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ぎんりんっ!  作者: ちぎり
第1巻
5/15

最終話 ヒルクライムレース

最終話 ヒルクライムレース


 過ごしやすかった4月ももうすぐ終わりという時期になった。

 あたしは相変わらず自転車に乗り、チラシを配りという生活をしている。まあ、チラシ配りによる収入には触れないでいてほしい。

 そんなことより、とにかく自転車である。1ヶ月前、空ちゃんとの対決に負けてから、あたしは毎日のように特訓に明け暮れていた。

 特訓、そう、特訓である。あたしは空ちゃんと友達になることを諦めたわけではないのだ。

 空ちゃんと友達になる方法は唯一つ、

「彼方―!そろそろ出ないとスタートに間に合わないわよー!」

「待って湊子(そうこ)!今行くから!」

 山で、空ちゃんに勝つことである。

 そう、今日は鏡自転車店主催の初心者ヒルクライムレース、その当日なのであった。


 ◆◆◆


「そ、そうこ、初心者レースなのになんか人、多くない?」

 この間休憩したお寺、そのお寺の狭くないはずのの駐車場は現在、まだ6時前の早朝だというのに人と自転車で溢れかえっていた。

「あー、それはあれよ。走る人だけじゃなくて応援の人達も来てるからね。お店主催のチームの人もかなり来てるし」

 そうあたしに言いながらもすれ違う人と挨拶をかわしていく湊子、どうやら顔見知りらしい。あたしも湊子の後ろから、軽く会釈を送る。

「それで湊子、本当に空ちゃん来てるの?」

「うん、それは確実」

「というか今更だけどなんでそんなこと知ってるのさ」

「うちがいた自転車部の新入部員は、毎年あるこのイベントで足慣らしすんのよ。まあそれだけじゃなくて本人から直接聞いたんだけど」

「ちょ、直接ってなにそれ!ずるい!!」

「仕方がないでしょ、あのあと妙に懐かれちゃったんだから。それもこれも全部、彼方、あんたが変なことするからじゃないの?」

 む、むぅ……。確かに初対面なのに急に抱きついたりしたのは悪かったとは思っているが……。

「でもやっぱりずるい……」

 納得がいかないのであった。

 湊子はそんなあたしを無視して、周りを見渡し続け、そしてようやく目的の人物を発見する。

「あ、空ちゃんいたわよ。おーい!」

 湊子が右手を上に高く上げ、背伸びまでして手をブンブンと振ると、空ちゃんはこちらに気がついたのか、一緒にいた同じジャージの人、おそらく同じ自転車部の先輩にペコリと頭を下げてからトテトテと、こちらにやってきた。

「おはようございます、お姉さま」

「お姉さま!?」

 空ちゃんはそう挨拶して、湊子の腰のあたりにピッタリと抱きついた。

「うん、おはよう空ちゃん」

 湊子も慣れた感じで、空ちゃんの頭をなでたりしている。今はまだ髪の毛をくくっていないため、空ちゃんの腰より少し高いところまで伸びているロングヘアーが風にたなびいている。

 空ちゃんは頭を撫でられたことに対して猫のように目を細め、これまた猫が行うように、湊子の胴へと頭を擦り付ける。

「な、なんで……?」

 そう口に出したあたしの今の気分を、一言で言い表しても良いだろうか?まるでこれはあれだ、寝取られというやつだ。いや、ちょっと違うような気もするけど、必死に好き好きビームを照射していた相手が、自分ではなくその親友に懐いてしまうのは……つらい……。

「なんで……」

 うん、思わず瞳からハイライトが消えてしまうほど辛い。

 流石に湊子もあたしのハイライトの消えために気がついて、説明責任、そう、責任である。説明責任を果たしてくれる。

「なんでって、そりゃああれから空ちゃんとはちょくちょく会ってるし……走りに行ったり、勉強教えたり」

「なんでだよっ!?」

 三度目のセリフを吐いたあたしに反応したのは湊子ではなく空ちゃんであり、

「あなんたみたいな痴女さんに話す必要はない、です」

 そんな、明らかな毒を吐かれた。普段なら怒るところなのだろうが、ちんまくて可愛い空ちゃん相手なのでどちらかと言うと怒りセンサーよりも萌えセンサーが反応し、湊子に対してこれ以上の追求をする気が一気に削がれてしまう。

