本編⑫
喫茶店でモーニングを食べるという習慣は、発祥地である岐阜県では勿論の事、愛知県に暮らしている住民にとっても、取り立てて珍しい行動ではない。
頻繁に通うタイプならば、お気に入りの喫茶店を三~五店ほど定めているのが当然で、我が家もご多分に漏れず、足繁く通う喫茶店の珈琲チケットを購入してお得感を得ている。紅茶やコーヒーは私が知るお店の金額を平均してだいたい四百円程だが、珈琲チケットを使えば一杯三十円は安くなる。
毎朝早起きしてお客を出迎える喫茶店の皆様には、本当に頭が下がる。
「僕はつい先ほど注文しましたので、良ければメニューどうぞ」
思いがけず偶然に、ラスボス……柴田雲雀センセイとモーニングを共にする事となった朝食の席だが、柴田センセイは全く気にした様子も無く、四名掛けの席に二つあるモーニングメニュー冊子を差し出してくる。こちらのお店のメニューは、手書き文字とお料理のカラー写真、イラストをコピーした物だ。
父は手元にあったメニューを私に手渡して、柴田センセイから受け取ったメニューを広げる。
「ありがとうございます。美鈴、今日は何を頼もうか?」
「う~んとねぇ」
いかにラスボスが目の前に居ようが、私の空きっ腹が訴えてくる苦痛の方がヤバかった。密やかな危機感よりも、食欲の方が勝るらしい。
「アイスティーと、シナモンハニートーストモーニングにしよっかな。玉子サラダにして」
「良いね。お父さんはアイスコーヒーと……小倉カスタードトーストモーニングの……ゆで玉子にしよう」
「あと、お野菜少ないからサラダ追加して、二人で分ける?」
「うん、そうしよう。選べるデザートメニューはどうする? お父さんはヨーグルトかな」
「う……それが悩ましい……!」
父と朝食の相談を交わしながら、私は手にしたメニューを眺め、真剣に苦悩した。こういった喫茶店のモーニングで最も悩むのは、『どのモーニングセットにするか』よりも、モーニングセットに付随してくる細々とした『選べる日替わりの品目』だったりする。今日の玉子は易々と決定出来たが、デザート選択は非常に難しい。
本日の日替わりデザートは、アロエヨーグルト、季節のカットフルーツ、お楽しみプチアイスの盛り合わせ。どの写真も非常に美味しそうである!
「フルーツとアイス……どちらにすべきか……!?」
この難問の選択ミス如何によって、今日一日の気分が左右されると断言しても過言ではない。
「……美鈴、お父さんフルーツかアイスにして、分けようか?」
「ううん。お父さん、ヨーグルトは好物じゃない」
唸る私を見かねたのか、中年がおずおずと申し出てくる。しかし、ここで甘える訳にはいかぬと、私はきっぱりと首を左右に振った。
「よし、アイスにする」
「決まったね。すみません、注文お願いしま~す」
喫茶店のお姉さんにオーダーする間、私がメニュー冊子で顔の下半分隠しながら上目遣いに見上げる対面に座すセンセイは、ニコニコとした笑みを崩さない。
「ええっと……何か?」
お姉さんがオーダーを繰り返して確認し、それを厨房に伝えに戻ったところで私が思い切って話し掛けると、柴田センセイは柔らかい笑みを浮かべたまま小首を傾げた。
「いえ……相談しながら楽しそうにご飯のメニューを決めるところとか、仲が良いんだな、と思って」
「そうですか!?
いやあ~、仲良しラブラブ親子だなんてそんな、本当の事でも人様から言われちゃうと照れますね~! ねえ美鈴!?」
「お父さん、柴田センセイはそんな事一言たりとも口にしてないし、『ラブラブ親子』という事実関係も無いから」
見るからに年下の私相手でも丁寧な口調を発する柴田センセイから、何か褒められた的な受け取り方をしたらしき中年は舞い上がって、頭をかきかき浮かれた戯言をほざく。私がすかさずツッコミを入れると、隣の中年は席に着いたまま目を見開いて両手を顔の前辺りに立てて仰け反り、無言の驚愕をジェスチャーで表現する。絶対に、うちの中年は職業選択を間違えていると思う。
「ぶっ……くく……
ほ、本当に仲が良いんですね」
口元を抑え、懸命に笑いを堪えているらしき柴田センセイ。中年は、気持ちテーブルに身を乗り出した。
「そうでしょう? 良いでしょう?
