本編⑨
椿にーちゃん待望の鶏肉、それから明日以降のお弁当のおかずやお菓子の材料をスーパーで買い込む。今日もお買い物中にショッピングカートを押しているのは椿にーちゃんだが、最早私の中にその行動について居心地の悪さや申し訳なさは無い。むしろお買い物袋も率先して運べ、とか思ってしまっている辺り、よくない傾向かもしれない。
私には軽い袋だけ持たせ、颯爽と荷物持ちを買って出るにーちゃん。買い物帰りの道を並んで歩きながら、私は隣を歩く椿にーちゃんを見上げた。
「そう言えば椿にーちゃんって、低血圧で朝ご飯は食べないなら、お昼ご飯はどうしてるの?」
お弁当を用意する気力があるのだろうか。それとも、大学の学食を毎回利用しているのだろうか。
「俺の昼飯? んー、ツレと美味い店に出掛ける事もあるけど。だいたいは購買のパンかな」
「パン……だと……!?」
「うん、総菜パン」
駄目だこの男。栄養バランスという言葉を、誰かが叩き込んでやらねばならない。
「椿にーちゃん、毎日ちゃんとしたご飯食べなきゃ身体壊しちゃうよ!」
「いやあ、そこまで深刻に考えなくても……」
「駄目! ご飯はきっちり三食栄養バランスを考えて。これは、お夕飯だけじゃなく、お弁当も用意しなくては改善策にならないのか……!」
「もしもしミィちゃん?」
椿にーちゃんに渡せられるサイズのお弁当箱、あったかなあ? などと記憶を探る私に、問題の栄養バランス偏り生活を送る当の本人は、昼食問題をさして重要視していないようで、お買い物袋片手に「おーい?」と、話の流れについてこれない様子を呈している。
やがて我々は自宅玄関前に辿り着き、私がカバンの中を探って鍵を取り出した辺りで、傍らから声が掛けられた。
「美鈴さん、お帰り」
御園家の敷地方向からの呼び声に、私がそちらに目をやると……御園家の庭先に干されていた洗濯物を取り込んでいる、嘉月さんの姿があった。
我が葉山家もそうだが、十分な日照状態が得られる配置の関係上、洗濯物を干せるスペースは隣家から丸見え状態になっている為、プライバシーの観点から下着などは室内に干している。今、嘉月さんが取り込んでいるのも、タオルや衣服などの類いだ。
その中でも一際私の目を引いたのは、ボクサーの如く鋭いパンチを繰り出す、デフォルメされた兎がプリントされたTシャツ……!
「た、た、ただいまです、嘉月さん」
偶然、葉山家の玄関先からならば正面側が確認出来る状態で干されている、あの兎Tシャツ。もしや兎の一念とやらの答えがプリントされているのではと、嘉月さんを見掛けるたびに違う服装である事に、謎が謎のままでいて内心モヤモヤした思いでいたが。
今日こそ、『背中側を見せて下さい』と、お願いが出来る気がする!
「あ、あの、嘉月さん」
「ミィちゃんゴメン、荷物重いんで中に運んでも良いかな?」
せっかく勇気を出して一歩を踏み出したというのに、お買い物袋の大半を持たせている荷運びにーちゃんから、さり気なく抗議が寄せられた。くぅっ、確かに玄関先で立ち話をするには、食材を買い込み過ぎたし要冷蔵食品の事も気に掛かる。
「……居たのか、石動君」
「はい、居ました。こんにちは、お兄さん」
「俺は石動君の兄になった覚えは全く無いが」
「失礼。では訂正して……嘉月さん」
「……君から気軽に名を呼ばれる筋合いは無いと思うが、俺の気のせいか?」
「それはごめんなさい。何故って俺は、皐月ちゃんからあなたの事を『兄の嘉月です』としか、紹介されておりませんので。
確か、皐月ちゃんとは名字が違うと聞き及んでいますし?」
にこにこ、と、人好きのする笑顔のままの椿にーちゃんと、無表情で洗濯物を取り込む嘉月さん。交わされる言葉の応酬は私の気のせいだろうか、いやにトゲトゲしい。
私はそそくさと鍵を開けて玄関ドアを開き、入ってくれるよう椿にーちゃんの背中をグイグイと押して促した。
ああ、先ほどのやり取りなんか全く気にも留めて無いっぽい嘉月さんが、洗濯カゴに兎Tシャツを入れ、更にその上へも次々と洗濯物を手際良く取り込んではバサバサと放り込んでいく。グッバイ一念兎、いつかまた会う日まで。
……長袖Tシャツだから、今後気温が上昇してくる事実を加味すると、再会は絶望的かもしれん。
「そ、それでは嘉月さん、今日はこれで」
「ああ。美鈴さん、くれぐれも気をつけてくれ」
自分の家に入る知人への挨拶に付け加えるにしては、妙な忠告も一緒に頂きつつ、私は玄関ドアをくぐった。椿にーちゃんと嘉月さん、前に顔を合わせた時にも、ちょっと仲悪そうな雰囲気が漂うなー、とは思ってたけど。今日には更に悪化してるってどういう事?