「痴女じゃないし……」

 だがまあ、言うべきことだけは言っておくことにしよう。痴女ではない、断じて。だが、そんなあたしに対して空ちゃんは更に言葉を続けて来る。

「お姉さまが言っていました、おっぱいさんの部屋にはえっちな本がいっぱいあると。だから痴女なのです」

「ねえちょっと湊子いたいけな女子高生に何話してるの!?」

「いやー、ごめんごめん、あんたのいいところを知ってもらって少しでも距離を縮めてもらえればなと思って」

「いいところって、なんでそれでエッチな本とかそういう流れになるんですかねえ!?」

 思わず声が大きくなってしまい、周りの視線……うん、大体30歳から50歳程であろうおじさま方の視線を集めてしまい、思わず恥ずかしさに身を縮めてしまう。

 あたしは湊子の後ろに隠れるように移動して、近づいてきたあたしに鋭い視線を送ってくる空ちゃんにも構わずに、湊子の耳元へと口を寄せる。

「ちょっと、本当に女子高生に何を言っちゃってるのさ」

「いやー、あんたが悪い人ではないってことを知ってもらおうと思って色々と話してたら口が滑っちゃって……」

 本当に、珍しく本当に申し訳なさそうにそういう湊子、そんな顔をされたらこれ以上怒れないじゃないか、湊子のバカ……。

 仕方がなく、本当に仕方がなくあたしは湊子を許すことにし、大きなため息をひとつついた。そして身体に力を込めなおして、湊子から、そして未だ湊子にくっついている空ちゃんから数歩離れる。そして後ろへと下がったあたしを不思議そうに見つめている空ちゃんをズビシッと指差し、あたりの目も構わずこう叫んだ。

「今度こそ!今度こそ空ちゃんに勝って空ちゃんと友達になります!!」

「お断り、です」

 あ、あれえ?今のは結構格好可愛いセリフだと自分では思っていたのだが、空ちゃんはそんなあたしに対して即答の拒絶で答えた。

「えっと、あの……」

 あたしが昨日行なっていたイメージトレーニングでは、ここで空ちゃんが受けて立ちますとかそんなセリフを言うところだったんだけどな?おかしいなあ。

 そうやって思わず空ちゃんを指さしたまま固まってしまったあたしに対し、でも、空ちゃんはこう、言葉を続けてくれた。

「友だちになるのはお断り、です。でも、勝負は受けて立ちます、です」

 彼女は勝負を受ける、と言ってくれたのだ。つまり、そう、これはつまり、

「だから、負けたら仕方なく、本当に仕方なくですけどおっぱいさんのお友達になってあげないこともない……です」

 空ちゃんは、湊子の影に隠れてそっぽを向きながらも、そう言ってくれたのであった。

 ああ、これで言質がとれた。じゃあもうやることは1つだけだ、もちろんそれはこのレースで勝つことである。

 安心しろ、あたし。今回は秘密兵器も持ってきたし、必殺技だって考えてきたではないか。何を恐れることがある。

 だからそう、きっとレースが終わることには、あたしと空ちゃんは友達になっているのだ。


 ◆◆◆


「あ、それじゃあみんな揃ってるね?これから今日のレースの説明を始めるよ」

 おじさま方を中心としたあたしたし初心者集団の前に綺麗な姿勢で立っているのは、言うまでもなくこのレースの主催者、鏡自転車店の店長さんである。

「もうみんな並んでくれてるから分かってくれているだろうけど、今日のレースはヒルクライム、ゴールは頂上のトンネルの入り口さね」

 うん、わかっている。言うまでもなくこれは前回空ちゃんに敗れたコースであり、それからあたしが来れる時にはなるべく来るようにしていたコースである。

「スタートは若い順に5人ずつ、順位は頂上でのタイムで決まるよ。そこまではわかった?」

 店長さんの言葉に、“オーッ”という野太い声達が応える。中には片手を振り上げているハイテンションな人もいた。やはりこういうスポーツをやってみようという男の人達は血気盛んな人が多いらしい。

「今回の参加者は30名、そのうち上位6名までは表彰と、ちょっとした商品も出るさ。でもまあ、あんまり無理せず、怪我のないようにやって欲しいね。分かったかい、野郎ども!」

 その言葉に、今度は先程よりも大きな声でおじさま達と、あたし、そして同じグループであたしの隣にいる空ちゃんが応える。

「よし、じゃあ最初は貴重な女の子のいるグループからだよ!準備はいいかい!」

 頂上へとスタートを伝えるためだろう、店長さんは無線機を構えてから、あたし達、あたしと空ちゃん、そして30代ほどの男の人達で構成されるファーストグループに、スタート体制に入るように告げる。

「スタート10秒前!」

 店長さんがカウントダウンを始めた。

 なんだか緊張で息が苦しい。空ちゃんも同じなのだろうか?

