらったが、やはり『これだ!』という確信は得られなかった。
皐月さんが認識していた呼び名をヒントに、攻略対象のフルネームを思い出せないか、紙に書いて眺めてみるが……なんか無理ぽ。
「どーしたもんかなあ……何か、攻略対象らしい共通点とかあったよーな気がするんだけど」
あるゲームでの攻略対象は全員、名前に漢数字が入っていた。さんずいといった部首だったり、色だったり、惑星だったり花の名前だったり。まあ、記号的な意味合いが存在していた。しかしただ彼らの名前を眺めていただけでは、私の残念脳ではさっぱり分からない。
明日はどうしようか。身内の忘れ物を届けに行った風を装って、大学の中にでも潜入してみようか。
私が通っている中学は、皐月さんが通う大学の附属中学校である。私立のお嬢様学校に通うお嬢様な私!……なんてものではなくて、単純に両親の母校なので、通わせたいという父の親心だ。その辺は素直に有り難いと思う。
そんな附属中学の学生が大学へ自由に出入り出来るかというと、敷地はお隣だし通学路でも大学生を頻繁に見掛ける。だが、緩い接点はあれど明確な用件も無いのに、堂々と大学の敷地に足を踏み入れられるかと言うと、そんな度胸は流石に私には無い。
しかし完全に閉め出されているという訳でもなく、抜け道もあれば、教職員から何らかの用事を言い付けられ、お邪魔する可能性もあるにはある。私は今まで特に何か言われた事は無いけど。
そもそもキャンパスの敷地へ入るだけなら、附属中学生としてM.I.C.……いわゆる学生証を持っているので、入るだけならば可能だ。こっそりどこかで私服に着替えて、大学生のフリをしてチャラ男先輩探し……をするには、外見がネックだ。いや、頑張って大人っぽい服装をしてみれば、私だって童顔の大学生に……見える訳無いか。
どうしよう。悪い意味で目立つの覚悟で、ダメ元で大学に向かってみようか。あ、でも明日はそもそも部活だっけ。
「ただいま。美鈴? 帰ってるの?」
うんうん唸って悩んでいるというのに、何とも呑気な声を上げながら帰宅してきた父。この反射的に抱く反感……もしや私は今、反抗期に突入しているのか?
私は秘密ノートを本立ての下に隠し、パタパタとスリッパの音を響かせながら自室を後にした。
「お父さんお帰り、今日はカレーだよ。今温めるから着替えておいでよ」
「カレーか、久しぶりだな。あ、お父さんカレーの上に玉子乗せて欲しいな。半熟目玉焼き」
「ハイハイ」
ネクタイを緩めながらすかさずリクエストしてくる父に、私は苦笑しながらキッチンに向かい、カレーが入った鍋を火にかけて温め、冷蔵庫から取り出した玉子をフライパンに割り入れる。
そそくさと部屋着に着替えてきた父は、カレー皿を取り出して炊飯器を開けた。
「あれ? 美鈴、ご飯無いよ?」
父は、私の方を振り返って怪訝そうに問い掛けてきた。そう言えば、早く情報を検討せねばと気がはやり、帰宅してからカレー鍋をキッチンに置き、そのまま自室に直行したような?
「……あ、炊くの忘れてた」
「そんな! お父さんカレー楽しみにしてたのに!?」
お主、今夜はカレーだと知ったのは、つい数分前だろうに。
「明日の朝用の食パンがあるでしょ? 半熟目玉焼きは用意してあげてんだから、ワガママ言わないの」
ちょうど良い半熟加減になった目玉焼きをフライパンから皿に移し、私はそれをズイッと差し出す。
「白米が無いのなら、食パンを食べれば良いじゃな~い?