帰宅した私は、買い込んだ食材を仕舞うとエプロンを身に着け、冷蔵庫の中に入っていた今日のお弁当用のおかず、その残り物を温めてお通し代わりに供し、夕飯の下拵えに入りつつ椿にーちゃんにビシッと人差し指を突き付けた。
「よろしいか、椿のあんちゃん!」
「うん?」
葉山家のキッチンダイニングのテーブルに我が物顔で着席し、私が出したお通し代わりの玉子焼きとほうれん草のお浸しとニンジンのマリネを寛ぎきった表情でパクつきつつ、ズズーッと焙じ茶を頂いていた椿にーちゃんは、私の宣言に何事かと小首を傾げた。
ひとまず、嘉月さんとの因縁だか険悪関係のような雰囲気については……スルーしておこう。何だか関わってはならないような、そんな嫌な予感がする。触らぬ神に祟りなし。
「今後、椿にーちゃんのお昼ご飯も用意しようと思う。
という訳で、ついては私が学校に行く時間帯に通学路辺りで受け取りに来て欲しいんだが」
「……朝が激弱い俺に、毎朝早起きしてお弁当を受け取りに通え、と……!?」
「椿にーちゃん、そんなに朝駄目なの?」
私がお弁当を用意する事よりも、毎朝中学生の通学時間帯に表に出る事を、殊の外問題視する椿にーちゃん。
しかも、私が学校に向かう時間だなんて、別にそう早起きでもないよね? この前の日曜日に迎えに来てもらった時刻は、午前十時だったけど……
キッチンスペースにて、鶏肉を臭み抜きと下味用のタレに漬け込む私の背後で、椿にーちゃんは焙じ茶のお代わりを注ぎつつ首を左右に振った。
「絶対無理。俺にとっては朝十時からの外出が、一番早起きな生活サイクル時間なんだ」
「むしろどうやって義務教育乗り切ったの、椿にーちゃん」
きっぱり言い切った椿にーちゃんに、私は炊飯器の早炊きをセットしつつ、当然の疑問を抱いて内心首を捻った。ポタージュスープの具材を切って炒めてから圧力鍋に入れ水を二カップ入れておく。デザートに使うカステラを切り分けてそれでバニラアイスを包み、ラップでくるんだ物を冷凍庫に入れておく。
お夜食になるようなお土産、今日は何が良いかな~。手軽におにぎりとキュウリの浅漬けにしておこう。
「小中高と、実家で家族に平日の朝は叩き起こされて、午前中は半分意識が眠ったままボンヤリ状態で通ってたよ。ちゃんと覚醒するのは午後に近付いてから。
……お陰で朝練とかある部活には入れなかった」
「……苦労したんだねえ、椿にーちゃん」
「大学に入っても一年の頃は、必修科目が朝一なコマ割でさ。大学からは一人暮らし始めてたから、寝ボケたまま目覚まし時計を止めて速攻で二度寝に突入とかしょっちゅうで、結構ヤバかったんだ、実は」
……椿にーちゃん、そこまで低血圧ってか、寝起き悪いんだ。
「んー。そーなると、お昼のお弁当計画実現は難しいか……」
高野豆腐と野菜を切り、みりんとお砂糖と醤油を混ぜたタレを作り、一口サイズにカットした高野豆腐に片栗粉をまぶしておく。
お夕飯の下拵えをひとまず終え、エプロンを外しながらテーブルに着く私に、椿にーちゃんは「ちょっと借りるね」と断ってから、我が家の親子間伝言板ならぬメモ帳を手元に引き寄せて、ペンを手に取り何やらサラサラと書き付け始めた。正面から身を乗り出して覗き込んでみると、何か図形のようなものを描き出している。
「えーと、うちの学校を俯瞰すると敷地はだいたいこんな形してるんだけど」
「ほうほう」
やや歪な五角形に何本か直線が引かれ、その中に小さめの長方形などが書き込まれた。
「これの中が中等部の敷地と校舎、こっちが高等部でこっちが大学。
道路とかはこんな感じ」
どうやらこれは簡易マップらしい。中等部と大学のそれぞれの敷地は隣接していて、高等部だけ五角形の右よりを南北に貫く国道道路を挟んで反対側、つまり東方面だ。
「中等部と大学の正門と裏門の位置関係は、確かこんな感じでー」
二本の短い線を引いて、門の位置を表した椿にーちゃん。中等部から大学の敷地に行こうと思ったら、中央の道路に面した正門を出てからてくてくと北上し、五角形の上部一辺に左折してぐるりと回り込んでそちら側にある門に入る形だ。要するに、隣接していても出入り口が違う方角に存在するので、敷地の塀沿いにわざわざ回り込まなくてはならない。無論、午後も授業がある私が昼休み時間に門を出るとか論外だ。
椿にーちゃんはペン先で中学と大学の間を仕切る線をトントン、と叩いた。
「つまり、ここをショートカットしちゃえば昼休みの時間に簡単にお弁当が受け取れる」
「ショートカットって」
「あれ、この辺に足運んでみた事無い? ここ、仕切りにフェンスがあるんだけど、警備員さんに頼めば確かフェンスの出入り口開けてもらえるよ?」
初耳だなー。校舎裏とか用もないので特に足を運んだ事も無いし、真偽のほどは定かではないけども。
「そもそも椿にーちゃん。大学の昼休みと中学の昼休みって、時間合うもんなの?」
「二コマ目が終わるのは十二時四十分です」
「……こっちの昼休みは十二時五十分からです」
私の答えに、椿にーちゃんは『ほら問題ナッシング!』と言いたげに、歯をキランと輝かせつつビシッと親指を立てた。ちょっと暑苦しいウザ系な仕草も、イケメンがやるとお笑い的一場面に転じるのが不思議。
「そっかぁ、じゃあ六月に入ったら校舎裏に行って、椿にーちゃんにお弁当届けられるねえ」
「……ん、六月に入ったら?」
半ば無意識のうちに呟いていた独り言に、椿にーちゃんが反応を示し、そこでようやく私は声に出していた事に気が付いた。カバンからさり気なくノートや教科書を取り出し、頷く。
「ほら、今月残り一週間はテスト週間だから……」
「あー」
私の答えに合点がいったのか、納得した様子で頷く椿にーちゃん。
何というか、『時枝先輩へ、お弁当作って持って行く約束なの』とか、椿にーちゃんに言うのってさ。妙な気恥ずかしさが湧くというか。
あの、ビミョーな生暖かさと微笑ましさが混じり合った眼差しを椿にーちゃんから向けられて、見守られるとかって。すんごく、とんでもなく、恥ずかしい。例えるならばきっと、大事に仕舞っていた彼氏から貰ったラブレターを、偶然親に読まれてしまった状態な気恥ずかしさじゃないかと!