「9!」

 心臓がドキドキ言っているのが聞こえる。

「8!」

 あたしの心臓は、早くも坂道を登っている時のような早いリズムを刻む。

「7!」

 勝てるだろうか?少し不安になってきた。

「6!」

 いや、勝つ、勝つのだ。

「5!」

 そう思うと、今すぐにでも走り出したくなってくる。

「4!」

 でもまだ我慢、我慢だ。楽しいことは我慢するのだ、あたし。

「3!」

 ハンドルを握り直し、右足をペダルにかける。

「2!」

 大きく息を吐く。

「1!」

 そして、息を吸い込む。隣の空ちゃんも同じように大きく息を吸い込む気配がする。

「スタート!!」

 店長さんのその声に、あたしは左足で地面を蹴り、右足で力強くペダルを踏み込んだ。


 ◆◆◆


 突然だが、今回のヒルクライムレースのためにあたしは今までのバイト代全てをつぎ込んで新兵器を導入した。

 おおよそ2万円、これだけの金額を出すのはちょっとした冒険だったが、実際に使ってみてその秘密兵器の効果は絶大であることがわかった。

 スタート直後、右足でペダルを踏み込んだあたしは右足を踏み込んだ体勢のまま左足をペダルの上に置き、バチン、と、左足を固定した。

 そう、湊子や空ちゃんが使っているような自転車用のシューズ、ビンディングシューズとペダルを購入したのである。

 これで、ペダルの上で足を滑らせて怖い思いをすることもないし、靴の柔らかさのせいで力が逃げることもない。

 1ヶ月前、空ちゃんは既にビンディングシューズを履いていた。そして今はあたしも。今度こそ、これでこそ本当に勝負はイーブンなのである!

 左足がペダルに固定されたことを確認したあたしは、今度は左足を踏み込む。

 1ヶ月前よりもはるかに軽やかな加速、これが新兵器の力である。

 チラリと、横目で横並びに走る空ちゃんのことを見やる。

 彼女は相変わらず前だけを見つめていた。

 あたしのことなど気にならないということだろう。

 ならば、気にせざるを得ない状況にするまでだ。

 あたしはハンドルを上ハンから下ハンに持ち帰る。スタートから7km地点まではほぼ平坦と言ってもいいなだらかな登り、ならば空気抵抗の大きな上ハンを持つよりも空気抵抗の小さな下ハンを持つほうが楽である。

 だが、下ハンに持ち替えたのは空気抵抗を減らすためではない。あたしは両腕にグッと力を込め腰をサドルから上げる。

 あれからずっと続けてきた腹筋の成果を見せるとき、それが今である。

 あたしは下ハンを持ってダンシングでこれでもかと加速した。

 一緒にスタートした組みの人たちを全て置き去りにする、それはいわゆる“アタック”と言われる行為であった。ここであたしがアタックを掛けるわけ、それは湊子曰く“体重の重いあたしでは傾斜のきつい坂で、体重の軽い空ちゃんには敵わない”からである。

 ならばどうすればいいか。そう、あたしが選んだ今日の作戦、それは“前半の平坦部分で可能な限り大きな差をつける”ことであった。

 後ろの集団から空ちゃんが追いかけてくる気配はない。アタックは成功である。だが、ダンシングを終えて腰を下ろしたあたしはそれでも脚を緩めない。前半だけで全て使い切ってしまうのではないかというペースでペダルを回し続ける。

「はあっ……ハアッ……ハッ……」

 スタート直後だというのに息が荒い。だが気にするな、。そこまで覚悟した上でのアタックではないか。

 身体にムチを打つような加速を終えたあたしは、そこで姿勢を変える。

 だが姿勢を変えるといっても上ハンに持ち直すわけでもない。あたしがとった姿勢、それは上ハンの中央部分に両手首を置き、身体の横幅を、上下幅を縮めるいわゆる“TTポジション”というものであった。

