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本編⑭

 

 目覚ましが鳴るより先に目が覚めた。

 上掛けをもぞもぞと手繰り寄せながら上半身を起こして勢い良くカーテンをシャッと開き、窓越しに朝靄漂う明け方の景色を眺め、小鳥達の囀りを耳に私はううむと小さく唸った。まだ眠気があるので二度寝は可能だが、せっかく早起きしたので今日学校に持参するお弁当の仕上げを余裕を持って行う事も出来る。


「……起きよ」


 二度寝して遅刻寸前の危機を懸念し、私はもぞもぞとベッドから起き出して制服に着替え、通学カバンと部活動用のカバンを手に階下に下りて、キッチンダイニングに向かう。お父さんはまだ眠っているようだ。

 エプロンを身に着け、昨夜の間に下拵えをしておいたブロッコリーフィーバーなおかずを仕上げてゆく。

 それにしても、椿にーちゃんの唐揚げコールはなんとかならんものか。いや、頼まれれば作るし、昨夜揚げておいたけども。てゆか、フードプロセッサーで刻みまくったブロッコリーを餡にたっぷり混ぜた唐揚げって、果たして美味いのか? 味見してないからその辺は知らない。

 お弁当を作り終わって時計を見ると、現在時刻は午前六時。お父さんや私が家を出る予定時間まで、まだまだ時間がある。そして父は、まだ眠っている。


 用意したお弁当をテーブルの上に起き、食パンにオーロラソースを塗り、とろけるチーズを乗せてトースターで軽く焼き、ベーコンを炒めて半熟玉子を焼く。サラダは適当に残り物の野菜をカットしてミニトマトとコーンを散らし、甘味のあるローストナッツの生ドレッシングを振り掛ける。父の分は……今焼くと起き出してきた頃には冷めていそうなので、サラダだけ用意しておく。


「うーん、久しぶりにアレを確認するか」


 腹が減ったので父を待たずにさっさと朝食を平らげ、柱時計を確認した私はぼそりと呟いた。朝のニュースを見ながら朝食を終えても、まだ時間が余っていたのだ。


 自室に戻った私は机に向かい、ブックスタンドの下にさり気なく隠しておいた秘密のノートを取り出し、パラパラと眺める。

 例の、前世の記憶にあるヤバい同人乙女ゲームの情報を記しておいたノートだが、私は片肘を突いて考え込む。

 前世云々の話は、真偽を調べる手段も分からんのでひとまず置いておいて。


「……無意識のうちに現実と符合する部分を当てはめた、デジャヴって可能性とかあるのかな?」


 仮説を立てていく上で揺るがしがたい原点は、『私が知り得るはずのない人物の情報や未来の状況を幼少期に思い出した』である。これだけはなんのかんの言っても事実なのだ。


 私が今世の現実を、前世でプレイした乙女ゲームの世界だと記憶を思い出し確信を抱いたのは……皐月さんと幼馴染み君のとある光景を目撃したからである。だが冷静に思い返してみると、二人揃ってすっ転び覆い被さるような体勢には、『ゲームイベントでなければ有り得ない出来事だ!』と断言出来る説得力は無い。

 子どもは駆け回って転ぶものだし、当時、皐月さん本人も桜に見惚れて足下への注意が疎かになっていた、という主旨の弁解をしていた気がするが、ゲームイベント通りに更にその場で幼馴染み君からベタベタ触られたのだとすると、当時の皐月さんの態度はあまりにもあっさりし過ぎていた。実際に起きたのは事故キスだけで、そういった下心満載事実は無かった、と考える方が無難かもしれない。会った事もない幼馴染みのあっ君さんごめんなさい、私はあなたを誤解していたかもしれません。


 攻略対象どころか登場人物の名前や顔も曖昧な中で、合致すると思しき場面を目撃し、現在私を取り巻く現実を関連、紐付けし、認識を固めていったのだとしたら、どうなるのだろう。

 『ここは前世で遊んだ乙女ゲームの世界だ!』と考えるよりも、ただ単に前世の記憶に翻弄された幼少期の私が、『あれとこれそっくりだから、きっと同じだ!』と、様々に早合点しただけ、という可能性の方が、よっぽど現実的ではないか。前世の記憶、というものが非現実的だけど。

 ヒロインのサポート役のお隣の女の子の名前が『葉山美鈴』だった、という記憶も、私が今の自分の名前の印象が強く、それを勝手に混同し記憶を捏造しただけで、実はまるきり違う物だったという可能性も……


「登場人物の名前も顔も覚えてない、何となく『それらしい』状況だったから、自分でそうだと思い込んでただけ?」


 例えば私に年の離れた兄が居たら、ご近所に住む女の子が『サポート役』で自分こそが『ヤバゲーヒロイン』だと思い込んだという可能性もなきしにもあらず……


「椿にーちゃんみたいな大学生や、柴田センセみたいな准教授はともかく。時枝先輩みたいな人が、同じ中学の美術部に狙いすましたように在籍してるとか、皐月さんが附属の大学に舞い戻ってきてお隣へお兄さんと住み始めるとか……偶然が重なったにしては、無理があるような」


 『乙女ゲームの知識』として、未来に起こり得る事象として事前に予測していたなど、前世云々の乙女ゲームに今世は転生したのだという認識が、単なる私の思い込み妄想デジャヴだとすれば、解明出来る説が全く思い浮かばない。

 ……やっぱり、ここは前世で遊んだ乙女ゲームの世界です、って捉えてる方が矛盾が無いんだよなあ。


 いや、そうか。違うな、矛盾が生まれない仮説を思い付いた。

 私は本当は、未来予知能力者だったんだ。私が前世の記憶だと思っているものは実は全て、未来に起こり得る出来事なんだ。幼い私が未来からの情報を把握出来るように、ゲームが云々と仮定したものに違いない。じゃあ、あの映画館で見た夢は超能力による危険予知だな!