あ、いや、時枝先輩はもちろん私の彼氏じゃないけどっ。
「さ、さあ。今は先の事よりもテスト勉強が大事な時だよね」
「テスト週間の日曜日に遊びに出掛けちゃう、のんびりさんなミィちゃんにしてはやる気ですな」
教科書やノートを広げ、英和辞書を手元に引き寄せる、私のあからさまな話題転換に、椿にーちゃんは口元へうっすらと笑みを浮かべる。何か色々、見透かされてる感が凄くて居心地悪いんですけど。
……そして、椿にーちゃんのご指導はスパルタでした。私があまりにもダメダメだったからかもしれないけど、とにかくビシバシしごかれた。
「ミィちゃん、スペルは筆記体じゃなくてブロック体で書こうね」
「ブロック体の書き方なんかより、筆記体で書くのに慣れたい~」
「それでスペルミスしたまま覚えてたら意味無いでしょ。ブロック体である程度読めて書けるようになるまで、筆記体なんて書けなくても良いの。ミィちゃんには十年早い」
「うぐぅ……」
……書き取り練習はこんな感じで、ひたすら単語の意味を覚えるのに懸命になり、日本語とは異なる文法が取っ付きにくさを増大させる。
会話レッスンの方は、というと。
「I am from Tokyo.(私は東京出身です)
Please repeat after me.(私の後について言って下さい)」
「あいあむふろむとーきょー」
椿にーちゃん、実はネイティブか? と尋ねたくなるぐらい、発音がちょー綺麗でした。それに引き換え、私の発音は……
「……We are from Tokyo.(私達は東京出身です)」
椿にーちゃんが一瞬唖然とした表情を浮かべた辺り、相当酷いようだ。
「Please repeat after me.」
「うぃーあーふろむとーきょー」
「Ken is my friend.(ケンは私の友達です)
Please repeat after me.」
「けんいずまいふれんど」
「This is my bike.(これは私の自転車です)
Your bike is nice.(あなたの自転車は素敵です)
Please repeat after me.」
「でぃすいずまいばいく。ゆあばいくいずないす」
私が真顔で復唱していると、椿にーちゃんがパタリとテーブルに上半身を伏せた。
「み、ミィちゃん真剣に発音してる……んだよね?」
椿にーちゃんからの問い掛けに、私は無論の事だとコックリ頷いた。
「……いや、諦めるな俺。ディスカッションの授業までに、形になっていれば良いんだ」
「ディスカッションって、パネルディスカッション?」
今、椿にーちゃんから習っているのは英語なのに、国語の授業で行うあれが関係してくるのだろうか?
「いや、授業中、日本語の使用禁止にして英語で討論するディスカッション」
「何その地獄絵図!?」
恐ろしい……この先にはそんな授業があっただなんて。私、一気にあの学校に通い続けられる自信が無くなったんですが。
「英文法と単語を覚えてれば平気だよ。さ、be動詞の次は疑問文と否定文いってみようか」
「つ、椿にーちゃんっ。そろそろお腹空いてこない? ほら、もう七時過ぎてるしさ」
気を取り直してテキストを広げ直す椿にーちゃんに、私は柱時計を指し示しながらお勉強の中断を促した。
「……中学の授業時間って、そう言えば一コマ一時間も無いんだっけ」
椿にーちゃんの唇からポソッと零れ落ちた呟きに、何だかとんでもなく見くびられたというか、『しょうがないな~』みたいな呆れを感じ取ったのだが。うー、英語漬けイヤ~が本心だけに、その印象を払拭したくても、どうしようもない。
「唐揚げ作ってくれるんだよね。楽しみだなー」
にっこり笑顔でテーブルから解放されたは良いが、お夕飯後のしごきが不安になる。
勉強道具を一旦片付けてテーブルを拭き、椿にーちゃんのコップに新しいお茶を注いでから、再びエプロンを身に着けキッチンに向かった。
お勉強前に用意しておいた圧力鍋を加圧して、その隣で揚げ物用の鍋で油を熱して、タレに漬けておいた鶏肉に溶き卵をくぐらせてから衣を付けて、油の中へ投下。
明日のお弁当にも持って行こうと、鶏肉は多目に買ってある。第一陣を軽く一分半ほど揚げた後、バットでしばらく寝かせておき第二陣を投下、そちらも引き上げてから第三陣を揚げていく。
第三陣をバットに引き上げてから、十分に余熱が行き渡った第一陣を再び油の中に投下し、今度は三十秒ほどの二度揚げ時間を経て、ベタベタと引っ付いてこないキッチンペーパーにて余分な油を吸わせ、大皿に盛り上げた。
先に高野豆腐を軽く焼き、続いて刻んだお野菜を炒めたフライパンに、用意しておいたタレと高野豆腐を戻して煮絡めて片栗粉がトロッとしたら完成、と。
唐揚げと高野豆腐の甘辛煮が完成する頃には、スープ制作中の圧力鍋の中身もよく煮込まれ、仕上げに牛乳とオリーブオイル、塩胡椒で味を調える。
早炊き設定した炊飯器もご飯の炊き上げ完了音を響かせる。うん、お夕飯でーきた。お夜食に渡すおにぎり……具材はシンプルに鮭と梅干しとおかか……を手早く握って、取り分けておいて、と。
「おお、美味そう」
