本編⑪
前髪から滴り落ちた水滴が鼻梁を伝っていく感覚に、ようやく私は自分が頭から水を被って濡れている事を自覚した。状況把握が遅まきに過ぎる。私の肩を軽く押し、進行方向を促す傍らの椿にーちゃんが差す傘で僅かに遠ざけられた雨は、静かに街へと降り注ぐ。
以前椿にーちゃんと待ち合わせた駅近くの住宅街にある公園、その隣に建てられたタワーマンションのエントランスホールに案内されて、私はなるほど……と、ぼんやりとだが合点がいった。椿にーちゃんはここに住んでいたから、日々の外出のたびにお隣の公園の花壇の開花時期を自然と把握していたのだろう。
エントランスホールの奥、ソファーやテーブルが設置されたラウンジのガラスの向こう、雨にけぶる遊歩道を何とはなしに透かし見て、三階分が吹き抜けになっているホールの天井を見上げた。
と、物珍しさから私があちこちを見回していると、エントランスホールの一角に佇んでいたコンシェルジュさんが、カウンターの向こう側からタオル片手にこちらにやってきた。
「お帰りなさいませ、石動様。お嬢様、こちら、よろしければ」
「ただいま。ありがとうございます。ほらミィちゃん」
濡れ鼠な自分を躊躇いなく『お嬢様』などと呼称する、ピシッとしたホテルマンの制服のような服装のコンシェルジュさんを前に、住人ではない自分が差し出されたタオルをお借りしても良いのかと戸惑いが湧き上がったのだが、椿にーちゃんは全く頓着せずに受け取って、私の頭にパサリと被せてきた。
「あ、ありがとうございます」
タオルの下から見上げてお礼を口にすると、コンシェルジュさんはふわりとお辞儀を返してきた。……ここ、ホテルじゃなくてマンションのエントランスだよね?
「俺の部屋、十五階なんだ」
コンシェルジュさんを「とくに問題ないから大丈夫だよ」と下がらせて、カーブを描く吹き抜け階段を上り、自動ドアのようなガラス張りの壁に遮られたエレベーター利用口の前の機械に、椿にーちゃんは胸ポケットから取り出したカードをピッと通す。ガラス張りのドアが開いて、待機していたそこに乗り込んだ。
私が後について来たのを確認してから閉ボタンを押したにーちゃんは、再びカードを通して十五階のボタンを押した。いちいちカードキーを通さないと作動しないのだとすると、非常に面倒くさそうだ。
「なんか、凄く高級なマンション住まいなんだね、椿にーちゃんって」
「ま、俺は単に、ここに住んでる親戚が海外に行ってる間、掃除や手入れをする代わりに借りてるだけなんだけどね」
「ふーん。人が住まないと、家は荒れるって言うしね」
現実感がわかず、椿にーちゃんのかけてくる言葉に上の空で適当にぽつぽつと返している間にエレベーターは目的の階に到着し、これまた広い廊下を歩いて部屋に案内された。
玄関先からして内装はいかにも金が掛かっていそうな豪華さだが、色合いが落ち着いている為かうるさくない。
「じゃ、お風呂はもう沸いてるから早速入ってミィちゃん。早く温まらないと風邪ひいちゃう」
廊下やら玄関先やらを観察する前に、椿にーちゃんに問答無用で浴室に押し込まれ、こっちがシャンプーでこっちが……など、一通りのアメニティを解説すると、「しっかり肩までつかって温まるんだよ?」とクドいほどに念押しされ、そしてじゃあごゆっくり、と、あっという間に私は一人ポツンと脱衣所に放り出されていた。
脱衣所には洗面台も設置されていて、大きな鏡の中に映る私は、青褪めた顔色をしてどことなくうすらぼんやりとした表情で見返してくる。
沈黙の中、クシュンと小さくくしゃみが漏れ、身体が震えた。
「……お風呂、入ろ」
何がどうしてこうなったのかよく分からないままだが、しっかり温まれと口を酸っぱくして言い付けられるのも納得なほど寒かった。雨に打たれ、自分の身体が冷えているのにも気が付かないほど、私は平常心を失っていたらしい。
濡れて肌にベッタリと貼り付いてくる制服を脱いでハンガーに掛け、水気が染み込んだ下着を別のハンガーに掛け、しばし干し場所に悩んだ。皐月さんが選んでくれた、自信を持って大変可愛いと断言できるデザインの下着だが、脱衣篭の中に放置しておいて、タオルを持ってきてくれた椿にーちゃんにこれを見られるのは流石に恥ずかしい。ちょっと陰干ししておけば、お風呂入ってる間に乾くだろう。多分。
浴室のドアを開くと、ほかほかとした湯気が冷えたを包み込み、ほんのり心地よい。浴槽に片手を差し込んで温度を図ってみると、少し熱すぎるようにも思えたが、よく考えるまでもなく今の私は身体が冷えているから熱く感じるだけか。
ぬるめのシャワーから徐々に温度を上げ、冷えていた身体の強張りを解いていく。
髪と身体を洗い、浴槽にちゃぷんと身をゆだねた。
「……」
温かなお湯につかりながら浴槽の縁に頭を預け、湯気が立ち上ってゆく天井を見上げる。
強すぎず穏やかな輝きを放つライトと、開放感溢れる広々とした浴室。浴槽の真正面にはテレビがあり、今はまるで水族館の水槽のようにふよふよと水中を舞うクラゲの映像を流している。何故にクラゲなのか?
