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本編⑧

 

 椿にーちゃんを玄関先で見送ってから、しばらく。無事に帰宅したにーちゃんと何往復かメールのやり取りをして、それから私はお風呂を済ませて早速ネットにアクセスした。猫アレルギーに関する諸注意を、きちんと把握しておいた方が良いだろう、と感じていたからだ。

 今日のお土産、ぬいぐるみの水色イルカを抱っこしたまま、キッチンダイニングのテーブルでスマホを弄る。


 ……そして私は、多種多様なアレルギー関連のページに翻弄される羽目になった。

 素人が下手に生兵法を植え付けるよりは、もう専門医に相談した方が良いレベルだ。取り敢えず、アレルギー症状が発生したら、軽く見たり素人判断を下したり放っておかずに、お医者様の指示に従うべきである、という厳然たる事実は叩き込まれた。


「世の中には、ありとあらゆる種類のアレルギーがあるんだ……」


 花粉に食べ物を始め、蜂などの虫や動物、金属、お薬なんてのもある。

 椿にーちゃんは幼少期にアレルギー症状が出て、病院で猫アレルギーと診断されたらしいから、多分、血液検査もやったんじゃないだろうか。RASTスコアは幾つだったのだろう?

 ……ペットショップの猫にもふるぐらいだから、恐らく重篤の5まではいかなかったんだろうけど、それにしたって無防備過ぎる。


「えっと、猫アレルギーのアレルゲンは、抜け毛、フケ、唾液、糞尿か……」


 椿にーちゃんが勉強教えに来てくれるんだから、徹底的におうちの中を掃除しておかないとなあ。猫飼ってるご近所さんも多いし、外出先で知らない間に服に引っ付いてた猫の毛やフケが、帰宅後にカーテンに付着……とか、マメに洗濯してないとあり得るのかもしれない。

 ……私、アレルギーの症状が判明する検査なんて受けたことないんだけど、もしかしたら何かとんでもなくありふれている食べ物のアレルギーを、ある日発症してしまったらどうしよう。

 ここで一人悩んでいても仕方がないと、私は柱時計に目をやってから二階の自室に上がる事にする。夜の十時半、流石にもうそろそろ眠らねば。

 そして遅くに帰宅するであろう父に、伝言を残すべくメモ帳にサラサラと書き付けていく。


『お父さん、遅くまでお仕事お疲れ様。

私の方は、今日のお出掛けすっごく楽しかったよ。

それで、お父さんへのお土産は冷蔵庫に入ってる水だよ。お参りに行った神社の、有り難~い霊験あらたかなご神水らしいよ。是非飲んでね。

それじゃあお休み。美鈴』


 メモ帳が帰宅したお父さんの目に付くよう、キッチンダイニングのテーブルの上に置いて、うん。これで良し、と。


 お父さん、遅いけど大丈夫かなあ?

 イルカぬいぐるみを抱っこしたままベッドに寝転がり、一人きりの静かな家の中でボンヤリと考えながら睡魔に身を委ねた。



 翌朝、早めに起き出してみると、キッチンダイニングのテーブルの上に、お父さんのメモ書きが置いてあった。


『美鈴へ。

お父さんへのお土産有り難う!

お父さん、昨日は結局日付変わってから帰宅する羽目になっちゃったよ。(プンプン)

今日の出勤はフレックスで遅めに申請してあるから、美鈴が朝起きて学校に行く時間になっても、お父さんは寝てると思う。

お弁当用のおかずは冷蔵庫の中に準備しておいたから、お弁当箱の中に詰め替えて学校に持って行ってね。先輩にちゃんとたくさん食べてもらうんだよ。雅春パパより』


「……先輩に、たくさん食べてもらうんだよ?」


 どうやら今は夢の中にいるらしき中年からの言伝に、私は違和感を覚えながら冷蔵庫を開けた。……昨夜放り込んだミネラルウォーターのペットボトルは姿を消し、その代わりに料理が盛られラップを被されている皿が、山ほど詰め込まれていた。

 中年っ。深夜にこんなに料理を作ってるヒマがあるなら、さっさと寝ろよ!?

 今日は、適当に食パンで具材を挟んで、サンドイッチでも作って持って行こうと思っていたのに。有り難いが、父の睡眠時間と今後の食材が心配だ。


 いつものお弁当箱では入りきらないので、父作のおかずと私作のおにぎりを重箱へと詰めるだけ詰めて、水筒にお茶とお味噌汁をそれぞれ入れ、支度を整えてから私は家を出た。やっぱり、父の愛を詰めた重箱がいやに重たい。


 五月最後の週となる今週は、部活動も休みとなるテスト週間である。私はいつも持てる力を注いで臨んでいるが、実際のところ今まで受けた小テストの点数はクラスの中でも平均点。そこに英語が足を引っ張ってきているのだ。

 でもきっと大丈夫。今日は早速、椿にーちゃんが試験対策の英語教えにきてくれるから。

 昨夜のメールで、『とっくに中間終わったのかと思ってた。日曜日に遊んでる場合じゃないでしょうがっw』と、怒られ……いや、笑われた? けど。


「おはよー、美鈴っち。

さあ、親愛なる我が友よ、厚き友情を溢れんばかりに持つこのアタシに報告したい話があるだろう?」


 教室に一歩足を踏み入れるなり、両腕を広げたクラスメートの渋木望愛 (しぶき・もあい)通称アイからやけに芝居がかった歓迎を受けた。我が友ながら、彼女は朝っぱらから何がしたいのだろうか。