 あたしの研究の成果によると、本来TTポジションというのはそれ専用のハンドルアタッチメントを使ってとるものらしい。同じロードレースの中でも個人で走ってタイムを競う、タイムトライアルといわれる競技などで使われるTTバーというものがそれだ。

 この姿勢をとることによって空気抵抗は驚くほどに減少する。空気抵抗というものは速度が上がれば上がるほど二次曲線的に大きくなるので、上級選手の速度域だとこの姿勢をとることにより時速が5km/h以上早くなるのだそうだ。

 なので、TTバーがなくてもTTポジションをとる選手というものは大勢存在する。ハンドルの中央から前方に向かって長々と突き出すTTバーが無い代わりに、その選手たちはハンドルの中央に手首や肘をおいてTTポジションを取るのだ。

 あたしが今行なっているのも、それである。湊子からは姿勢が不安定になり危険だから、集団から離れて行なえと言われた。そしてあたしはその指示を忠実に守り、そして今、その必殺技を用いて、集団から離れて一人、逃げ続けているのだ。

 目線が低くなったことによって、実際の速度だけでなく体感速度も上がる。

 正直、怖い。

 でも怖がっている暇はない。あたしは強く、ペダルを踏み続ける。

 後ろが気になるが、振り返ることはしない。そんなことをしている間にも集団との差を広げるしかないのだ。

 今日参加している人たちの身内だろう、道沿いからがんばれー、と言う声が聞こえてくる。そっか、走っている人すべてを応援してくれているんだ。

 そう思うと、その声に答えねばと思いペダルを踏む力が強くなる。

 そして、ペダルを踏みながらも思う。空ちゃんはどうしただろうか?集団から飛び出しただろうか?それとも、集団の人たちで空気抵抗の大きい先頭を一定ペースで交代し続けることにより体力を温存しつつもペースを上げる、いわゆる列車というものを作っているのだろうか?

 あたしからは、わからない。気にしていてもしかたがないのだろうが、気になる。空ちゃんはいつ追いついてくるだろうか?それとも追いついてこないだろうか?もしかしたらもうすぐ後ろにいるのかもしれない。そう考えると、怖い。怖くて後ろを振り返りたくなる。だが、それを我慢してあたしはペダルを踏み続ける。

 そして、前回空ちゃんがダンシングで攻略したきつい坂を、前回と同じくペースを落とすことにより攻略したあたしは、再びダンシングで加速してTTポジションに戻る。

 息が苦しい。

 正直今すぐにでも自転車を降りて大の字になりたい。

 せめて、湊子に引っ張って貰いたい。

 でも、そんな思い全てをあたしはグッと堪え、ペダルを踏み続ける。

 酸欠で視界がぼやけるが、そんなことは気にしていられない。

 心臓が爆発しそうだが、そんなことどうでもいい。

 あたしは空ちゃんと友達になる。

 ただそれだけを考えるようにして、ペダルを踏み続ける。

 速度計は、30km/hという数字を表示していた。

 これならいける、きっといける。

 そう自分を鼓舞して、早くもぴくぴくと震えだしたあたしの脚にボトルの中の水をかけ、汗をダラダラを流しながら走り続ける。

 そしてあたしはやりきった、ついに目の前にコースの後半、斜度10%のきつい傾斜が立ちはだかったのだ。

 ここまでやれることは全てやりきった、あたしは素直にギアをもっとも軽いものまで落とし、ゆっくりと、坂道を組み伏せにかかる。

 ギイ、ギイ、というチェーンが軋む。

 そのリズムを一定に響かせて、周囲のガンバレの声に心を震わせ、あたしは坂道を登る。前半かっ飛ばしたせいで最後まで登りきれるかはわからないけれど、それでもあたしは一心不乱に坂道を登り続けた。

 ギイ、ギイ、ギイ

 周囲の景色は歩くよりも少し早いぐらいのペースで流れ続ける。

 ギイ、ギイ、ギイ

 空ちゃんと友達になりたいという気持ちで、この1ヶ月間何度も登った道は、右へ左へと蛇行している。

 ギイ、ギイ、ギッ、

 何か違和感を感じた。

 ギイ、ギイというあたしのチェーン音以外の音が聞こえてきた気がしたのだ。

 恐怖に体が震える。

 そして、前に進むことも忘れて後ろを振り返ったあたしの目に写ったものは、100mの遙か後ろ、遙か後ろに存在する空ちゃんの存在であった。

 まて、まだだ、落ち着くんだあたし。まだ差は100m以上もあるではないか、その差は大きいものではないか。

 ギイ、ギッ、ギイ

 だが、湊子はなんと言っていた?