にーちゃんの方は大きめのお茶碗にご飯をよそって、鍋からスープをカップに注ぎ、高野豆腐の甘辛煮を取り分けて皿に乗せる。カットしたレモンを添えた取り皿、お箸とスプーンを乗せたお盆をテーブルに運ぶ。食卓を調えるのは椿にーちゃんに任せ、すぐさまキッチンに翻して本日のメインディッシュたる揚げたてな鶏の唐揚げを盛った大皿を麗々しく運んでいくと、にーちゃんから歓声が上がった。ふふん、存分に崇め奉ってくれてもよくってよ。
向かい合って席に着き、いただきますを唱和するやいなや、椿にーちゃんは早速お箸を唐揚げに伸ばして、口に運ぶ。
「あふっ、はふ、はふ」
「揚げたてなんだから、まだ熱いよにーちゃん。舌大丈夫?」
「らいりょーふ! ふまっ!」
口の中を火傷していないかが心配になるが、椿にーちゃんは齧った鶏肉の温度を冷まそうと、はふはふしている。お陰で何を言っているのかよく分からない。
私はまず、ポタージュスープから頂く。うん、やっぱりカボチャのポタージュは美味いわー。圧力鍋があると、調理時間が短縮されるのが有り難い。
「あー……なんか俺、今、すんごい人生最良の幸せを味わってる……」
「鶏の唐揚げが椿にーちゃんの最高の幸せなら、いっそ世界規模の某株式会社に就職したら?」
ようやく熱すぎない温度に下がったのか、幸せそーな表情で唐揚げを噛み砕いて飲み込む椿にーちゃん。人生で最高の幸せは鶏の味……比較的安上がりな人生送ってるな、このあんちゃん。
「いっそそうしたいけど、家業を手伝う約束がな~。
従兄弟に全部押し付ける訳にもいかないし」
「その為に、いっぱい外国語習ってるんだもんね?」
「うん、そう」
……椿にーちゃんの実家の家業って、輸入関係がどうのとか言ってたけど、そう言えば正確には何なんだろう? 貿易会社? 例のゲームによると、祖父の実家は……指定されてる団体の、古くから続く一家らしいとか匂わせてたけど。フロントってやつですか。
「ミィちゃんのご飯、マジ美味い! おかわり」
「はいはい」
甘辛い高野豆腐の方も、味付けは上々であるらしい。唐揚げを三つほど口に運んだ後、高野豆腐に挑んだ椿にーちゃんは、ご飯が進んだようで、空にしたお茶碗を差し出してきた。笑顔でおかわりをよそってあげながら、私は不意に懐かしさを覚えていた。
何で懐かしく感じるのだろうとしばし自答自問してみると、何となく解答が浮かんだ。多分きっとあれだ。『前世の彼女』も、息子が二人いたんだけど、椿にーちゃんぐらいの年頃は、滅茶苦茶食欲旺盛だったんだよね。上の息子は……あれ? 何が好物だったんだっけ。
極力、『前世の彼女』のプライベートな事は思い出さないようにしてたせいか、ふと思い立ち呼び覚まそうと意識しても、前世の記憶が殆ど思い出せない事に気が付く。
こうやって、料理のレシピや家事のあれこれ以外は、そのうち全部忘れてしまうんだろうか。きっと、今世で家事炊事も放棄していれば、それらとてとうに忘れ去っていたに違いない。
「この、衣の内側に慎ましくくるまれた臭みが全く無い鶏肉の、均等に熱が行き渡りつつジューシーな肉汁を溢れさせ、どこまでも柔らかい食感と、鶏肉ならではの淡白な味わいの中に旨みをも与えてくれる!
揚げたての立ち上る湯気と香りにさえも、上品でありながら弾け飛ぶような期待をチラリと覗かせ……」
「分かった分かった、何言ってんだかよく分かんないけど、椿にーちゃんがいかに鶏の唐揚げが好物なのかは、分かったから」
おかわりをよそって手渡した辺りで、ようやく椿にーちゃんも腹ペコからある程度落ち着いてきたのか、まったりと再び唐揚げを一口食べるなり、今度はおもむろに滔々といかにこの唐揚げが美味しいのかを語り始めてしまった。なんか、どこまで唐揚げ一つに賛美出来るのか、椿にーちゃんの限界挑戦まで聞いてみたいような気もしたが、私の神経の方が耐えきれなかった。
たくさん揚げたし、唐揚げも残ったらお土産にでも渡そう。
「ごめんごめん。いやあ、本当に美味いよ、これ」
「椿にーちゃん、本当に普段は何食べてるの? お昼のパン以外」
「んーと、一応自炊はしてるよ。一応。
炊飯器で米炊いて、で、適当に野菜切って野菜炒めもどきとか、玉子焼き作ろうとしてスクランブルエッグ製作とか、ラーメン茹でたり」
「……いやそれ、最後のはインスタントだよね?」
「お湯注いで待つだけのカップ麺じゃなくて、鍋で麺を湯がくから自炊の範疇だとカウントしてる。一応、具も自分で色々入れるし」
「ええー」
つまり、なんだ。椿にーちゃんは料理が全くこれっぽっちも出来ない訳ではないけれど、包丁を握ってご飯を作ろう、という意識をギリギリ抱いてるラインの、何か面倒になれば外食に走りそうな料理しない系男子であると。
これは一つ、簡単なレシピを教えるべきなのだろうか。取り敢えず、品種改良失敗結果によるスクランブルエッグ一択だけでなく、玉子焼きもレパートリーに加わるように。
「椿にーちゃん、今度お料理教えようか?」
「やだ」
おい。
私の親切心からの申し出を、まるで幼子の駄々のごとく二文字で拒否るにーちゃん。
椿にーちゃんは高野豆腐と白米 (因みに彼は更にもう一回おかわりをした)、スープを綺麗に平らげ、お箸を置いた。そして対面の私に向かって口元を軽く持ち上げる。
「俺に料理の講釈をする時間があるのなら、ミィちゃんに単語の一つも覚えさせる」
「……にーちゃんの笑顔がコワイッス」
スパルタだ。スパルタ神だ。単語は書いて読んで手と目と頭に意味を叩き込めとばかりに、ひたすら私の脳髄に英単語を注ぎ込む気だ!