今時流行りの『友達親子』って感じで!」
「お父さん。そのフレーズ、多分旬はとうに過ぎてる」
「お待たせ致しました。ホットとトーストモーニングセットになります」
私が呆れて半眼で父を見やる傍ら、喫茶店のお姉さんがモーニングセットのトレーを運んできて、柴田センセイの眼前に置いた。
それにしても、椿にーちゃんといい柴田雲雀センセイといい、こうして対面している分には殺人事件を引き起こす可能性を秘めた人物であるとは、到底思えない。いやまあ、全人類にその可能性はいかに低くとも必ず持つものであって、殺意や事故の危険が高まる条件が満たされず、大抵の人々は事件とは無縁に寿命を全うするもので、つまりは柴田センセイが一見ごくフツーの人にしか見えないのはとても理にかなった現象で……いかん。腹ヘリのまま考えても頭こんがらがってきた。
「では、お先に頂きますね」
「どうぞどうぞ。我々の事は気にせず」
どうやら柴田センセイは、コーヒーはブラックで頂くタイプらしい。
カップを持ち上げて口元へ持っていき、コーヒーの香りを楽しんでから一口。カップをソーサーに戻すと、続いてミニサラダへフォークを突き刺した。
柴田センセイのモーニングセットのトレーに、カットフルーツのカップを発見し、つい目が引き寄せられる。
基本的にこの喫茶店のモーニングは、トースト、ミニサラダ、玉子、デザートという構成。今、柴田センセイが食べているトーストモーニングセットは、喫茶店のメニューのどれかを頼めば無料で食べられるモーニングセットである。ミニサラダとゆで玉子、デザートも選べず固定だが、半切りのトーストはバターかジャムか小倉を選択する。
私とお父さんが注文したのは、メニューに+百円でトーストがちょっとだけ豪華になり、サイドメニューも色々バリエーションが増えたモーニングセットの方だ。
「そういえば、このお店のモーニングの提供時間は、ランチタイムと被っていますよね」
柴田センセイがそう言いながら、軽く切れ込みの入れられたバタートーストを千切ると、切れ目からふんわりと湯気が立ち上る。
お店によって、提供する内容やサービス時間がかなり異なるモーニングタイムだが、ライバル店との競争で提供時間を伸ばす店も少なく無い。
「ええ、お昼を軽く済ませたい時には有り難いですね」
私はこくりと頷いた。近頃は、この喫茶店のように午後二時頃まで提供している店もある。
セットで色々付けてくれてお得感バッチリなモーニングだが、必然的に盛られる量はかなり少な目なので、育ち盛りの男の子には恐らく全く足りないと思われる。
「僕の教えている生徒に、愛知県外育ちで大学に進学してこちらに住み始めた子が居るのですが、その子がしきりと不思議がっているんです。
『先生、モーニングとは朝という意味なのに、あの店のモーニングサービスってどうして夕方頃にもやっているんですか?』」
……確かに、モーニングサービスの習慣が無い県で育った人は、休憩の為に喫茶店に入ってメニューすら見ずすぐさまホットコーヒーを頼み、『モーニングお付けしますか?』だの『トーストはバターでよろしいですか?』とか尋ねられたら、面食らいそうだ。ましてやそれが午後過ぎならば。
「主に朝食向けとして始めたサービスだけれど、集客力アップの為に時間を延長してるんでしょう、とか答えたら良いんじゃないですか?」
「なるほど、来年以降の新入生に同じ事を尋ねられたら、そう返事を返しておきましょう」
「柴田先生は、大学でどんな分野を教えていらっしゃるんですか?」
「失礼します。お待たせ致しました」
父が何気なく問うたところで、喫茶店のお姉さんが私の分のモーニングセットを乗せたトレーを運んできた。続いて、父の前にもトレーと、ミニサラダのお皿が置かれる。
手を合わせて頂きますをし、早速ミニサラダを取り皿へ取り分ける。中年が手に取りやすく空いているスペースへ、トンと置く。
「はい、お父さんの分。よろしければ柴田センセイも少しいかがですか?」
「有り難うございます。頂きます」
メニュー名は『たっぷりサラダ』と対比する形で『ミニサラダ』だが、こちらは喫茶店の正式メニューの方のサラダなので、モーニングセットに付いて来るサラダよりも野菜の種類や量が豊富だ。
取り皿にサラダを盛って柴田センセイに差し出す。
この喫茶店のサラダは、季節毎に旬の新鮮野菜を手作りドレッシングで提供してくれる事でも知られ、ランチタイムはサラダが多いランチが女性に人気である。
「それでええと、そう、柴田センセイの授業はどんな風なのか、です」