「おはよう、アイ。いやあ、テスト好きじゃないから今週は憂鬱だわー」

「うむ、それには全面的に同意しよう」


 彼女が広げて待ち構えていた両腕の意図は分からないので、アイの脇を素通りしてロッカーに向かい、持ってきた重箱弁当と水筒を仕舞う。ああ、重たかった。

 そのまま真っ直ぐ自分の席に向かっていそいそと着席し、教科書を取り出して予習に勤しむ私に、教室の出入り口に取り残された形となっていたアイが「待て待て待て~い!?」と叫びながら、私の着席している机と前列の椅子の間に滑り込み、視界に割り込んできた。いや、元々私の前の席は彼女の席だけど。


「どーしたの、アイ。今日提出の宿題をやってくるの忘れてたとか?」

「美鈴っち、チミは人を何だと思っているのかね?」

「心の友と書いて、しんゆー」

「友よ!」


 今日はやけにハイだなあ、珍しく。などと半分呆れつつ、私が棒読みで問答に応じていると、アイは私の手を教科書から取り上げて、両手でがっちりと握り締めた。

 かと思えば、次の瞬間には手を離している。どうやら、上がっていたテンションメーターが維持出来なくなったらしい。アイの基準値テンションは、平均水準よりもやや低い。


「……あたしゃー、朝っぱらからこんなコントがしたいんじゃなくて、だね。

美鈴っちからの土曜日の顛末報告を、今か今かと待ちくたびれているんだが?」

「土曜日の顛末?」


 ガタガタと椅子を引いて、跨がるように後ろ向きに腰を下ろしたアイは、背もたれに両腕を乗せて顎を付け、私の顔を下から覗き込んできた。


「もちろん、子細かつ詳細に話してくれてもあたしは一向に構わんのだ。

にも関わらず、美鈴っちからメールの一通も来ずに肩透かしを食らったあたしの、週末のドキワクを返したまえ」

「無茶言うな」


 ズビシッ! と、アイの形良い人差し指を鼻先に突き付けられて、私は端的に抗議した。

 というか、土曜日の話を聞きたいとは何事だ。彼女とは、何も約束などしていなかったはずなのだが。

 アイは教室の様子にチラリと目をやって、我々が特にクラスメートから注意を払われていない様子を確認し、声を潜める。


「土曜日は、時枝先輩とデートだったんだろう? どんなだった?」


 ああ、そう言えば。時枝先輩と出掛ける約束をした時、待ち合わせの日時を打ち合わせていた私達の様子を、アイは隠れて窺っていたんだっけか。

 アイって、私と時枝先輩の仲が進展する方が楽しい、とか思ってるんだろうなあ。以前からの言動から察するに。


「残念ながら、私と時枝先輩はデートなんてしてはおりません」


 顔を寄せ、声を潜めて答えを返すと、アイは不満げに眉根を寄せた。


「あたしと美鈴っちの仲じゃないか、そこまで執拗に隠さないでも良いのに」

「残念ながら事実です。土曜日、私と時枝先輩は確かに美術館へとお出掛けしました。……美術部部長を始め、部員の先輩方と一緒に」

「……へ?」

「お疑いなら、誰でも良いから美術部部員に確認してみたら良いよ。時枝先輩から土曜日に一緒にレポート課題の個展観に行こうって、みんな誘われてる筈だから」


 私の淡々と語る事実に、アイは目に見えて肩を落とした。


「肝心の美術館でも、時枝先輩はファンの女子先輩方に囲まれててさ。一緒に見て回るどころか、先輩方に睨まれて追い払われちゃった」

「……初っ端から一対一が不安でグループデートを目論むにしても、もっとやりようがあるだろう時枝芹那っ!」


 小声で怒鳴るという器用な真似を披露する心の友。だからー、時枝先輩には私とデートをする、っていう認識そのものが存在してなかったんだってば。


「別に放り出されてた訳でも無いよ? 部長と一緒に個展見て回って、レポートのアドバイスも頂けたし」

「緩衝材のつもりだっただろうに、トンビに化けられてるっ」


 いったい何がそこまでウケたのか。アイは、堪えきれないとばかりにぶはぁっ!? と吹き出し、お腹を押さえてバカ笑いしだした。

 これには流石に、教室の面々も何事かとこちらを振り返っている。


「ぶ、部長との美術館はどうだった?」

「んー、部長って取っ付きにくい怖い人かと思ってたけど、結構優しい良い人だったよ。館内で並んで見て回ってる時に作品に夢中ですっ転びかけたら、支えてくれたし。

まあ、部長もやっぱりエキセントリックな人だなー、ってイメージも改めて深まったけど」


 私の回答に、アイは人目も憚らずゲラゲラと大笑いし、机をバシバシと叩きだした。


「た、楽しかったようで、何よりだよ美鈴っち……」 


 笑い発作の合間、息も絶え絶えにそう言われ、私もはあ、と曖昧に頷いた。土産話でアイが楽しそうなのは私にとっても何よりだけど、本当に我が友は何がそこまでツボにハマり、盛大にウケたというのか。

