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本編⑩

 

 しばし残業が続く見込みとなり、帰宅時間が連続連夜遅くなる事が予想される我が父・雅春。椿スパルタ神……もといタダ家庭教師の椿にーちゃんは、留守番を任せっきりにしている娘を心配する父に安心材料をお届けするべく、家庭教師を行った一日は報告メールを送る事を提案してきた。


「……いや、流石にそこまでにーちゃんに気を遣ってもらうのも……毎回メール出すとか、めんどくない?」

「大丈夫大丈夫。俺、メールとか書くの苦じゃないし。まあ、ミィちゃんのお父さんさえ良ければ、だけど」


 対面の席から身を乗り出し、素早くメール画面を立ち上げ記入した椿にーちゃんが「ほらほら、こんな感じで」と、私にスマホの画面を見せてくる。


『title:初めまして、石動椿です。

本文:葉山雅春様。初めまして。

今晩は、遅い時間にメールを失礼します。私は美鈴さんと日頃親しくさせて頂いております、石動椿と申します。少しでもお力になれればと、美鈴さんのお勉強を見させて頂く事となりました。

お父様はお仕事が立て込み、ご多忙な日々が続いていらっしゃるとお嬢さんからお聞きしまして、ご挨拶を兼ねてこうしてメールを認めております。

いずれお会い出来る日を心待ちにしております。

それでは簡単ではありますが、これにて失礼します。

  椿』


「……にーちゃん、早い早いと思ってたけど、マジでメール打つの早いね……?」


 とても一分にも満たない間に入力したとは思えない文字数に、私は思わずスマホと椿にーちゃんの得意げな顔を交互に見比べた。


「あー。使えそうな送信済みメールがあったから、ちょっと手を加えたの。

どう、ミィちゃん。これぐらいの文体なら馴れ馴れし過ぎず堅すぎず、お父さんからも安心して貰えると思わない?」

「……まあ、普段私相手に出してるのと同質のメール文だったら、逆に驚きだけど」


 本当に、うちのお父さんにメルアド教えても良いの? と念を押すと、「もちろん」と快諾されたので、私はお父さんのメルアドをにーちゃんに送って、ひとまず今夜帰宅したら話は通しておくのでお父さんへのメールは明日以降に送信してくれと頼んでおいた。


「……お父様のメルアド、ゲーット」


 分かったよ、と了承した椿にーちゃんは、私がお茶を取りにキッチンに行こうと席から立ち上がると、視線を私から外してあらぬ彼方に向かって拳を握りつつ、喜色を滲ませボソッと小声で呟いた。

 ……にーちゃん、ひょっとして人様のメルアド収集癖でもあるの?


 今日のお勉強を終え、お夜食や明日の朝ご飯代わりの手土産を渡して、椿にーちゃんを玄関先までお見送りする。


「それじゃミィちゃん、また明日ね。部屋に帰ったら、またメールするから」

「うん。お休みなさい椿にーちゃん」


 皐月さんのあの発言を偶然耳に入れたばかりだと言うのに、僅かに普段とは異なる態度を見せたのはあの瞬間だけで、もう椿にーちゃんはいつも通りに振る舞っている。私も、またあの無表情さを直視したくなくて、極力話を蒸し返さないよう慎重に振る舞う。

 玄関先の三和土との段差で少しだけ互いの身長差が縮まった私の頭を、今夜もわしわしと撫で回して髪の毛をグシャグシャにしたにーちゃんは、両腕を私の背中と後頭部に回して抱き寄せてきた。


「お休み、ミィちゃん」


 耳元に囁かれる呟きも、包み込まれる温もりも心地よい暖かさで、まるでずっと昔からこうしているのが当たり前だったかのように、不思議なほどしっくりとくる。

 ……何だろう。うちの中年よりも、むしろ椿にーちゃんの方がよっぽど安心して身を預けたくなるような『お父さんらしい包容力』があるんだが。いったいどういう事だ。


「ミィちゃん?」


 ぽへーっと抱っこの心地良さを堪能していた私は、離れようとしていた椿にーちゃんのシャツを無意識のうちに掴んでいたらしい。ぽむぽむと、宥めるように頭が軽く数回撫でられ、握り締めた手を放すよう促された。