 ギイ、ギッ、ギッ

 体重の重いあたしでは、この傾斜だと空ちゃんには敵わない、そう言ってはいなかったか。

 ギッ、ギッ、ギッ

 もはや自分の自転車のチェーンが軋む音など聞こえていなかった。あたしは慌てて、ギアをひとつ重くしてペースをあげようとする。しかし、前半で力を出し切ったあたしの身体は思うように動いてはくれない。

 ギッ、ギッ、ギッ

 音が、近づいてくる。空ちゃんは確実にあたしをその射程圏内に捉えている。

 ギッ、ギッ、ギッ

 チェーンの音からあたしがペダルを踏み込むリズムよりも速い、空ちゃんのペダルを踏み込むリズムがわかる。

 ギッ、ギッ、ギッ

 そして、ついに、

「追いついた……ですっ!」

 あたしは空ちゃんに追いつかれた。

 空ちゃんの瞳は、今は道の先ではない、あたしの瞳をまっすぐと捉えていた。


 ◆◆◆


 あたしに追いつき、そして追いついたと宣言した空ちゃんは直後、荒い息を繰り返してペースをあたしと同じそれまで落とした。

 そうだ、いくら体重の軽い空ちゃんだって、今みたいなハイペースでいつまでも登り続けることができるわけがないのだ。

 これは好機である。もしあたしがここで再びのアタックを繰り出すことが出来たのならあたしは空ちゃんに勝てる、確実にだ。

 ……だが、あたしはアタックを行えずにいた。言うまでもない、空ちゃんと同じくあたしも、体力を使い切っているからだ。

 どうする、どうする、どうする!

 空ちゃんと横並びに山を登っていきながら、あたしは必死に考える。

 このコースはもう何度も登った、コースのどこかにあたしが有利になれる場所は……。

 横目でチラリ、と、空ちゃんを伺う。そして同じように横目であたしのことを伺っていた空ちゃんと視線が合う。

 空ちゃんは、力を使い果たしてしまっているはずなのに未だ諦めていない、そんな目をしていた。

 そう、じゃああたしに今出来る事、それはきっと……。


 ◆◆◆


 レースはそのまま硬直状態になった、です。

 ボクはほとんど全ての体力を使いきって、おっぱいさんのペースに合わせて走っていたです。それは、ボクの体力が少しでも回復するのを待つという、かなりじれったい戦法なのです、が、ボクはがまんしたです。

 だって、おっぱいさんという、ボクの目の前に存在するライバルに、ボクは負けたくないから、です。


 ◆◆◆


 このレースまでに湊子には本当にお世話になった。シューズ選び、ペダル選びから始まって、TTポジションのとりかた、それを行うための体幹トレーニングの方法、あとは山にあった10%って書いてある看板の意味とか、色々。

 そしてその時に湊子は言っていた。

 実力が拮抗しているのなら、諦めなければ必ず勝機はある。と。

 知らず知らずのうちに空ちゃんのペースに合わせていたあたしは、その速度を微妙にだが落としていた。だが、このコースのゴールはもうたった1kmの先。つまり、ここまで9kmを必死に競り合ってきたわけで、まあ、仕方がないことだろう。

 あたしはじっと、メーターの距離表示を見つめながら山を登っていた。

 ジリジリと、本当にジリジリとだが走行距離の表示が増えていく。

 本当はそんなもの見なくても、今、自分がだいたいどれぐらいの場所に居るかはわかっていた。

 でも、見ずには居られなかった。

 メーターを見ながら登って行く間にも、あたしたちのペースは更に遅くなっていく。空ちゃんも、あたしも体力を少しでも回復させようと、お互いを牽制しながらもそのペースを落としているのだ。