「僕が教えているのは、ざっくりと区分けするなら心理学ですね」
「ほほう!」
ゴマやコーン、フレンチのどのドレッシングにするか真剣に悩んでいた中年が、ようやく決定したフレンチドレッシングを振り掛けつつ、柴田センセイの教えている分野に感心したように続きを促す。手作りドレッシングは小さい入れ物に入れられ、スプーンで振り掛けるも良し、長めにカットされている野菜をディップ感覚で浸すも良しなのだが、柴田センセイと話すのに夢中な中年がスプーンを動かす手は、なかなか止まらない。
私はフレンチドレッシングは諦めて、コーンの方を振り掛けた。因みにモーニングセットに付いたサラダの方には、初めから和風ドレッシングが掛かっている。
柴田センセイもサラダには軽くコーンドレッシングを振り掛け、中年に答えている。
「世界中の有名な逸話などに秘められた、当時の認識や常識、物の考え方や生き方などを探る研究ですね」
「逸話というと……?」
「例えば、童話や民謡、昔物語なども当時の世相を反映していて面白いですよ。やっぱり人間、今も昔も考える事はそう変わらないんだなあ、と思わせられますし」
「例えば、どんなお話があるんですか?」
私が口を挟むと、柴田センセイはコーンドレッシングのサラダをもぐもぐと噛んでから、「うーん」としばし考える素振りを見せた。
「そうですね、例えば童話の兎と亀ですが。
ノロマな亀を馬鹿にした兎に亀はかけっこの勝負を持ちかけ、亀は地道にゴールを目指し、勝負の最中に間抜けにも居眠りを始めた兎をノロノロと追い越し、勝利を収めるというお話ですが」
「……まったくその通りですが、柴田センセイ、要約の仕方が身も蓋もないです」
「ははは。
この昔話の大まかな訓戒としては、最後まで諦めてはいけないという努力推奨と、油断大敵という戒めですね」
「そうですね」
私はトーストにかじりつき、頷いた。柴田センセイは「でもね」と、悪戯っぽく笑った。
「穴兎や野兎は、昼間は表に出て来ないんですよ。
穴兎は朝と夕方頃に巣穴から出てきますが、昼間は巣穴の中に居ます。
野兎は夜行性で昼間は木の根元で眠っていたり、動かずにじっとしているんです」
「……あれ? でも、亀が長時間地道に移動し続けたんだし、かけっこをやるのは昼間ですよね?」
「ええ。亀から持ちかけた挑戦によって、ね?」
兎と亀のかけっこだなんて、能力的に鑑みて誰しもが兎の勝ちだと判断する。それが覆ったのだとすれば、そこには当然、レースにおいてお互いが全く同じ条件下によって走行したのではなく、何らかの要因が加わったという事。
お伽話として聞かされる分には、いかにも兎が余裕ぶっこいてレースの途中で昼寝をし負けた。対して亀は実直に進んだから勝った。そうとしか、受け取れない物語であるが。
その背景や、そこに込められた実態が正確に伝わっておらず、事実を歪められ兎への不当な侮蔑に至っているのだとしたら。
柴田センセイの言葉に、私の空想の中でデフォルメされたかけっこ中の兎と亀の表情が、眠たくてヘロヘロな小生意気だけど可憐な兎と、先行する兎の後ろ姿に向かって超絶にワルい表情を浮かべてほくそ笑む亀、という情景に変化していく。
そこに流れるテロップ。
『それが地獄行きだとも知らずに、愚かな事よ。幻想の勝利へ向けて、せいぜい走れ走れい』
……はぅあ!? 亀、なんて典型的な悪代官!?
「……これまで親しんできたお伽噺が、違う目で見てしまいそうです」
柴田センセイが笑顔で話す内容に、中年は目をパチクリさせて呟く。父もまた、私と大差ない想像を思い浮かべてしまったのだろうか。
時に、ようやっとスプーンを動かす手も止まったが、あなた様が違う目で見るべきは、ドレッシングで真っ白に染め上げられたお手元のサラダではあるまいか、我が父よ。
「兎と亀では移動速度も異なりますが、寿命にも大きな隔たりがあります。という事は?」
「かけっこの間、体感時間が兎は長く、亀には早く感じられますね」
「そう。つまり、兎にとって辛い睡魔に耐えなければならない時間とは、我々人間の感覚よりも、そして当然亀よりも非常に長く、耐え難いものだった筈です」
玉子サラダを食べている最中の私の想像の中の可憐な兎が、ゴールを目前にして遂に辛い苦しみに耐えきれず、パッタリと倒れ伏してしまう。そこには、亀への侮りから余裕綽々で昼寝に移る、油断しきってだらけた兎の姿は無い。ただただ、不利な勝負方法でも真っ向から立ち向かおうとした兎の、疲労困憊した無垢な寝顔があるだけだ。
……ああっ、うさぎぃぃぃっ!