ばーい、マリー・アントワネット」
「うっうっ……美波 (みなみ)さん……俺達の娘は、とっても逞しく育ってるから安心してね……」
たかだかカレー一つで大袈裟だが、父は白米の無いカレーに半泣きになりつつ、亡き妻へ報告をかましている。
テーブルにつく父の対面に、私もお茶を持っていって座る。食パンに温めたカレーと目玉焼きを乗せた物を、白米の無い現状それはそれとして笑顔で頬張った父は……次の瞬間、口から火を噴いた。いや、幻影だろうけれど。
「かっかっかっ!?」
無我夢中で水をがぶ飲みする父の、空になったグラスにすかさず水を注いであげる私は、なんて出来た娘だろう。
「ごめんお父さん、それ、激辛党の皐月さんが作ったカレー。
温める時に、ミルクとかで中和するの忘れてた。だって、半熟目玉焼きとか言われちゃうんだもん」
うん、本当の本当に、ついうっかりだよ?
私は、キッチンの調味料が入った戸棚からメープルシロップを取り出し、はいと差し出した。父は二杯目の水も一息で煽り、無言で受け取ったそれをどばどばとカレーに振りかけた。あーあ。
「美波さん、美波さん……美波さんの手料理が恋しいよ」
食卓の上に飾られている亡き母の写真を手に取り、掛けている眼鏡を濡らしながらシクシクと泣き崩れる我が父。うちの中年との恋愛には、料理の好みが最大条件なのか? どうりで皐月さんとラブな感情を抱かない訳だ。
これまでお父さんが再婚しなかったのって、私というコブがマイナス要因になっただけじゃなくて、お父さん自身の性格のせいでもありそうな感じだなあ。
髭は剃ってるし、髪型もきちんとしてるけど……うん、なんか言動が鬱陶しい。
明けて翌日。皐月さんの周囲の動向が気にかかろうが、中学生である私の本分は学業である。
いつも通りに登校し、友人とお喋りをし、授業を受け、友人とお喋りしながらお弁当を食べ、授業を受け、そして帰宅……の、前に部活である。
私が所属しているのは美術部。芸術方面にめちゃくちゃ興味がある! のではなく、万一の事態に備えてショタ担当の攻略対象と接点を持っておくべく、時枝先輩が所属しているのと同じ部活を選んだ。
これがまあ、すんごい競争倍率だった。
時枝先輩は女子大生から見れば子どもだが、同年代の少女から見れば扱いは王子様である。毒舌だけど。
だから、彼と親しくなりたいが為だけに、一昨年までは閑古鳥が鳴いていた美術部は、昨年から女子生徒の入部希望者が殺到する騒ぎになったのだ。うん、そうなるのを半ば小学生の頃から予想していた私は、当時から美術部に所属して絵画をライフワークとして過ごしてきましたとも。
絵を描きたくて堪らない! なんて思った事は一度も無いが、これが出来なきゃ死ぬかも!? という仄かな危機感は常にあった。人間、追い詰められるとがむしゃらになるものだ。
明らかに時枝先輩目当てのミーハー入部希望者は、時枝先輩本人の毒舌舌鋒……真面目に部活やる気の無い奴は消えろ! 発言……によってどんどんふるいにかけられ、現在の部員数は三十名ほど。
まだミーハー部員は残っているが、彼女らは芸術方面にも興味を抱く人だったり、時枝先輩の作品に惹かれている人だったりするせいで、自分の作業を邪魔されない限りは追い出せれないらしい。この辺の冷血になりきれない部分は、まだまだ中学生らしい可愛げがあるな。ウケケ。
美術室に向かい、マイペースな部員の皆で個々にそれぞれの作品と向き合っていると、何となく感じるものがある。
前世の私は芸術なんて何も感じない感銘を受けない鈍感人間であったが、今世の私は小学生の頃からひたすら画用紙やキャンパスに向かってきたし、展覧会にも幾つも足を運んだ。
だから思う。私の作品は素人に毛が生えた程度だが……時枝先輩の感性は、凡人には及びもつかないものだと。
「葉山、お前はまた人の背後にボーっと突っ立って」
キャンパスに向かっている時枝先輩の後ろから、制作真っ最中の作品をこっそり鑑賞していたら、先輩本人が天使の顔に不機嫌そうな表情を浮かべて振り返った。てっきり、目の前の作品に集中していて、こっちの存在になんか全然気が付かないだろうと思っていたのに。
いや、もしや気配や視線が気に障って、制作の邪魔になったとか? ヤバい、時枝先輩の機嫌を損ねたら美術部を追い出される。
「す、すみません、お邪魔にならないように気を付けていたつもりだったのですが」
首を竦めて、ビクビクと身を震わせながら小声で謝罪する私に、時枝先輩はフンと鼻を鳴らした。相変わらず、自分の優位を鼻にかけた腹立つ輩である。才能の差を思い知らされているだけに、無性にムカついて仕方がない。ただここで苛立ったら、どーせ後から自分の人間としての器の小ささで、虚しくなって落ち込むんだけど。理性では、ただ時枝先輩に嫉妬してるからこの人が悪者だと思いたいだけだって、理解してるだけになあ……
「そこに立つの、止めてくんない? 監視されてるみたいで気分悪い」
あんたの斜め背後では、過去に何があったんだ。いや、時枝先輩のある意味直情的な性格から言って、まさか本当に昔はこの位置に大人が立って先輩を監督していたとか?