「さ、さあにーちゃん、ご飯の後はお楽しみのデザートのお時間ですよー」
直感的に察知した未来予測の余韻を誤魔化すべく、私は明るくデザートタイムを宣言しながら使い終わったお皿を重ねてシンクに運ぶ。
先ほど唐揚げに使った鍋を再び火にかけて温度を上げつつ、ティーセットとデザートの準備を始める。今度はデザートなので、衣に使うのはホットケーキミックスをミルクと卵黄で溶き、冷凍庫で冷やしておいたバニラアイスのカステラ包みを取り出した。
さて、今日の紅茶はアイスティーかな。フルーツは……実はまだ、グレープフルーツを使い切っていなかったりする。実はも何も、この酸っぱい果物をうちの中年が食べられないのだから、延々余るのは仕方がない気もするけど。
「椿にーちゃん、紅茶はまたグレープフルーツティーで良いよね?」
「あー……グレープフルーツ……」
油の温度が上がる前にと、テーブルについているにーちゃんを振り返って確認をとると、椿にーちゃんは何故かビミョーな表情を浮かべた。おかしいな、昨日は普通に美味しいと喜んで飲んでくれてたのに。
「グレープフルーツティー、気に入らなかった?」
「いや、ただちょっと、今日の嫌な事思い出しただけだから。気にしないで」
「……? うん」
何だ、今日大学で、罰ゲームか何かで無理やり酸っぱいグレープフルーツを口の中に大量に詰め込まれでもしたか、椿にーちゃん。今時の大学生の悪ノリは私には想像がつかんが、椿にーちゃんが一瞬浮かべた渋い表情から察するに、よほど酸っぱいタイプのグレープフルーツを突っ込まれたようだ!
ラップを剥いで、アイスのカステラ包みをホットケーキミックスの衣にたっぷりくぐらせ、熱した油の中へ次々投下。表面がきつね色になったらバットにあけて、キッチンペーパーで余分な油分を落としたら完成。
「おお、ミィちゃん、これは……球体ホットケーキ??」
アイスティーのグラスと、生クリームは作るのが面倒なのでブルーベリージャムを添えて器に乗せた揚げ物デザートをテーブルに運ぶと、椿にーちゃんは自分の前に置かれたデザートを様々な角度から眺めつつ、正体が分からず困惑しているようだった。まあ確かに、見た目はボールのようにまん丸な、ドーナツっぽくもある。
私はすぐには答えず、スチャッとナイフとフォークを手に取り、おもむろにデザートの真ん中からナイフを入れて、切り分けてみせた。
「さあ、見てみるが良い。この、一見して平凡なボール状デザートの、真の姿を……!」
「何と……! 高温の油で揚げたにも関わらず、中心部から現れたのは純白のバニラアイス!?」
「ふっ。さあ椿にーちゃん、この熱々冷え冷えデザートを一口食べてみなさい。そして驚け」
「こ、これは……!?」
自らもデザートを切り分け、一口口に運んだ椿にーちゃんは、カッと目を見開いた。
「フワフワのカステラがここまで表面を熱くしているというのに、中心部のバニラアイスは冷たくヒンヤリした甘さをたたえている!」
「そうよ、これはまさにドーナツにヒントを得た、熱々冷え冷え揚げ物デザート!」
「そうか、ドーナツが円を描いているのは中心部が生焼けとなってしまうから」
私はビシッとフォークに刺したデザートを、椿にーちゃんの眼前に翳した。
「そう、フワフワしたカステラは多分に空気を含み、熱の浸透率を遅らせる……故にこそ、中心部に安置されたバニラアイスは溶けず、この食感を実現させているのよ!」
「素晴らしい……まさに新しい挑戦だ!」
「……てゆーか、椿にーちゃんって万事ノリ良いよね」
まるでどこぞの料理マンガのような発言を振ってみると、打てば響くようにノリノリな返答をポンポンと返してくる椿にーちゃん。絶対この人、話術で食っていけると思う。
モグモグとデザートを食しつつ、椿にーちゃんは「ん?」と、キョトンとした表情を浮かべた。
「いやいや、俺、単に周囲の空気に合わせてるだけなとこあるからー。実態は単なる、低血圧のダラダラ人間よ?」
「それって遠回しに、私がおバカな雰囲気ばっかり出してるって言いたいの?」
「あ、ほらまたミィちゃんの背後に、俺への指示看板が出た! 『次でボケて!』って」
「椿にーちゃん、それ絶対に私が要因なんじゃない。
椿にーちゃんが実はボケ体質なんだよ。にーちゃんの深層心理では、ボケ倒したいとか渇望してるんだよ……!」
なんせ、時枝先輩の前でガックリ崩れ落ちて、『神はこの地を見放した!』とか言うよーな人だ。絶対に、このあんちゃんの本質は残念イケメンでボケ体質に違いない。
「そうか、知らなかった……俺ってボケの人だったんだ。
華麗にツッコミ入れてくれる相方さん募集しないと。ミィちゃんはどう、立候補する気ない?」
「生憎と、私のツッコミはお安くなくってよ」