中年はふと手元を見下ろしてギョッと目を見開き、慌ててサラダの取り皿を少し傾けフォークでかけ過ぎたドレッシングを削ぎつつ、「う~ん」と唸った。
「いかにも、亀は努力家の真面目さんで、兎は間抜けな奴だと思ってきましたが、見方を変えるとそんな一面が見えてくるとは……」
「しかも、これはある意味擬人化されたものですからね。
当時の風刺だとしたら、裏の事情を考えると……ね」
「はあ……単なる昔話でも、突き詰めて考えていくと、色んな見解があるものなんですねえ」
兎と亀のかけっこという大衆的なお伽話にも、名誉毀損疑惑が潜んでいるとは……世の中、侮れないものである。
中年が必死でフレンチに沈んだサラダの救出に勤しむ間、私は悠々とデザートに取り掛かる。アイスクリームは少しふやけ、溶けかかってきているが、それもまたオツなものだ。
「おいちー」
ミニサイズのアイスをパクッと一口運び、片手を頬に当ててその涼感デザートをじっくりと堪能するが、それはほんの三口で食べ終わってしまった。本当に少ないのだからまあ仕方がない。未練がましくアイスが乗っていた皿を見ても、当然ながら空中から湧き出てはこない。
と、私のトレーの前に、コトリと音を立ててカットフルーツの盛られた小皿が置かれた。
「良かったら、こちらもどうぞ」
「え……でも」
コーヒーのカップを口元に運びつつ、私の対面に座っている柴田センセイはニコッと、いっそ『無邪気な』とすら言えそうな笑みを浮かべた。
「フルーツ、食べたかったんでしょう?
先ほどのサラダのお礼です」
「あ、ありがとうございます。柴田センセイ」
「どういたしまして」
ふわっと小首を傾けつつあくまでも自然体で、甘い物を欲する子供にフルーツを譲るラスボス。
……な、何だこのソツなくスマートに滑り込んでくる脅威は! 流石、ラスボスの称号を冠しているだけの事はあるな、柴田雲雀……!
今日のカットフルーツは、夏みかんとメロンとさくらんぼ。う、美味いじゃねーかこんチクショー!
「美味しいですか?」
「はい」
コーヒーカップを手にしていない方の腕でテーブルに片肘を突き、ほわんと微笑むその姿。……おかしい。やっぱりこの人、純粋に人畜無害そーにしか見えない。
いかんいかん。私は、フルーツごときで買収などされんぞ、ラスボスめ。さくらんぼウマー。
「そう言えば美鈴、さくらんぼのへたを口の中で結べると、キスが上手いって話、聞いた事ないかい?」
ようやくフレンチの海からサラダを救出し終えた中年が、こちらに身を乗り出して尋ねてきた。
しかしながら、それを娘に向かって問う中年の真意はさっぱり分からない。
「ああ。あるけど……」
「ふっふっふ……お父さんの隠された特技を見よ!」
私が食べる前に取り除いたさくらんぼのへたをヒョイと取り上げた父は、自慢げにそれを口の中に放り込んだ。
「ふっ、ひょっ、ひゅっ!」
「……」
「……」
同席者が唖然としているのを後目に、気合いを入れているのだかなんなのかは知らないが、頬の筋肉を動かし顔面の形相をぐにぐにと変形させながら、時折父の唇の隙間から漏れ出るヘンテコな声。
「お父さん。それでへたが上手く結べたとしても、今のお父さんの顔を見たら百年の恋も一気に醒めるんじゃない?」
「ひゅほっ!?」
遂には片手で顔の半分を覆いながら背け、肩を震わせ始めた柴田センセイの姿に、いたたまれなくなった私が半眼で突っ込むと、私の提言に驚いたらしき中年の唇から、真ん中から折れたさくらんぼのへたが吹き出された。それはコロンと、サラダを取り分けるのに使った取り皿の上に転がり落ちる。
私はじっくりと、取り皿に顔を近付けて折れたへたを端から端まで子細に観察し、目線だけをちろりと上に向けて中年を見上げた。
「……で?」
「うっ、ううっ……お、お父さんが美波さんを口説き落としたスペシャル技は、娘には通用しないと言うのか……!?」
「お母さんは、いったい何を考えてお父さんと結婚したのか長年の謎だったけど。父の変顔にウケて、交際に踏み切ったのか……」
「美鈴ヒドい!?」
父娘で真剣に討論している傍ら、対面の同席者は、口元を手の平で覆い身体の震えを押さえ込もうと必死だ。どうやらラスボスでさえ、我が父の繰り出す大ボケ攻撃には耐えきれないらしい。ある意味、我が父は最強なのではないだろうか?
モーニングを終えて精算を済ませて喫茶店のドアを潜り、柴田センセイはぺこりと軽く会釈してきた。
「それでは僕はこれで」
「はい、今日はありがとうございました」
「いえ、こちらこそ……っ!」
「……お楽しみ頂けたようで、ヨカッタデス……」
結局、父のボケ攻撃に陥落して吹き出したラスボスは、軽い思い出し笑いをして慌てて口元を押さえる。
人前に父を出すと多かれ少なかれこういった反応を示されるので、その娘であるところの私は最早悟りの境地である。
「いやあ、良い人だったね美鈴。流石、先生って呼ばれる立場の人は、人間が出来てるなあ」
「ソウダネ」
柴田センセイとのお喋りがよほど楽しかったのか、ご機嫌で帰途につく中年と並んで歩きながら、私は錆びたブリキのようにギクシャクした動きで頷いた。
「週末にモーニング巡りが趣味なご近所住まいらしいし、また偶然会うこともあるかもしれないねー」
嬉しそうな父には悪いが、どうも私には奴の事は油断がならない人種のように感じられた。
准教授という、自身の研究の傍ら学生に教える立場の、有り体に言って様々な角度から人間性や歴史にアプローチしている人物にしては、妙に人がよすぎる気がしたのだ。もちろん、初対面の相手に対する単なるお愛想ならばいい。
何というか……どうすれば人は彼を『善良な人間』だと感じ取りそう信じるのかを知り尽くしていて、常に仮面を被るようにしてそれを演出しており、暗い裏の顔が決して見えないように隠している、とでも言おうか。
要するに、言動が取り繕われているみたいで何かウソっぽい、という中傷じみた直感でしか無い。
……しかし、あの人は本当に椿にーちゃんへ殺意なんか抱いているのだろうか?
