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本編⑮

 

 先々月から時枝先輩がずっと取り組んでいる抽象画は、ようやく完成に近付いているらしい。

 我らが美術部顧問の先生は、時枝先輩の傍らに立ち、キャンバスを子細に観察している。


「ふ~む。時枝、お前は本当に成長期なんだなあ」

「な、何ですか、急に」


 どちらかというと、普段は騒々しい顧問からしみじみと感嘆され、時枝先輩は絵筆片手に丸椅子に腰掛けたまま、やや引いている。


「この絵、去年の作品とは随分と趣を異にしている。四月にじっくり鑑賞した分には、『ああ、いつもの時枝の絵だな』と思ったものだが……

成長や心境の変化が顕著に表れている辺り、素直なのは変わらないがな」


 ハッハッハ! と、大声で笑う美術教師。先生、もう少しお静かに。今は部活中です。集中が途切れさせられた部長から、殺人的な眼光が飛んできています!

 そして先生、抽象画に浮き彫りにされているらしき時枝先輩の心情が、私にはさっぱり分かりません……気になって仕方がないんですけど。青系統の絵の具が、規則性も無くランダムにキャンバスの上で舞ってる様子から、いったい何が見えるって言うんですか!

 単なる落書きとは絶対に違う、何かこう、時枝先輩の気迫というかカリスマ的な存在感は私にも感じ取れますけど。でも、それだけ。先生には手に取るように伝わってるらしき心情が読み解けなくて、寂しいというか……先輩が遠く感じる。


「なあ時枝。この絵、今年の学展に……って思ってたけどさ」

「はい?」

「いっそ、こっちに応募してみないか? 作品テーマにも沿ってるし」

「……国際絵画コンクール?」


 顧問の先生からプリントをペラリと広げられ、時枝先輩は驚いたように瞬きを繰り返した。


「そー。世界各地の学生が応募してくるんだぞー。燃えるだろ?

しかも応募規定はU―18、即ち十八歳以下で下限は無いから中学生でも可だ」

「それって高校生ばっかり応募してるんじゃ……?」

「挑戦心溢れる若武者は世界に幾らでもいるぞ! 時枝、お前も武士になれ!」

「オレは絵筆より重い物は持ちません」


 ビシッと人差し指を突き付け、意味の分からない無茶ぶりをかます顧問に、明らかに絵筆よりも重たそうな画材道具を頻繁に持ち歩く時枝先輩は、すかさずツッコミを入れてからふっと微笑んだ。


「でも……楽しそうですね?」

「だろう? 技術も力量も表現力も格上の相手と比較されまくって、べこぼこのボロクソに酷評されて玉砕し、一回りも二回りも成長するがいい!」

「あんた本当に、やってる事がガキ大将だなクソアマ」


 乗り気になった時枝先輩に気を良くした顧問が、両手を腰に当ててハーハッハッハ! と高笑いを始めた。ついに立ち上がった部長が私の手からスケッチブックを取り上げて、それを顧問の先生の背後から頭部目掛けてスパコーン! と振り下ろす。


「何をする。痛いじゃないか」

「時枝に発破かけるのは良いが、うるさい。後、一年の部員の作品もちゃんと見てやれ。これは葉山のスケッチブック」


 痛そうに頭頂部をさすりつつ、先生は唇を尖らせて部長に文句を言うが、部長から抗議されて素直にスケッチブックを受け取った。


「む? そうか、すまんすまん。決して時枝を贔屓してる訳じゃないんだぞ葉山!」

「あ、いえ、それは分かってます」

「うむっ」


 ただ時枝先輩が特別枠というか期待の星って存在で、将来は確実にそれを仕事にするであろう熱意を持ち取り組む生徒と、あからさまに趣味の分野でマッタリと楽しんでる生徒へ、先生も対応分けしているだけだよなあ。私に学展へ応募しろ、とか言い出されてもめっちゃ困るだけだし。

 顧問の先生は私の腰掛けている窓辺に寄りかかり、パラパラとスケッチブックを捲っていく。


「ふーむ……よく構図を考えるようになってきてるな、葉山。

時に、このスケッチには人物画が一枚も無いが、葉山は風景画の方を描きたいのか?」

「あー、そういう訳でもないんですけど」

「皆でわいわい描き合うのも楽しいぞ」


 モデルがいないんだよなあ。美術部部員が集中して作品に取り組んでる姿をデッサンしてる人も居るし、他の一年生の子達も先輩方とお互いに向き合って描いたりしてる。

 時枝先輩からも以前、モデルにしても良いって許可は下りたけど……


「文化祭では、美術部は作品を一室に集めずに、校内のあちこちで先生が作品に相応しいと思った場所に飾るからな。

葉山も好きな絵を描いてくれて良いぞ」

「えっ、文化祭って美術室に作品展示じゃないんですか?」


 文化祭って普通、部ごとクラスごとに纏まって一室を利用するものじゃなかった?