 だから、あたしが速度を落とせば空ちゃんもそれに合わせて速度を落とすし、空ちゃんが速度を落とせばあたしもそれに合わせて速度を落とす。完全にお見合い状態であった。

 だが、速度が落ちても止まっているわけではない。だんだんと、あたしは目的地点に近づいていく。

 そして、ついに後続の視界にあたしたちが捉えられたそのとき、あたしは行動に移った。

 ハンドルを下ハンに持ち替えて、ペダルを一気に踏み込む。

 今まで分速50回転という低速で回転していたペダルが、その回転数を70回展にまで上げ、あたしの身体がぐいっと前へ押されるような感覚とともに加速する。

 ゴール前500m、そこがあたしの選んだ最終決戦場だ。

 このコースのゴール前500mには僅かながら傾斜が緩くなっている場所がある。体重の重いあたしが加速するなら、そこ。

 空ちゃんに負けてから何度もこのコースを走ったあたしが出した結論が、それであった。

 半分つっているような太ももを無理やり動かして、あたしは加速する。だがしかし、空ちゃんの反応は早かった。あたしが加速するために脚を踏み込んだ直後、空ちゃんもその脚の回転数を大幅に上げたのだ。

 最初から重めのギアを踏んでいたあたしと、あたしより1段軽いギアを踏んでいた空ちゃん。その加速は軽いギアを踏んでいた空ちゃんのほうが軽やかであり、加速を始めたあたしの更に前に空ちゃんの身体が躍り出た。