デザートを頂きながら、どこぞの夫人よろしく片手の甲を口元にあてがい、をほほほ笑いを響かせてみる。どうやら椿にーちゃんの中で、私は家庭教師先の教え子というより、お笑いコンビの相方的地位が振って湧いてきたらしい。
デザートをペロリと平らげ、おかわりのアイスティーを淹れようかと席を立った時、玄関チャイムが鳴った。時計に目をやれば、もう八時を回っている。
普段忙しく働く父と、中学生の私の二人暮らしの我が家では、こんな時刻に訪ねてくるような知人など思い当たらない。
「こんな時間にいったい誰だろう?」
「変質者だったら、俺が追い払うよ」
インターホンに手を伸ばしながらも首を捻る私に、椿にーちゃんが言い添えてきた。……うっかり反射的に、『椿にーちゃん頼もしい』とか思ってしまった自分がなんだかなー。うちの中年にも、十分の一程度で良いから、この辺の機微を見習ってもらいたいものだ。
「はい」
「あ、美鈴ちゃん今晩はー」
テレビドアホンに映し出された姿、そしてインターホンから流れ出てくる柔らかい声音の美少女。
見間違いようもなく、隣家に住まうヤバゲーヒロインこと、皐月さんである。彼女がこんな時刻に訪ねてきたのは、記憶にある限り初めてだ。
「え、皐月さんどうされたんですか? い、今、玄関開けますね」
背後で椿にーちゃんが「ん?」と、反応を示している。非常にマズい。だが、だからといって訪ねてきたうら若き美少女を、夜間の玄関先に一人で放置しておく訳にもいかない。
廊下を駆け抜け玄関の鍵を開錠してドアを開け放つと、玄関ポーチの灯りに照らし出された皐月さんは、今日も可愛らしい微笑を浮かべて私に向かって軽く片手を持ち上げた。
「美鈴ちゃん今晩はー。急にごめんね、こんな時間に」
「いえ、何かあったんですか?」
「ミィちゃん」
椿にーちゃんと鉢合わせさせるまでもなく、玄関先で皐月さんの用件を聞き出して、用事が済ませられるかなー? という私の淡い目論見は、わざわざキッチンダイニングから廊下に姿を現した椿にーちゃん本人の行動によって、淡い幻のまま崩れ去った。
「……あれ、椿先輩」
どうやら皐月さんにとって、この時間に椿にーちゃんが私の家にいるというのは予想しえない事態だったらしい。私の背後を見やり、目をぱちくりとさせた。
「えーと、お時間があるようなら、良かっ
たら上がって下さい皐月さん」
「あ、うん。お邪魔します」
僅かに身を捻って、片手でキッチンダイニングを示し促した私に頷き、皐月さんは靴を脱いでたたきから廊下に上がった。
キッチンダイニングに入ってイスを勧め、追加デザートを揚げに掛かる。甘いホットケーキミックスは焦げやすいので、揚げる時間が短いのよねー。
グレープフルーツティーと揚げ物デザートを三人分用意し、テーブルに運ぶと、私の指定席の隣にちょこなんと腰を下ろしていた皐月さんが、デザートを目にして目を輝かせた。……そう言えばこの前、嘉月さんは皐月さんが何かに悩んでいるようだ、って言ってたけど。もう吹っ切れたのかな? 雰囲気明るいよね。
椿にーちゃんの方はそんな皐月さんを眺めて目を細め、すんごく優しげな表情を浮かべている。うー。
「なんかごめんね、ご飯時にお邪魔しちゃって。椿先輩がいらっしゃってるって事は、まだお勉強中だったんだよね?」
「いえいえ、今はデザートを食べながらお喋りをしてただけですから。……スパルタが遠のくなら、藁にも縋りたいのが本音というか」
「ミィちゃん。今、まったりしても、どうせ後で叩き込むのは一緒だから」
この前のポテチといい、やはり、皐月さんは揚げ物系がお好きらしい。「美味しいー」と、揚げ物デザートを頬張っていい笑顔を見せている。グレープフルーツティーも、お気に召したようだ。私はと言えば、椿スパルタ神からの容赦なし宣告に、早くも魂が抜け出し始めた。
「ところで、皐月ちゃんはこんな時間にいったいどうしたの?
お兄さんから美鈴ちゃんの様子を見て来て、って言われたとか?」
「椿にーちゃん、嘉月さんからの信用、欠片も無さそうだもんね」
あれだな。先日のお茶会時点でもう、妹の周囲をうろつく悪い虫認定受けてたっぽいもん。でも、嘉月さんが椿にーちゃんの動向に懸念を抱いて探りを入れるにしても、問題の妹本人を送り込んでくるもんか?
「へ? いえ、お兄ちゃんからは特に何も?
いや、実はね。美鈴ちゃんのお父さんから、こんなメールが」
皐月さんはキョトンとした表情を浮かべ、次いでポケットからスマホを取り出し、私に画面を見せてきた。
『皐月さん今晩は、雅春です。
急にメール出してすみません。実はこのところ、仕事の都合上、私の帰宅時間が遅くなってしまう事が多いんです。
こんな事をお願いするのは本当に申し訳ないのですが、夜、一人で留守番しているうちの娘の美鈴の様子を、できる範囲で構いませんので気にかけてやってくれませんか?