 何の解決にも至らず、ヤケクソでふざけた仮説を立ててノートを元通り隠した私は、窓の向こうを見やった。朝を唄っていた小鳥達は既に飛び去り、明るい日差しが世界をくっきりと照らし出し、隣家の庭先で大きな輪っかを持ち上げては落とし、持ち上げては落としているお兄さんの姿を際立たせていた。


「……嘉月さん、朝から何やってるんだろう?」



 自室から一階に下り立ってもまだ起きてこない父は放置し、私は玄関先の柵から隣家の庭先を覗き込んでみた。

 大きなフラフープの輪っかの中に入り、腰の辺りへ持ち上げてから嘉月さんが手を離すと、腰を振るまでもなく無情にも地面へと落下するフラフープ。


「……難しいものだな……」


 寝ぼけ眼の無表情のままぼそりと呟き、庭先サンダルとパジャマ姿の嘉月さんは、フラフープをまたもや持ち上げる。


「あのー」


 私が恐る恐る呼び掛けると、嘉月さんはのっそりとした動きでこちらを見た。


「……ああ、おはよう、美鈴さん……」

「おはようございます、嘉月さん。朝からいったい何をされていらっしゃるのですか?」

「閃きの知育だ」


 嘉月さんから、現在彼がいったい何を行っているのかは教えてもらえたのだが……どうしよう、さっぱり分からない。

 水色と白のストライプ柄のパジャマを纏い、濃い紫色のフラフープを掴んでいる嘉月さんは、両足を開いて腰の辺りにフラフープを構え、回す体勢を取った。


「お兄ちゃん! 眠るか休憩取るか、どっちかにしてって言ったでしょ!?」


 まさにその時、御園家のベランダのガラス戸がガラガラと開かれ、腰に片手を当てもう片方の手にはお玉を握った皐月さんが、柳眉を逆立て叱責を飛ばしてきた。


「お、おはようございます、皐月さん」

「あれ? 美鈴ちゃんおはよう。今日は早いんだね」

「ええ、今日はなんだか早くに目が覚めてしまって」


 私が朝の挨拶をすると、皐月さんはお玉を振り振りこちらに笑顔を向けてくる。兄の方は、妹のお叱りにも頓着せず、フラフープトライをまたもや失敗し、無情にも地に落ちたフラフープをもぞもぞと拾い上げている。


「皐月さん、嘉月さんはいったい何をされているのでしょう?」

「あー。お兄ちゃんね、また徹夜続きで半分寝ぼけてるのよ」

「……寝ぼけ?」


 パジャマ姿なのは、恐らく皐月さんから「もう寝ろ」と急かされたので着替えたのだろう。しかし、それでどうして大人しく寝室に向かわずに、庭でフラフープ遊びになるというのか。


「良いアイデアが浮かばないから、身体を動かしたら閃くんじゃないか、だって。

そんな時、お兄ちゃんいつもお散歩に出るんだけど、今日は外出するぐらいなら休んで、って言ったら……」

「気が付いたら何故か庭でフラフープをしていた、と?」

「そうなの」


 片方を頬に当て、はう……と溜め息を吐く皐月さん。


「皐月、就寝前に軽い運動をして安らかな眠りに就く、というのは実に理に叶った発想だと俺は思う」


 クイクイと腰を振り、あまたの失敗が積み重なった果て、見事に上達して一回転だけ回す事に成功した嘉月さんは、地面に落ちたフラフープを持ち上げて狭い間隔にて両手で固定、今度は縄跳びのようにぐるんぐるんと輪っかを前後に動かして回転させ、ピョンピョンと飛び跳ねている。ただし、縄跳びと違って回転速度は嘉月さんの手首の動きで任意に変動される為か、輪っかの動きはとてものんびりとして遅い。

 ……嘉月さん、徹夜続きの今のあなたが『安らかな眠りに就く』とか口にすると、『永眠』って意味に聞こえてヒヤッとします。


「そ、それで、何か良いネタは浮かびましたか、嘉月さん?」

「いいや、全く」


 気を取り直した私が嘉月さんに話し掛けると、フラフープでスローテンポ縄跳び……いや、輪跳びをしながら彼はこちらへと向きを変えてきた。何だろう。もしや、なかなか腰の辺りで回転させられないフラフープに業を煮やし、今日の知育は輪跳び遊びに変更したのだろうか。


「もー、お兄ちゃん。グッスリ眠れる前に、目が冴えてきてるんじゃない?」

「……幾夜もの思索に耽る夜を越えた極限の精神状態の先にこそ、大いなる創作に至る道が……」

「無いから」

「むしろ死にますよ」


 スローテンポ輪跳びを行いつつ、嘉月さんがカッと目を見開いてそんな世迷い事をのたまうが、妹と私から即座に否定され、ツッコミを入れられた嘉月さんは、ショボンとしてしまった。


「そもそも、フラフープってそうやって遊ぶものじゃないでしょ?