 ……それこそ、午後は庭園で時枝先輩と二人でお弁当を食べた、なんてアイに言ったらどう弄られるか分からないな。その辺は黙っておこ。



 午前中の授業を無事に乗り切り、遂に昼休みに突入した。先生が退室し、教室内の空気が昼休みの開放感に包まれる中、私は身を乗り出して前列に座るアイの後頭部に顔を近付け、コソコソと耳打ちする。

 

「アイ、私、今日はお昼ご飯届けてくるね」

「誰に?」


 突拍子もなく脈絡もない断りに、アイは目をキランと輝かせてすかさず問い返してきた。またこの人、アイにとって何か楽しい事に違いないと期待してるな。

 私は更に声量を絞る。


「時枝先輩。なんか、今月は金欠だそうでこの前お昼ご飯抜いててさ。

それをお父さんに話したら、なんか張り切って先輩の分のお弁当のおかず作ってた」

「ほほう……お弁当の差し入れ、とな。時枝先輩と言えば、女子の差し入れは全てお断りしている事で有名だが」

「まあ、そうなんだけど。時枝先輩、私のお父さんの料理好きみたいだし、私からじゃなく中年男からの差し入れなら、受け取ってくれるんじゃないかと」


 本当に、うちの中年は私の懸念なんか全く意に介さず歯牙にもかけず、せっせと薔薇フラグ設置に勤しむな。まあ、結果的に仲立ちしちゃってる身としては、それを責めるのも筋違いだけど。だって先輩がお腹空かせてたら、流石に可哀想じゃないか。


「そういう事なら任せておきたまえ、美鈴っち。時枝先輩の昼休みの行動パターンなら、下調べは済んでいる」


 アイはニンマリと笑いながら胸を叩いて、自信ありげに請け負った。むしろ何故、事前に調べ上げたし。

 いや、そりゃ、私自身は時枝先輩の携帯番号もメルアドも知らないから、直接会うぐらいしか連絡取り合う手段も無いし。どこに居るか分かんなくて、二年A組の教室に居てくれなかったらお手上げだから、助かるんだけどさ。

 我が友ながら本当に何故、そんな情報を握っているのやら。


 重箱の包みと水筒を持って、遠くから生徒の喧騒が届く校舎の廊下を、アイの先導に従って歩いていく。彼女に案内されたのは、二年の教室が並ぶフロアでも、ましてや一年のフロアでも無く……職員室の前。そこを通り過ぎて廊下を真っ直ぐ行けば、保健室に辿り着く。


「ここだ」

「はあ」


 私とアイは階段に向かう曲がり角に身を潜め、彼女はおもむろに断言した。私は気の抜けた返事を返す。つまり、時枝先輩は今日も保健室でお茶を頂く算段だという事なのだろうか。


「それではあたしはここらで失礼するとしよう。美鈴っち、健闘を祈る!」


 ふざけて額の前に手のひらをビシッと翳す敬礼をし、アイはスキップ交じりに立ち去った。……どうせまた、どっかでコソコソ隠れて見てるつもりなんだろうけど。

 私は手持ち無沙汰に、曲がり角に隠れて顔を半分だけ出し、廊下の様子を窺う。まだ時枝先輩の姿は見えない。


「……おい?」


 というか、時枝先輩のクラスの授業が早めに終わり、とうに保健室に入っていたらどうしよう。念の為に、保健室の在室状況を確認してきた方が良いのだろうか?


「葉山、こんなとこで何してんだ?」

「うきゃうっ!?」


 廊下の様子を窺いつつ内心グルグルと考え込んでいた私は、急に背後から名前を呼ばれながら誰かに軽く肩を叩かれて、驚きのあまり妙な悲鳴を上げつつ、その場にピョンと飛び跳ねていた。

 取り落としかけた重箱の包みを持ち直して振り返ると、私の肩に向けて手を伸ばした体勢のまま、呆れ顔をしている時枝先輩の姿が。私はその場でズザッと後ずさるも、あえなく背後の壁にぶつかった。


「な、何故先輩が私の背後に!?」

「自分の背後に立たれたくないとか、後ろから声掛けただけでその狼狽えようといい……後ろめたい悪巧みでも企んでるのか、葉山?」


 時枝先輩は笑いを堪えているのが丸分かりのまま真顔を装い、私を揶揄してくる。私はそんな疑いを否定するべく、ぶんぶんと必死で首を左右に振った。


「オレはただ、普通にそこから下りてきただけで、空中から現れたりはしてねえ」


 時枝先輩は顎で階段を示してみせる。

 つまり、階段の踊り場から私の背中を見付けて不可解に思いつつ、てくてくと階段を下りてきた時枝先輩は、謎の怪しい行動をとっている後輩に事の真意を尋ねてみた、と。そういう状況らしい。

 ちょっとアイ! 私が背中を向けて全然注意を払っていなかった階段から、問題の時枝先輩が下りてくるだなんて、ひとっことも言ってなかったじゃない!