と、映像の意味を考えている間に脱衣所の向こう側から遠慮がちな声が聞こえてきた。
「ミィちゃん、ちゃんと温まってる?」
「うん。お風呂お借りしてます。気持ち良いよ」
私が浴室に居るので鉢合わせする心配が無いと判断し、脱衣所に椿にーちゃんが入ってきたようだ。浴室の磨り硝子のドア越しにシルエットが映る。
「良かった。篭にタオルと着替え置いておくから、使ってね。
俺の服しか無いから、サイズはブカブカかもだけど……
あ、制服はリビングで扇風機の前にでも掛けておくよ。ちょっと預かるね」
「わざわざありがとう」
「ゆっくりくつろいでね」
「うん」
椿にーちゃんは脱衣篭にタオルや着替えを準備してくれて、シルエットは移動し、そのまま脱衣所を出ていったらしい。
再び、特に意味もなくクラゲを眺めつつ、取り留めもなく考える。
……そっかあ。私、時枝先輩に振られちゃったんだよね……
高嶺の花を取り巻く少女の多さにいてもたってもいられなくなり、作戦だとか駆け引きだとか、そんなもの何も考えずに勢いだけで激突して見事に玉砕した、と。つまりは今の私はそういう事だ。イノシシにも程がある。
私が焦ってしまったのはきっと、時枝先輩に憧れるご同輩の多さだけではなくて、もしかしたらあれも関係しているのかもしれない。
椿にーちゃんが、皐月さんに告白すら出来ずに失恋確定してしまった、あんな表情が。私もただのお気に入りの後輩の立場でぐずぐずしていたら、いつかきっと同じ事になるって。
お湯の中で膝を抱え、顎まで湯に浸し、無言のまま自分の膝小僧を見つめる。フローラルな入浴剤まで入っているのか、乳白色のお湯はとても良い香りがして。
「……来週から、先輩に合わせる顔が無いな……」
深々と溜め息を吐いてから、私は浴室を出た。
脱衣篭の中に、私がお風呂に入る前には存在しなかったタオルや白いシャツが入っている。ひとまず身体を満遍なく大判のバスタオルで拭って水気を取り去り、乾燥機の陰にこっそり干しておいた下着を取り出してじっくり検分する。もともとあまり濡れていなかったし、少し冷たいがさほど気にならない。
そして、着替えとして畳んで置かれていた白いシャツとチノパンを、それぞれ眼前に掲げてみた。
椿にーちゃん。……やたらとサイズがデカくないですか?
ひとまず、まだ濡れている髪を大判バスタオルで包み込んで頭に纏め、真っ白なシャツに両腕を通してみる。大方の予想通り、手はおろか指先すら出ない。袖が皺になるがまくり、ボタンを全て留めると丈が長い為、裾はふくらはぎに届くまである。これは決して、私が短足だからではない。
チノパンを穿いたらウエストが全く足りず、お尻で僅かに引っ掛かったが歩きだす前に床にストンと落ちた。これも決して、私のお尻の形が悪い訳ではない。
無言のまま足首に絡まるチノパンを脱ぎ、きちんと皺を伸ばして片腕に引っ掛ける。
あのあんちゃんの腹の辺りが私の腕が突ける高さなので、体格差から服のサイズに隔たりがあるのは当たり前か。
「あれ? 私のカバンがない……」
確か、脱衣所の床にドサッと置いたような、はたまた無造作に玄関先に放置だったような……記憶が曖昧で、どうもはっきりしない。
用意されていたスリッパを履き、脱衣所からフローリングの廊下に出てペタペタと足音を立てながら辺りを見回す。脱衣所出入り口から見える廊下の先のドアが開け放しになっており、椿にーちゃんがこちらに背を向ける格好でソファーに腰掛けてもたれていて、彼の後ろ頭が見えた。
マヌケな足音を立てながらそちらに接近すると、椿にーちゃんが振り返った。
「ミィちゃん、ちゃんと肩までつかって十数えた?」
読んでいたハードカバーの書籍に栞を挟み、それをローテーブルの上に置く椿にーちゃん。私は落ち着きの無い幼児かい、というツッコミを入れる気力も湧かず、無言のままこっくりと頷く。
私が差し出したチノパンを受け取って傍らに置き、「ベルト持ってこようか?」と確認されたので首を左右に振っておく。別に寒くはないし、ワンピース状態のシャツだけで十分だ。
「喉渇いたでしょ。はい、これ」
始終口数少なく無口な私に気を悪くした様子も無く、椿にーちゃんはローテーブルの上に乗っていた二つのカップのうち片方を私に手渡し、自らの隣、二人掛けソファーの座席部分を軽く叩く。
これを飲め、そして隣に座れと。いつもの人畜無害そーな爽やかな笑顔で促してくる。
椿にーちゃんの隣にポスッと腰掛けると、座席も背もたれも無駄にフカフカだ。安定性が悪いので一旦ローテーブルにカップを置いて、お尻をズリズリとズラして深めに腰掛ける。背中に体重を預けて姿勢は安定されたが、そうすると膝裏がソファーの座席に乗り上げてしまい、足裏が床に着かない。これは流石に……私の足が短いからかっ!?