ちょっと貸してお兄ちゃん。代わりにこれ持って」


 庭先の突っ掛けに足を押し込んだ皐月さんは、我慢ならんとばかりに庭へと下り立ち、嘉月さんの手からフラフープをもぎ取り、彼女が手にしていたお玉を押し付けた。皐月さん、お味噌汁か何かを作っていた途中だったのでは……?


「よっ」


 皐月さんはフラフープを構えると、リズミカルに腰を振って輪を回転させる。軽々とバランスを取り、フラフープは遠心力によって彼女の腰の辺りで安定した回転運動の軌道を描く。


「……皐月さん、上手いですねー」

「もともとあのフラフープは、小学生の頃の皐月の遊び道具だろうからな。物置に仕舞われていたのを俺が見付けて引っ張り出してきたが、祖父母がああいった遊具で遊ぶとも思えないし」


 片手にお玉を握ったまま、柵に軽くもたれて腕組みをしている嘉月さんが、「興味があるのならば皐月から借りれば良い」と言ってくれるが。正直私自身が遊ぶよりも、『うちの中年が年甲斐もなく大はしゃぎそう』と、真っ先に考えてしまう。

 そして嘉月さん。いったい何を考えて、フラフープなんて遊具をわざわざ引っ張り出してきたのだろう。


「……どうかしたのか?」


 私があまりにもまじまじと嘉月さんを眺めていた為か、パジャマの隣人は小首を傾げた。


「嘉月さん、お休みになられなくて良いのですか?」

「皐月と一緒に朝食を食べて大学へ送り出したら、仮眠をとろうと思っている」

「そうですか……」

「よっ、ほっ、まだまだいけるよー!」


 直接問うて、ミステリアスな隣人のその内心を知るよりも、当たり障りの無い確認を取る。嘉月さんとしては、さっさと寝入るよりも生活リズムが異なる皐月さんと朝食をとる、という思い付きの方が大事なのかもしれない。

 そして皐月さんは、そのフラフープ回転は何連続ですか。十回や二十回じゃききませんよね。朝っぱらから自己ベスト記録更新狙いですか?


「あの、嘉月さん。ちょっとお尋ねしたいのですが」

「……?」


 皐月さんが腰を振って見事なフラフープ操作を行う様子を視界の端に収めつつ、私は現状打破のヒントを求めて嘉月さんの意見を聞いてみる事にした。


「えーと……この先に何が起こるのか、詳細は曖昧でもだいたいの輪郭を把握している場合って、どういったケースですかね?」

「うん?」


 仕事や趣味で様々な書籍に目を通してきたであろう嘉月さんに、前世の記憶云々を省いて尋ねてみるとすると、こんな怪しい質問になってしまうが、いたしかたがない。

 嘉月さんは私の突拍子もない質問に、お玉の柄を人差し指でトントンと軽く叩きつつ、瞼を伏せて考え込んだ。


「そうだな。もっとも有り得るケースは、経験則による推定、統計的な予測といったところだろうか」

「統計と経験則、ですか」

「これらはあくまでも、過去の歴史から導き出された未来予想ではある。

失敗を重ねて手法に改良を加えていき、いずれは瞬時に別の状況にも応用が利く対応力に似ている」


 幼少期の私には、それらに裏打ちされた未来の出来事といった情報や、家事知識などあろうはずもない。ならばこれらの情報はやはり、今世の幼少期に思い出すよりも前に、前世かそれに準じる状況下において、蓄えた期間があったのだろうか。


「なんにせよ、現在の状況を把握し、なおかつ先々の事を考えておくのは良い事だ」

「はい……」


 何だろう。私が相談内容を曖昧にボカしたせいで、嘉月さんは話の主旨を私が意図していない方向に解釈していないだろうか。


「例えば、望ましくない未来がやってきそうな時、提示された選択肢のどれが正しいのかが分からない、そんな時はどうしたら良いと思いますか?」

「そもそも、他人から与えられた選択肢とは正しいものなのだろうか?」


 思い切って問いかけた私に、嘉月さんはむしろ不思議そうに呟いた。


「人生は選択の連続で、『あの時ああしていれば』と悔いるものだ。それを誰かに用意されたから選んだとすれば、それは本当に自ら選択したと言えるのだろうか。

後悔する羽目になった際、『選択肢を提示された』という体裁を整え低い方へ転がっていき、実質、用意した存在に責任転嫁する魂胆が隠れているのではないか」

「……分かるような、分からないような……」


 嘉月さんってたまにこうやって饒舌になるけど、自分の思考に深く入っているのか、私も理解が追い付けるように、噛み砕いて説明してくれたりはしないんだよね。普段はそうやって、気を回してくれてるっぽいんだけども。