「そんな展示じゃ、ハッキリ言ってつまらんだろう。わざわざ足を運ぶのは学生作品を温かい眼差しで見守る、美術品好きな人種だけだ。

せっかくの学生の祭、せっかくの作品、地味な校舎内を華やかに彩る装飾として仕立て上げずにどうする!」

「因みに去年は、時枝の秋っぽい色合いの油絵が昇降口真っ正面にドーンと展示されて、立ち止まって見入る来客と行き交う来客で、無駄に人いきれで大混雑したという逸話がある」

「流石の時枝だな!」

「今年は絶対に、そんな目立つ所は勘弁して下さいよ、先生……」


 ……私、この部に入って本当に良かったんだろうか? 素人作品になんか興味も無い人は、わざわざ美術室に足を運んだりしないと高を括っていたから、文化祭の展示作品も好きなように描く気でいたけど。この調子では、顧問の先生は部員の作品を全て、来訪者の目に留まりやすい場所に配置しそうな気がする。


 顧問の先生からアドバイスを貰ってスケッチブックを返してもらい、私は再び真っ白なページを開いた。

 部長も先生も他の一年生部員の側へ行ってしまい、私が陣取る窓辺付近は比較的静かになる。


「葉山」


 と、時枝先輩が絵筆とパレットを置いて、ちょいちょいと手招きしてきた。


「お呼びですか、先輩?」

「あのさ……この絵、どう思う?」


 スケッチブック片手に時枝先輩の傍らに立つと、先輩は以前問い掛けてきたのと同じ質問をしてきた。私はじっとその絵を見つめるけれど……やっぱり、時枝先輩の成長だの向上といった、絵に込められた精神性の何かは見えない。本当に、全く、何にも分からない。


「色合いとか、綺麗ですよね。

私には抽象画の見方がさっぱり分かりませんけど、何か前に見た時より、使ってる絵の具が全体的に明るいというか……彩度上げました?」

「おう。暗い青よりこっちのがしっくりくるからな。

そっか、印象としては綺麗か……」


 時枝先輩は嬉しそうに笑みを浮かべ、「ありがとな、葉山」と言った。

 ――時枝先輩は、とても綺麗だ。

 その容姿だけではなく、自分自身が何をしたいのか、そしてまた何をするべきかを知っていて、目標に向かって邁進していくその姿は、本当にキラキラしている。そして今日、新しく拓かれた道に向かって迷いなく突き進んで行く時枝先輩は、やる気と自信に漲って、いつになく凛々しい。


 私には、そんな誇れる何かがあるだろうか。改めて自問するまでもない。そう、何もない。

 遠いなあ、と、私は時枝先輩との距離感に、今更ながらにショックを覚えていた。

 この人が、絵画の道での将来を嘱望されている事なんて、そんな事、私はずっと前から知っていたはずなのに。恐らく今まで、本当の意味では実感していなかったのだ。

 物理的な距離なんてものを、心理的に遮るそびえ立つ絶壁。それは、凡人である私が天才へ抱く気後れと、次第に枯れ、萎縮していく心。


 私はただ、先輩へ微笑みと目礼を返して、静かに窓辺に戻る。見下ろす窓からはグラウンドと正門が見通せ、昼間には晴れていた空には暗雲が漂い始めていた。雨の気配が忍び寄ってきている。


 コンクールで時枝先輩の絵がどんな評価を受けたとしても、私はやっぱり、その時にだって先輩へ何も言う事は出来ないのだろう。

 凡人は二度失恋する、か。

 執着心が強くてしつこいらしい椿にーちゃんが聞いたら、きっと『ミィちゃん、いくらなんでも諦めるの早すぎ!』とかなんとか、言うんだろうなあ。


 地下から眺めた輝く宝石の優美さに勝手に一人で盛り上がって、近付いて取りに行こうと一生懸命地上に這い上がってみたら、それは夜空で静かに輝く月だった。

 宇宙へ行くどころか翼さえ持たない私では、トボトボと歩いて辿り着いた泉に映り込むそれに手を伸ばそうとも、乱れかき消されるばかりの水面に、ただ……

 いっそ私に、月の泉に溺れるほどの意思の強さがあれば、きっとそれは苦しくも幸せな夢が見られたのだろう。



 私が住む街にも、梅雨の季節が来訪した。

 しとしとと、静かに地上へと降りてくる雨はまるで、世界を徐々に地味で薄暗い灰色の空間へ染めていこうとしているようだ。


 今日は、椿にーちゃんとお出掛けの約束を交わした週末。

 今回も利用する乗り物は電車であり、毎度にーちゃんに私の家に迎えに来てもらうよりも、駅により近いにーちゃんの部屋に私が迎えに行った方が明らかに手間が少ない。という訳で今回のお出掛け時間は朝の九時という、にーちゃんの時間感覚体感的に早朝を通り越してもはや明け方に近い時間帯にて、私が迎えに行くという約束を取り付けたのである。ごり押ししたら、椿にーちゃんは「起きれるかな俺……」とか呟いていた。


「じゃあ、お父さん。今日は椿センセーと紫陽花を見に行ってくるから」

「うん。美鈴、くれぐれも車や足下には十分気を付けるんだよ? 雨の日は事故が増えるから」

「はーい。お父さんこそ、出張頑張ってね」

「ううっ、こんな雨の中行きたくないなあ……」


 玄関先にて、防水スプレーを掛けまくった靴を履き、濃いピンク色のレインコートを羽織って傘を手に取る私の背後から、父が心配そうに声をかけてくる。

 父は今日から開かれるゲームのイベント大会? 発表会? よく分からなかったが、とにかく今日の午後には東京の会場に向かわなくてはならないそうで、帰宅は明日の夜か、明後日の朝になるらしい。