「どうしたの、ミィちゃん。

やっぱりお父さんが帰ってくるまで、俺、一緒にいようか?」

「いや、いやいや良いよ。

何か、本当に、深い意味も無く手が勝手に動いてただけだから」


 心配そうに申し出られて、私は慌てて掴んでいたシャツを放して両手を眼前に突き出し、ぶんぶんと首を左右に振った。

 微睡んでいる最中にぬくぬく毛布を掴んで幸せに浸るような、そんな単なる反射的行動だっただけで、別に椿にーちゃんを引き留めようとしたのではないのだ。


「……自覚した訳じゃあ、無い、と」

「え?」

「何でもないよ、独り言。

それじゃあまた明日」

「あ、はい。よろしくお願いします」


 玄関のドアを開けながら言われた言葉に私は首を傾げるのだが、椿にーちゃんは飄々とした態度ではぐらかし、閉まりゆくドアの向こうからひらひらと片手を振ってきただけだ。

 私も手を振り返し、椿にーちゃんのふわっとした柔らかい微笑みを最後に、ドアは閉じられた。



 勉強道具とお夕食の後片付けを済ませ、お父さんの分のお夕食は取り分けておき、お風呂を済ませて椿にーちゃんとメールのやり取りを交わし。

 そしていよいよ本日最大のミッション、明日のお弁当のおかず、その下拵えに入る。


「いや、先輩は我が家のお弁当はお父さんが毎日作ってくれてると思ってるのかもだけどね、うん」


 何しろ、女子からのプレゼントや差し入れは全て断る人だ。時枝先輩の中で私が持参するお弁当への忌避感が少ないのは、味もさることながら製作者が女子ではないという認識も大きいだろう。

 しかし現実問題として、お父さんはしばらく残業続きでクタクタになってしまうようなので、お弁当を作ってくれとは言い出しにくい。うん、非常に困るけどね。ええもう、お仕事なんだからこれは仕方がない!


「お弁当のおかずは……栄養素を考えるとひじきの煮物は必須だよね。先輩、玉子焼きは甘い方が好きらしいから、ハチミツで甘くしてみようかな」


 冷蔵庫や食糧庫の戸棚を確認し、メニューを考えていく。時枝先輩、華奢な見た目に反して食欲旺盛だから、いっぱいおかずも用意しておいた方が良いよね。

 キッチンにて、真剣に明日のお弁当について考えていると、ガチャガチャと音を立てて玄関先のドアの鍵が外される音が聞こえてきた。


「美鈴、ただいまー! 遅くなってごめんね!」


 まるで何かを攻撃しているかのような、パタパタとスリッパがフローリングの廊下を素早く移動して立てる足音を響かせ、Yシャツがヨレヨレになったお父さんがキッチンダイニングに姿を現した。時計に目をやれば、既に時刻は夜の十一時を回っている。いかん、そろそろ明日に備えて眠らなくては。


「お父さんお帰り。今日のご飯は唐揚げだよ」

「おお、唐揚げ! お父さんお腹ペコペコだよ!」


 着替えに向かう父の背中に向かって声を掛けると、お父さんは振り向きざま両手の親指を天井に向けて突き出した。……うちの中年がそんなリアクションを取ると、何故ああも間抜け感が漂うのか。

 お父さんが自室で着替えている間に、取り置いていた分の夕飯を温め直してお皿に盛り付け、テーブルの上に用意していく。しかし、腹ペコだからと揚げ物をバクバク食って、うちの中年は明日胃もたれ起こさないか心配になる。椿にーちゃんと違って、胃を労ってやるべきストレス中年だしなー。

 キャベツと大根のサラダを、そっと追加しておいた。


「美鈴、ご飯有り難う。いただきます」


 サッサとパジャマに着替えて定位置に腰を下ろしたお父さんは、サラダのお皿をさり気なく遠ざけながら唐揚げを幸せそうな笑顔で食べ始めるので、正面に座っている私は敢えて中年の手元に笑顔でサラダ皿を押し戻しつつ、口を開いた。


「実はね、椿センセーが、お父さんがお仕事忙しくて私の様子に気を配れないのを気にしてるみたいだから、って、毎日の進捗状況をメールで報告してくれるつもりみたい」

「えっ……石動さんが、これから毎日お父さんにメールを!?」


 私が用件を切り出すと、食事中のお父さんは利き手からお箸をテーブルの上に取り落とし、わたわたと慌て始めた。


「うん。もう椿センセーにはお父さんのメルアド、教えておいたから。お父さんの携帯にも、椿センセーのメルアド送っておいたから、登録しといてね」

「ええっ!? そんないきなり石動さんと毎晩メールのやり取りだなんて、心の準備がっ!?」


 うちの中年は、これまでメル友とか居なかったのだろうか。どうやら仕事ではなく私用で誰かと定期的にメールを送り合うのは、中年的に照れ臭さを伴う習慣らしい。


「そんなに慌てふためかなくても、単なるメールでしょ?」

「いや、世代の違いから上手く受け答えが出来なかったりしたら、お父さん赤っ恥じゃないかっ?」

「椿センセーは如才ない人だから、お父さんをこき下ろしたりバカにしたりなんかしないと思う」


 慌ててお箸を拾い上げ、目線を泳がせるお父さんに伝達事項だけ告げると、私は席を立った。


「じゃ、私はもう寝るね。ちゃんとサラダ全部食べるんだよ。お休み」

「ああっ、美鈴! 今時の大学生とのメールって、どんな話題を取り入れれば引かれずに済むのか、アドバイスを……!」


 キッチンダイニングのドアを開く私の背へ、中年から弱りきった声が追い掛けてきて、私は呆れ顔を作って振り返った。


「いや、最初から無理にお父さんが話題を盛り上げようとせずに、椿センセーのメールに真摯に返信してれば良いんじゃない?あの人、話題とか豊富だし」

「そ、そう? 頼りないとか情けないとか、思われないかな?」


 ソワソワと、椅子に座ったまま落ち着かない様子のお父さんに、私はガクッと肩を落とした。我が父よ、あなた様が演出したいと脳内で多大に美化し思い描かれている『素敵にカッコイイ頼り甲斐のある美鈴父像』、既に椿にーちゃんは幻影でしかないと見破っておいでです。まあ、暴露ったのは私だがな!