 どこかに身を隠したまま、この成り行きを面白がって観察しているに違いない友に向けて、内心で盛大に文句をつけるも、心を読んだりする才能なんか持ち合わせていない彼女に届くはずもなく。


「で、何やってたんだ葉山。かくれんぼ?」

「ま、まあそんなところです。

先輩の方は、もしや今日もお昼を用意出来ずに保健室のお茶でお腹を誤魔化しに?」

「分かってるならみなまで言うな」


 私が強引に話題をすり替えると、時枝先輩は切なげに……いや、ひもじそうに? お腹をさすった。


「それなら先輩。ここに、こんな物が」


 よっこらしょ、と、重たい重箱の包みを翳してみせると、包みに見覚えがあったのか、時枝先輩がゴクリと唾を飲み込んだ。よっぽどお腹が空いているらしい。


「い、いや、オレは女子にメシをたかるのは……」

「この前のお弁当、時枝先輩が美味しいって喜んでくれた事を話したら、お父さんが張り切ってしまって。

先輩が食べてくれなかったら大半は残してしまうし、お父さんもすごくガッカリします」


 時枝先輩の食欲に訴えかけるべく、悪魔の囁きを私は舌に乗せる。

 戒めに一度でも例外や前例を作ってしまうと、再犯や次なるステップへのハードルを越えてしまうのは容易い事なのだ。


「は、葉山が作ったんじゃなくて、葉山の親父さんの手作りで、真心を踏みにじる訳にはいかないしな!」


 一度誘惑に屈してしまった時枝先輩は、耐えきれずにあえなく重箱の包みに手を伸ばした。中年の料理の腕前と若者の食欲、恐るべし。


「それで、葉山の分の弁当は?」

「あ」


 私が手にしている水筒二つをしげしげと眺め、お弁当箱が入った包みが見当たらない事を訝しんだ時枝先輩は、重箱の包みを両手でしっかりと握り締めて問い掛けてきた。


「お父さんがあんまりにも沢山おかずを用意していたから、自分のお弁当箱に分けようとか考え付かずに、全部重箱に詰めてきちゃいました」


 いやあ、うっかりしてた。

 時枝先輩に重箱渡してあげなくちゃ、という使命感に駆られてたけど、これじゃあ後はお茶の水筒を渡して、そうしたら私の今日のお昼ご飯がお味噌汁だけになっちゃうじゃん。


「どーりでこの包み、めちゃ重いと思った」


 時枝先輩は私のお間抜け失敗談に破顔一笑し、


「葉山、一緒に保健室行かね?

昼休みの保健室、うちの顧問が頻繁に入り浸ってるせいで、結構穴場なんだぜ」


 人目に付きにくく、時枝先輩が気に入っている様子のスポットへご招待して下さった。


 失礼しますと断ってから入室すると、保健室の先生こと養護教諭は、パソコンで何やら作業をしていたのを中断して、スツールごとこちらに振り返ってきた。


「あれ、また時枝君? ナナエならまだ来てな……」

「先生、シーッ」


 保健室の先生は、時枝先輩の背後に立っていた私の顔を見るなり、言いかけていた言葉を途切れさせ、立てた人差し指を自分の唇に当てた時枝先輩からも咎められ、あわあわと両手で口を塞いだ。

 ……何だろう。今まで保健室にお世話になった事はなかったけど、この養護教諭のお兄さん結構面白い人?


 今、私には選択肢が二つある。スルーするか、弄るか、だ。

 私は迷わず一つ頷いた。


「美術部顧問の先生のお名前は、確か『七重 (ななえ)』だったような気がするなー。普段は名字でお呼びしているから、あんまり意識していませんけど」

「……葉山、保健室の先生はウチの顧問と違って善人なんだ。苛めてやるな、今にも泣きそうだぞ」

「いやいや、平日の昼休みは職場でデートをするとか、教職員同士の春はほのぼの系ですねー」


 そっぽを向いたまま囁く私の頭に、時枝先輩がチョップをかましてきた。


「先生達がどういう関係だろうが、こっちに悪影響が無い限りは何も問題ないだろうが。

そんな、昼間っから保健室でいかがわしい真似してた訳でもあるまいし」


 おおっと。目を吊り上げてお叱りなさる時枝先輩の肩の向こうで、まだスツールに腰掛けたままだった養護教諭の頬が、若干赤らんだんだが。これはまた、ピュアピュアで初々しい反応を示す照れ屋さんだ……

 実は内心、美術部顧問の先生を椿にーちゃんに勧めるのも良いかも、とか思っていたんだけど。流石に、この純情清純系な保健室の先生がいるのを知ってしまった以上、断念せざるを得ない。


「あ、あの、時枝君と、……葉山さん?

よ、良かったらゆっくりしていってね。先生、職員室でお昼ご飯食べてくるからっ」


 いたたまれなくなったのか、養護教諭は慌てて立ち上がり、引き留めるヒマもなく脱兎の勢いで保健室を出て行ってしまった。


「……昼休みの時間に、怪我や体調を崩した生徒が訪れたらどうするんだ」

「すみません、まさか保健室の先生が、あそこまで恥ずかしがり屋さんだとは想定外でした」


 お前のせいだぞ、と言いたげに時枝先輩から睨まれて、私は肩を竦めた。


「本人も言っていた通り、きっとすぐそこの職員室にいらっしゃるでしょうから、いざとなったら私が呼びにいきます」

「よし、葉山に任せたぞ。オレ達文化部の足の冴えを、存分に発揮するが良い」

「イエッサー!」


 それってつまり、鈍足な上に体力少ないけど、保健室から職員室までは近いから全力疾走出来るだろう、って事だよね?

