第三話 山
第三話 山
トントン、と、ノックの音があたしの家の1階に響く。
「おとーさーん、入るねー?」
そのまま返事を待たずに父の部屋へと入ると、そこには半裸でプ●キュアの変身ポーズをとっている変質者がいた。
バタン、と、扉を締める。そして再びノック。
「入るからねー」
再びガチャリとドアを開けられた部屋の中ではやはり、半裸の男がプ●キュアの変身ポーズをとっていた。だがさっきとは姿勢が違う、先程は初代の黒い方のポーズだったのだが今は二代目の白い方のポーズだ。
「五十歳にもなってその遊びはどうかと思うよ、おとーさん」
あたしは変質者改め、父に向かってそう告げる。
すると父は角ばった眼鏡の縁をキラーンと光らせて、
「遊びじゃない、これは親子のスキンシップの予行練習だ」
そんな世迷い事をのたまった。何言ってるんだろうかこの父親は。
「親子のって、あたしは幼稚園児じゃないんだらかもうプ●キュアは卒業してるよ……」
「いやいや、お父さんは知ってるんだぞ、彼方が毎週きちんとプ●キュアを予約録画してるってことを。そして甲子園があって放送予定が変わった時もきちんと番組表を調べて録画してるってことも……って、それお父さんのことだったな、ははは!」
日曜の朝から女児向けアニメについて語っているこの変質者があたしの父親であるとは、正直のところあまり認めたくない。
だがまあそんな父の部屋にやってきたのには理由があるのだ。
あたしは今度は必殺技のポーズを取り出した父を無視して部屋の一角へと向かう。
あたしが向かった部屋の一角、そこに置かれているのはそう、ロードバイクであった。
結局あたしが毎回2階へと自転車を持って登り降りするのは不可能と判断し、母と二人で一回にある父の部屋に置かせてもらえないかと頼み込んだのである。
若干……いや、かなり親ばかの類である父はそれを一も二もなく承認、まあ承認してくれた理由には娘が部屋に来てくれるからというのもあると思うのだが(実際今の遊びも明らかにあたしが居ることを意識して行なっている。ちなみに今行なっているのは6代目の必殺技ポーズだ)……まあ、ありがたいことに変わりはない。
と、自転車を持ち上げようとしたあたしの後ろから声がかかった。
「あ、そういえば彼方。お前、母さんにヘルメットやらグローブやらを買ってもらったらしいな」
「え、うん、うん……」
振り返らずに答えるが、いけなかっただろうか?やはりバイト代できちんと母にお金は返すべきなのだろうかと、父の真剣な声に少しだけ不安になる。
「ちゃんとお礼は言ったか?」
「あ、当たり前じゃん……?」
「そうか、ならいい」
うん、ただそれだけだったらしい。こんなところが変態ではあっても(外面的には)礼儀正しいうちの父親らしいと思う。そういうところが好きだから、娘の目の前でトランクス一丁でこんな遊びをしていても大目に見てやろうという気にもなるものなのである。
「それで、だ」
「うん。って、え?まだ続きがあるの?」
「うむ」
思わず振り返ったあたしの前に半裸の父は、今度はJ●JO立ちでビシッとポーズを決める。この変態の娘をやって20年弱、未だにこの父の仕事は知らないのだが、J●JO立ちが格好良く決まる程に筋肉が付いているということは肉体労働系なのかな、と思う。
と、一瞬ではあるが父親の半裸に見惚れてしまったあたしに、父は泣きながら叫んだ。
「お母さんだけに色々買ってもらうだなんてずるいじゃないか!お父さんだって彼方に色々買ってやりたいのを我慢してるんだぞ!?!?」
え、えええ……?