「えーと、選択するのはあくまでも自分自身であって、他人に甘えるな、って事ですか?」

「そうだな……だが、美鈴さんはまだ、中学生だろう。

将来はともかく、今、重要な決断を迫られようが、自分一人で解決出来る、もしくは責任を果たせると意気込んだりしない事だ」

「それはつまり、周囲の大人へ頼りなさい、と」

「そういう事だ」

「あうちっ!?」


 嘉月さんが微笑みながら組んでいた腕を解き、お玉を持っていない方の手が私の方へと伸ばされかけたところで、御園家宅の庭ど真ん中から皐月さんの悲鳴が上がった。見れば彼女は、地面に落ちたフラフープの輪の中、物干し竿付近でしゃがみ込んでいる。

 ……庭の広さを加味せずに打ち込んで、物干し竿にフラフープだか皐月さん本人が激突したか何かしたんですね?


「皐月。恐らく、そろそろ皐月が毎日朝食をとっている頃合いだと思うのだが……気のせいか?」

「え、もうそんな時間!?」


 柵から身を離し妹に歩み寄る嘉月さんから促され、皐月さんは慌ててフラフープを手に立ち上がった。


「それじゃ、美鈴ちゃん。わたしこれからご飯だからこれで」

「はい。また」


 ぶんぶんと片手を振ってくる皐月さんに軽く手を振り返し、私へ軽く目礼してフラフラと屋内に引っ込む嘉月さんの背を見送る。……嘉月さん、今にも倒れそうだけど本当に大丈夫なのかな、あれ。


 玄関先から家に戻ると、相変わらず家の中は静まり返っている。


「……あれ?」


 廊下を足早に通り過ぎキッチンダイニングをヒョイと覗き込む。そこに父の姿は無い。柱時計を確認すると、既に午前七時を回っている。


 慌てて父の寝室に駆け込むと、ベッドの上に仰臥した父は、「フゴー、フゴー」と、荒い寝息を立てて爆睡していた。床には寝ぼけた父の手によりベッドボードからはたき落とされたっぽい、時を刻む役目を放棄した目覚まし時計が無残な姿を晒しており、蓋ごと外れたらしき乾電池が転がっていた。ベッドボードの上に麗々しく飾られている写真の中の母は、悪戯っぽい笑みを浮かべて私を見返してくる。

 実は今日は遅出の日かもしれないと、一抹の期待を胸に取り上げた時計の目覚ましアラーム設定時刻は、現在時刻より三十分も前だ。


「お父さん、お父さん起きて! 遅刻しちゃうよ!?」


 眠る父をゆっさゆっさと揺さぶって、「ふご……」と、寝息が収まった辺りで、私は全力で父の掛け布団をひっぺがした。


「お父さん! 朝だよ!」

「……美鈴~? お父さん眠いよ~」

「もう七時過ぎてるんだってば!」

「ええ!?」


 眠たげにぐずっていた父は、私が現在時刻を告げると慌てふためき、ベッドの上へ跳ね起きた。


「め、め、目覚まし何で鳴らなかったんだ!?

のわっ!?」


 疑問を発しつつ、ベッドの上から私の傍らへ下り立とうと伸ばした中年の片足が乾電池を踏んづけて滑り、中年の足の裏から射出された乾電池は勢い良く壁へと転がり激突。幸い、ベッドに腰掛けた状態だったので、ひっくり返る事故は避けられた。


「とにかく、早く着替えちゃって。朝ご飯用意しとくから」


 予想外のアクシデントに嘆く父を置いて、私はキッチンダイニングに戻る。手早くベーコンと玉子焼きを用意したところでスーツに着替えた中年が通勤鞄を片手に飛び込んできて、大慌てで朝食をかきこみだした。

 どうしよう。髪は寝癖だらけだし、ネクタイも曲がってるんだけど、流石に食事中に髪の毛はいじれないし。ちゃんと顔も洗ったのかなあ?


「ごひほうはま~!」


 もぐもぐと咀嚼しつつも、父は席を立ち洗面所に駆け込み口の中の物を飲み込む。そうして大急ぎで洗顔と歯磨きを始めたので、私はバックの中に入れていたポーチから折り畳み式の櫛を取り出し、歯磨き中の中年をしゃがませ、髪の毛を軽く梳き整えてやる。いつもは整髪料とか使ってた気がするけど、そこまで手を回すのは面倒臭い。


「美鈴ありがとう、行って来ます!」

「あ、お父さんお弁当!」


 歯磨きを終え、通勤鞄を抱えて玄関で素早く靴を履く中年に、私はキッチンダイニングに駆け足で引き返し、父の分のお弁当の包みとマグを手渡した。


「今日はフィーバー弁当だよ」

「フィーバー!? 楽しみにしてるよ。行って来ま~す!」


 今日のお弁当は、普段とは趣向を異にするおかずラインナップである事を匂わせて手渡すと、父はパッと表情を輝かせて受け取り、猛ダッシュで出掛けていった。

 ……はて。うちの中年は、どっちかっつーと野菜の類いはさほど好きではなかったはずなのだが、ブロッコリーフィーバーなお弁当で、何故あのように喜びをあらわに出勤していったのであろうか。