 娘の友達からの心証を良くしておきたいだとか、うちの中年も意外と世間体を気に掛ける人だったらしい。


「いやあ、お父さんらしい普段通りの言動が一番だと思うよ。私、飾らず気取らないお父さんが一番好きだな」


 お馬鹿っぽくて扱いやすいところなんか、特にね。という本音は飲み込む。


「あ、ありがとう美鈴。お父さん頑張るよ!」


 父は、私の褒め言葉に聞こえなくもない発言に照れたのか眼鏡の奥の目を細め、はにかみがちに頬をかいている。

 だから父よ。あなたが謎の張り切りを見せると、明後日の方角に向いている場合が多々あるのですが、その辺は自重しては下さらんか。



 さて翌朝。

 お弁当製作の為に早起きし、お味噌汁を保温可能なマグに、毎度の重箱におかずと白米を詰め込み家を出た私は、意気揚々と学校に向かった。


「おはよう、親愛なる我が友よ!

今か今かと待ちわびるあたしに相変わらず報告メールを寄越してはくれず、つれない美鈴っちの為に、今朝は早起きして教室に来て差し上げたぞよぞよ。さあ、委細構わず昨日の顛末を聞かせてくれたまえ」


 そして教室のドアをガラッと開くなり、両腕を広げて待ち構えていたアイから開口一番にそんな台詞をぶつけられ、私は思わず反射的にドアを閉じていた。


「鼻先でピシャッとか、いきなり何をするんだい美鈴っち?」

「いや、なんかつい」


 ガラガラとドアを開いたアイは、怒り出すでもなく不思議そうに私に問うてくる。

 思わず扉を閉めてしまったが、どうやら上手いこと我が友のテンションを、ハイからローへとギアチェンジする事が叶ったようである。

 席について荷物を置く私に、アイは「それで?」と、話を促してきた。


「昨日は時枝先輩とお昼を食べて、放課後には図書室で仲良くお勉強をした美鈴っち。

時枝先輩との仲は、進展しそうかね? ん?」

「……だから、どっから見てたの?」

「無粋なネタバラシは控えておこうか。今は、美鈴っちと時枝先輩の仲についての方が、より重要かつ迅速な対応が必要な案件だ」


 覗き見していました、という点を否定する気は無いらしい。いや、どんなに嘘っぽくても一応は野次馬覗き見をしていた事、否定して欲しかったよ、我が心の友よ。

 ホームルームまでまだ時間がある教室の中は人気が少なく閑散としているが、私は前列に座るアイに身を乗り出し、耳元に囁いた。


「昨日はご飯食べて、お礼代わりにテスト勉強ちょっと見てもらってただけ。

それでさ、アイ」

「うん?」

「ひ、人目に付かなくて誰かに邪魔されずに、二人っきりでお昼休みを過ごせるような場所って、どっか無いかな?」

「ほっほう?」


 もじもじしながら情報を求めると、彼女はニンマリとした笑みを浮かべた。


「昨日はたまたま、お昼を共にしただけかと思ってたけど、その口ぶりだともしかして今日も?」

「なんか、今月は金欠らしいから、お昼ご飯は任せて下さいって請け負ったの。

流石に今日も保健室を陣取る訳にはいかないから」

「なるほどなるほど、そう言う事ならばあそこでしょ。

美鈴っちも利用した事がある、音楽室なんてどう?」

「あー、あそこか」


 防音で、人も来ないあの部屋は、確かに密会には向いていそうだ。


「問題はどうやって音楽室で落ち合うかを時枝先輩に知らせるか、だけど……」

「……美鈴っち、あれだけ仲良さげに振る舞っておいて、もしかして時枝先輩のメルアドも番号も知らない、とか?」

「知らないよ? うちの部の連絡網は、部長から部員へ一斉送信だもん。部長の携帯番号とメルアドなら知ってるけど……」

「……それでどうやって、後輩女子と今日から一緒に昼食をとるつもりだったんだ、時枝芹那……!

まさか、堂々と教室までお出迎えとかする気だったんじゃ……!?」


 相変わらず器用に小声で怒鳴るという技を披露し、アイは更にぷくく……と笑いを堪え始めた。


「というか、ことごとく部長に後れを取ってる辺りがウケる……! アドバンテージはお弁当だけか、時枝芹那……!」


 いや、本当にアイは時枝先輩の話を楽しそうに聞くね。あと、別にうちの部長と時枝先輩は、何かを争ってたりとかしないから。



 登校してきた、もしくは朝練を終え廊下を行き交う先輩方から好奇の眼差しを向けられているような、そんな被害妄想に駆られつつ。私は二年A組の教室に向かっていた。「本当に、教室に迎えに来られたらどうするの?」と、アイから笑顔で脅されてしまったのである。