 時枝先輩に向かってうっかり『イエス、マム!』とか言いかけて慌てて方向転換しつつ、ビシッ! と敬礼。


 二人でランチタイムな姿は、出来ればあんまり人目に触れさせたくはない。どうやらそれは私だけではなく、時枝先輩も同様らしい。

 なので、生徒が保健室を来訪したとしても、出入り口からはこちらの様子が視認はしにくいように、一番手前ベッドのカーテンを引いて衝立代わりにしつつ、私と時枝先輩は重箱を広げた。

 全容を現したそれに、腹減り天使は息を飲む。


「……愛父弁当の飯が、敷き詰められた白米にハートマークじゃない、だと……!?」

「時枝先輩、一番期待してたところはそこですか」

「愛妻弁当って普通、ハートマークじゃん。愛父弁当もそうなのかな、ってちょっと思ってた」


 ……確かに、お父さんはいつもハートマークの形に色んなふりかけ系を乗っけてたけど。シャケとかおかかとか。

 え、何? 私、おにぎり握ってきたんだけど、むしろ私が嫌いなピンク色したでんぶで、敷き詰めた白米の上にハートマークを散らしてくるのが、愛父弁当を彩る上でベストだったのか?


「お父さんはおかずを用意してくれていただけで、今日のおにぎりは私が握ったんです。

お父さんがご飯も用意してくれる時は、仰る通り、毎回ハートマークです」


 お味噌汁やお茶を注いで時枝先輩に手渡し、手を合わせていただきます、を唱和してから、時枝先輩は早速箸を玉子焼きに伸ばした。ふむふむ、時枝先輩は玉子焼きがお気に入り、と。


「美味いっ……! やっぱ葉山んちの親父さん、料理上手いな」

「有り難うございます。うちのお父さんも喜びます。

どんどん食べて下さいね」

「おう。あ、これこの前は入ってなかったな。なんて料理?」


 続いて、時枝先輩はキャベツとベーコンが入っている料理に惹かれたようだ。彩り綺麗なんだよね。


「それはキャベツのレモン蒸です。ベーコンの塩気しか入ってないから減塩だし、大葉が美味しいんですよ」

「味付けはレモン汁と黒胡椒かー、へー、こうやって食うとキャベツって美味いのな。

こっちは?」

「焼いた白菜とウィンナーに、とろけるチーズ乗っけたやつです。料理名は……そのまんま? ウィンナーとチーズなので、これも味付けはレモン汁をかけただけで、減塩に……」


 今度はウィンナーに目を付けた時枝先輩。どちらかと言うと、お肉が入ってるおかずをやっぱり食べたいのか?

 時枝先輩はおにぎりをもぐもぐと噛んで飲み込んでから、「葉山」と、私を呼んだ。


「……お前んちの料理は、レモン汁と減塩が外せないテーマなのか?」

「そんな事ありませんよ? こちらのほうれん草のお浸しは、シーチキンとだしの素ですし、こっちはかまぼことクリームチーズと大葉和えです。

……減塩は、もっと考えないといけませんね」


 お父さん、たくさんおかずを用意してくれるのは良いんだけど、今日のおかずは塩分とかあんまり考慮してないラインナップだ。

 時枝先輩はおにぎりを二つ食べ終わると、紙コップに注いだお味噌汁をずずーっと啜った。我が家の味噌汁は、この近辺ではご多分に漏れず赤味噌だ。


「あー、温かい味噌汁が美味い……」

「お味噌汁は、やっぱり冷めてるより温かい方が美味しいですよね」

「だよなー。

オレさ、味噌汁ってあんまり好きじゃなかったんだけど、葉山んちの味噌汁なら毎日飲みてえ」

「お味噌汁はだしをしっかりとって、美味しいお味噌を使えば、かなり美味しくなりますよ」


 時枝先輩のご家庭の事情は分からないが、ご飯を作って下さる方がお味噌汁を美味しく作れないのならば、時枝先輩ご自身が上手になれば良いんじゃないだろうか?


「……葉山、その口振りだと簡単に考えてるようだが」

「私にとっては、お味噌汁は得意料理なもので」


 ……白味噌では作った事ないけど。


「この味噌汁、まさかお前が作ったのか?」

「そうですよ?」


 あれ、お父さんが今日作ってくれたのは、おかずだけだって、私言ってなかったかな。

 私の返答に、時枝先輩は驚いたのかゲホッと少し蒸せた。……何だろう、この反応。


「先輩、明日のお昼はどうします?