 まあ良いか、と、中年の心理は棚に上げて私も学校へ向かった。



 晴れていたら明日からお昼ご飯一緒に食べようか、と、椿にーちゃんと曖昧な約束を交わしたのは昨日の昼。そして本日は雲はあれども太陽は輝きを放ち、雨の気配は遠い。

 午前中の授業を終えたお昼休み、にんまり笑顔のアイに見送られ、私はお弁当を抱えて校舎裏へと足を運んだ。


「えーと、この辺りのフェンス越えれば良いのかな?」


 人っ子一人見当たらない殺風景な校舎裏にて、私はお弁当が入った巾着袋やら飲み物が入った袋を下げて途方に暮れた。きょろきょろと周囲を見回しても椿にーちゃんの姿は見えないし、取り出したスマホを確認しても、とくに待ち人からの連絡は無い。

 取り敢えず乗り越えてやれ、とフェンスの金網に手を掛けたところで、突如として後方から勢い良く砂利を踏む足音が連続して聞こえてきた。

 音がした方へと、咄嗟に振り向こうとした私の反射的な動きが追い付くよりも早く、素早く伸びてきた腕が二本。その手がふわりと私の視界を塞ぐ。

 流石にこれはどう反応するべきか計りかね、身体の動きも止まる。背後に立った人物は、私の耳元に囁きかけてきた。


「だーれだっ?」


 ……いや、うん。この流れでその問い掛けは、じーつーにっ、王道ですね。

 むしろこの状況で、人の目を塞いできた相手が分からないよーな人なんて居るもん? あ、見知らぬ変態に視界塞がれた危険なケースは除外。

 私が校舎裏に現れるまで、わざわざ反対側の陰に隠れて待ち伏せていたとか、とんだお茶目さんである。いや、こういう人だって前から何となく知ってたけど。

 こうして近付くと今日もほんのりと香って包み込んでくる、この人が愛用しているコロンに安心感を抱きつつ、私は非常に困っていた。全力でノるべきか、それとも冷静に腕押しのけてスルーするべきか。


「……って、え? 嘘だろ、この状況で見当を付けられずに黙って考え込むとか。なに、俺って今、その程度の好感度なの?」


 単純に、どうせノるなら面白い返しが何か無いかと思索していただけなのだが、どうやら背後の人物は……っと、曖昧に濁すのはもう良いや。椿にーちゃんにとっては、私が無反応である事そのものが、ちょっと狼狽えてしまう事態だったらしい。

 ショックのあまりか何なのか、幸いにして目の上から椿にーちゃんの手が外れたので、私はクルリと後ろへ向き直り、「ガーン……」とか自虐的に呟いているにーちゃんの胸元を、人差し指で軽~くちょん、と突きながら見上げてみた。本当は鼻とかが良かったんだけど、向き合うとどーしても生まれる身長差から、目測誤ってにーちゃんの鼻の穴に指突っ込みそうだったので、標的を至近距離へと移した。


「『ミィはちゃ~んと分かってるよぅ、この手は椿にーちゃんだにゃん』と甘えっ子を演出するべきか、『ふざけないで頂けます?』と手を振り払って、かーらーの、視線逸らして『私があなたの事分からない訳、無いじゃない』と小さく呟くツンデレ。

さてどっちにしようかと、今、真剣に考えてたの」

「……ボケも繰り出し方によっては、四次元へ捻り込み超越ツッコミに化けるのは良いから。ミィちゃんから、フツーの反応は引き出されないの?」


 首を思いっきり反らして見上げていた目線を軽く伏せ、しばし考えてみる。「だーれだっ?」における、普通の反応ってそういや何だ?

 どうにも分からないので、無言のまま再び椿にーちゃんを見上げ、突いた人差し指をスーッと軽いタッチのまま腹の方へと下げていきつつ、素直に小首を傾げておく。

 椿にーちゃんは一瞬硬直した後、片手で口元を覆い、ぎこちなく視線を逸らした。何だ、そのいかにも『吹き出すのは申し訳ないから、頑張って我慢します』って反応は。


「さ、それよりもお弁当だよ、お弁当。大学部の方が敷地広いから、お勧めのスポットに案内してあげる」

「うん」


 あからさまに話題を変えられたが、私はこっくりと頷いておく。今度、皐月さんあたりに「だーれだっ?」を仕掛けて、一般的な反応というものを調査してみよう。


 椿にーちゃんはカシカシッと、二歩分金網に足を掛けただけで簡単にフェンスを乗り越え、そのまま華麗に大学部の敷地へと着地。足長にーちゃん羨ましかとです。


「ミィちゃん、お弁当持ったままフェンス越えは難しいでしょ。こっちに貸して」

「うん、お願い」


 ニコッと笑顔で申し出てくれるので、全部加算するとそれなりに重量のある巾着袋一式を、素直に椿にーちゃんに手渡す。


「ふははは、ミィちゃんまんまと引っ掛かったな。お弁当は確かに頂いたーっ!」

「ちょっ、椿にーちゃん!?」


 私から巾着袋一式を受け取るなり、いきなり脱兎の勢いで背後へと駆け出そうとする椿にーちゃんの姿に、私は大慌てで金網攻略に掛かる。たったの二歩だった誰かさんとは違い、私は四回ほど両手両足を動かし這い登り運動を行わねばならない。ええ、短足ですから。