 一瞬で大きな絶望があたしを包む。

 だがあたしは肺の中の空気を全て吐き出して、

「負けたく、ないっ!!」

 そう叫んでギアを1段重いものに入れなおした。

 加速していたあたしの身体が一瞬その加速を止め、だが次の瞬間、より大きな加速でもって空ちゃんを再び追い抜いた。

 脚とか、心臓とか、なんかもう全部限界であった。

 水の入っているボトルが重い、今すぐ投げ捨ててしまいたい。それほどまでに身体が重く感じる。

「……で……すっ!」

 だが、そんなあたしに対して空ちゃんも何事か叫んだかと思うと、ガチャンという音とともにあたしに追いついてくる。そう、脚の回転数はそのままでギアを1段重くしたのだ。

 あたしたちはそのまま、再びの横並びで坂道を駆け上がっていく。

 先程までのゆっくりとした速度は何だったのかというほどの激しい加速である。

 そして3度、左右へとなだらかな方向転換をしたあたし達の目に、ようやく、本当にようやくレースのゴールであるトンネルの入り口が見えてきた。

 直後、空ちゃんの小さなはずの身体が大きく膨らんで見えた。

 ガチャン、と、再びのシフトアップの音が聞こえる。

 そして空ちゃんはその名の通り、まるで空を駆けるかのような綺麗なダンシングで加速を行ったのだ。

 そしてその加速により、一瞬で1mほどの差がついてしまう。

 そう、ここまで来て、あたしはもう限界だというのに、それでも空ちゃんは加速していってしまうのだ。

 あたしはもう限界なのである。

 限界だから、限界だから、

 あたしは下ハンをグッと強く握りこみ、ガッっと前を見つめた。

 そしてあたしは最後の最後、限界を超えた限界、ほんとうに最後の力を振り絞って脚をぶん回した。

 腰を上げるほどの力が残っていないあたしにできるのは、脚の回転数を空ちゃんと同じ領域にまで上げること。

 だから、あたしは脚を回した。

 視界が周囲から段々と暗くなっていき、ゴールからの応援の声すらも聞こえなくなっていく。

 でも、あたしは脚を回した。

 だって、欲しいじゃん、友達。

 空ちゃんとの差は、縮まらない。たった1mの差が、縮まらない。

 だから、あたしはギアを1段重いものへと切り替えた。

 だって、負けたくないじゃないか。

 せっかくここまで頑張ってきたのに、せっかく引き篭っていた世界から外に出ることが出来たのに、負けたくないじゃないか。

 脚の力が逃げないように強くハンドルを支えるあたしの上半身までもが悲鳴を上げ始める。

 ようやく横並びになった空ちゃんの口が大きく開き、何かを叫んでいるのが見える。自分でもわかっていないだけで、あたしもなにか叫んでいたかもしれない。

 空ちゃんは更にギアを1段上げ、あたしも更にギアを1段上げる。

 そしてあたしたちは、お互いを振り切るために限界を超えた限界を絞り尽くして、ゴールであるトンネルへとへと飛び込んだのだ。


 ◆◆◆


「二人共、お疲れちゃん」

 そんな声とともに、レースのために開放された、頂上にある空き地で大の字になっているあたしの胸の上にスポーツドリンクが落とされた。

 スポーツドリンクは、ポヨン、と、あたしの胸の上ではねてからあたしの額にヒットする。

「ぐえーっ」

 思わずそんな声が漏れた。直後、女の子なのにちょっとこの叫び方はなかったかなと少し反省する。

 あたしの隣からは“ありがとう、です”という空ちゃんの声。

 スポーツドリンクを飲むために何とか上半身を起こしたあたしの目には、同じように上半身を起こした空ちゃんの姿。

「えっと……」

 うん、何を言うべきだろうか?やはりこういう時はまず、お互いの健闘をたたえ合うべきなのだろうか?

 そう思って口の中で言葉を選んでいる間に、まずは湊子が口を開いた。

「同着、だってさ」

 口の中の言葉になっていない言葉が、ぽあっと、口から漏れだした。

 そうか、あたしは勝てなかったのか。

 湊子の方にいっていた目線をクイッと空ちゃんの方に戻すと、彼女は湊子の言葉を聞いているのか聞いていないのか、くぴくぴと可愛らしい仕草でペットボトルのスポーツドリンクを口にしていた。

 あたしははーっと、大きく深呼吸をする。

 そして、体を大きくひねって、右手に持ったペットボトルのおしりで空ちゃんを指し示して、大きな声でこういった。

「空ちゃん、次こそ勝つから!次こそ勝って、空ちゃんと友達になるから」

「…………くぴくぴ」

 空ちゃんはあたしを無視して、くぴくぴとペットボトルの中身を減らし続けている。その姿に勢いをそがれたあたしは、あ、あの……、と、そんな情けない声を漏らしてから空ちゃんへと再び声をかける。

「その、とりあえず次はどのレースに出るのか教えて欲しいかなーって……」

 その言葉に、空ちゃんはチラリ、と、あたしの方を見るが、やはりペットボトルの中身を減らし続けるという行為はやめない。

「あの……そら……ちゃん……?」

 あたしの言葉を無視して、ペットボトルを空にしてから空ちゃんははぁ、と、一息ついて、それからようやく言葉を口にした。

「次は、ライバルさんの出るレースに出てみようと思う……です」

「へっ?ライバルって?」

 空ちゃんの口から漏れた新たな人物の呼称に、頭の上にはてなマークを浮かべながら空ちゃんを見ると、彼女はじっと、あたしのことを見つめていた。

「へっ?えっ?あれっ?」

 うん?なんだこれ?

 思わず湊子の方に目をやるが、湊子はいつも通り、いや、いつも以上のニヤニヤ笑いをあたしに向けて送ってくるのみだ。

 そして再び視線を空ちゃんに戻すと、空ちゃんの視線はやはり、あたしのことを捉えていた。

 ここでようやくあたしは理解する。空ちゃんの言う“ライバルさん”というのはあたしのことなのだと。

 そして未だ混乱しているあたしに対して、空ちゃんはブツブツと、小さな声ではあるがこんな言葉を投げかけてくる。

「そうですね、ライバルさんは友達ではありませんが、ライバルですからね、色々と研究しておくべき相手なのです。だから、研究のために一緒に走りに行ったり、遊びに行ったり、メールなどをしたりするのも仕方がないのです」

 その言葉に、あたしは理解した。空ちゃんはやっぱり、あたしと友だちになってくれるのだということを。

 思わず嬉しくなって、あたしはビクビクと震える身体にムチを打って立ち上がり、空ちゃんにをギュッと抱きしめた。空ちゃんは“やめるです!このおっぱい、なにするです!”などと抵抗しながら叫んでいるがあたしは気にせず、空ちゃんのほっぺたに自分のそれを擦り付け、言う。

「これからよろしくね、空ちゃん!」

 その言葉に、空ちゃんは一瞬だけ抵抗をやめ、

「よろしく、です」

 そんな言葉を返してくれた。

 ロードバイクに乗り始めてから初めてレースに出たこの日、ヒキコモリだったあたしに新しい友だちができました。

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