 まあ中年は仕事の準備に追われていたので、またしても気合い満タンお重を用意されなかったのは幸いだ。アレは重い。文字通り重い。


「じゃあ、行ってきまーす」

「行ってらっしゃい」


 貴重品はレインコートの下のウェストポーチに詰め、部活動用のカバンだけ肩に掛けた私は、身軽さに足取りも軽く玄関を出た。サーッと降り続ける雨がカーテンのように視界を覆い、早くも足が重くなったけど。


 傘を差して雨道を歩き、椿にーちゃんが住んでるマンションのエントランスに入る。

 ……玄関マットで靴裏の泥汚れは取られるけど、濡れた傘ってこのまま持ち込んでも良いのかな? と、困惑しながら見渡すと、前回見掛けたコンシェルジュさんと目があった。


「いらっしゃいませ、お嬢様。何かお困り事がございましたら、わたくしが承ります」

「あっと……濡れた傘って、どうしたら良いですか?」

「それでしたら、こちらに傘立てをご用意させて頂いております。どうぞ、ご利用下さいませ」


 誰も傘を立てかけていないのと、景観に溶け込んでいるせいで全く意識に入ってこなかった傘立てが、自動ドアの脇にひっそりと置かれているのに、コンシェルジュさんが手で示してくれた事でようやく気が付いた。

 コンシェルジュさんへお礼を言って傘立てに傘を立てかけて、私は住人呼び出し用のインターホンに歩み寄った。部屋番号を入力して、椿にーちゃんの応答を待つ。

 数呼吸置いても、心の中で「おーい」と話し掛けても出てこない。

 更に待つ。


 ……出ないし。


「えっと……ちょっと早かったかな?」


 ウェストポーチから取り出したスマホが示す現在時刻は、午前八時四十分。迎えに行くと約束した時間より、二十分早い。椿にーちゃん、もしかして今、身支度中?

 一応念の為、来訪のお知らせ代わりに椿にーちゃんの番号に掛けてみる。

 幾度かコール音が繰り返されて、そろそろ自動留守電に切り替わるか、と思われるタイミングで、電話が繋がった。


「……ん……もしもし……?」


 いかにもついさっき目が覚めたばかり、と思われる、寝起き特有の掠れた低い声が通話口から流れてくる。


「椿にーちゃんおはよー。迎えに来たよ、下りて来れる?」

「……ミィちゃん……んー、ちょっと待ってね……?」


 電話越しに、もぞもぞ身動きをする音やらどこかにぶつかったらしき、『ドカッ』とか『ズルズル』などという謎の物音が時折挟まる。にーちゃん大丈夫か。

 何となく、通話越しには寝息っぽい息遣いが耳に届き始めて不安になった頃、何かにぶつかるような物音と共に、通話はブツッと途切れた。


「に、ににに、にーちゃん!?」


 スマホから漏れ出てくる通話終了の音を消し、慌ててリダイヤルを掛けてみるが、留守電に切り替わるばかりで応答が無い。


「こ、コンシェルジュさ~ん!」


 何があったかは分からないが、椿にーちゃんがどっかで行き倒れてしまっている予感が、ひしひしとする。自宅マンションにて行き倒れ事件だなんて何かがおかしい気もするが、あの椿にーちゃんはなにがしかの事件を引き起こしかねないあんちゃんである。


「どうなされました? お嬢様」

「十五階の石動が、自分の部屋らしき場所で電話に出てくれたんですけど、何かにぶつかったような物音がして、急に電話が切れて繋がらないんですっ」

「落ち着いて下さい。……現在エレベーターが丁度作動中で、十五階から呼び出されて降りている最中ですね」


 混乱のあまりカウンターに飛び付き、コンシェルジュさんに現状を伝えると、仕事人はこちらからは見えない画面かパネルを操作して、確認を取ったようだった。


「エレベーターを利用中の方は、石動様のみのようですが……床に座り込んでいらっしゃいますね。石動様が何らかの持病を患っているとは、聞いておりませんでしたが……」


 えっ、コンシェルジュさんのカウンターって、その気になれば防犯カメラの映像とか見れるの? いや、それはとにかく!


「すぐ降りてくるんですよね?

私、自動ドアの前で待ち構えてますっ」

「急患に備えてすぐに救急車の手配が可能なように、待機しております。万一の際はお声掛け下さい」


 ハラハラしながらエレベーターが開くのを待っている事数分。ようやくエレベーターが一階に到着。ガーッとドアが開き、そこに上半身をもたれていたらしき椿にーちゃんがドサリと倒れ込んだ。

 えっ、何このホラー的展開!?