 フェンスの一番上へと上り詰めても、椿にーちゃんのようにこの高さをヒョイと飛び下りる勇気は無いので、その場で向きを変えて、今度は金網を伝って下りていかなくては……

 片足を伸ばして、靴の爪先を金網の穴に引っ掛けようとしたところで、私の両脇へ大きな手が差し込まれ、身体が持ち上げられた。


「なんてね、今度こそミィちゃんびっくりした?」

「……うん、まあ、いきなり弁当奪取ダッシュは予想外だった」


 フェンスから抱き上げられて地面に下ろされ、椿にーちゃんに背後からぎゅむっと抱き締められつつワクワク顔でこちらを覗き込まれ、私はにーちゃんの頭をぽんぽんと軽く撫でた。私を驚かせて反応を引き出したいとか、子どもか。


 よくよく考えてみれば、どうせこの意地汚い……もとい、私の作る料理を気に入っているにーちゃんが私から弁当を取り上げて、今回以降飯無し罰則の憂き目に進んで遭いたがる訳は無いのだが、フェンスで隔てられた向こう側で脈絡も無く駆け出されたら、焦る。

 私は椿にーちゃんの腕を持ち上げて拘束から逃れ、ツンと顎を逸らした。


「で、私の作ったお弁当をいったいどこにやったの、にーちゃん?」

「ええ、喜んでご案内致しましょうお嬢様」


 椿にーちゃんは両手を使って私の身体をフェンスから下ろした。周辺の地べたに巾着袋一式が放置されている様子も無い。両手を腰に当てて強奪犯を不遜に見やる私に、椿にーちゃんは実にわざとらしい慇懃無礼な言い回しを放って私の腰に手を回し、『ご案内』に移った。


 植樹された人工的な林には、頭上から適度な日差しが差し込み明るくも静謐な空気を醸し出す。

 椿にーちゃんにエスコートされ、踏み入れたそこはほんの数歩先にて小さな池が現れ、畔の木陰には木製のベンチが一つ、ポツンと設置されていた。白いペンキが綺麗に塗られたベンチの上には、私が持参した巾着袋一式が。


「ここ、滅多に人も来ないし結構穴場なんだ。

さ、どうぞ」


 椿にーちゃんはポケットから綺麗にプレスされた布製ハンカチを取り出すと、それをふんわりとベンチの座席部分に広げて私に座るよう促す。子どものようなお馬鹿なおふざけをかましてきたかと思えば、こうしてキザったらしい行動を自然体かつ大真面目に実行する。相変わらず、このにーちゃんの言動はよく分からん。

 無視しているのもなんなので、にーちゃんの顔を立てるべく「ありがとう」の言葉と共にハンカチの上に腰を下ろした。椿にーちゃんはにっこりと微笑み、私の膝にぴったりとくっ付けるようにしてすぐ隣に腰掛け、いそいそと巾着袋の口を開いた。


「いっただっきまーす。さてミィちゃん、今日のお弁当は……」

「椿にーちゃんのリクエスト通り、ブロッコリーフィーバーだよ」


 心なしか全体的にグリーンに染まっているお弁当の中身を大きく見開いたまま凝視し、パカッと蓋をあけた姿勢のまま固まる椿にーちゃん。


「ブロッコリー?」

「フィーバー」


 そして錆び付いた機械が油をさして下さいと訴えかけてくる、ギギギ、という擬音が鳴らないのが不思議なぐらいの、少し動いては一瞬停止、を連続して繰り返したスローリーな動きで首をこちらへ向け、呟くので単語を繋げてあげる。


「……あー。昨日は食い物の恨みで頭がいっぱいだったよ俺……『今日は爽やかに晴れた、ミィちゃんとお昼だ』でスコーンと記憶から抜けてた……」


 何か知らんが、ブロッコリーを潜ませまくったお弁当を望んでたんだか違うんだか、紛らわしいにーちゃんである。


「椿にーちゃん、ブロッコリー好きで食べたくてしょーがない衝動に突き動かされて、私にリクエストしてきた訳じゃないんだ?」

「好きでも嫌いでもないなー。あ、でもこの唐揚げやっぱり美味い」


 真っ先に好物の鶏の唐揚げに箸を伸ばした椿にーちゃんは、じっくりと咀嚼して握り拳をつくり、「おお……!」と感動をあらわにしている。うん、椿にーちゃんが好物を食した時の反応って、これだよね。やっぱり、ブロッコリーメインのおかずじゃ引き出せた試しが無いよ。

 しかし食べ物の恨みって何があった、椿にーちゃん。食事制限でも掛けられて、お医者様から「あなたに必要な栄養素を補うには、ブロッコリーを多めに食べて下さい」とか言われたのか? にーちゃん、外食多くて唐揚げと糖分大好物だもんな。