 有り得ない事とは思うが、お互いに連絡手段が無い以上、第三者を介するか、もしくは直接出向くしか情報共有化の手段が存在しないのだから仕方がない。

 ……あの部長が、部員同士の些細な私用の為に、個人情報を漏らしてくれるとも思えないし。「自分では直接尋ねられないような、後ろめたい裏でもあんのか?」と、蔑んだ眼差しが向けられる未来が垣間見えた。


「あのー」


 二年A組の教室には無事に辿り着いたが、自分が振り分けられたクラス以外の教室へはズカズカと足を踏み入れられない、謎の心理ブレーキが掛かり、私は入り口付近で立ち話をしていた先輩方へ話し掛けた。女子の先輩に話し掛けるのは呼び出し相手が相手なだけに、何か怖そうなので男子の先輩の方へ。


「ん? 何アンタ」


 運悪く、私が呼び出しをお願いしようと話し掛けたお方は、私が声を掛けるなりこちらをギロリと睨み付け威嚇してきて、声も低く非常にガラが悪かった。


「び、美術部の一年です。時枝先輩はいらっしゃいますか?」

「あー? とーきえだあぁ?」


 思わずビビって両手をギュウッと握り締めつつ後退る私に、相手は舌打ち混じりに眉根を寄せ上からズイッと見下ろしてきて、非常に恐ろしい。あれか、女子は嫌いな上に時枝先輩の事も嫌いな人だったのか?

 更に一歩後退る私に、恐ろしい先輩も足を一歩踏み出してきて、ちっとも距離がとれない。理由の分からない恐怖感に駆られ、膝や手がガクガクと震えてきた。


「おい坪井、人の後輩を恫喝すんな」

「ってー!?」


 と、出入り口のやり取りは教室内から注目を集めてしまったのか、奥から現れた時枝先輩が、ジャンピングしながらスパーン! と、色付き透明下敷きで怖そうな先輩……坪井先輩? の頭を叩き飛ばした。大袈裟に痛がって頭を抑える坪井先輩の肩をグイグイと強引に押しやってドア前から退かし、時枝先輩が私に向き直る。


「悪い、葉山。こいつ無駄にウドの大木身長で生まれつき悪人顔な上に超ド近眼なだけで、別にお前を睨んでた訳じゃねーから」

「マジひっでーなセナ!」

「いやいや、そこは広い心で流してやれ坪井。セナはチビなんだからよ」

「そうそう。未だにセナちゃん、女の子と間違えられちゃう女顔だしな。坪井を僻んでんだよ」

「てめーらうるせえ、ちったあ黙れっ!」


 坪井先輩へ毒をまぶす時枝先輩へ、すかさず教室内からポンポンと投げつけられてきた弄りに、先輩は眉を吊り上げて背後を振り向き怒鳴りつけた。


「時枝先輩って……愛され弄られキャラだったんですね」

「はあっ!?」


 私が思わずポツリと正直な感想を漏らすと、物凄い勢いで顔を振り向かせた時枝先輩が、愕然とした顔で抗議するように呻き、私の声が聞こえたらしき教室内から、男子生徒の爆笑の渦が巻き起こった。時枝先輩のクラスメートな女子の先輩方が、表情こそ笑みを取り繕っていらっしゃいますが、目が怖いです。


「いや、なんかクラスのマスコット的な弄られ方だなあ、って」

「ち、違っ……!

お前らどーしてくれんだよ、先輩への畏敬とか尊敬とか、葉山の目から消えたぞコラ!」

「セナちゃんの場合、所詮は張りぼての先輩としての威厳だったんだから、しゃーない!」

「セナちゃん呼ぶなああああ!!」

「ちょっと男子ー。あんまり時枝君からかわないでよー」

「そうよ、いくら時枝君が可愛いからって、男子だけで楽しむとかサイテー」

「お前らも諌めるフリして容赦なく、よってたかってオレの威厳を削り取りに掛かるなあああっ!」


 女子のクラスメート二人組からも、クスクスと笑いながら援護射撃を受けて、時枝先輩は全力で抗議するのだけれど。


「えー?」

「イゲンってなぁに?」

「お豆でしょ?」

「それインゲン」

「あははっ、マチカ、サーヤ、お前ら天才だわ!」

「褒められたー」

「イエーイ」


 流れるようにコントが始まり、笑いが取れたのをハイタッチして喜び合う女子二人組。どっちがマチカ先輩でサーヤ先輩なのかは分からないけれど、打てば響くようにスラスラと会話のキャッチボールが行われてる辺り、かなり頭の回転が早いんじゃないかなー。セナちゃん呼びをしていた男子などお腹を抱えて爆笑している。

 な、何かこの年頃ではちょっと驚きなぐらい男女の垣根が低いっていうか、かなりワイワイガヤガヤ賑やか仲良しなクラスだな、二年A組。うちのクラスとはえらく雰囲気が異なる。これが人気者が存在するそれと、普通の教室との違いというやつか……!