この状態で座ったまま、ローテーブルに置いたカップを取ろうと全力で前傾姿勢とりつつ腕を限界まで伸ばしても、純然たる文化部のもやしな私は前屈の体操で両手が爪先にまで届かない。ローテーブルは、その遥か先にある。
「あ、ごめんねミィちゃん。このソファー輸入品で、サイズも一般的なやつより大きいんだった。
叔父さんも背ぇ高いし、野郎しか部屋に呼んだ事無かったしなあ。迂闊だった」
ぐぬぬぬ……! と、無駄に腕を伸ばす私をキョトンとした表情で見守っていた椿にーちゃんは、ようやくこのソファーが私には大きすぎるのだという事実に思い至ったのか、ヒョイとカップを持ち上げて再度手渡してきた。ポスッと背もたれに体重を預け、ようやく人心地つく。ここは巨人の巣窟か。
改めてカップの中を覗き込む。ほんのり白っぽく茶色い液体がたゆたっている。カップを両手で包むとほんのり温かい。何だろう、これ。
一口、舐めるように飲んでみると、人肌に温められたミルクに……ココアが少量入ってる? 飲み物のようだった。ほんのり甘くて、優しいミルクチョコレート味。
「美味しい?」
「うん」
隣から顔を覗き込んできた椿にーちゃんに、甘い物で気持ちを落ち着かせてこれた私は、少し笑顔を返せたような気がする。
「良かった。おかわり欲しかったらいくらでも言ってね?
二杯目以降は、自力でかき混ぜてもらう事になるけど」
「……かき混ぜ」
「かき混ぜ。ミィちゃんがお風呂入ってる間、粉末が全部溶けるまでこう、両手でマドラーを構えて、二つのカップを延々かき混ぜてた。多分、十分ぐらい掛かったかな?」
こう、などと言いつつ何かを摘む仕草をして両手首を回転させる椿にーちゃん。その情景が目に浮かぶようだ。
「いや、何も全部溶かさなくても、ダマになってても良いじゃん」
「いやいや、せっかくだから全部美味しく飲みたいじゃないか。
それを、小さい粉の塊が幾つも浮かんでるとか、うっかり飲み込んだ時に粉っぽくて嫌だ」
「……じゃあ、粉末状の飲み物なんてそもそも買わなきゃ良いんじゃ……?」
「好物なんだから仕方がない」
「難儀な性格してるね、椿にーちゃん……」
そう言えば、前に待ち合わせしてた時も、用意してくれてたのは紅茶とココアだったなあ……などと思い出しつつ。
椿にーちゃんはカップの中身を飲み干してから「それにね」と、言葉を繋げた。
「この青汁、すんごく栄養あるんだよ。溶けてなかったから飲み残すなんて、もったいなくない?」
「……うん? 青汁?」
今、椿にーちゃんの口から場にそぐわない単語が飛び出した。今のやり取りで『この』は、現在の状況下を指しているはずなのだが、何故、唐突に緑色の苦い液体の代表格が会話に引っ張り出されるのか。
椿にーちゃんは空になった自らのカップを片手で顔の横に持ち上げ、もう片方の手で指差しつつのたまう。
「大麦若葉の青汁、チョコレート味。ミルク入り」
「……詐欺だっ!?」
「でも俺、これがココアだとかホットチョコレートだとか、一言も言ってないし。それに美味しいんだから、全て許される。
自分の主観だけで断定して、事実確認を怠り真実と思いこみ勘違いする、ミィちゃんはそういう典型的な猪突型だね」
「む……」
不満を抱いて唇を尖らせる私の頬を軽く指先で突っつき、椿にーちゃんはローテーブルの傍らに視線をやった。
「一応、通学カバンの表側は拭いておいたけど、あれってちゃんと撥水加工になってるの?」
「あ、うん」
持ち主がどこに放置したのか不明であったカバンは、椿にーちゃんの手によりリビングにまで運ばれていたらしい。口振りからすると、チャックを開けて浸水していないか確認まではしていないようだ。別に、人様に見られて困るような中身など入ってはいないのだが。
万が一、教科書やノートが濡れていては一大事と一通りチェックしてみるも、学生の強い味方は強力であった。水分が染み込んだ様子は見られない。
と、私がカバンの中身を確認している間、リビングから出ていた椿にーちゃんが、ブラシとドライヤーを手に戻ってきた。
「ごめんねミィちゃん。ドライヤーも目に付きやすいよう、引き出しから出しておけば良かったね」
どうやら脱衣所にドライヤーもしまってあったらしい。ローテーブルの傍ら、敷かれたラグの上に座り込んでいた私の背後で膝立ちになった椿にーちゃんは、私の頭を覆うタオルを外して軽くタオルドライをし、湿り気の残る髪の毛に温風を当てていく。