昨日に引き続き、今日も遅くなってしまって、心細い思いをさせていないか心配で……
いつもご迷惑ばかりおかけして申し訳ありませんが、どうか宜しくお願いします。
雅春』
うちの中年、何気に隣家の女子大生のメルアドをゲットしていたのか……! しかしあのお父さんでは所詮、メルアド交換程度で仲の進展も止まってしまうのだろう。
皐月さんに届いたメールを読み上げると、椿にーちゃんはアイスティーを一口飲んでから、腑に落ちない様子で尋ねてきた。
「……『夜遅くまで一人で留守番させているせいで、心細い思いをさせて』?
ミィちゃん、お父さんに俺が家庭教師にお邪魔してる事、話してないの?」
「わたしもこんなメールがきたから、てっきり椿先輩のお勉強は今日無いんだとばかり思って。それなら、直接美鈴ちゃんの様子を見てこよう、って思い立って……すぐにお隣に来ちゃった」
前と右から口々に言われて、私は揚げ物デザートを咀嚼してから口を開いた。
「椿にーちゃんに家庭教師をお願いした事は、もう言ったよ。
でも言われてみれば、いつ、何時までうちで英語教えてもらうのか、は特にお父さんには言ってないや」
何せ、タダ家庭教師の椿にーちゃんとの約束は『椿にーちゃんの都合の良い時間と日にちで』だからなあ。
「じゃあ、お父さんに電話して安心してもらった方が良いんじゃないかな。今日も遅くなるようだから、わざわざ皐月ちゃんにメール送ったんだろうし」
「うーん、そうだね」
皐月さんも、椿にーちゃんの提言に同調するように小さくうんうんと頷きつつ、揚げ物デザートをバクバクと物凄いペースで食べている。どうやら、あのデザートをかなり気に入ってくれたようだ。やったぜい。
デザート攻略に懸命になっているようなので、皐月さんのスマホは彼女の傍らテーブルに置いて、通学カバンの中から自分のスマホを取り出す。
勉強やご飯に気を取られて着信音に全く気が付かなかったが、お父さんから帰宅時間が遅くなる事を知らせるメールがきていたようだ。私が返信しなかったから、うちの中年ってば心配して皐月さんにわざわざメール出しちゃったのかしらん。
アドレスから父の番号に掛けてみると、数回コールの後に繋がった。昨日の通話経験を踏まえ、念の為スピーカーのマークをタップして、スピーカーフォンに変更し、テーブルの真ん中に置いた。そんな私の行動を、皐月さんと椿にーちゃんは不思議そうな表情を浮かべながら見守っている。
「美鈴、お父さんもう帰りたいようううう!」
スピーカーフォンだというのに、スマホから大音量で中年の泣き言が溢れ出てきて、私は溜め息を吐いた。そして心持ち、スマホに顔を近付けてから喋る。
「お父さん、私の気のせいかな。なんかその台詞に、すっごいデジャヴを感じるんだけど」
「あ、あれ? 何かそう言う美鈴の声が遠いよ?」
「凄い、おじさまの言動を読み切ってる。流石美鈴ちゃん」
「親子の絆だね~」
何故、わざわざスピーカーにしたのか、理由を察知した皐月さんと椿にーちゃんは、通話の邪魔にならないよう小声でポソポソと囁き合った。うむ? もしやこれはマズい展開?
「お父さん、わざわざ皐月さんにメールしたんだって?
こんな時間なのに、皐月さん心配してうちに来てくれたんだからね。お父さんが余計な心配の種振り撒いてどーするの」
「えっ、うちに皐月さん来てくれてるの?」
残業ばかりだと嘆く父を宥めすかす前にと、皐月さんにご迷惑をお掛けした旨の反省を促したというのに、むしろ中年が嬉しそうなのは何故だ。
皐月さんもスピーカーフォンである事を考慮し、上半身をテーブルの上のスマホに近付けて口を挟む。
「今晩はー、おじさま。美鈴ちゃんの手作りのお菓子とお茶、頂いちゃってますー」
「美鈴のお菓子!? 皐月さん羨ましいっ……!」
「もう、んな事はどーでも良いから。お父さん、今日も遅くなるんだね?」
「うん……ああっ!?」
確認するように私が問い掛けると、突如として中年は電話口の向こう側で素っ頓狂な声を上げた。やはり、お父さんの溢れんばかりの才能を警戒して、延々スピーカーフォンの状態にしておいて良かった。
「み、美鈴……今気が付いた。お父さんの携帯が赤い光を灯している……」
「はあ。充電していかなかったのね。携帯充電器使ったら?」
「おうちに忘れた……」
バカだ。バカがいるぞ。
「残業にプライベート携帯は使わないでしょ。
それで、留守番云々の件だけどさ。お父さんには伝え忘れてたけど、私今テスト週間で、椿センセーが毎日うちでお勉強教えてくれる約束になってるのね。だから、皐月さんを煩わせる必要は無いよ」
「えっ、石動さんがうちに来てるの!?