「……時枝先輩のクラス、めっちゃ楽しそうなクラスですね」

「そうか。オレは毎日毎日コレでいい加減ウンザリしてる」


 時枝先輩は後輩からはちょっと恐れられているけれど、クラスメートからはやっぱり弄られ愛されマスコットなんだ、という認識を確信にまで深めつつ。教室内からの目線が、時枝先輩の身体で遮られる角度で、私は手のひらに握りこんでいたメモを、そっと先輩の手のひらに滑り込ませた。


「葉山……?」


 不思議そうに瞬く先輩の前で、私は自分の唇に素早く人差し指を当てて、シーッと内緒事だと示し、次いでぺこりと頭を下げた。


「それじゃあ時枝先輩、お時間ありがとうございました。ホームルームが始まってしまうので、私はこれで失礼します」

「あ、ああ。またな」


 一礼してから向きを変え、自分の教室に戻る。

 うん、時枝先輩のクラスに行ったりしたら、まともに会話なんか出来ないだろうなとは思っていたし。『あんたなんかが、時枝君に近付いて良いと思ってんの!?』と、クラスメート女子四天王とかが文字通り巨大な壁となって立ち塞がるという予想図も思い描いていたので、むしろ教室へ面会に赴いたら本人と普通に話せれてびっくりだ。

 私が立ち去った二年A組の教室からは、ガヤガヤとした会話がまだ漏れ聞こえてくる。先輩方、もうちょっと声量を落とした方が良いと思います。


「で、何、セナちゃん。あの一年の子、セナちゃんのカノジョー?」

「そうか、遂にセナにカノジョが……!」

「お前ら、マジでいい加減黙れ! は、葉山が、か、カノジョだとか、そっ……んな馬鹿な話がある訳ねーだろうが!」

「いやしかし、二人並んでる姿は、まさにユリにしか見えんな。視覚的ユリカップル!」

「えー? 時枝君にはカレシが出来るんだよね?」

「……お前らは目と脳の手術をした方が良い」


 階段の踊り場を回って下階に下りていくにつれて、段々彼らの会話は聞き取れなくなっていった。仲がよろしいようで、何よりです。


「お帰りー、美鈴っち! ちゃんとお昼ご飯の約束は取り付けられた?」

「いやあ、やっぱり込み入った話はしにくくてさ。事前にメモ用意しといて正解だったや」


 了承は得ていないけれど、ちゃんと来てくれると良いなあ。



 お昼休みの時間。にこにこ笑顔のアイに見送られ、私は重箱の包みとお茶とお味噌汁をそれぞれいれたマグを手に、音楽室を訪れていた。先輩が来たらドアに鍵を掛けて、二人でコッソリご飯にするんだ。

 音楽室の机に用意してきたお弁当を置いて腰を下ろしたところで、ドアがゆっくりそろそろと音を立てずに開かれた。


「……葉山?」

「あ、時枝先輩。良かった、来て下さったんですね」


 多分、人目を気にしているんだと思う。時枝先輩はしきりに廊下の向こうや室内を見回して音楽室に足を踏み入れると、そおっとドアを閉じて私が何か口を挟むまでもなく鍵を掛けた。……うん、私と一緒にご飯食べてるところなんて、誰にも絶対に見られたくないし知られたくもないんですね、先輩。


「お隣どうぞ」

「お、おう」


 音楽室の机と椅子は生徒複数人が共同で利用する形であり、横に長細い。お弁当を広げている私のすぐお隣に腰を下ろした時枝先輩に取り皿とお箸を手渡し、お茶とお味噌汁をカップに注ぐ。

 いただきますを唱和し、お箸を手に取った時枝先輩はお弁当を見回して唇を綻ばせた。


「今日のも美味そうだな」

「はい、どれもこれも栄養たっぷり、オススメですよ」

「今日の飯は……出た、敷き詰めた白米にハートマーク!」

「何故、この愛父弁当の象徴をそうまで喜ぶのか、時枝先輩」


 おかずの段を時枝先輩が取りやすいように横に並べ、姿を表した白米敷き詰め段に、時枝先輩は歓声を上げた。

 多分、インパクトが多少ウケているだけで、毎日毎日ハートマークを目の当たりにしたらすぐに飽きるんだとは思う。思うのだが、ついつい時枝先輩の期待に応えてハートマークを彩ってしまった私である。


「今日のハートは、薄い紫……いや、ピンク?」

「梅シソ味ふりかけのゆかりですよ。ハートマークの方はゆかりを混ぜたご飯で、周囲の白いご飯はバターライスになってます」

「葉山の親父さん、この前のシャケハートから、随分芸が細かくなってるな……!」

「私、ピンク色したでんぶが苦手で、でも赤やピンク色じゃないハートは嫌だってダダこねまして。色々考えてくれたみたいです」

「……やっぱ、葉山の親父さんってすっげーな」


 時枝先輩は梅シソ味のご飯をモグモグと噛んで飲み込んだ。……時枝先輩の中で、まだ見ぬうちの中年へのイメージが、よりいっそう過大評価と美化されて刻まれたような気がする。薔薇フラグと共に。