「にーちゃん! にーちゃん!?」


 倒れ込んだ椿にーちゃんに駆け寄りたいのに、エレベーター前の透明な自動ドアが非常に邪魔だ。両手でバンバンと叩いて呼び掛けるが、椿にーちゃんはピクリとも動かない。いっそガラスを割り破ってやろうかと拳を握る。

 私がそれを振りかぶるよりも早く、エレベーターのドアが時間経過で勝手に閉まろうとし、椿にーちゃんの胴体を挟みかけて事故防止の為に再びスーッと開く……という、『この異物、邪魔っ!』運動を始めた。その刺激からか、投げ出されていた椿にーちゃんの指先がピクリと反応を示す。


 私は今度こそガラスを割る覚悟で拳を振り上げ、全力で振り下ろした。しかしその拳は自動ドアが開かれた事によって目標を失い、私は数歩たたらを踏む。

 ……あれ、もしかして、この自動ドアってコンシェルジュさんも開けられるとか?

 今はそんな事よりも、椿にーちゃんの容態を確認するのが先だ。もしかしたら、持病の猫アレルギーが不意打ちで発症した可能性だってあるのだから!


「にーちゃん!」

「……」


 駆け寄り、触れた椿にーちゃんは。

 とっても健やかな寝息を立てて、爆睡していた。固い床の上でも眠れるらしい。

 冷静に見たら椿にーちゃん、エメラルドグリーンのパジャマ姿だし。いつも綺麗に梳かれ整えられている艶々な髪の毛は乱れまくってるし。明らかに、半分眠ったまま部屋を出て来たでしょ、にーちゃん!


「お嬢様、石動様のお身体は……?」


 微動だにしない私をどう思ったのか、背後からコンシェルジュさんの気懸かりそうな声が聞こえてくる。

 私は、クルリと振り返って深々と頭を下げた。


「大騒ぎしてすみませんっ! 椿にーちゃん、ただ寝落ちしただけだったみたいです!

この人、激烈寝起き悪い低血圧なんです!」

「急病では無かったようで、安心致しました」


 恥を曝した私に不機嫌さを見せるでもなく、にこっと微笑んでそう答えるコンシェルジュさん。私自身はこのマンションの住人じゃないのにお手を煩わせてしまって、いたたまれない……


「ほらにーちゃん、いつまでも床で寝てちゃダメでしょ?」


 グイグイと肩の辺りを持ち上げて、せめておんぶしようと全力を出すのだが、デカいにーちゃんは体重もかなりあるようで、私の腕力ではちっとも持ち上がらない。


「ミィちゃん、俺まだ眠い……」

「今日はお出掛けの約束したんだから、ちゃんと起きなきゃダメ。ほら、支度しに行こ?」

「うん……」


 半分寝ぼけ眼ではあったが、揺さぶっていたら何とか意識が浮上してきたらしい。うちの中年と似たような文句を寄越してくるが、私が理不尽な理由で叩き起こしている、かのような言い草はキミ達止めてくれまいか。椿にーちゃんはむくりと起き上がって、フラッとした動きでエレベーターに乗り込む。私も後から付いて行くと、エレベーターのドアが閉まるなり椿にーちゃんがこちらに倒れ込んできた。

 とてもじゃないけどこのデカいあんちゃんの体重を私では支えきれなくて、ズルズルと床に座り込んでしまった。

 何てこと。お重の呪いからは運良く逃れられたけど、今度はお椿の押し潰しの罠か!

 それにもしかすると、守衛さん的存在だけじゃなく、コンシェルジュさんも心配して映像確認してるかもしれないから止めてにーちゃん、恥の上塗りになっちゃう!


「ミィちゃんって温かいよね……こうやってると、すごーく寝心地良いんだ……」

「私は抱き枕かっ!

ちょっ、にーちゃん重いって」

「み……り……早く毎晩抱っこに戻りたいよ……」


 椿にーちゃんももう子どもじゃないんだから、毎晩抱っこって……いや、にーちゃんに買ってもらったぬいぐるみを、ほぼ毎晩抱いて寝てる私が言うのもアレだけど。抱き枕に丁度良いサイズなんだい。

 しかし、もしかしてにーちゃんも寝心地の良い抱き枕が欲しいのか?

 のしかかってくる椿にーちゃんの背中を、軽くぽんぽんと叩いてあやしてやる私の視界の片隅で、見覚えのあるストラップが目に映った。私のスマホに付けてるのと色違いのストラップが付いたスマホ。にーちゃん、寝ボケてエレベーターの中に落っことしてたのか。


 私が押し潰されて平べったくなる前にエレベーターは十五階に到着し、椿にーちゃんをせき立てて何とか風呂場に押し込んでシャワーに向かわせ、私自身は拾っておいたにーちゃんのスマホをテーブルに置き、キッチンに陣取った。

 ……本当に、エレベーターから部屋に連れ込むまでが一苦労だった。何せ、椿にーちゃんは一歩踏み出すたびにフラフラとよろめき、腕とか肩とか壁や柱にぶつけても半ば意識朦朧状態で、はっきりとは目を覚まさないのだ。

 本人の口から聞いてはいたけど、この低血圧男、マジでヤバくないか。あの嘉月さん以上に寝ボケ癖が危なっかしい人が居るだなんて、思いもしなかったよ。椿にーちゃんって普段はしっかりしてるだけに……これは無理に起こすよりも、ちゃんと目が覚めるまで安全面を考慮して寝かせておいた方が良い、って判断するかもなあ。


 しかしあの調子では、本気でついさっきまで寝入っていて、朝食さえ取っていないに違いない。まあ、本人普段から朝は食べない派とか言ってたけど。

 しかしそうなると、椿にーちゃんって小さい頃から喫茶店モーニングとか行かなかったのかな? 愛知県では大抵の家庭で習慣付いてるもんだと思ってたけど。


 ひとまず、口当たりの良いスープとあり合わせの野菜で簡単なサラダ、トーストの用意を調えていると、やがてお風呂場の方からドタバタと騒々しい物音が聞こえてきた。

 バンッ! と、勢い良くドアが開かれる。


「椿にーちゃん、おは……」


 振り向いて笑顔で口にしようとした挨拶は、途中で詰まって固まってしまった。


「……うわっ、夢じゃなかった……!