「自分でやるのに」
「良いの。今日は、ミィちゃんは大人しく俺に世話焼かれてなさい」
丁寧に髪を梳かれて乾かされる間、ドライヤーの立てる音だけがリビングに満ちる。
沈黙に耐えかね、私の方から口を開いていた。
「ねえ」
「うん?」
「何で雨の中に居たんだとか、聞かないの?」
「それなら、見つけた時にもう尋ねたし。答えたくないような事は、食い下がっても無駄かなーって。
ミィちゃんが話したい事だけ、話せば良いんだよ」
いつの間にか引っ込んでいた涙が、またホロホロと零れていった。
「にーちゃん」
「なぁに?」
「わ、私ね、振られちゃった」
「……」
黙って背後にいる椿にーちゃんの表情は見えなかったけれど、私の髪の毛を梳く指先は一瞬だけ止まったように感じられた。
「すっごく女子に人気がある先輩でさ、どんなに好きになったって叶う訳無いって、無駄だって分かってたのに……抑えようとしても勝手に気持ちだけ膨れ上がって、口から出ちゃって。
案の定、振られちゃった」
頬を伝う涙を両手でゴシゴシと強引に拭い、無理やり空元気を出して笑い飛ばそうとしたけど、喉から掠れて出た「アハハ」という音は、虚しさだけしか残らない。
ふと、頭上からドライヤーの音が止んだかと思うと、私はグイッと体勢を変えられて背後にあった壁……じゃない、胡座をかいた椿にーちゃんの胸板に、鼻先を強引に押し付けられていた。
「目、擦らないで。泣くのを我慢なんかしなくて良いから」
「にーちゃ……」
もぞもぞともがいても、椿にーちゃんの両腕が私の後頭部と背中に回されていて、抜け出せそうにない。大人しく胸に頬を埋め、椿にーちゃんの膝の上に腰を下ろして体重を預けると、自分でもちょっとどうかと思うぐらいの深い安心感があった。
……椿にーちゃん、うちのお父さんよりもよっぽどお父さんらしいよ。
「誰かを好きになって失恋する事は、無駄なんかじゃないよ?
想像だけで補えるものも、世の中にはあるけど。好き過ぎて苦しいとか、悲しいとか、辛いのは自分自身で身を持って体験してみないと、誰かから好意を寄せられる重みも、その気持ちに応えられない苦しさも、想いが通じ合って奇跡だと思える幸福や喜びも、きっと永久に理解出来ない」
ポロポロと溢れ出ていく涙は、椿にーちゃんのポロシャツに吸い込まれていく。頭を撫でられる感触に、守られているような安堵感を覚えながら、私は椿にーちゃんのポロシャツを両手でキュッと掴んで目を閉じた。
「にーちゃんの気持ちも重いの?」
「自慢じゃないけど、俺、超重量級だと思うよ?
本気で優しくしたいのも、大切にしたいのも、恋しいのも。どんな人と出逢おうが何年経とうが、何度も気持ち消そうともがいたけど、初恋相手が唯一無二なんだから」
「そりゃあ大変だあ……」
そんなに皐月さんの事だけが好き過ぎて仕方がないのなら、思い詰め過ぎて殺人にも走ろうというものだ。
椿にーちゃんはこんなに優しいのだから、そんな事件など起こしてほしくなどない。
「ミィちゃん、恋心は無理やり消そうとしたって出来ないよ。
自分のものなんだから、好きなだけ大事に抱え込んでいたって良いんじゃないかな」
「うん……」
時枝先輩に振られてしまっても。私は、好きなままでいても、良いんだよね……
ふんわり包み込まれるように温かくて、何だかいい匂いもして。夢うつつのままうとうとするのが、とても心地良い。
どこか遠くから、サァァァ……と、雨音が聞こえてくる以外は、何の物音も……
「ん……」
抱き付いていた抱き枕がもぞりと身動きして、半分まだ眠っている私を自分の方に引き寄せてきた。体勢が変わって、トクン、トクンという心音が聞こえてくる。
流石に、寝起きの頭でもこれは何だかおかしいぞ、という違和感を覚えて両目を擦りながら開き、頭まで潜っていた掛け布団をはね除ける。
目の前には、先ほど散々注視していたポロシャツ。頭をズラして視線を動かしていけば、喉仏から顎、すうすうと実に気持ち良そうに寝息を立てている唇、高い鼻に閉じた瞼と長い睫毛……
「……何で私、椿にーちゃんと昼寝してるの?」
いや、この状況から察するに、恐らく私は椿にーちゃんにしがみついたまま泣き疲れて寝入ってしまったのだろうし、服掴んで離さなかったのかもしれないけれど。無理やり引き剥がして、ソファー辺りに放置してくれて良かったのだが。