先輩さえ良ければ、またお弁当とお味噌汁、用意してきますけど」

「……また、葉山の作った味噌汁?」

「ご迷惑でなければ」

「ああ、その……よろしく頼むわ」


 後輩にご飯をたかる自らの現状がもどかしいのか、時枝先輩はそっぽを向いて、チラッチラッと目線だけをこちらに時折向けて私の出方を窺いつつ、小声で依頼してきた。

 私は大きく頷く。


「今月中のお昼ご飯は私にお任せ下さい。二人分も三人分も、用意する手間はそう対して変わりはしませんから」

「何か、借りちゃならん奴に、デカい借りを作っちまったような……」

「失敬な。私の取り立てはそう厳しくはありませんよ。

差し当たって今日の放課後、五時まで数学を教えて下さい」

「舌の根も乾かねー間に即行か、取り立てに来んの早ぇよ!?」


 半分冗談だったのだが、時枝先輩はテスト週間になると毎回、中等部の図書室で勉強をするらしい。


「オレはわざわざ一年の教室になんか行かないからな。教えて欲しけりゃお前が足を運べ。来たんだったら、まあ教えてやっても良い」


 ツンデレ天使様は、つーんと顎を逸らせて快諾なされた。誰が何と言おうと、このお返事は時枝先輩なりの快諾に違いない。


「神林 (かんばやし)せんせー、お茶ちょーだ……おや?」


 と、その時。ガラガラッと保健室のドアを開きながらお茶を要求してきた人物が戸口に現れた、ようだった。

 仕切り代わりに引いていたカーテンの影から、私がひょっこりと顔を覗かせると、室内へと踏み入りキョロキョロとあちこちを見回していた美術部の顧問の先生と、バッチリ真正面から目が合った。因みに彼女の名字は小川 (おがわ)だ。小川七重先生。


「む、葉山? 珍しいところで会うが、どこか具合でも悪いのか?」

「いえ、元気です。こちらでお弁当を食べてるだけです。

先生、保健室の先生なら、今日は職員室でお昼ご飯を頂くそうですよ?」

「……職員室ぅ~? 神林先生、今日に限ってなんだってまた」


 わざわざ保健室へ、茶をたかりに来たという動機が丸分かりの美術部顧問の先生は、ブツブツと文句を呟いている。保健室の先生の名前は神林先生、というのか。


「すみません。保健室の先生、私に遠慮してしまったようで……職員室に行けば、お茶を淹れて下さるのでは?」

「それは嫌だ。職員室備品のコーヒーはマズい。激マズい。いかに神林先生がお茶淹れるの上手くても、先生あのコーヒーは嫌いだ」


 私がベッドの間から身を乗り出して、遠慮がちに提案してみると、小川先生はガックリと肩を落として、力無く否定した。その声音は淡々としているのに、何だこの容赦の無い全否定っぷり。


「神林先生がお茶を淹れてくれない保健室なんて、学校唯一の息抜きスポットの消滅に等しい……」


 それどころか顧問の先生の中で保健室という場所そのものや、神林養護教諭への存在意義や価値といった重大な要素が一挙に暴落の危機だ!? ちょっ、小川先生にとっては神林先生ってカフェのマスター的な存在で、神林先生側からの一方的な片思い!?


「明日から先生、昼休みはどこで過ごせば良いんだ……職員室だなんて嫌だ」


 いかん。私がちょっとイタズラ心を発揮したせいで、小川先生の中での昼休みを保健室で過ごす日常、という習慣が失われつつある!


「いや、明日っからオレらは別の場所でお昼食べますから、保健室の先生もいつも通り待機してますよ」


 悲しみにうちひしがれる美術部顧問の姿と私の無能っぷりに、時枝先輩が我慢出来なくなったのか、カーテンの影から顔を覗かせて声を掛けた。

 小川先生は時枝先輩の存在に気が付いていなかったらしく、驚いたように「時枝!?」と、声をひっくり返らせた。


「時枝、先生は信じられないぞ!」

「はあ?」


 小川先生は先ほどまでのションボリぶりはどこへやら、片手を腰に当て、もう片方の手でビシッと時枝先輩へ向けて人差し指を突き付けた。


「こんな昼間っから後輩の女の子を保健室に連れ込んで、二人っきりで何をしようとしていた!」

「オレらはただここで弁当食ってただけだ、このおとぼけマイペース教師!」


 私と時枝先輩に向けるにしては、よりにもよってかなり見当違いの疑惑を顧問により真っ向からぶつけられ、時枝先輩は即座に反論した。怒りのあまり、天使の頬が紅潮している。


「いいや、この前あんな頼み事をされた先生は騙されないぞ。誤魔化そうとしても無駄だ、時枝」

「……葉山、顧問にお茶分けてやって。先生はそれで落ち着くから」


 ふふん、と得意気に余裕の笑みを見せる顧問の先生に、時枝先輩は疲れたように溜め息混じりに促してきた。私は先輩からのお下知に従い、水筒の片方から緑茶を紙コップに注ぎ、小川先生に丁重に進呈した。


「はっはっは。旗色悪しと見て、奇策に打って出るとは時枝も無駄な事を……このお茶美味いな葉山!」


 反射的に紙コップを受け取った顧問は、お茶を一気飲みするなり無駄と息巻いていた次の瞬間にはコロッと態度を変えて、神林先生のスツールに我が物顔で腰を下ろし、座ったままキャスターをコロコロさせて私の隣に移動してきた。そして、当たり前のようにずいっと空になった紙コップを私に突き付けてくる。