最悪だ……何やらかしてんだ馬鹿か俺……」


 キッチンで朝ご飯の用意をしている私の姿を認めるなり、片手で顔面を覆いつつ、ドアに側頭部をぶつけて低く呻く椿にーちゃん。どうやら、ようやっと寝ぼけ眼平衡感覚狂い状態を脱し、まだ眠たげだけど概ね平常運転に移行したようだ。多分。

 それは、実に、良かったのだがっ。


「椿にーちゃんっ、何で素っ裸で出てくるの!?」

「え? 腰にタオル巻いてるし。俺としては、ミィちゃんが夢だったかどうか確認するのが最優先で……」

「良いからちゃんと服着てっ!」


 椿にーちゃんからは視線を外しつつ、何か抗議めいた台詞を遮って、全力で怒鳴った。

 うちの中年は自宅裸族とか風呂上がり裸族とか、その手の習慣を持たないタイプだったので、まさか本当に風呂上がりに裸同然の格好で自宅内をうろつく人が居たとは……衝撃である。

 すぐに視線は外したからよく見ていないけれど、髪だけじゃなく身体もまだ濡れていなかったか? ちゃんと拭かないと、風邪ひいちゃうんだからね。

 それにしても、彫刻や絵画のモチーフとかで裸なのはたまにあるし、見慣れてるけど、実物はこんなにびっくりするもんなんだな。心臓が口から飛び出すかと思ったよ。


「はい、すぐに着てきまーす。

うーん、これくらいで真っ赤になるとかウブで可愛いなあもう」

「にーちゃん、聞こえてる!」

「ごめんごめん」


 自分の部屋に引き返しつつの、からかい交じりでこれ見よがしな呟きに不満をぶつけると、笑いを含んだ姿無き謝罪が返ってはくる。しかしそこに謝意は欠片も感じられない。むしろ、非常に楽しそうだ。

 椿にーちゃんがすぐに服を着てキッチンに戻ってくるまで、私は紅茶を淹れ、膨れっ面でテーブルに座って待っていた。ううっ、心臓がまだバクバクいってる……


「お待たせ、ミィちゃん」


 再びキッチンに現れた椿にーちゃんは今度はきちっと服を着込み、防水加工素材らしき畳んだスプリングコートとデジタルカメラを片手に、髪の毛も艶々サラサラな、いつもの無駄にイケメンなあんちゃんになっていた。

 ついさっきまでの、寝ぼけ眼でボサボサショボショボ残念っぷりから、爽やかイケメンへの変身所要時間、めっちゃ短っ。これ、ちょっとした詐欺レベルじゃないか?

 服って本当に、偉大な発明品だったんだなあ。しかし毎回毎回、うちの中年に着せても似合わなさそうだが、それでもこの人のファッションセンスには羨望の念が……


「改めて、おはよう椿にーちゃん」

「うん、おはよ、ミィちゃん」


 椿にーちゃんはカメラを置いてコートを椅子の背にパサッと掛け、軽い足取りでテーブルを回り込んで来ると、座っている私の肩と頭の後ろに腕を回し、屈み込んで……えーと、頭上の出来事だから何やってんだか見えなくて正確には分からないけど、顔近付けて人の頭の匂いを嗅いでいませんか、にーちゃん。にーちゃんの方は、風呂上がりでボディーソープの良い匂いがしますね。


「勝手にキッチン借りちゃったけど……」

「聞かれてもどーせ俺寝ぼけてたし、起きててもまず許可出すし。良いよ良いよ。それどころか、ご飯作ってくれたなんて嬉しい」


 勝手にキッチンに入り込んで、食器やら食材を無断使用する私を気にした様子もなく、私を解放して向かい側に座り、いただきます、と両手を合わせてからスープを掬って口に運んだ椿にーちゃんは、口に合ったのか一気に飲み干してお代わりを要求してきた。焼き上げたばかりのトーストをお皿に移して椿にーちゃんに差し出し、代わりに空のスープカップを受け取って鍋からスープを注いでやる。