二人並んで横たわっても窮屈さを感じないベッドの上にいつの間にやら寝かされていた。起き上がろうとしたら、どうやら私が一方的にではなく向こうからも抱き枕扱いされていたらしく、肩から腰の辺りにかけて椿にーちゃんの腕が巻き付かれていて、拘束されているような体勢のせいか、簡単には抜け出せそうにない。
「にーちゃん、にーちゃん」
ぺちぺち、と、寝入っている椿にーちゃんのほっぺたを軽く叩いてみたが、寝起きが悪いと自称するイケメンは見事な熟睡っぷりを継続したままだ。
「……どうしよう」
このまま静かな雨音をBGMに、薄暗い室内でぬくぬく感を思う存分堪能出来るベッドの中、ぼけーっと横になっている、というのも自堕落な昼下がりとして実に捨てがたい案だが、首が自由になる範囲で寝室の調度品を見渡した限り、時計が無い。
ベッドボードの辺りに乗っけているのかもしれないが、椿にーちゃんの腕が拘束具と化していて、そちらは視界に入らない。
「椿にーちゃん、私、そろそろ起きたいんだけど」
夕方までに帰宅して、お夕食の支度をしなくてはならないので、今現在の時刻をきちんと把握しなくてはならない。
私がしつこく椿にーちゃんの鼻を摘んだり、ほっぺた撫で回したり、耳を引っ張ったり、胸板にグリグリと頭突きをかましたりしていたら、ようやく低血圧の王子様は「うぅ~ん」という、無駄に悩ましい呻き声だか唸り声を上げて、寝返りを打って仰向けになった。つまり、私の動きを制限していた腕の拘束具が外されたのだ。
睫毛が震え、寝起きで気怠げな眼差しがゆらゆらとさ迷い、椿にーちゃんを覗き込む私の姿を捉えた。途端に、唇を綻ばせて蕩けたような甘い笑みを浮かべる。
「ミィちゃん……おはよ」
「ハイハイ、オハヨーございます」
「あー、何か、こんなにグッスリ眠ったの久しぶりだ……」
額の辺りに上げていた腕を私の背中に回して抱き寄せ、体勢を保てずあえなくにーちゃんの胸の上に倒れ伏す私の耳元に唇を寄せ、椿にーちゃんは寝起き特有の掠れた声で呟いた。
「ミィちゃん、俺、お腹空いた」
何事かと思えば、それか。
なるほど、一宿の礼にご飯を作れと。人生、どんな出来事が起ころうがお腹は空くものだ。
人にご飯を要求した挙げ句、二度寝に突入した椿にーちゃんは、もしかして実はとても疲れているのではないだろうか? 私がベッドを下りた途端に、寝返りを打ってうつ伏せになり、枕を抱え込んですうすうと健やかな寝息を立て始めたし。
ベッド脇でしばし寝顔を眺めても、目が覚めそうに無い熟睡っぷりからして、忙しくて睡眠時間を削っていたのだろうか。
「……やっぱ、私のせいだよね」
ここしばらく、椿にーちゃんには夕方から夜まで毎日テスト対策の勉強をみてもらっていたのだ。椿にーちゃんにだって元々のスケジュールがあるだろうし、こなさなくてはならない作業や勉強だってあるだろう。
私の家庭教師時間を捻り出す為に、自分の睡眠時間を削っていたのだとすれば、疲れているのも当然だ。
「椿にーちゃん、ありがとう」
お世話になりっぱなしのにーちゃんの耳元に囁いてみるが、夢の世界へと羽ばたいていった椿にーちゃんには多分聞こえてない。ちゃんと起きてる時に、真っ直ぐ目を見てお礼を言うのは……非っ常ーーーに! 照れくさい。
ひとまず、椿にーちゃんご所望のご飯を支度してお礼に代えるとして、私は眠る椿にーちゃんのサラサラな髪の毛を撫でてから寝室を出て、キッチンに向かった。
初めてお邪魔した人様のお宅を、無断で歩き回るのは自分でもどうかと思ったが。眠れる寝室の家主様は「お腹空いた」と、遺言……もとい、嘆願を残して昼寝に突入されてしまったので、お礼代わりにご飯を作っておこうという大義名分を掲げ。冷蔵庫を覗き込み、思わず唸ってしまった。
「椿にーちゃんチの冷蔵庫、牛乳と玉子とお豆腐と赤味噌と野菜しか入ってないっ……」
何故、このラインナップでバターが無いのか? という点は置いておいて。幸い、目に見えて分かり易い野菜の鮮度や、牛乳パックの賞味期限からして、玉子も古くはないのだろうという推測は成り立つ。しかし、あのあんちゃんは『改良失敗スクランブルエッグ』と『適当カット野菜炒め』以外の料理は本気で作らないのだろうかと思っていたが、実はお味噌汁も作れるのではないか、という喜ばしい情報を得た。まあお味噌汁って、大抵小中学校の家庭科授業で習うけど。
「んー、これだとメニューは何だろう。天ぷらかお好み焼き……?」
調味料は一通り揃っているし、パンやお米、小麦粉もある。ただ、椿にーちゃんの好きな肉や魚が一欠片も無いだけだ。