「見た目は緑色があちこち鮮やかだけど、ブロッコリーの味って殆ど分からないぐらいだね、これ」

「茹でたの齧ると苦味はあるけど、それほど主張が激しい野菜でも無いからね」


 青菜のふりかけ、それとフードプロセッサーにかけたブロッコリーを混ぜ込んで握ったおにぎりを片手に、嬉しそうにもぐもぐと噛んでいる椿にーちゃんの隣で、私もはむっとおかずをお箸で口の中に運ぶ。茹でて一旦冷ましたブロッコリーの茎とにんじんの間にとろけるチーズを挟み、三等分したちくわの穴に詰めて焼いたものだが、これがなかなかいける。やっぱり醤油を垂らしたチーズは最強だ。


「ところでにーちゃん、ここって静かで空気も澄んでるけど、でも何でベンチなんかあるの?」


 ご飯に気を取られて後回しにされていたが、キャンパスの林の中にあるベンチって、この池を眺める為だろうか。

 私の疑問を受け、「見てごらん」と椿にーちゃんが指差した先には、水面にたくさんの円形状の葉っぱが浮かんでいる。樹木に生えるやや長細い形状の葉が舞い落ちたのではなく、水中から伸びてる……ああ、蓮かと思ったら葉に切れ込みがあるから睡蓮だ。


「だいたい七月か八月辺りは、睡蓮の花が池を満たすんだ。知る人ぞ知る名物スポット、ってやつ」

「へー。あ、奥の方で、一個だけ咲いてる」

「……あっ、教える前に見つけられちゃった」


 今はまだ時期が早いから、ただでさえ人気が無いのかと納得して水面をつぶさに眺めていくと、一つだけ白い花弁を広げ始めたせっかちさんを発見した。


「……せっかくの『今年一番最初に咲いた睡蓮だよ』『わ、ホントだ。一番乗りだなんてよく咲いてるのに気が付いたね。凄いにーちゃん!』計画がっ……!」

「……すっごーい、にーちゃん」

「俺、こういうスポットは見逃さないからね」


 何か分からんが、ブロッコリーとコーンのバター炒めをパクパクと口に運びつつ、謎の作戦……むしろ皮算用がオシャカになった事を真横で盛大に嘆かれるので、私が棒読みでお望みの台詞を暗唱してやると、椿にーちゃんは敢えて得意げに唇の端を持ち上げ、立てた人差し指を軽く左右に振った。


「こうやって見ると、睡蓮って葉っぱだけだと水色とあいまって地味極まりないけど、花が咲いてると一気に風情が増すね」


 花そのものは、まだ一輪で五分咲きにも至っていないが、白い花弁が浮かぶその水辺だけは、雅やかな高貴さを覚える。本当に、葉っぱだけが浮かんでる池は目が滑るけど。

 と、お箸をお弁当箱の上に揃えて置いた椿にーちゃんが、こちらを見つめて柔らかい声音で囁いた。


「In the language of flowers, the meaning of water lily is purity of heart.」


 だから、にーちゃん。いかに発音が良くゆっくり喋ってくれようが、私には英語なんてさっぱりわ・か・ら・ん、って!


「……『花は水の心だぜ』?」

「ぶはっ!」


 辛うじて聞き取れて意味が分かる単語を適当に繋ぎ合わせてみると、椿にーちゃんは横で盛大に吹き出し、私から顔を逸らして口元を覆った。背けられたので表情は見えないが、その肩は細かく振動している。


「そこまで笑う事ないじゃない」

「ご、ごめんごめん」


 ムスッと膨れっ面を向けると、椿にーちゃんは懸命に笑いを堪えつつ、謝罪にならない謝罪を寄越してきた。顔が笑ってるし、目尻には笑い過ぎで涙まで滲んでるんですけど。イケメンは爆笑を堪えてる顔までやっぱりイケメンなんですね、チクショー。


「み、ミィちゃん、テスト終わったからって気を抜かないで、これからも継続的に英語のお勉強続けようね」

「はーい。で、さっきはなんて言ってたの?」

「んっと、『花言葉では、睡蓮は清らかな心です』だね。

睡蓮が『Water lily』で、花言葉は『Language of flowers』」

「にーちゃん、何で花言葉なんて知ってるのさ」

「……ん、知りたい?」


 椿にーちゃんって、別に花が好きで仕方がない! ってタイプには見えないんだけど。そう考えながら疑問を素直にぶつけると、何とも意味深な間を置かれて、ふっと小さな笑みを浮かべた。


「あー、うん。何となくだいたい分かった」

「俺、何も言ってないのに理解早っ。何だと解釈されたんだろ」

「えー? 何か良い感じの花言葉の花を一輪、女の子の髪に挿してやりつつ、『この花の花言葉は○○って言うんだ。……ああ、やっぱり君に似合うと思ってた』とかなんとか、口説きシチュエーションに利用するのかと」

「しかも合ってる!」

「合ってるんかい」


 半分冗談だったんだけど。チャラかったりキザだったりする男でいる為には、雑学知識が必需らしい。女の子を口説くのも、色々と下準備が大変なんだねにーちゃん。

 椿にーちゃんは笑いながら再び箸を取り、ちくわ焼きを一つ「はいっ」と差し出してくる。


「ほへ?」

「これ気に入っているんでしょ? チーズ入ってるし。

一つ分けてあげる。あーんして?」


 分けてあげるも何も、作ったの私なんだけどなーと苦笑しつつ、素直に口を開く。

 椿にーちゃんはすかさず私の口の中に、ちくわを突っ込んでくる。が、三等分してあるだけじゃ私の口の中に収まりきらない、という事実を考慮してはくれんのだね。うん、やっぱり美味いよ。口の中がいっぱいで、噛むのもひと苦労だけどな!