「うわっ、もう九時過ぎてるし……」


 そして椿にーちゃんはトーストにイチゴジャムを塗りつつ、テーブルの上に置かれていた自分のスマホをチラリと見やり、現在時刻を確認して呻いた。


「寝坊しちゃってごめん、ミィちゃん。でも俺、今日のデートに気が乗らなくて朝に起きれなかった訳じゃなくて、心の底から楽しみにしてたんだ」

「うん、その辺は分かってる。

にーちゃん寝ぼけてフラフラなくせに、私の電話一本であちこちぶつかりながら下りて来たし」


 あと、そのいそいそと持ち出してきたカメラと、玄関先にレインブーツと傘がやる気満々で準備されてたのを見れば、意気込みはちゃんと伝わってくるよ。

 お代わりをよそってやったカップを椿にーちゃんの前に置き、私はまたストンと椅子に座って紅茶のカップを両手で持ち上げる。


「にーちゃんって、ホンットにめっちゃくちゃ朝弱いんだね。今までよくぞ事故に遭わなかったよ」

「ははは……寝起きは一人じゃ表を歩けない」


 うん、何でこんな性格もそう悪くないイケメンが、片思い中の皐月さんを心のマドンナに、それはそれとして遊び半分での女の影が無いのか、不思議だったけど。夜の顔とは一夜明けたら180°大転換な、あのヘロヘロぐでぐでな低血圧っぷりに、愛想尽かされたとかか?



 朝食を終えて部屋を出、やや心配そうな眼差しを送ってくるコンシェルジュさんにぺこりと頭を下げ、私達はマンションを出て雨にけぶる街へと繰り出した。今日は私もちゃんと傘を持っているのに、「俺の傘おっきいから、ミィちゃん一人ぐらい余裕余裕」とか言って、私を自分の傘の下に引き込む椿にーちゃん。いや、楽で良いけど。

 駅までの道のりをのんびりと歩いて電車に乗り込み、窓を打つ雨粒越しに景色を眺める。


 本日のお出掛け先は愛知県蒲郡市、形原温泉あじさいの里。漢字で見た時、多分初見でがまごおり、って読むのは難しいと思うんだが、愛知県ってさり気にそんな地域名多くないか? 常滑 (とこなめ)とかさ。

 南の三河湾に接する地で、今日のご飯は海鮮の美味しい料理を出してくれる所に行くらしい。楽しみ。


「ところでミィちゃん、このカバンって、学校に行く時たまに肩に掛けてるよね? 何が入ってるの?」


 私の大きなカバンを頭上の荷物置きに置いてくれた上で、今日も車内に並ぶ座席が一方向を向いている為、当たり前のように私の隣に座った椿にーちゃんは、不思議そうにそれを見やった。


「部活用具。スケッチブックとか、絵の具とか筆、色鉛筆とか色々。

今日は紫陽花が綺麗な場所に行くんだし、もしかしたらどっかでスケッチ出来るかなあ……って思って。ちょっと時間取っても良い?」

「うん、もちろん良いよ。今日はミィちゃんに、雨の日のお出掛けを楽しんでもらうのが主目的だからね」

「……にーちゃん。また、雨好きになったの?」

「うん、大好き!」


 つい昨日も、雨の中フェンス越しに私からお弁当受け取りながら、「毎日毎日、雨雨雨……いい加減晴れろー」とか言ってたのに。要は、平日の雨が嫌いだけど、休日の雨は好きって事?


「さて問題です。雨は英語で何ですか?」


 いきなり家庭教師モードになった椿にーちゃんが、人差し指を立てて私の顔を覗き込みつつ、そんな問題を出してきた。

 よろしい、それほどまでにこの私のミラクル発音を聞きたいというのならば、聞かせてしんぜよう。


「れいんー」

「電車は?」

「とれいんー」

「虹は?」

「れいんぼー」

「雨合羽は?」

「れいんこーと」


 この兄さん、どんだけ人に「れいんれいん」言わせる気だ?


「集団の中で、先頭に立ち指揮をとる人物と言えば?」


 こっ、この流れはつまり!


「ぶ、ぶれいん?」

「ミィちゃん……やっぱり発音の練習も必要だね」


 先生、私の発音がミラクルなのは今に始まった事じゃないです。答えが合ってるのか間違っているのか、は教えて下さらんのですか。



 さして揺られてはいませんが、慣用句として電車で揺られ揺られて蒲郡駅に到着。

 雨が降りしきる中、私のカバンを「ずっと持ってたら重いでしょ?」と肩にヒョイと掛けたにーちゃんと一緒に、南口から直行バスに乗り込みあじさい祭り会場へ。毎度お馴染み、この施設も入場料は中学生以下無料なので、気兼ねせずに済む。


「おお~……」


 椿にーちゃんと一緒に正面ゲートをくぐった私は、思わず感嘆の溜め息を零していた。

 まず、真っ正面にあるのは朱塗りの欄干と中央部が盛り上がりアーチを描く、いわゆる太鼓橋。その向こう、山の斜面一面を埋め尽くす紫陽花が雨の中でも色鮮やかに出迎えてくれる。