「失礼しました。以後気を付けます」
もっとよく見ていたかったのだが、制作者様から止めろと言われてしまっては仕方がない。すごすごと自分がスケッチブックを広げる定位置に戻ろうとしたら、何故か時枝先輩から「おい」と引き留められた。
「はい?」
「そんなに見たいなら、オレの横にくれば良いだろ」
いやいや、そんな場所に突っ立ってたら制作の邪魔になるでしょうに。
例え部活動の活動日がいつであろうと、芸術を愛する者は変わり者が多い。いや、うちの部だけかもしれないけど。ともあれ、作りたい時に作るが信条の変わり者集団は、現在大半が姿を見せていない。
既に一般生徒の大半は帰宅している時間帯である今、美術室に残っている部員も私と時枝先輩を含めて五人しかおらず、残った部員の先輩方へチラリと目線を送っても、こちらのやり取りにはまるで無関心なようである。何故、今日に限って時枝先輩ファンの部員が居ない!?
「お、お邪魔します……?」
そろりそろりと、腰が引けながらもお隣に立ち、時枝先輩の制作途中の油彩画を眺める。
一言で言うと、寒色系の色んな色彩が無秩序に入り混じっている抽象画、だろうか。これは、次のコンテストに提出する予定の作品で、顧問の先生曰わく、彼の作品は普段抑えられ隠されている人間のどうしようもない感情が揺さぶられるとかなんとか……
普段の、毒ばっかり吐く時枝先輩のイメージと、彼が作り上げる作品のイメージは、全然違うところにあるように思う。私のスケッチは、人からよく「美鈴らしいね」と言われる安直さなのだが。
次第に部員達も帰宅していく中、飽きずに先輩の絵を眺めていた私に、時枝先輩が不意に声を掛けてきた。
「葉山はこの絵をどう思う?」
「夏場に見たら、涼しくて良さげなイメージですね。
昔、海の中に深く潜って太陽を見上げた事があるんですけど、その時感じたワクワク感に似てます」
「ふうん……」
時枝先輩が私にどんな感想を求めていたのかは分からないが、抽象画から作者の心情が読み取れるほど、私は抽象画に精通していない。
そんな先輩は、私に「ん」と、手のひらを上にして差し出してきた。彼の手には特に何も乗っていない。
「なんです?」
「観覧料」
「お金取るんですか!?」
「お前バカ? 部活動で現金が動いたらPTAが騒ぎ立てるぞ。
オレの絵を見たんだから、葉山のも見せろ」
素直に「スケッチブック見せて」と言えない辺りは、難儀な性格をしていると思う。どうせ、私の下手な絵など……と謙遜して見せたくないと告げたところで、また嫌みを言われてスケッチブックを取り上げられるのがオチだ。なので私は不承不承、美術部の支配者様にそれを叩き付……けると後が怖いので、捧げ持ってご裁可を待つ。
私のスケッチブックをパラリと捲った時枝先輩の背後、窓ガラスの向こうから差し込む日差しは茜色に染まり、先輩の髪の毛を綺麗に染め上げている。
天使天使と外見を形容している時枝先輩だが、髪や瞳の色が明るい配色という訳ではない。その中性的な美貌は、将来どんなバケモ……ゲフン。大人になったら壮絶な色男になるんだろうなー、という未来を予感させる可愛さだけれど。羨ましくなんかないぞコンチクショー! ……嘘ですすんごい羨ましいです何でうちの中年はフツメンなんですか製作者 (神)様。
「葉山さあ」
「はい」
