プロローグ
プロローグ
「はっ……はっ……はっ……」
左右、そして頭上を木々に囲まれた車1台が通れる程度の細い道に、あたし、平彼方の荒い呼吸音が響く。
「はっ……はっ……はっ……」
響く音はあたしの呼吸音だけではない。自転車のチェーンが軋む音や、タイヤが道路を転がる音もまた、あたりに響いている。そして呼吸音はあたしのもの以外にももう一つ、存在していた。
「まだ……いける……ですっ!」
あたしの目の前には赤いロードバイクに乗り、黄緑色の派手なジャージを着た小柄な女の子。その女の子はうなじのあたりで縛っている長い黒髪を左右に揺らし、言葉とともに加速を行う。
「ちょ、ちょっと待っ……ぜはぁっ!」
置いていかれそうになったあたしは思わず彼女、最近友だちになった大空空ちゃんに言葉を投げかけようとするが、その最中に息が続かなくなり、勢い良く肺の中の空気を吐きだしてしまう。
空ちゃんはしかし、ちらりとあたしを振り返ってくれた。彼女の大きな瞳が後ろに続くあたしを一瞬の間映し出し、そして再び前を向いた空ちゃんは腰を上げ、身体を左右に大きく振る立ち漕ぎ(ダンシング)であたしを引き離しにかかる。
って、え? あれ? これってペースを落として待ってくれる流れじゃないの?
そんなことを思う間にも空ちゃんはグングンとあたしとの距離を開き、つづら折りになっている山道の向こうへと消えていってしまう。
完全に置いていかれてしまったあたしはそれでもなんとかペースを保ち、頂上までの残り1kmをグイッ、グイッと言ったペースで登っていく。
と、あたしの隣に新たな影が現れた。後ろから空ちゃんよりもさらに速いペースであたしに追いついてきた、ピンク色のジャージを着た彼女の名は集湊子、あたしの幼馴染である。スラっとした高い身長とギザギザのショートカット、そしてエアロフォルムなお胸が特徴の、あたしを自転車の世界へと誘った張本人である。
既に一度頂上まで登りきり、わざわざ一旦あたしの後ろまで下って行ってからあたしに追いついてくるという面倒な行動をしていた湊子は、しかしあたしに合わせてペースを落とす。
「独り身の寂しい奴がおる」
「まるで人がっk……ゲホッゲホッ」
なんだか失礼なことを言ってきた湊子に対して文句を言おうとするが、空ちゃんを呼び止めようとした時と同じく、その言葉は途中で空中へと霧散する。しかたがないのであたしは更にペースを落とし、はぁはぁと、息をついてから湊子へ抗議の言葉を放つ。
「まるで人が空ちゃんにフラれたみたいな言い方をしないで欲しいんだけど」
「冗談よ、冗談。でもまあ、あんたが置いていかれたことは確かなんだからもうちょっと頑張ってペース上げなさい」
「言われなくても」
そう言って、ペースを再び元のそれにまで戻す。途端、あたしの呼吸は再び荒いものとなる。
湊子はそんなあたしを見て、“じゃあ、うちは先に行ってるからね”などと言って軽々と登って行ってしまった。湊子と一緒にロードバイクになるようになってから1ヶ月半ほどが経過してようやく気がついたことなのだが、ひょっとして湊子ってものすごく速いのではなかろうか。
苦しさを紛らわせるためにそんなことを考えながらも、あたしはペダルを回す。ギアを最低まで落としてもほとんど足が回らない。あたしにとっては厳しい上りが続く。
だがしかし、あたしはもう1ヶ月半前のあたしとは違うのだ。あのときだったら確実に投げ出していたであろう山を登るという苦しみを、あたしは今や、進んで味わおうとしていた。
まだまだ筋肉がついていない脚がピクピクと震える感覚にも、もう慣れっこである。きっと走り終わった後には、心地の良い筋肉の疲労感を得ることができるだろう。そう思えば、ペダルを踏み込む脚の勢いも増すというものだ。
そしてつづら折りを2度ほど曲がると、上方に視界が広がり、5月特有の抜けるような青空が見えた。
頂上からあたしを応援する、空ちゃんと湊子の声が聞こえてくる。
そう、湊子と空ちゃんの待つ頂上は、もう目と鼻の先である。