食料庫っぽい戸棚の中身を覗き込みながら、私は両腕を組んだ。
せっかくなのだから、美味しいご飯を味わってもらいたい。しかし、食材は限られている。まさか、一階のコンシェルジュさんにお使いなんか頼めないだろうし。
「……お買い物に行ったら、ご飯出来る前に椿にーちゃんを起こしちゃうしなあ」
ぶつぶつと呟きながら食料庫を漁った私は、棚の一角に燦然と輝く救世主の姿を見つけ、ハッと息を飲んだ。迷わず手に取り、念の為に賞味期限を確認する。
肉類大好きメンツもニコニコ食べる万能食材、グッとそれを天井へと掲げ、内心ではファンファーレが鳴り響く。
「ツナ缶、ゲ~ット!」
天井のLEDライトに反射して、缶詰めはキランと頼もしく輝いた。
少し早い時間の夕食となったが、せっせと調理した自信作を用意して椿にーちゃんに食べさせ、すっかり乾いた制服に着替え、そろそろ帰宅時間なので帰ると告げた私に、椿にーちゃんは当然のように送ると言い出した。
椿にーちゃんも忙しいのでは? と、一応遠慮してみるのだが、
「まだ雨が降ってて外は薄暗いのに、一人歩きさせられる訳ないでしょ」
と、一刀両断である。
……これで本人、皐月さんの方が断然大事で、皐月さんよりも私に優しくしていないと認識しているらしいけれども、じゃあ椿にーちゃんが皐月さんと二人っきりでいる時は、いったいどんなやり取りをしているのだろうか? 全く想像がつかない。
傘を片手にエレベーターを降り、私と並んで歩き出しながら、椿にーちゃんは何かを思い出したのかほぅ、と熱い溜め息を吐いた。
「やっぱり、ミィちゃんの作ってくれるご飯は美味しいな……和風ハンバーグ最高!」
何事かと思えば、またしても想いを馳せるのは飯かい。にーちゃんどんだけ飢えていたんだ?
「あれ、和風ハンバーグっていうか要は豆腐ハンバーグね。
椿にーちゃん、確かこの前は鶏の唐揚げが最高だとか熱く語ってなかった?」
「唐揚げは特別枠! ハンバーグもパスタも煮物も肉じゃがも美味しいんだから、仕方がない。
今度は中華作って、ミィちゃん」
「満腹になった割にはいきなり無茶振りしてくるね、にーちゃん!?
……チャーハンとか八宝菜ぐらいしか作れないよ?」
「チャーハン良いね。凄い食べたくなってきた」
この人、ご飯二杯もお代わりするぐらい食べて今は満腹のハズなのに、よく次の機会に作って欲しい料理リクエストとか出せるな。などと妙な感心をしつつ、こちらに柔らかい笑みを向けてくるカウンターの向こう側に立つコンシェルジュさんに、ぺこりと会釈をしてエントランスホールの自動ドアの前に立つ。
大きめなサイズのジャンピング傘を広げた椿にーちゃんが、私の肩を抱き寄せてきた。
「ほら、濡れちゃうからもっとこっち寄って、ミィちゃん」
「ありがとう椿にーちゃん。てゆか、同じ傘って歩きにくくない?」
「平気、平気」
一歩踏み出すごとに、パシャン、と、足下で薄く張っていた水溜まりがリズムを刻む。
「雨、なかなか止まないね」
「明後日から六月だけど梅雨入りはまだだし、夜には止むんじゃないかな」
「梅雨……あんま嬉しくない季節だわ」
急ぐでもなく、私の歩調に合わせてのんびりとした足取りの帰り道。来る梅雨に憂鬱になって溜め息を吐く私に、椿にーちゃんは「え、そう?」と、不思議そうに呟いた。
「俺は結構好きだな、梅雨って。
雨の中咲いてる紫陽花って綺麗だし、こうやってべったり引っ付いて歩いてても、傘に隠れて人目を引かないし」
「……前半は同意しないでもない」
あはは、と笑う椿にーちゃんは、かつて雨の中で傘を目隠しにいったい何をやったのか……うん、何故だか腹立たしい気持ちがしてきたので考えないでおこう。
「やっぱりミィちゃんは花が好きなんだね。
よし、じゃあ梅雨の良さを再確認する為に、今度お兄ちゃんと紫陽花を見に行こうじゃないか」
「……にーちゃんは、なんだかんだ言って出掛けるの結構好きだよね」
「そうだね、休みの日はお出掛け派。
えーと、開花時期と見頃は……」
スマホを取り出し操作した椿にーちゃんは、「おお!」と感嘆して私に画面を見せてきた。一面に咲き誇る紫陽花がライトアップされ、実に美しい。どこの写真だろう。
「ミィちゃん、是非、これを見に行こう。見頃は六月十日辺りからみたい」
「……えーと、それは良いんだけど。これ、どこ?」
「三室戸寺!」