結局使用される事の無かった映画のチケットだが、流石に捨てるなんて勿体無さすぎる事はしない。
昨夜、アイに電話で「明日映画観に行かない?」とお誘いしてみたところ、見事OKを頂けたので、モーニングから帰って掃除と洗濯を素早く済ませて一息つくと、自室に上がってアイとのデート待ち合わせ前に身支度を整える。
「お父さん、こっちの刺繍入りのマキシワンピと、ジーンズ、どっちが良いと思う?」
クローゼットを漁ってひとまず二種類には絞り込めたが、パンツルックとワンピ、どちらが良いか一階で新聞を読んでいた中年にアドバイスを求めてみる。
「……美鈴、どこかに出掛けるのかい?」
「今日はね、これからアイと映画デートなの」
「アイちゃんかー。彼女も美人だよねー」
「……」
女子中学生の娘の同級生に対する、父親として不適格な発言をかます中年を冷たい目で睨むと、父は慌てて新聞を畳みつつ私が翳す服を見比べた。
「ええと、お父さんはワンピースが良いと思うな。美鈴はどんどんスカートを身に着けるべきだよ」
「分かった」
何だかよく分からないが、父はスカートが好きらしい。こっくりと頷いて着替えの為に二階に上がり、必要な物をバックに詰めて玄関に降りて行くと、中年が読んでいた新聞を置いて玄関先にまで見送りに来た。
何故か既に、三和土には私のリボンサンダルが出してあったので、素直にそれに足を通す。
「美鈴、美鈴。靴とお揃いの柄のリボンを結ぶと、もっと可愛いよ」
「そう?」
サンダルのリボンを結ぶ私の傍らに膝をつき、用意していたらしきストライプ柄のリボンをいそいそと取り出し、バッグに結び付ける中年。肩辺りで左右に分けて髪ゴムでとめている部分にも、鼻歌交じりに同じ柄のリボンを結ぶ父の手付きは非常に手慣れている。まあ、私の幼少期に髪の毛を結っていた張本人だし。
「よし、出来た。帰りは何時頃になる?」
「んー、多分あちこちお店をぶらぶら覗いて回るから、何時になるか分かんない。
洗濯物、乾いたら取り込んでおいてね」
「分かった。今日のお夕飯はお父さんが作っておくから、アイちゃんと楽しんでおいで」
「うん。行ってきまーす」
サンダルを履いて立ち上がり、見送りに手を振る中年に手を振り返しつつ玄関を出た。
アイとの待ち合わせは、駅前繁華街にある映画館の前である。午前十一時の待ち合わせであったが、彼女は私よりも早くに映画館前の広場にて佇み、スマホを弄っていた。
「アイ、お待たせ!」
彼女の姿を遠目に確認し、小走りに駆け寄りつつアイに呼び掛けると、彼女は手にしたスマホから顔を上げて表情を綻ばせた。
「おはよう美鈴っち。
しかし今日はまた、一段と気合いの入ったオシャレ具合だね?」
「ああ、このカッコ?
お父さんが、『美鈴はスカートが似合うよ』って勧めてきたから」
オフホワイトのサイドバッグを肩に引っ掛け、リボンサンダルが見えやすいよう丈の長いスカートを持ち上げ、ふふんと笑いつつ裾をヒラヒラさせると、アイは額に手を当てた。
「あれだな。一番の難敵は間違いなく美鈴っちのお父さんだとあたしは思うね」
「えっ、アイもそう思う!?