美鈴、早く言ってよ、そういう事は!」
「忘れてた」
またしても浮き足立った声を上げる中年。残業への倦怠感が吹っ飛んだなら良かったけど。
何でか知らないが、うちのお父さんは椿にーちゃんに対しては格好を付けて『じぇんとるめんな美鈴パパ像』を築き上げたいらしい。こうやって、とうに娘が本性を暴露ってる事に、中年本人は全く気が付いていない模様。
「早く石動さんと代わって代わって、美鈴。お父さんしっかり挨拶してみせるから!」
「ハイハイ」
スマホの向こう側で、ピーッ、ピーッ、と、何か聞き覚えのある警告音を響かせつつ、こちら側からの声が遠いと気が付きつつも、我が父は私のスマホがスピーカー状態であると察していないらしい。
ビミョーに半笑いな表情を浮かべ、椿にーちゃんはうちの中年と『ご挨拶』を交わすべく、私のスマホに顔を近付けた。
「あー、あー、オホン。
初めまして、石動椿さん。私は美鈴の父の、雅春と申します。このような電話越しで失礼します。
どうか、うちの娘にビシビシと厳しくご指導ご鞭撻のほど、宜しくお願い致します」
……何、言っちゃってんの、うちの中年。
わっざわざ咳払いをして、お父さん的に渋くて格好良いとか自画自賛しているらしき余所行きの声音で語りかける中年。椿にーちゃんが笑みを浮かべ、それに答えようと唇を開いたところで、出鼻を挫くようにピーーーッ! と、一際甲高い機械音が鳴り響き、唐突にブツッと通話が途切れた。
「……あれ、切れちゃったね」
「お父さんの携帯、バッテリー切れをやらかしたようですな。
まあいっか。別に一人で留守番してる訳じゃないって事実は伝わっただろうし」
皐月さんが「ありゃ」と呟き、椿にーちゃんはどうやらあまりのタイミングの良さがツボに入ったようで、吹き出すのを堪えるので必死だ。
デザートとアイスティーを平らげた皐月さんは、フォークとナイフを置いて席を立った。
「じゃあ、わたしはそろそろ帰るよ。美鈴ちゃんは、これからお勉強しなきゃなんでしょ?」
「安心して、皐月ちゃん。美鈴ちゃんのお父さんからお墨付き貰ったんだし、遠慮なくビシバシいけるから」
「……今までは、遠慮と手加減加えてたの、椿にーちゃん!?」
「あははは」
「ちょっ、皐月さん笑ってないで助け舟を!」
皐月さんは笑うだけで軽やかに立ち去ろうとするのみ。私は慌ててお見送りしようと、玄関を出た。
「美鈴ちゃん、お菓子すっごい美味しかったよ。ありがとう」
「いえいえ。こちらこそ、父のせいですみませんでした」
じゃあまたね、と、実にあっさりとお隣の家に帰ろうと踵を返す皐月さんの背中に、私は玄関ドアを押さえたまま咄嗟に「あのっ」と、声を掛けていた。皐月さんが振り返る動きに合わせて、下ろしたままの長い髪の毛がひらりと背中の辺りで翻る。
「その、皐月さんは……やっぱり、准教授の柴田先生がお好きですか?
椿にーちゃんは、優しいし、楽しいし、良い人です、よ?」
こんな事を皐月さんに聞いたりするなんて、私は何を言ってるんだろう。
だけど、だけど、さ。
何度か会って、いっぱい話して、笑い合った椿にーちゃんと、一度も会った事が無くて人伝や曖昧な前世の記憶でしか知らない准教授とでは、椿にーちゃんの方を贔屓したくなっちゃったんだ。
皐月さんは私の質問に不思議そうな表情を浮かべて、そうしてから満面の笑顔を浮かべた。
「心配しないで、美鈴ちゃん。
わたし、柴田先生に一途だから! 相手が先生だろうが、子どもとしか見られていなかろうが、絶対柴田先生を諦めたりしないよ」
「そ、そうですか」
ああ、めっちゃ良い笑顔で言い切られてしまった……
「じゃあねーお休みー」と、夜にも関わらす明るく元気にブンブンと腕を振る皐月さんに手を振り返し、クルリと踵を返した私の目の前、廊下のど真ん中に。
椿にーちゃんが無言かつ、無表情のまま立っていた。
てっきり、キッチンダイニングのテーブルに着いたままだとばかり思い込んでいたのに、予想外の事態に思わず息を飲む。
「つば……き、にーちゃ……」
「コレ」
今まで見た事もないような、椿にーちゃんの無表情。普段のおちゃらけた雰囲気の欠片も無く、いっそ威圧感すら纏う彼の空気に気圧されて、上手く声にもならず呼吸もままならない私の眼前に、スッと椿にーちゃんが差し出してきた物は、皐月さんのスマホだった。
椿にーちゃんは皐月さんが忘れ物をした事に気が付いて、追い掛けてきたらしい。
「さっきの……聞いてた?」
「さっきのって?」
皐月さんのスマホを受け取りながら、恐る恐る確認する私に、椿にーちゃんはようやく表情を緩めて小首を傾げた。やっと、謎の呼吸困難エリアは解除されたようだ。
「聞いてなかったんなら、良いんだ。うん」
思わず、ホッと安堵の吐息が漏れる。椿にーちゃんは私の頭にポンと軽く手を置いて、低く小さく独り言のように呟いた。
「ミィちゃん、そんなに気を遣わなくても良いのに。
皐月ちゃんが誰を見ているかなんて、そんなの言われるまでもなく知ってるよ。俺の事は眼中外だなんて、そんなのは今更だ」
「あ……」
やっぱり、椿にーちゃんの耳にも皐月さんの一途に柴田先生を追い掛ける宣言は聞こえていたんだ。
言われるまでもなく分かっているのと、実際に現実の言葉として耳にしてしまうのとでは、全然、違うのに。
……椿にーちゃんに、こんな寂しそうな顔をさせてしまったのは。私が、不用意で無思慮な質問を皐月さんにぶつけたせいだ……