 遊歩道には一定間隔で外灯が立っていて、そう言えばここは夜間にはライトアップされるのだったか。


「へー、想像してた以上に広そうだし、綺麗だねミィちゃん」

「うん!」


 濃い紺色の傘を差す椿にーちゃんと手を繋いで橋を渡りながら、力強く同意していた。私は正直、紫陽花がたくさんある風景、というものを侮っていたようである。

 遠くから眺めるには圧倒的な色彩の迫力、近くでまじまじと鑑賞すれば花びらにツヤツヤと輝く雨粒を宝石のようにたたえた、品の良い佇まい。


「ここのあじさいの里は、二十種類以上約五万株の紫陽花が植えられているんだって」

「ごまん……見渡す限り、これ全部紫陽花なんだよね? 敷地も広いもんねえ」

「ミィちゃん、ツーショット撮ろ?」


 屈んで紫陽花を鑑賞している私の隣にしゃがみ込み、私の頬に自分の頬がくっ付くぐらい近付けて紫陽花をバックにカメラを構える椿にーちゃん。私は傘が邪魔にならないよう、にーちゃんの手からヒョイと傘の柄を取り上げて、身体に雨がかからない程度に少し遠ざける。


「おお、我ながらナイスな一枚」


 デジカメの画像を確認した椿にーちゃんが、満足そうに頷く。私も見せてもらったが、映っているにーちゃんの方はめっちゃキラキラした笑顔である。バックの紫陽花も非常に美しい。そして私の方は、にーちゃんにべったり引っ付かれて笑顔が微妙に引きつっていた。写真は正直だ。

 満面の……とは言い難いけれど、笑顔でカメラに収まり、私達は続いてなだらかな斜面の、両脇を紫陽花で彩られた階段を上っていく。


「濡れてるから、足下には注意してね?」

「はーい」


 椿にーちゃん曰く、この階段が設置されている高台は紫陽花の小丘。私にとっては紫陽花の山肌。そういう場所である。短足もやしに多くを求めてはいけない。


「紫陽花って、みんな四つ葉のクローバーみたいな花びらが丸いボール形に集まってる花だと思ってたけど、違うんだね」

「そっちの方が街中ではよく見るけど、そのホンアジサイってヨーロッパで品種改良された方なんだって」


 椿にーちゃんに手を引かれ、山の斜面をえっちらおっちら私のペースで登りつつ、周囲の紫陽花を眺めて私はふと気が付いた事を話してみると、椿にーちゃんが詳しく教えてくれた。にーちゃんってけっこう物知りだなあ。


「昔から日本に存在してるのはガクアジサイの方らしいよ」


 ……平べったくて大き目の花が一重ぐらいに取り巻いてて、真ん中に円形でぶつぶつした小さな花が集まって咲いているやつが、ガクアジサイというらしい。

 ガクアジサイ、綺麗だなあ。中心部の小さいブツブツがちょっと濃いめの紫紺で、ほんのり紫色づいた白い花びらが周囲を取り巻いてるアジサイなんて、初めて見たけど。私、ご近所でよく見掛けるホンアジサイ系よりも、こっちのガクアジサイの方が好きかも。


 さて、自分のペースでとはいえ、山 (だろう、どう見ても)の斜面にある階段を文化部のもやしたる私が登りきるには、いささか体力が足りない。とにかく広いんだ、このあじさいの里。


「……ミィちゃん、あの四阿とかで、そろそろお昼ご飯にしない?

ほら、スケッチブック広げるにしても、今日は雨だし屋根がある場所じゃないと困るしさ」

「うん、座る~」


 中腹にある池の周囲の紫陽花を眺めつつ、ぜーぜーと早くも少々息が乱れ始めてきた私を慮り、椿にーちゃんは視界の端に映る四阿を指差しつつ、そちらでの休憩を提案してきた。

 とても広々とした池のほとりに立つ四阿は、ゆっくりと一休みしながら紫陽花を眺めるのに丁度良さそうだ。私は一も二もなく飛び付く。


「じゃあ、お茶とお弁当買ってきてあげるから、ここで座って待っててね」

「はーい」


 四阿の椅子に腰掛ける私の頭を一撫でし、椿にーちゃんは雨の中近くの出店に走って行った。ううむ、私と違って体力のある御仁だ。

 四阿から見える斜面の紫陽花は、椿にーちゃんと軽いお昼を頂きつつ眺める事として、私は反対側の池をじっくりと覗き込んでみた。水面は雨に打たれてよく見えないが、正面ゲートの係員の方によると、この池には灰色や黒ではない、色鮮やかな鯉がいるらしいのだ。今日は雨だし、私は鯉の餌を持っている訳でも無いので呼び集められそうにないけれど。


「後はー、紫陽花ガーデンと蛍の宿、だっけ」


 あじさいの里の見所を指折り数える。ここのメインは紫陽花なのだが、蛍も飼育していて、夜間にはほんのりとその身を光らせる蛍が舞う光景が見られるかもしれない。とはいえ、私達はそんなに遅い時間まで滞在しないしなー。蛍はすんごく見てみたいけど。


「お待たせ、ミィちゃん。

夕食は豪華にいく予定だから、軽いお昼にしてみたけど……これで足りるかな?」

「うんっ。にーちゃんありがとー」


 池に視線を凝らしてる間に、にーちゃんが早くも戻ってきた。今日のお昼は、お稲荷さんのセットだ。こういう公園で頂くお弁当って、なんかすんごく美味しく感じるんだよね。

 椿にーちゃんと並んで、雨の中でキラキラと輝く紫陽花の花々を愛でつつ、お喋りをしながらお昼ご飯を頂く。

 ご飯を食べ終わってから、私は早速スケッチブックを広げた。


「もうすぐ文化祭があるんだけど、私、何の絵を提出するかまだ決めてないんだよね」

「文化祭……って、俺の時は十月だった気がするけど」

「今年も十月だよ。ただね、作品の製作期間としては、テーマ決めて取り掛かって……って考えると、残り4ヶ月はちょっと短い」

「あー、絵画だもんね」


 四阿の椅子の背凭れに上半身を軽く捻って腕を置き、その手の甲に頬を寄せて体重を預け、嫌味なほど長いスラッとした足を組んでのんびりと寛いでいる椿にーちゃんは、得心がいったように頷いた。