時枝先輩はスケッチブックに目線を落としたまま、ポツリと呟いた。因みに私の絵はパッと見で意味分からん抽象画ではなく、写実画だ。別に宗教的な意味を描きたい訳では無いけれど。
「お前の絵って、結局何が描きたいの? モデルもデッサンも統一感が無いんだけど」
「その日に、何となくピンときたものを描いてます」
「感性か……あ、比較的花が多いか」
「部活中の先輩を描いても良いなら、勝手に描きますけど。題して『白の魔術師』」
「なんだそりゃ。オレの邪魔をしないなら、勝手にモデルにでもなんでもしたら? ま、お前の腕じゃ見た奴がオレだと判別出来るとも思えねーし。どうでも良い」
ぽこん、と、私の頭を軽くはたきつつスケッチブックを返してきた時枝先輩は、ニヤッと意地の悪い笑みを浮かべながらそう言った。この方は、ファンの女生徒から写真でも絵画でも彫刻でも、何かの作品のモデルになって!と言われても、決して頷かないお人である。
「……下手だから下りるモデル許可。私は今これ、喜ぶべき場面ですか?」
「喜べ。大いにな」
いや、これは絶対に怒るべきところだ! と、自分を奮い立たせた私が、後片付けをしている時枝先輩の背中に向かって怒声をぶつける前に、美術室のドアがガラガラと乱暴な音を立てて開かれた。
タイミングを外された私がそちらを振り向くと、顧問の先生が「おー」と呑気な声を出しながらのしのしと入室してくるところであった。
「なんだ、お前らまだ残ってたのか? 精が出るなー。
だがもう下校時刻だから流石に帰ろうな。先生も帰りたいが生徒が残ってたら先生帰れん!」
「もう片付けて帰りますから安心して下さい」
シュビッ! と親指を立てながら追い立ててくる顧問の先生に、時枝先輩は冷ややかに返し、テキパキとパレットや筆を片付けて、制作途中のキャンパスを準備室に運んだ。
私も慌てて私物を纏め、忘れ物が無いかをチェックする。うん、大丈夫だな。
「時枝冷たい。先生悲しい。職員会議頑張ったのに」
「それは先生の仕事の一環では……」
職員会議で、美術教師が何を頑張る余地があるのかは不明だが。
「葉山も冷たい。先生泣きたい。でも頑張る。
時枝~、手ぇ出して」
「何ですか?」
黙っていれば知的美人な美術部の顧問は、呆れ顔で振り向いた時枝先輩の手の上に、何かの紙をペラリと落とした。
「来週から駅前でやる個展のチケットね。今期の美術部はこれのレポートを提出して貰います」
「げっ、レポート……」
「ちゃんと活動実績を残してもらわないとー、お上がウルサイのだー。
時枝も、レポートぐらい提出出来ないと、将来が不安だぞ?」
部員の大半はコンテストなどに作品を出品するのだが、中には私のようにまだとくに目標が定まっていない部員もいる。そんな部員達も、きちんと真面目に活動しているという実績を残すのに、レポート提出という形を取ったらしい。これをサボったら、やっぱり内申に響くのだろうか?
「先生、個展っていつ行くんですか?」
美術部にも校外学習があるとは思わなかったが、タダで個展が見れるのならばなんだかお得感がある。ワクワクしながら尋ねると、顧問の先生は再びシュビッ! と指を立てた。
「葉山の都合の良い日に、好きなように見て回ってくれ。あ、レポート提出期限は来月末までだから、中間と被るとヤバいぞ~」
「は? 私の都合の良い日、って私が決めて良いんですか?」
「ふふん、その顔は先生に引率してもらいたいって顔だな?