「ミィちゃん、ミィちゃん、俺にもちょうだい?」


 本来ならば二口分のちくわを、一口に押し込まれてしまったので、ひたすらもぐもぐと噛み続けていたら、脇からつんつんと腕をつつかれ、催促された。椿にーちゃんの目線は、私のお弁当箱の中の……鶏の唐揚げに熱烈な集中火砲を浴びせている。

 ……あー。いきなり「はい、あーん」とか何事かと思えば、椿にーちゃん最初っから唐揚げが目当てか。お弁当だと、一個しか入れてきてなかったもんなあ。さては、物足りなかったんだとみた。


「椿にーちゃん、お口あーんして?」

「あーん」


 高速で口の中のちくわを噛み砕いて飲み込み、私は鶏の唐揚げをお箸で挟んで持ち上げた。椿にーちゃんの眼前に運んでやると、めっちゃ嬉しそうにほんのり頬まで染めて、お口を開いて待ちわびている。そんなに好きか。


「ん~、幸せ~」


 私が口の中に入れてやった唐揚げをもぐもぐしつつ、椿にーちゃんは美味しさを欠片も逃さず味わうぜと言わんばかりに片手を頬に当て、頬を染めたまま喜びの一時に浸っている。相変わらず、鶏肉が人生最大の幸福だなんて、お手軽な生き様を送っている人である。


「明日も晴れると良いなあ」

「天気予報では、明日から傘マークだったよ? 梅雨前線がいよいよ到来とかなんとか」


 洗濯物の不安から、私が毎日チェックしているニュースのお天気情報は、大抵外れない。


「……今、俺、確実に雨が嫌いになった」

「椿にーちゃん、この間と言ってる事違うじゃん」


 ひとまず鶏肉はまた、明日のお弁当にも入れてあげよう。まったく手間のかかるにーちゃんである。



 お昼ご飯の後、午後の授業を経て、ついに放課後がやってきた。今日は、中間テスト後の最初の、部活動活動日である。


 美術室の扉の前で立ち止まり、緊張を和らげるべく、すう~……はぁ……と、幾度も深呼吸を繰り返し、私はカッ! と両目を開いた。

 覚悟は決めた、腹は据わった、野となれ山となれ! イザ!


 到着してから扉を開く決意を固めるまで、かなりの時間を要したが、私は美術室の扉の取っ手に手を伸ばした。その矢先に、それは呆気なくガラガラッと勢い良く音を立てて開かれて、反射的にスライドしていく扉の取っ手を追っかけたせいで体勢を半ば崩したまま、私は向こう側に立っていた、扉を開いた人物の肩におでこをぶつけた。


「わぷっ!?」

「……さっきから扉の前に人影が立ったままちっとも動かなくて、真っ昼間からホラー展開かと期待したら……なんだ、葉山か。

お前、そんな廊下なんかで一人突っ立って、何してたんだ?」


 すぐ頭上からやや呆れた声が降ってきて、私は慌ててバックステップで距離を開いた。

 今日も神々しい輝きを放つ艶やかな御髪、それが毛先だけサラリと揺れ、時枝先輩は私の反応にキョトンと瞬いた。


「え、えーとお疲れ様です時枝先輩」

「おう。部長は今日、掃除当番で遅れるってさ。その辺適当に座ってれば?」

「あ、はい」


 私の挨拶にちょっとだけ表情を緩め、そして時枝先輩は先輩の定位置に設置されている、描きかけの絵の前に座ってパレットと絵筆を手に取った。

 ……えーと。何かとんでもなく、時枝先輩が普段通りというか、何の特殊なリアクションも返しては下さらないのですが。


「あのー、時枝先輩」

「ん? どうした葉山。オレに何か、アドバイスでも欲しいのか?」


 部活動用のカバンの中からスケッチブックを取り出しつつ、思わずその背中に呼び掛けると、時枝先輩は絵の前に腰掛けたまま上半身だけ捻って、こちらに視線を向けてきた。

 いや、アドバイスを求めているとかでなくですね。


「えー……いえ、何でもありません」

「……? 変な奴。

まあ、何か困ったら遠慮なくオレに言えよ」

「ありがとう、ございます」


 時枝先輩はまったく気負いもせずに『困ったら頼れよ』と請け負い、口角を上げた笑みからしても比較的機嫌は良さそうだ。

 ひとまず私も、美術室のいつもの定位置に腰を下ろし、スケッチブックを広げる。広げたページと同じように、私の頭の中も真っ白だ。


 えーと、えーと……時枝先輩、私の告白で部活動の時間が気まずくならないように、努めていつも通りに振る舞う事にした、って事ですか?

 それとも、実は……普段から熱烈な告白に慣れていて、簡素なアレが告白台詞だって、気が付いていないだけですかっ!?



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