いやあ、私も丁度今朝、『うちの中年って実は最強じゃね?』とか思ってたところなの!」
「うんうん、そうだね。美鈴っちのパパおニュー伝説はまた今度聞くから、今日はまずは映画を観ようね」
我が友は唇を軽く持ち上げて笑みらしき形を象りつつ、私の背中を押して映画館へと足を踏み入れた。
むぅ。友と私のシンクロ率の高さについて、ローテンションが常のアイでは感動の共有は難しいものであるのか。
窓口でチケットを渡して入館し、売店で足を止めて飲み物を購入し、映画を観ながら二人で分け合うポップコーンの味付けについて真っ向から意見を戦わせ合い、妥協点としてシンプルな塩味を買って座席に着いた。
「映画が始まる前のCMってさ、変わってるの多いよね。頭がビデオカメラになってる奴が注意促したり……って、出た!」
映画を無断で撮影したり、録音したりしないように。不信な人物を見掛けたら係員まで。上映中は携帯の電源を落として……云々の案内を促しているしごく真面目な映像なのだが、そのコミカルな動きには思わず笑いがこみ上げてくる。
映画上映される前の、幕が全て開かれていない明るいシアターで隣に腰掛けたアイは、真ん中に置いたポップコーンを映画がまだ始まってもいないというのにパリポリと摘みつつ、私に胡乱な眼差しを向けてきた。
「……ねえ、美鈴っち?
なんか今日は、妙に明るくない? こう、ナチュラルハイって言うかさ」
「えー?」
対抗してポップコーンを大量に掴み上げて口に放り込み、私は首を傾げた。
「何で? 別にいつも通りだよ?」
私の返答に、アイが何か言いたげに唇を開いたが、ふっと館内の照明ライトが消された。ガーッと小さな物音と共に幕が完全に開き、スクリーンに数ヶ月後に配信される映画の予告が映し出される。お喋りを諦めたらしきアイは座席にきちんと座り直し、スクリーンに向き合ったので、私も更にポップコーンを掴んで真正面へと視線を向ける。
ド迫力のアクション物よりも、私が観たいと思う好みの傾向としては……何だろう。アニメーションムービー?
今日の映画は、十九世紀のロンドンを舞台とし、記憶力や洞察力に観察力は鋭いが、無名で貧乏な上に上背も体力も腕力も無い、ないない尽くしの男装探偵と、天才的な頭脳を用いてロンドンに恐ろしい事件を引き起こす手引きをする怪人との、推理合戦と罠と駆け引きである。
1800年代と言えば、女性の社会進出や人権を求める運動が盛んになり始めた頃で、つまり、それまでの女性のあるべき立場とは家に収まっているもので、レディとは仕事をするべきでもないし、淑女の面目が立つ仕事とは女性家庭教師……ガヴァネスぐらいなもの、という風潮だったのだ。当然の帰結として、巷にはガヴァネスが需要過多で溢れ返る。
女性は大学への入学資格さえ認められなかったのだから、現代は恵まれた世相だと言える。
探偵を志した主人公も、そんな考え方が常識である時代において、当然の事ながら女性だとバレたら上客からの仕事の依頼など皆無になるし、探偵稼業を畳むしか無くなってしまう。細心の注意を払って女性である事を隠し、下宿先にて小さな探偵事務所を開き、日々浮気調査だの迷子猫の捜索といったお仕事に走り回る。最大の収入源は、内職だ。
そんな彼女が偶然、霧雨が全てを吸い込む夜のロンドン街で通り掛かりに、殺人未遂の現場に出くわすところから事件は始まる。
怪我を負って気絶している被害者を、慌ててお医者様の家へ運び込むが、むしろ主人公が加害者なのではと疑われ、警察……ヤードを呼ばれてしまう。
医者の家にやって来た髭面のヤードから、事情聴取と危険物を所持していないかと身体調査を求められ、主人公、いきなり大ピンチ。
そこへ怪我の手当てを受けた被害者が無事に意識を取り戻し、自分を襲ったのは体格も背丈も大きい男だったと証言し、主人公は男装の秘密を保ったまま窮地を逃れられる。
殺されかけた青年は、自分を救ってくれた主人公を有能な私立探偵だろうと判断し、何故自分が狙われたのか、または無差別の猟奇犯であるのか、事件を調査して欲しいと依頼する……
というのが、今回の映画のプロローグである。
主人公は地道に情報収集をしたり、その一環で女装して……いや、男装を解いて? 依頼人に連れられ社交場に潜入したり、依頼人の青年の母方の親族を辿っていくと大物貴族である事を突き止めたり、にも関わらずフレンドリーな依頼人と探偵という立場を超えて、徐々に青年との友情を育んでいき。
第二第三の謎の大男殺人事件が発生したり、髭面のヤードが主人公を胡散臭がって事件現場から追い払おうと張り合ったり、下宿先の大家さんである金髪のお姉さんが超絶チャーミングで、日々遊ばれちゃったりからかわれたり弄られたりと、下宿先の大家さんとのじゃれ合いはともかくとして、事件は徐々に加速していく。ていうか、お姉さんがマジで可愛いんだが。
そして、事件の真の首謀者の影がチラホラと見え隠れしてきた辺りで、主人公が髭面ヤードと協力しあい実行犯の大男を罠に嵌め、見事に捕らえた。だがしかし、その隙に裏で糸を引いていた怪人は依頼人の青年を攫っていたのだった!