だが断る! せっかくの先生の貴重な休日を、マイペースなモンスターどもに振り回されてたまるか!」
「いや引率しろよ教師!」
先生の超本音炸裂トークに、時枝先輩がしごく真っ当なツッコミを入れた。
「あのマイペースなモンスターどもは、事前に日取りを取り決めておいても、当日に『気が乗らない』とか言い出してドタキャンをかます奴らだ」
「……」
「……」
真顔で言い放つ先生の言い分に、『確かに』とか思ってしまうのは私だけではなかったようで、時枝先輩も沈黙している。
「じゃ、しばらくしたら美術室は鍵掛けとくから、忘れ物とかすんなよー。気を付けて帰れなー」
うちの美術教師も、十分マイペースさを発揮していると思われる。顧問の先生は言いたい事だけ言って、さっさと美術室を出ていってしまった。
唖然としている私の眼前に、時枝先輩が個展のチケットを差し出してくる。
「ほい、葉山の分。
お前はいつ行く?」
「えーと……」
チケットに記された開催期間を見ると、来週末から開かれているらしい。こういうのは、忘れないうちに早く済ませるに限る。
「来週の土曜日、早速行こうかと」
「ふーん」
美術室を出て、何となく時枝先輩と並んで廊下を歩きながら、私は居心地悪く受け取ったチケットをしまい込んだ。
時枝先輩とこんなにたくさん話すのは、今日が初めてじゃないだろうか。自分でも何となく、『時枝先輩は皐月さんの攻略対象』として色眼鏡で見ていた節がある。皐月さんの攻略ルートから時枝先輩が外れた今……ゲームの展開を懸念するのならば、もう時枝先輩と関わる必要は無い訳で。
けれど、今、私が生きているのは現実だ。原作ゲームでは皐月さんが主役だが、今を生きる私は、私が私の世界の主役なのだ。『原作ではこうだから』とか、『原作だとああだし』と、いちいちお伺いを立てるように生きるのは馬鹿らしい。
もう美術部に在籍している理由が無くなったって、ただ美術部の部員として活動していたいから、という感情だけで十分だ。
だってこれは私の人生なのだから。
昇降口で靴を履き替え、夕暮れ時の空気を吸い込む。
あ~あ。本当に、チャラ男先輩の特定はどうやったら出来るのかなあ。誰だか分かったら、大学の美女やら……うちの顧問をけしかけて、皐月さんの恋路の邪魔をさせないように動くのに。それが可能か不可能かは、一旦置いといて。
「あれ、時枝先輩って家こっち方向でしたっけ?」
てっきり昇降口の辺りでお別れかと思い、「さようなら先輩、また明日」とお辞儀をしたというのに、私と同じ方向に歩き出した現象は……私がすんごいマヌケじゃないか。
「いや、家は逆方向なんだが……附属大学の図書館に用が」
時枝先輩は目線を泳がせて、何故だか気まずそうにそう呟いた。
「えっ、中学校舎に図書室もあるのに、大学の図書館って私達入れるんですか!?」
「閲覧も貸し出しも出来るぞ。お前、知らなかったのか?」
コクコク、と頷く。そりゃあ、きちんと大学の案内を調べたらいつかは行き当たったかもしれないけど。でも、そういや附属中学の学生だってM.I.C.で大学の敷地に入れるんだから、そこに向かう厳然たる目的があって然るべきだ。
「うわ、行ってみたい……!」
時枝先輩に案内してもらう形で、私は附属大学の図書館に足を踏み入れた。ここまで学生証が活躍した事って、中学に入学してから初めてなんじゃないだろうか。
附属大学の図書館は、市の公共図書館並みに巨大で、オマケに建物自体がとても綺麗だ。
利用者は私服の二十代の男女か、教職員と思しき人物ばかりだが、たまーに高等部の制服の学生の姿も見掛けた。
「時枝先輩、何を調べるんですか?」
小声で尋ねた私に、時枝先輩は不機嫌そうに眉根を寄せて、ふいっと顔を背けてしまった。そして歩み寄った本棚は……えっと、Fの教育……??