 だけど、このお弁当を用意したのは全部私です、なんて正直に白状したら、きっと時枝先輩とお弁当を分かち合うのは遠慮されてしまうのだから仕方がない。

 時枝先輩はお味噌汁をずずーっと啜り、ほう、と満足げな溜め息を漏らす。


「葉山の味噌汁、うめぇ……」

「時枝先輩の好みが分からなかったので、オーソドックスにワカメとお豆腐と油揚げと大根と長ネギにしてみましたけど、お気に召して頂けたなら良かったです」

「……この具だくさん味噌汁が、葉山家のオーソドックスなのか……」

「単に私が、お味噌汁に大根と長ネギ入ってるのが好きなだけなんですけどね」

「確かに、味が染み込んだ大根超うめぇ!」


 お味噌汁の中の大根を噛み締め、その旨味に翻弄された時枝先輩は、感嘆の声を上げた。


「野菜たくさん入ってるのがお嫌でなければ、明日は豚汁にしてきましょうか? もちろん、味が染みた大根もたっぷり入れて」

「葉山……」


 時枝先輩はよそってあげたお味噌汁を空にしたカップとお箸を置いて、わざわざ上半身を捻ってこちらに向き直り、両手ではっしと私の手を掴んだ。予想外の行動に、私の心臓が否が応でも飛び跳ねる。


「葉山、お前マジ天使……!」


 なんと、天使から同族認定を受けた、だと!? いったいいつから私は俗世の有象無象民草から、聖属性への聖別を受けていたんだ。それはそれとして。


「……豚汁天使、なんかマヌケな響きですね」

「味噌汁天使もな」


 うっかり口走った形容詞が自分でも気恥ずかしかったのか、時枝先輩は私の手からパッと両手を放して、空気を誤魔化すように空笑いをしてからお箸を持ち直し玉子焼きを頬張る。


「やっぱ玉子焼きは甘い方が好みだ……あ、唐揚げ」


 玉子焼きに今日も翻弄され、幸せそうな表情を浮かべていた時枝先輩は、重箱の片隅に詰められた唐揚げを目にし、箸が止まった。

 あれ、時枝先輩、唐揚げ嫌いだったのかな? 昨日の様子からしても、お肉の類いがたくさん食べたいみたいだったから、詰めてきたんだけどな。


「あ、はい。この鶏の唐揚げは夕べの残り物なんですけど、冷めても美味しいんですよ」

「……葉山が作ったのか、この唐揚げ?」

「ええ。そうです、けど……?」


 私の作った唐揚げだ、と素直に肯定すると、時枝先輩はムッと不機嫌そうに眉根を寄せた。


「あのー、唐揚げがお嫌いなら、無理に食べなくても……」

「いや、食う」


 単なる鶏の唐揚げをまるで親の仇のように睨み付け、時枝先輩は大口を開けて齧った。そして、眉をしかめたままじっくりと咀嚼する。……お父さんじゃなくて、私が作った料理が不快なら、無理に食べなくても良いのに。


「お、お口に合いませんか?」

「いや、美味い。めちゃめちゃ美味いからすんげー腹立つ」


 時枝先輩、そんな謎の感想を抱かれても、こちらとしてもリアクションに困るんですが。……まあ、何か時枝先輩は鶏の唐揚げがあんまりお好きじゃないみたいだし、次からはお弁当に入れないようにしよう。


「葉山、味噌汁お代わり入れて」

「あ、はい」


 そして、不機嫌顔のままそれでもお肉を求めたのか唐揚げを食べ尽くした時枝先輩は、空っぽのカップをずいっと私に突き出してくる。反射的に受け取って、マグに残っていたお味噌汁を全て注いで手渡すと、ようやく時枝先輩の表情が綻んだ。


「さんきゅ」

「いえいえ。たくさん食べて下さいね、先輩」

「おう」


 それからは特に時枝先輩の嫌いな食べ物は入っていなかったのか、ごく和やかな雰囲気で昼食を終える事が出来た。



 テスト週間の間、私は時枝先輩にお昼ご飯のお弁当を用意して一緒に食べ、放課後には図書室で少しテスト対策のお勉強を見てもらい、椿にーちゃんと合流してお買い物に行ってから帰宅し、勉強を見てもらってお夕飯を提供する、というサイクルを続けた。

 あれだ。何気に私、ご飯で釣って教師役を二人もゲットしていたけれど、地味に食費に負担を掛けている気がする。お父さん、なんかごめんなさい。


 まあ、私のテスト週間の期間と父の仕事場でのトラブルが重なって毎日残業を食らっていた我が父も、毎日帰宅が遅くてすれ違いがちな生活の中で聞いたところによると、椿にーちゃんとのメールのやり取りが癒やしになっているらしい。それを中年本人の口から聞いた時には、思わず「は?」とか聞き返してしまっていたけれども。

 当の椿にーちゃん本人に子細を尋ねてみると、にーちゃんの方も決して嫌々ではなく、うちの中年とのメールのやり取りをそれなりに楽しんでいるらしい。この二人、実は意外と気が合ったのか。