主人公は青年が約束してくれた依頼料の為……違った、固い絆が結ばれつつあった友情の為、残された手掛かりを元に、『一人で来るように』との指示に従って単独で怪人の待つであろう夜の埠頭へ向かい、怪人との対決に臨む。
依頼人の青年を返せと高らかに叫ぶ主人公に、マスク姿の怪人は笑う。あの青年は、とある保守派の娘しか得ていない大貴族の遠縁に辺り、当主が亡くなれば爵位継承権が転がり込む立場なのだと。
そして一連の事件は、誰あろう依頼人の青年が他の邪魔な候補を排除し、かつ自分に疑いの目が向けられぬようにする為に引き起こしたのだと。戸惑う主人公。確かに、彼女が居合わせた最初の事件は不自然な点が多すぎたのである。
そこへ、閉じ込められていた倉庫から自力で脱出してきた青年が駆け付け、訴える。
自分は爵位を欲した事など一度も無いし、相応しい者は他に居る、と。これから時代の流れはきっと大きく変わるだろう。そしてその時、大貴族として立っているのが自分では、とても立ち向かえないのだ、と。
そして更にそこへ、主人公の様子がおかしいと後をこっそりつけて来ていた髭面ヤードが仲間と共に現れ、埠頭を取り囲む。
不利を悟り逃走を図る怪人にまんまと撒かれてしまい、意気消沈する主人公を励ます青年。
こうしてロンドンの影でひっそりと進行した事件は幕を閉じ、主人公は再び貧乏で閑古鳥の鳴く事務所で、せっせと内職に励む日々を送っていた。
大家さんから受け取った新聞によると、例の保守派の大貴族が亡くなり、上流階級では様々な変革が起こっているらしい。
新聞を読みながら青年の事を考えていると、タイミング良く彼が事務所を訪れた。
待望の依頼料の到着……もとい、友人の来訪を喜んで歓迎を示す主人公に、青年はこう言った。
「今日は、約束していた依頼料を届けに来たんだけど……一つ、謝らないといけない事があるんだ。ごめんね」
「え?」
「新聞にももう載ってたと思うけど、ご当主様が亡くなって、僕に爵位を継ぐように、って話が回ってきて……」
「まあ、継承権を持つ親戚筋の血筋としてはそういう順番なのだから当たり前だろうね」
「それで、爵位継承権放棄を申し出て、更にはご当主のご息女が爵位を継げるよう相談しに女性解放運動の有力者達と接触しているのが父にバレて、家から勘当されて」
「……えっ? そ、それじゃ、い、依頼料は……?」
依頼人の青年は、にっこりと微笑みながら「はい、どうぞ」と封筒を差し出した。主人公は畏まって受け取りお札を数える。明らかに、約束していた金額よりも少ない。
「ごめんね。僕のポケットマネーからだと、それが精一杯で」
「い、いえ。元々、身に余る額でしたからっ……!」
涙を飲みつつ、気を取り直して主人公は青年に問う。
「それで、勘当されただなんて大事ですが、これからどうなさるおつもりですか?」
「それなんだけれど……約束していた金額の不足分は、これから僕の労働で支払うよ」
「え?」
「実は、今日から住むところも無くて。住み込み探偵助手希望です。よろしくお願いします、ボス!」
「えっ? ええ~っ!?」
「自分で言うのもなんだけど、指先は結構器用だし、体力にも自信あるし、顔もそこそこ広くてお買い得!
……それとも、君は困っている友人を見捨てるのかい?」
「うっ」
「どうなの?」
「住むところが見付かるまでだからね。助手として使えなかったら、放り出すし!」
「了解ボス」
頑張れ主人公。下宿人が増えたら男装がバレる危険性も増すぞ。
そしてそこへ、大家のお姉さんが家賃回収に現れた!
「あらあ、店子さんが増えて嬉しいわ。
安心して? 家賃は先週分までは一人分で、今週から三割り増しで済ませてあ・げ・る」
「えっ、据え置きじゃ……?」
「人数が増えるのだもの。食費光熱費が増えるわよ?」
「今日からお世話になります。よろしくお願いします、大家さん」
「ええ、よろしくね」
「あああ……
仕事だっ、仕事を探しに行くぞ! 助手、ついて来い!」
「了解ボス。それじゃ大家さん、行って参ります」
「行ってらっしゃ~い」
せっかく青年から受け取った依頼料も、これまで滞納していた家賃で露と消え、頭を抱える主人公は依頼を求め、大家さんに手を振られて見送られ、新米助手を従えて下宿を飛び出したのだった。
と、何だか微笑ましいラストの後、スタッフスクロールが流れて再び映像が現れた。ロンドンの街中を歩きつつ、主人公と青年は地道に宣伝活動及びお仕事探しに励んでいる。
その様子をバックに、彼らのそれぞれの内心の声らしきナレーションが一言。
――そう言えば、本当に顔が広いのなら、どうしてもっとお金持ちの友達を頼らなかったんだろう?