「葉山、お茶お代わり」

「はあ」

「な? 言った通りだろ」


 もぐもぐとキャベツを食べながら、時枝先輩は言葉少なく呆れの感情を表現する。


「う~ん、やっぱり昼休みは保健室でお茶を一服するに限るな!」


 取り敢えず。美術部顧問の昼休み保健室詣では今後も継続されるようなので、私は胸を撫で下ろした。



 お昼休みを終えて教室に戻った私は、先回りして席についていたアイからニマ~っと笑いかけられ、愛想笑いを返してみるのであった。

 ……根掘り葉掘り尋ねてこない分、余計に不気味なのだが如何か、我が友よ。



 という訳で、部活動がお休みになるテスト週間の放課後。我々は仮初めの静けさに染め上げられた図書室にて、隣同士に座って黙々とテスト勉強に努めていた。

 中等部の有名人かつ女子生徒の憧れの的、息を飲むほどお美しい時枝先輩が机に向かって勉学に励むお姿は、女子生徒達の溜め息を誘う。ここがテスト週間中の図書室でなかったら、きっと女子生徒達に取り囲まれていましたね、先輩。

 司書さんの目も光っているし、お勉強の邪魔にはならないように、懸命に自重している女子生徒の方々の姿からは、私に対する無言のメッセージが汲み取れた。ああ、『そこ退けや』ですね。ご、五時になったら動きますので!


「どうした、葉山。解けない問題でもあったか?」


 横手からひたすらジーッと、暑苦しい眼差しを注ぐ私の視線に気が付いた時枝先輩は、上半身ごとこちらに近付けて、小声で囁いてきた。

 おおぅ、大接近です急接近です先輩ファンの皆様の眼差しの尖りが、恐ろしく鋭利な物に研ぎ澄まされました!

 ひ~、図書室の利用者がこんなに大勢いらっしゃるだなんて、思ってもみませんでした! 普段の図書室における人気のなさから、ちょっと見積もりが甘かったようです。


「こ、この応用問題がちょっと」

「ああ、この問題な。こっちの公式当てはめれば良い」


 近いです離れて下さい、などとはまさか言う訳にもいかず、ぎこちなく詰まっていた問題例文を指し示すと、時枝先輩は私の数学の教科書をパラパラと数ページ捲って、解き方を指導して下さった。

 丁寧に教えて下さるのは実に有り難いです。しかしこのままだと私は、時枝先輩ファンの女性陣から闇討ちされてしまうかもしれない……


 図書室の掛け時計が予定の時間を指し示したのを確かめて、私は時枝先輩にお礼を囁き、手早く筆記具をカバンに仕舞って席を立った。

 ああこれで、針の筵から解放される! と、自分でお願いしておきながら非常に強いストレスと緊張感を強いられた勉強会を乗り越え、カバンをサッと肩に掛けた。しかしそんな私は、お隣に座っていらした時枝先輩までもがサッサと帰り支度を済ませるのを目撃し、愕然とした。


「オレも帰るわ。門まで一緒に行こうぜ」

「え、な、なにゆえ?」


 予想外のお言葉を賜り、恐る恐る呟くと、時枝先輩はカバンを片手に小さく答えた。


「こりゃ、一人で図書室で勉強は無理。防波堤のお前が居なくなると、女子が寄ってきてそれどころじゃなくなる」


 ……私、知らん間に時枝先輩の防波堤になってたんですか! 先輩が面倒を避ける代わりに、私が女子生徒の皆様方から敵意を向けられてしまうんですけど!


 意図的に盾にされていたという衝撃の事実に、足下をフラフラさせつつ昇降口で靴を履き替えた私は、時枝先輩と並んで校舎を出た。正門から出てしまえば、後は私と先輩の通学路は丁度逆方向らしいのだが、図書室から昇降口に向かうまで、そして校舎と正門の間を移動するだけでも妙に足取りがフワフワして落ち着かない。

 何か話さなくては! と、焦る私の頭の中は、こんな時に限って相応しい話題が何一つ思い浮かばない。おーまいがっ。


「あ、あの、時枝せんぱ……」

「あれ、門のとこに人が居る」


 とにかく口を開かなくてはと、焦りながら呼びかけた私の声には気が付かなかったようで、時枝先輩は正門を眺めながら言葉を被せてきた。

 そちらを見やった私は、思わずガクッと肩を落としてしまう。人待ち顔で正門にもたれていた、茶髪でチャラそうな雰囲気を撒き散らすあんちゃんが一人。

 我々の接近に気が付いたようで、音楽でも聴いていたのかイヤホンを耳から外してこちらを振り向き、満面の笑顔で片手を振った。


「ミィちゃん、こっちこっち」


 見えてる。ちゃんと気が付いてるから。だから大声で呼び掛けないで、すれ違う通行人の目が痛い。


「……見た目普通っぽいけど、実は不審者か? 警備員さん呼ぶ?」

「いえ、あれは一応不審者ではないです……」


 うちの学校には警備員さんが常駐しているので、いつでも飛んできてくれる。

 下校時刻に正門前に明らかに生徒でも親でもないあんちゃんが立っていたら、非常に怪しい。あんまり目立たせて、誰かにうっかり通報されてはかなわんと、わざわざ待ってくれていた椿にーちゃんの傍らに駆け寄ると、彼はにこーっと笑みを浮かべて私の頭に片手をポンと乗せた。


「ミィちゃん、今日も学校お疲れ様」

「迎えにきてくれて有り難う、にーちゃん」


 椿にーちゃんは人の頭をぐりっぐりと撫でつつ、時枝先輩に微笑みかけた。


「葉山の兄さん?」

「こんにちは、君は確か美鈴ちゃんのお友達だったよね?