斜め後ろに立たれるのはお嫌いらしいので、少し離れた所から先輩の挙動を眺めていると、時枝先輩は書籍を探してしばらく目線を彷徨わせていたが、最上段で止まった。目的の本の背表紙に指先を伸ばすが、精一杯背伸びして腕を伸ばしても、一番上まで手が届かない。
「先輩、私が取りましょうか」
時枝先輩の隣に立って、この辺の本だろうとあたりを付けた位置に手を伸ばす。背表紙の下の方を掠めるのだが、上手く取れない。私と時枝先輩の身長はだいたい同じぐらいだから、ある意味当たり前かもしれない。
「葉山、役に立たねえ」
二人して書架の前に並んで背伸びをするという間が抜けた構図に、隣で時枝先輩が吹き出すのを堪えながら呟いた。おかしい。私はいつだって真剣に生きているのに、何故いつも笑われてしまうのだろう?
「んー? なんか、ちっこいのが居るじゃん」
「おチビちゃん達何やってんの?」
ちょっとほんわか和んでしまった我々だが、ここは大学の図書館である。中学生が二人並んで高い位置にある本を取ろうと四苦八苦していた姿は、相当目立っていたらしい。
振り向く間もなく背後から低い声音が次々と掛けられて、その中の一人が私や時枝先輩が精一杯背伸びしても全然取れなかった本を、ヒョイと抜き取った。
「これ?」
はい、と、時枝先輩に目的の本を手渡してくれたのは、茶髪にピアスの野郎集団のうちの一人だった。うちの大学は偏差値も高いはずだが、今時の学生はこんなファッションが一般的なのだろうか。
前世の記憶がある分、私の認識はどっか古いのか。見た目は軽薄な彼らだが、年少の子どもが困っているのを見掛け、気負いもなくサッと手助けしてくれる辺り、きっと親切な良い人達なのだろう。笑顔も爽やかだし。
「あ、ありが……」
「こんなとこまで来て、真面目にお勉強なんてエラいねーお嬢ちゃん達。ま、頑張んな」
「ありがとうございました」
茶髪のあんちゃんが、サラッと問題発言をかましながら私と時枝先輩の頭を軽く撫でていくので、私は時枝先輩が怒りに目を見開いている間に慌てて頭を下げてお礼を言った。茶髪の野郎集団は、ヒラヒラと手を振りながら、お隣の書棚に移動していく。
「時枝先輩、ここ図書館」
「……オレはまだ何も言ってない」
「『達』って言ってました。時枝先輩の制服だってズボンです。
きっと、『お嬢ちゃんと少年』の省略形を何気なく発しただけです」
「無理やりフォローしなくても良い」
自分としっかり目を合わせながら『お嬢ちゃん』と呼び掛けられた事にショックを受けているらしき時枝先輩は、せっかくの天使の美貌をぶすくれさせながら手にした本を確認する。
背表紙には、『レポート・論文の書き方』と書かれていた。
「……時枝先輩、これ借りに来たんですか?」
「一応言っておくが、レポートと感想文は全くの別物だぞ。葉山はレポートの書き方を習った事はあるのか」
「言われてみれば、無いです」
確かに、前世でも大学でいきなりレポートを出せと言われて、何が間違っているかも分からず何度も再提出を食らったような記憶がある。
「そうだろう? ちゃんと勉強しておけよ」
ふふん、と得意げに言い放つ。後輩が同調したので、得意になったらしい。
機嫌直るの早いですね、先輩。あと私、習った事はなくても要領はもう一応掴んでるんですが……
「はい、そうします」
あっさりいつもの調子に戻った時枝先輩に素直に頷いて、私は館内を見渡した。
先ほどの茶髪野郎集団の明るい髪色がチラリと視界の端に映る。
……ここに出入りしてたら、そのうちチャラ男先輩も見付かるかなあ?