 ご飯で釣ってお勉強を見てもらっていた私であるが、その効果はしっかり反映されたようで、実施された中間テストの手応えはなかなかのものだ。

 さて、無事にテストを切り抜けここで次なる問題である。元々、五月中の間は金欠だから、という理由で時枝先輩にお弁当を作ってきていた私なのだが、五月末日の中間テストも本日無事に終わって次の登校日は六月に入るのだが、お昼のお弁当をどうするのか、私の方から先輩へ確認の言葉を切り出しかねていた。


 時枝先輩とご一緒出来る時間が無くなる、という現実をはっきり突き付けられてしまうのが何だか嫌で、ズルズルとやり過ごしていたが……このままうやむやのままにして、毎日コッソリ待ち合わせをして二人でご飯を食べていた音楽室で、約束も無いまま未練がましく時枝先輩が現れるのを待つというのは、流石に……うん、何か痛々しいと言うか。

 未だに携帯の番号どころか、メルアドすら教えて貰えていない時点で望み薄なのは明白だが、無事に中間テストを乗り切った私は時枝先輩に尋ねる決心を固めた。


 明日からも一緒に食べるお弁当を作ってきても良いですか、と。

 いや、ずーっと予防線を張って、懸命に自分を誤魔化し続けてきたけれど。正直に言おう。ぶっちゃけ、『先輩が好きです。私と付き合って下さい』と告白するべく、デートのお誘いの定番、映画のチケットを用意しておいたのだ! 一緒にお昼を過ごした際の雑談で聞き出した、時枝先輩が今興味を寄せている映画のチケットをね。

 テスト週間中に何やってんだ、という話だが、思い立ったらどうしても落ち着いていられなかったのだから仕方が無い。

 これを、テストから無事解放された祝いという名目で、一緒に観に行って告白を敢行するのだ。


 ……と、決意を固めたのは良かったのだけれども。今にも降り出しそうな雨雲が天蓋を覆う本日のお天気が私の決心の行く末を暗示でもしていたのか、またしても私の前に、問題が立ち塞がった。

 昇降口の様子が見渡せる階段の影にさり気なく隠れ、テストを終えて銘々帰途に着く生徒達の波を見守るのだが、時枝先輩の姿が見当たらない。もしや、早めに帰宅してしまったのだろうかと、こっそり先輩の下駄箱を確認してみると、上履きは無くまだ靴が入ったままだ。


「……先輩、まだ帰らないのかな?」


 階段を上がって引き返し、二年A組の教室をそーっと覗いてみても誰も居ない。

 この校舎の中で時枝先輩が行きそうな場所と言えば、教室以外では美術室が真っ先に候補として上がるが、今日はまだ部活動が行われていないので誰も居ない筈だ。しかし他にコレといった当てもなく、私は美術室へと向かった。

 渡り廊下を移動して隣の校舎に向かい、美術室がある三階に足を踏み入れる。横目に視界に収めた廊下の窓ガラスの向こうでは、曇り空からポツポツと小雨が降り始めていた。あー、カバンは持ってるけど、置き傘教室に置きっぱなしだから帰りに取りに行かないと。

 鍵が掛かっている事を半ば覚悟して引いた美術室のドアは、呆気なく私の手の動きに合わせてガラリと横に滑っていった。


「うおっ!? 何だ葉山か。驚かすなよ」


 イーゼルに掛けたキャンパスの前に座って絵筆を手にした時枝先輩が、ビクッと背中を震わせてこちらを振り向き、次いで安堵したように吐息を漏らした。美術室内を見回しても、他に誰の姿も見当たらない。


「時枝先輩、帰らないんですか?」

「あー、テスト週間で部活動休止だったせいか、何か今日は無性にこの絵が描きたくてたまんなくなって」


 趣味の延長線上で絵を描いている私とは違い、時枝先輩は天性の才能だけでなく描き出す意欲と喜びも持ち合わせていらっしゃるご様子である。

 ともあれ、二人っきりの今、これはまたとないチャンスだ。出て行けと追い出されないのを良いことに、私は時枝先輩の隣に立ち、キャンパスを覗き込んだ。時枝先輩が先日から手掛けている、寒色系の色彩を主に散りばめた抽象画だ。

 先日に見掛けた際はとにかく青味が強くて海の中のようだったけれど、今日見てみるとそこに更に白い絵の具で何かを表現しているような……? うんダメだ。やっぱり私には抽象的な芸術作品から、製作者の込めた意図はさっぱり読めん。


「……葉山、人が描いてる横で無言のままじっと眺められると、それはそれで居心地が悪いんだが」

「あ、すみません。お邪魔ですよね」

「いや、そういう意味じゃねえけど」


 私が熱心に時枝先輩の描く抽象絵画を見つめていたら、決まり悪げに横から声を掛けられて、私は慌てて一歩距離を開けた。時枝先輩は筆を止め、私を上目遣いに見上げてきた。……くっ、流石は美貌の天使、そんな何気ない仕草でさえパーフェクトな破壊力……!