嬉々として答える椿にーちゃんの回答に、私は首を傾げた。もともと地理にはとんと疎い方な私には、全く聞き覚えがない。
飲み込めていない私に、椿にーちゃんは付け加えた。
「京都のお寺だよ」
「……って、遠いわ!」
「向こうで一泊すれば良いじゃないか」
サラッと告げられた提案に、私は危うく転びかけた。
……ご実家は羽振りが良さそうな椿にーちゃんの中学時代は、もしかすると友達との週末一泊二日旅行とかもよくある出来事だったのかもしれないが、私は貧乏な家のまだバイト経験も無い普通の子どもである。貯金も無いのに旅費とかポンと出せるはずもない。無理無理。
「泊まり掛けとか、私はまず無理だよにーちゃん」
「うーん、雨の京都、それにライトアップ。きっと綺麗なんだろうけどなあ」
私が首を左右に振ると、椿にーちゃんは残念そうに溜め息を吐き、再びスマホを操作して「お」と、何かを見つけたようだ。今度は北の方のスポットに行きたいとか言い出すんじゃないだろうな。
「じゃあミィちゃん、蒲郡の紫陽花祭りは?
温泉街のスポットで、こっちもライトアップがある」
ひょい、と見せてくれた写真は、海か湖か……水面にライトアップされた建物が反射して映り込む、紫陽花咲き乱れる美しい夜景だった。
愛知県の蒲郡にある形原温泉の紫陽花は、東海地方でも有数の紫陽花観光スポットらしい。
「綺麗だね。ここ行ってみたいな」
「じゃあ、来週の土曜日で良い?」
「うん」
お出掛けの約束をして自宅の前まで送ってもらい、お茶をご馳走してから椿にーちゃんと別れる。手を振り、遠ざかる傘を見送って、私は自分の気持ちが幾分軽くなっているのに気が付いた。
時枝先輩のそばに居られなくなるんじゃないか、という、何かに急き立てられ追い詰められていくような酷く苦しい焦燥感が、すっかり消えている。
「……少し、前向きになったって事かなあ?」
時枝先輩が私を後輩以上に見ていないのなんか、別に今に始まった事じゃないし。ちょっとずつでも自分を磨いていけば……いつか、振り向いてもらえるかもしれない。
お夕食の支度をしている最中に、ようやく残業地獄から抜け出したお父さんが「美鈴ただいまー! お父さんお腹空いた!」と、帰ってきた。玄関先で空腹を訴えるのは、中年なりの様式美なのだろうか?
「あ、お帰りなさいお父さん。今日の夕食は昨日の残りの炒め物と、昨日の残りのご飯と、昨日の残りのスープだよ」
「……おぅ!? 残り物オンリー!?」
キッチンダイニングにキラキラした笑顔を浮かべて顔を出した父は、私の宣言に通勤カバンをドサッと取り落として天を仰ぐ。
「冗談冗談。昨日はご飯残らなかったからちゃんと炊いといたよ。白米だけは新しく」
「……二日連続炒め物……」
よろりら、とフラつきながら着替えに向かう中年は本気でショックを受けているようなので、お茶目な私は今日の夕食はお魚をアルミホイルで包んで蒸した料理だ、という真実は食卓につくまで黙っていた。
夕食の席にて、涙を流さんばかりにアルミホイル包みな料理を喜ぶ父。そんな中年を生ぬるい眼差しで見守りつつ、今日は珍しくビールを飲みたがった父のグラスに注いでやる。私はもちろん単なる麦茶だ。
「美鈴、テスト明けおめでとうー!」
「はいはい、お父さんも残業地獄脱出おめでとう」
何かと思えば、軽いお祝いの体裁だったらしい。ビールのグラスを掲げる父に合わせて、私も麦茶のグラスを掲げる。
グイッと一気に飲み干した父は、一瞬にして顔が真っ赤になった。
「今日はテスト終わってから、先輩と映画を観に行ったんだよね? 楽しかった?」
「あー。それが、時枝先輩から映画は観に行けないって断られちゃって。で、今日は学校の後、椿センセーのマンションにお邪魔した」
「そうか、映画は残念だったね。
そ、それで石動さんのお宅って、ど、どんな風だった?
お、おおお男の影とかっ?」
「はあ?」
やや動揺気味の父は、いったい何を懸念しているのだろうか。椿にーちゃんの部屋なら男が暮らしてるっぽい雰囲気なのは、ごく当然の……ハッ!? ま、まさかうちの中年が心配してるのは。
「……お父さんが聞きたいのはもしかして、椿センセーが男と同棲してるんじゃないか、とか心配してるの?」
「あ、いや、石動さんもお年頃だし。仮に同棲中の恋人がいたとしても、ご、ごく自然な……」
「海外で仕事してる親戚の留守を預かってるって言ってたし、在学中は多分同棲とかしないんじゃない?