――こんなに目が離せない危なっかしいレディは、僕がちゃんと面倒見てあげないと。
不思議そうに青年を見上げる主人公を笑顔で見下ろす青年、彼らの横顔を納め、今度こそエンドマークが付いた。
館内へ一斉に明かりが灯り、私は眩しさにパチパチと目を瞬いた。
「出ようか、美鈴っち」
「うん」
放映中には結局殆ど手をつけずに映画を必死で見ていたが、ふと覗き込んだポップコーンの容器の中身は綺麗に空になっていた。アイ……隣から食べてる音は殆どしなかったのに……恐るべし。私はダストボックスに容器を捨てる。
同じく映画を観終わってぞろぞろと退出してゆく人の波に乗り、私達は映画館を出て再び駅前広場へと足を運ぶ。
「ちょっと時間ズレてるけど、お昼どーする?」
「んー、そうだね」
バッグからスマホを取り出して時刻を確認すると、午後一時三十分。週末のランチタイムの人いきれが減り、ポツポツ席が空き始める時間帯だ。
繁華街へと歩を進みつつ、どっかファミレスにでも入る? と、相談しあっていた私は、道路を挟んで反対側の通りの向こうを、見覚えのある人物が横切って行くのを視界の端にとめ、弾かれたように身体ごとそちらへ注目した。
「……時枝先輩だ……!」
「ん? ああ、本当だね。
時枝先輩、買い物か何かかな、って美鈴っち!?」
私は素早く四車線の通りを見渡し、横断歩道に駆け出した。丁度タイミング良く信号も青に変わり、スピードを落とさずに全力で駆ける事が出来る。まあ、所詮は文化部のもやしだからトロいんだけど。
「時枝先輩っ……!」
「……葉山?」
私が横断歩道を半分ほど駆けたところで走りながら呼び掛けると、声に気が付いた時枝先輩が歩みを止めて振り返った。その顔が、驚いたように見開かれる。
「危ない!」
「美鈴っち!」
時枝先輩がひどく慌てた様子でこちらに向かって駆け出そうと大きく一歩踏み出し、背後からアイがいつにない悲鳴じみた叫び声で私の名を呼び。キキーッ! と、激しくアスファルトへタイヤが擦り付けられる急制動の音が驚くほどすぐ近くで聞こえて、直後に横殴りの衝撃を受け、私の身体は宙を舞った。
……あれ? 青信号……だったよね? うん、青だ。
地面へ叩き付けられる前の一瞬、回転する視界に映った信号機は、間違いなく青い色を示している。
「美鈴っち!」
「葉山、おい、葉山!?」
激突の衝撃を受けた瞬間は少し息が苦しかったが、何故か全くどこにも痛みは無い。しかし、私の顔を覗き込んで懸命に何かを告げてくるアイや時枝先輩の顔がぼやけ、急速に視界が漆黒で塗り潰され……スイッチを切ったかのように、五感が全て同時に途切れた。
全ての感覚が再び戻ってきたのは、それが途絶えた時と全く同じように、パチリとスイッチが切り替わったかのような、そんな唐突さを伴っていた。
「……あれ?」
つい先ほど出たばかりであるはずの、映画館の座席に腰掛けた体勢で私は瞬きを繰り返す。館内の照明は煌々と照らされ、正面のスクリーンを半分隠すように幕がガーッという小さな音と共に閉められる。映画を鑑賞し終えた人々が、次々と座席から立ち上がって出入り口から退出していく。
私はキョロキョロと辺りを見回して、そんな周囲の様子を確認していた。いつまでも立ち上がらない私を、アイがポップコーンの容器を持ちつつ怪訝そうな表情で見下ろしてくる。
「どしたの、美鈴っち? そんな不思議そーな顔しちゃって。
……まさか、映画観てる最中にいつの間にか寝てた?」
「……なんか、それっぽい?」
「あはは、疲れてたの美鈴っち? さ、行こうか」
「うん」
私は首を捻りながら立ち上がった。自分の状態を見下ろして、手を髪にやって確認してみるが、どこにも異変は無い。
確かに、真剣に鑑賞してから映画館を出たと思ったのだが……ハッと気が付いたらもう一度ここで目が覚めた? ような状態だった訳で。多分恐らく、やたらとリアルな夢でも見ていたのだろう。
だってそうじゃないと、自動車に引かれたのに怪我や汚れ一つ無く映画館に舞い戻っていた、だなんて訳の分からない事態にはなるまい。それにそう、あの夢では自動車事故に直面したにしては、全然痛くなかったし。
空になったポップコーンの容器をダストボックスに放り込み、映画館の出入り口に向かいながら、アイが言った。
「ちょっと時間ズレてるけど、お昼どーする?」
私はサイドバッグからスマホを取り出して、時刻を確認してみる。
それは、きっかり午後一時三十分を表示していた。