「葉山、何か用でもあったんじゃねーの?」

「あ、は、はい。その……」


 こうしていざ、当人を目の前にしてしまうと。一生懸命考えて用意していた告白の為の台詞が、頭の中からスコーン! と抜け落ちて消え失せてしまった。ヤバい、どうしよう……という焦りばかりが頭の中を駆け巡る。


「あ、あの、時枝先輩。もう六月になりますけど、金欠病は快癒しました?」


 そして私の口から何とか出てきたのは、そんなマヌケな台詞だった。お弁当の事なんて、別に後回しでも良いじゃない! と、自分で自分にツッコミを入れるのだが、でもフラれた後で確認するのも気まずい……

 フラれたら? 私、そもそも時枝先輩のお気に入りの後輩ってだけで、女の子としては見てもらえてないのに。それは先輩がこれまで口にした言葉の端々から、幾度も突き付けられていた事実で。

 ただの先輩後輩という関係で、時枝先輩に好意を寄せる女子生徒達に遠慮してばかりな立場が嫌で、苦しくて、でも、だから。


「金欠病って……人を飲んだくれのロクデナシみたいな言い方すんなよ。まあ、間違ってないところがアレなんだけど」


 時枝先輩は肩を竦めた。


「お陰様で、六月からは昼飯に事欠くようなピンチには陥らずに済みそうだ。今までありがとな、葉山」

「い、いえ。お役に立てて良かったです」


 ふわっと笑みを浮かべてお礼を言われ、遠回しにもう私が作ったお弁当は要らないと断られ、私は酷く落胆していた。そして同時に、告白への意志が揺らぎ始める。

 時枝先輩にとって、私と一緒にお昼ご飯を食べていたあの時間は、単なる糧を確保する為だけの妥協に過ぎなかった、と言われたも同然なのだから。それはつまり、凄く幸せで、嬉しくて、高揚していたのは、どこまでいっても私一人。


「あー、それでな、葉山……」

「ところで話は変わるんですけど!」


 怖い。何が怖いのか自分でも分からないまま、私は時枝先輩の言い掛けた言葉を遮っていた。非常に言いにくそうに、視線を泳がせていた先輩は、私の強引な割り込みにキョトンとしている。


「あのっ、私、映画のチケット持ってるんですけど、先輩……」

「映画?」


 脈絡の無い唐突に過ぎるお誘いに、時枝先輩が訝しげな顔をしている。このままでは事前段取りの段階で潰え、本題の告白に踏み切る事さえ出来そうにない。

 違うの。私が、本当に伝えたいのは!


「私と、その、時枝先輩。付き合ってくれませんかっ!?」

「え、無理」


 精いっぱい、勇気を振り絞って伝えた告白は、殆ど即座にばっさり二文字で断られてしまった。時枝先輩が躊躇いや悩んで吟味するのに使用した時間は、『え』というほんの一呼吸のみ。私との交際など、考慮にすら値しないのだという現実を目の当たりにし、目の前がくらりと揺らめいた。

 そんな私を憐れに思ったのか、時枝先輩は心底申し訳なさそうに「ごめんな、葉山」と謝りさえしてきた。


「こ、こちらこそ、時枝先輩の事情も考えずに独りよがりを押し付けて、すみませんでした。

わ、私、もう帰りますね!」

「あ、おい葉山!?」


 美術室を足早に後にする私の背中に、時枝先輩の声が投げかけられるけれど。フった相手の事さえ気遣うだなんて、天使はやっぱり天使だったんだ。毒舌だけど。

 廊下を全速力で駆け抜け、昇降口を飛び出した頃には、体力の無い文化部のもやしな私は、もう走る事さえ出来ずにフラフラとまろび出ていた。

 涙が後から後から溢れ出てきて、視界が悪い。正門を出て、殆ど帰巣本能だけでボンヤリとした思考のまま自宅へ続く道を歩く。


「……ちゃん?」


 パシャンパシャンと、歩を進めるごとに足下から微かな水音が跳ね上がってくる。

 特に何を注目するでもなく、ただ何となく灰色に染まった通学路を眺めていた私は、急に背後から肩をグイッと引かれてつんのめりかけた。


「やっぱりミィちゃん!

こんな大雨の中で傘も差さずに何やってるの!?」


 ぼうっとした視界に、ここ最近で見慣れて聞き慣れた存在が映し出されている。


「椿、にーちゃ……」

「ああもう、頭っから靴まで雨でびしょ濡れじゃないか。ほら、風邪ひいちゃうからもっとこっち寄る!」


 紺色の大きな傘を差している椿にーちゃんは、自分も濡れてしまうのにも構わず濡れ鼠な私を引き寄せ、ハンカチで私の髪や肩を拭う。

 そして、ポケットからスマホを取り出し、何やら手早く操作し、再びポケットに戻した。


「まったく、こんなに身体冷やして……! 顔色が真っ青だ。

こっからだと、ミィちゃんの家より俺の部屋の方が断然近いから。おいで」


 私の肩を引く椿にーちゃんに促されるまま、私はこっくりと頷いて疲れきった足を動かした。


 ああ。

 きっと私は、罰が当たってしまったのに違いない。

 椿にーちゃんの恋路を妨害して、不用意に傷付けてしまうような無神経女だから、きっと時枝先輩にとっても『後輩としてならともかく、交際相手として考えるなんて無理』

 そういう、悲しい立場にしかなれなかったんだ。



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