あと、椿センセーは今恋人いないし」
「そ、そうか。良かった……」
酔っ払って顔色が赤く、安堵しているらしき父のグラスに、お代わりのビールを注いでやりつつ、せっせと薔薇フラグ設置に勤しむ中年を半眼で見やる。うちの父は、どうしても母以外の女性を特別視出来ないのは仕方がないとしても、だからと言って何故、男性を気に掛けるのか。
つーかそもそも、うちの中年と椿にーちゃんは、男の影を匂わせるようなメールのやり取りでもしてるのだろうか? 『ツレ』がどうの、みたいな流れ?
「あ、という事は美鈴、映画のチケットは使ってないんだよね?
それじゃあ明日にでもお父さんと……」
「ああ!」
父から未使用チケットについて触れられて、私はその存在をようやく思い出した。期限が切れる前に、その処遇を決めなくてはならない。
「そうだよ、映画のチケットの事すっかり忘れてた。せっかく今日、椿センセーの部屋に行ったんだから誘えば良かったのに。我ながら迂闊……
ありがとうお父さん。ご飯食べたら、椿センセーにメールを……うーん、皐月さんかアイを誘った方が良いかなあ?
それでえーと、お父さん、明日に何だっけ?」
誰を映画に誘おうか後で考えるとして父に向き合うと、何故か中年は写真立ての中で微笑む亡き母相手にシクシクと泣きついていた。
「美波さん、これは娘が成長したからで、ごく当たり前の事なんだよね……」
「お父さん?」
「うん、美鈴。明日は久々に、お父さんとモーニングでも食べに行かないかい?」
「喫茶店のモーニング、最近行ってないよね。行く行く!」
母相手にひとしきり愚痴った父は、写真立てをテーブルに戻して、私に明日の朝のお出掛けを提案してきた。
お隣の御園さんご夫妻が海外旅行に出掛ける前は、割と頻繁にご近所の喫茶店を巡ってモーニングを食べに行っていたものだが、最近は父の仕事が忙しくなった事もあり、足が遠のいていた。
「お父さん、約束したからね? 明日は寝坊しないでね?」
「任せて美鈴! 久々の休日だけど、ちゃんと早起きしてモーニング食べに行こう」
……という、約束を交わした翌朝の土曜日。
見事に朝寝坊した父が身支度を調えるのを待って、ご近所にある行き着けの喫茶店の中でも最も評価の高い店に足を運ぶと、お店の前の駐車場は全て車が停まっている。もしかして……と、恐る恐る店内に足を踏み入れると、やはりというか満席状態。
「……お父さん」
「いやあ、流石は人気店だね」
だから、寝坊しないでねって言ったのに……と、チラリと傍らの中年を横目で見やると、父は感心したように頷く。こちとらモーニングを楽しみにし過ぎて、お腹空いたんですけど。
「いらっしゃいませ、二名様ですか?」
「はい」
入り口に立つ私達親子に、エプロンを付けた喫茶店のお姉さんが話し掛けてきた。
「申し訳ございません。ただいま満席となっておりまして……
相席でもよろしければ、お席のご用意が可能ですが、いかが致しましょう?」
「美鈴、相席でも良いかな?」
「うん」
どうやら、気の良いお客さんが相席でも良ければ……と、申し出てくれていたらしい。何はともあれこちらは腹ペコなので、一も二もなく了承。
お姉さんは笑顔で奥の方の席に案内してくれて、先客の方にお礼を言った。
「お客様、ありがとうございます。こちらのお席となります」
「おくつろぎのところ、押し掛けてしまってすみません」
「いえいえ、お気になさらず。
僕はいつも一人でフラッと訪れているので、タイミングとはいえこんなに広い席を占領するのも申し訳ないなと思っていたところですし」
先客の顔を真正面から見つめた私は、衝撃のあまり固まってしまっていた。
お冷やとお絞りを取りに離れたお姉さんは、相変わらず素晴らしい営業スマイルのまま立ち去ってしまう。今更、席を変えてくれとは言い出せない空気である。
「私は葉山雅春、こちらは娘の美鈴です」
「これはこれはご丁寧に」
ぺこりと頭を下げてから、空いていた席につく中年。立ち尽くす私をチラリと見やるその表情は、いったいどうしたの? ともの問いたげだ。
ギクシャクとした動きで父の隣……ラスボスの対面の席へと必然的に腰掛けざるを得ない私に、眼鏡を掛けた穏やかそうな風貌のラスボスはにこやかに微笑みかけてきた。
「僕は大学で教鞭を執っている、柴田雲雀と言います」
喫茶店のお姉さんがテーブルへお冷やを置くコトリという音が、やけに大きく響いた。