大学の図書館で以前すれ違ったんだけど、俺の事覚えてるかな」

「……いえ、すみません」


 むしろ、何日も前に一瞬しか顔合わせてなかったのに、椿にーちゃんの方こそよく覚えてたな。そんなに時枝先輩の顔が好みどストライクか。


「先輩、このあんちゃんは私の兄ではなくて、家庭教師をお願いしている大学生、石動椿さんです。

兄ではないです。大事な事だからもう一回、兄ではないです」

「……ミィちゃん、何もそこまで強調しなくても良いでしょうに。

俺に含むところでもあるの」


 撫で回されているせいで頭をフラフラと左右に振りつつ、椿にーちゃんの質問は黙殺して時枝先輩を片手で指し示す。


「こちらは美術部の先輩、時枝芹那先輩」

「よろしくねー。いやあ、ミィちゃんのお友達なだけあって、芹那ちゃんも本当にかわ……げふっ!?」


 まさか、さして親しくない中学生相手に真っ向から褒めだす節操なしだとまでは思っていなかったので、対応が遅れた。

 慌てて椿にーちゃんの腹に全力で肘鉄を喰らわせるも、時既に遅く。時枝先輩は「芹那ちゃん……?」と、不穏な声音で呟いていた。

 ……事前に『兄違う』と、念押ししておいて良かった。


「な、何するかな、ミィちゃんさん」

「椿にーちゃんや、時枝先輩の顔だけじゃなくて全体像、とりわけ制服をジックリ観察してみようか」


 プルプルと、怒りに拳を握り締めている時枝先輩のお姿に慄きつつ、私は早口で告げる。


「……ズボンだね」

「ええ、生まれてこの方、制服と名の付くものはズボンしか着用した事がありません」


 確認を終え、ポソッとした呟きを聞き逃さず、時枝先輩は冷淡に吐き捨てる。

 次の瞬間、椿にーちゃんは突如として崩れ落ち、ガックリと地面に両手をついた。な、何事だ? 予想外のリアクションに、さしもの時枝先輩も怒りの毒舌を吐き出し損ねて、キョトンとした表情を浮かべている。

 そして椿にーちゃんは、低く低く苦渋に満ち溢れた嘆きを上げる。


「神はこの地を見放された……!」

「……」

「……」


 時枝先輩は私の顔を見て、無言のままアイコンタクトで問い掛けてくる。『この人、頭大丈夫?』と。私もちょっと自信無くなってきました、先輩。

 ひとまず、椿にーちゃんの肩にポムと手を置いて立ち上がるよう促してみる。


「椿にーちゃん、急にどうしたの?」

「……ミィちゃんさんや、日本の三大美人都市を知っているかい?」

「秋田美人、博多美人、とかでしょ?」

「そう、東北や、昔から人の行き来が多かった地域に美人は多い」


 ぐわっ! と勢い良く椿にーちゃんは立ち上がると、私の両手をはっしと握った。


「昔から名古屋美人、なんて言われているけど、江戸時代の名古屋は、名古屋城下に他地域の人間が簡単に入り込めないようになっていた……つまり、逆に言えば先祖代々住み続け、名古屋から美人が流出しないっ」

「はあ」

「近代になって往来が自由になっても、まるでドーナツの穴みたいに、不思議とこの地域周辺での美人率は高まらない……」

「にーちゃんや、ちょっと落ち着こうか」

「やっと、やっと見掛けた正真正銘の美形がっ、数少ないご当地美人がっ、男の子だったというこの悲しみがミィちゃんに分かる!?」


 そんなん分からんわ。

 椿にーちゃんにとっては、皐月さんが益々希少価値を高めた美少女だ、っていうスタンスはなんとなく理解したけど。

 唖然としている時枝先輩に、椿にーちゃんは力無く振り返った。


「失礼な誤解をしてごめんね、芹那君……ハハハ、俺もガキの頃は女の子にしか見えないって、よく言われたもんだ。

君もすぐに、立派な男前に……くぅっ!」

「いえ、よくある事なので気にしないで下さい」


 椿にーちゃんの悲嘆っぷりに毒気を抜かれたのか、時枝先輩はふるふると首と手を左右に振って済ませた。

 盛大に嘆き悲しみ疲れたのか、椿にーちゃんは背後から私の背中に体重を乗せてくる。重い。


「ミィちゃん、俺のこの傷心は、今夜の晩ご飯に鶏の唐揚げを食べないと癒されない……!」

「……夕飯のリクエストに繋がるの!? ちょっ、前振り長すぎるよにーちゃん!」


 椿にーちゃんによる唐突な話題の帰結に、時枝先輩共々、コントのごとく思わずガクッと力が抜けてしまった。何だ、このあんちゃんの話術は。見事に振り回されたぞ。この人、芸人でも詐欺師でもない、単なる素人のハズだよね?


「……ええと、オレはひとまずこの辺で失礼します。また明日な、葉山」

「はい。さようなら先輩」

「バイバーイ」


 頭痛でもしだしたのか、片手で額の辺りを押さえつつ、時枝先輩が帰路につく背中を見送り、私は椿にーちゃんの夕飯リクエストに応えるべく、スーパーへの寄り道を促したのだった。



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