「今日は紫陽花が凄く綺麗で感動したし、紫陽花を描いて提出しようかなあ」

「秋の文化祭に?」

「きっ、季節外れでも良いじゃない。今はコスモスも咲いてなければ、紅葉する葉っぱは緑色なんだもん。写真とかより実物見て描きたいし」


 スケッチブックにざっかざっかと鉛筆を走らせてイメージを固めつつ、私は不満から頬を膨らませた。そんな私のぷくっとした頬を、椿にーちゃんがクスクスと笑い混じりに指先で軽くちょんちょんとつついてくる。

 指が引っ込んだかと思えば、今度はカメラのシャッターを切る音がして、そちらを振り向くと椿にーちゃんが私に向かってカメラを構えていた。


「はーい、ミィちゃん笑って笑って」

「椿にーちゃん、今、私の承諾なく不意打ちで写真撮ったよね? それ、隠し撮りって言わない?」

「隠し撮りとはコソコソと隠れて写真を撮る犯罪で、俺は今、こうして堂々とミィちゃんにカメラを向けているから、敢えて言うなら現し撮り」

「そんな単語無いよー」


 訳の分からん屁理屈をこねられ、スケッチブックを抱えたまま吹き出す私をカシャカシャと撮る椿にーちゃん。にーちゃんはカメコさんかい。


「そっちがその気なら、私だって椿にーちゃんを描いちゃうぞ」


 私が身体の向きを変えて椿にーちゃんをじっくり観察し始めると、にーちゃんは気のせいか表情を輝かせた。


「ミィちゃん俺の事描いてくれるの?

あ、それじゃあ俺、服脱いだ方が良いのかな? ああでも、こんな屋外だと流石に、ヌードは心の準備が……」

「脱がんでいい、脱がんで」


 腰掛けたまま両腕を自らの身体に回し、やや照れ臭そうに視線を泳がせながら世迷い事をのたまうにーちゃんに、低く鋭くツッコミを入れた。私は猥褻物陳列罪で捕まりたくない。


「えー。ミィちゃんが描く芸術の為なら、俺は文字通り一肌脱ぐのに」

「こんな日に薄着したら、風邪ひくよにーちゃん」


 服はともかく、好きな体勢で自由に休息をとってもらいつつ、私は椿にーちゃんのデッサンを描いていく。いやあ、紫陽花に囲まれた四阿で寛ぐイケメン……実に絵になるわ。


 私が鉛筆を走らせる音さえ雨音に吸い込まれる、そんな静寂がしばし四阿に満ちていたのだが、不意にポツンと椿にーちゃんが唇を開いた。


「こうして二人きりで、のんびりしてるとさ」

「んー?」


 背凭れに腕を投げ出し、もう片方の手にはお茶のペットボトルを口元に運んでいたにーちゃんは、手元に視線を落としたまま、独り言のように呟く。


「たまに凄く、俺を思い出してもらえない事が寂しくなるけど、でも同時に、こうして忘れたままでいて欲しい、っていうのも本心には違いなくて……」


 煮え切らない言葉に、私は瞬いてスケッチブックから顔を上げ、椿にーちゃんの顔をまじまじと覗き込んだ。


「椿にーちゃん、私、何かにーちゃんとの約束、忘れてる事なんかあった?」


 一緒に出掛けよう、とか、お弁当作って、とか、とくに忘れたりなんてしてないよなあ。今日のお出掛けでは……現地調達で私はお弁当を用意してこなくても良い、って計画だったし。

 椿にーちゃんは柔らかい笑みを浮かべて、私の頭にポンと手を乗せた。


「何も。美鈴ちゃんと俺が交わした約束を、忘れたりなんてしてないよ」


 ぐりぐり、と、湿気でパンクしてやいないか心配な私の髪の毛を、椿にーちゃんは撫で回していく。


「雨だからなー。ちょっと俺、感傷的になっちゃった」


 そして、私の頭からパッと手を離し、明るく笑いながらそう言ってグビグビとお茶を飲む。

 椿にーちゃんがいつものあんちゃんに戻る前、私の頭を撫で回している間に微かに小さく呟いた言葉は、殆ど無意識だったのか。そう、多分私には聞こえていないと思っているんじゃないだろうか。


 ――だからミィちゃん、いっそずっと思い出さないで。


 そう呟いた時に椿にーちゃんが少しの間浮かべた表情は、以前見た事がある。あの夜、私が不用意で無思慮だった故にそんな顔をさせてしまった。静かで寂しそうなそれを。

 こちらの胸までひどく痛むのに、何故、またそうさせてしまったのかが全く分からない。


 私は、何を忘れていると言うのだろう?



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