「DA★KA★RA★お父さんも彼方にPresentッ、だっ!」
そう言って半裸なのにどこからか、本当にどこからか取り出したそれは、
「あっ!レーシングパンツ!?」
「それだけじゃないぞお!」
そう言って更に取り出す……というかまさかパンツの中に隠してたんじゃないだろうなこれ、と、不安になるそれは、
「自転車のジャージだ!」
「そう、レーシングジャージだ!」
父が両手で広げたそれに思わず飛びつく。
「ねえ、ねえなんで!?すごく嬉しい!」
「うーん、父さんは彼方のことが大好きだからな!自転車屋の場所を聞いて買ってきた!母さんには内緒だぞ!」
内緒も何も着たらバレると思うのはあたしだけだろうか。でもまあ、確かに真実を知ったらおかーさんは、お父さんったらまた甘やかしてと怒るかもしれないので、とりあえずは秘密にしておくと言っておく。
そのままハグを求めてきた父に素直にハグで答え、じゃあ着替えてくる!と部屋を出て行こうとした時に父は頭にはてなマークを浮かべて、言った。
「え?ここで着替えるんじゃないのかっ!?」
キックで応えた。
◆◆◆
自分の部屋に戻って着替えてきても、蹴り倒された父はまだ倒れたままだったのでそのまま踏みつけて自転車を家の外へと出す。
ヘルメットよし、コンタクトよし、アイウェアよし、グローブよし、水よし、日差しがきついので日焼け止めもOK!
そして、真新しい、ヘルメットに合わせてくれたのか桜色のサイクルジャージの背中にあるポケットに携帯と家の鍵を入れて、準備万端である。
ちなみにこれはネットで調べたのだが、自転車用のジャージのポケットが背中に有るのは、前や横にポケットがあると入れているものが落ちてしまうからだそうだ。納得。
そしてさらに!自転車にのる上では腹筋が大事だとも書いてあったので最近はなんと、寝る前に腹筋運動などをしてしまっているのだっ!……まだ5回ぐらいしか出来ないけれど。
そのまま家の前で待つこと数分、シャーッという後輪の音を響かせて湊子がやってきた。彼女もいつも通り、ピンクのヘルメットに同色のジャージで合わせてある。こうなるとなんだかペアルックのようで恥ずかしい。
「あれ?ジャージ買ったんだ」
「いや、買ったというか……」
「あ、もしかしておじさん?」
「う、うん……」
「あんたたち本当に仲いいわね。どうせ今日も朝からプ●キュアごっことかしてたんでしょ?」
「あたしはしてないよ!」
さすが幼馴染、家の恥部が丸裸であった。
「まああんたの親父さんのことはいいわ。それで、あれから一人で走りに行ったりしてたの?」
あれからの“あれ”とは、前回湊子にぶっちぎられた日のことである。まあ大体十日ほど前のことなのだが……ちなみにその次の日は筋肉痛にこそならなかったものの体中がだるく、チラシを配っている最中何回も休憩してしまった。
で、実際に走りに行っていたかどうかであるが、それはもう、ほぼ毎日走っていた。……とは言ってもあたしが知っている道はまだサイクリングロードと、自転車屋までの道程度なのでサイクリングロードの往復ばかりなのだが……。
しかし、一回だけ見晴台まで頑張って登ったのである。あるが……
「一人で坂道登るのって、辛いね……」
「ま、そりゃそうよね。あんたまだ登りのペースも掴めてないだろうし、余計心細いだろうし、しかたがないわよ」
「うん、そのうち慣れる?」
「それについては大丈夫。うちについて走ってたらすぐにどんな山でも登れるようになるわよ」
そう言って、湊子はその平坦な胸を叩いてみせた。うん、山じゃなくて平坦な胸を、だ。
「どんなって、例えば富士山とか?」
冗談交じりでそう言うと、湊子はいつものニンマリとした笑みを浮かべ、
「当然」
そう、心強い返事をしてくれたのだった。
「じゃあ、その……頼りにしてるから……」
あたしはそう小さくつぶやいて、それを聞いてニンマリと笑みを強くした湊子と二人、あたしたちは本日の目的地、金剛山へと向かうこととした。
◆◆◆
サイクリングロードをいつもとは逆方向に走って30分ほど、サイクリングロードが終わり、一般道へと入った……とはいっても住宅街の中の細い道をゆっくり走っているので、車の心配はなく、まだまだ身体は元気いっぱいである。
「それにしてもよくこんな道を知ってるね、あたしだったら絶対に見つけられないんだけど」
湊子の後ろを、ペダルを分速65回転程度で回しながら付いて行くあたしは、前を行く湊子にそう尋ねる。
「あー、見つけられないのはうちもおんなじ。うちは店長に教わったから」
「店長さんに?やっぱり自転車屋の人はいろんな道を知ってるのかなあ……?」
「まあ、そうね。うちはやらないけど、MTBのコースも色々知ってるみたいだったし」
「MTBかあ……それも面白そうだなあ……」
「そう?入門用のMTBだったら結構安いし、そのうち挑戦してみたら?」
「うーん……、ううん、今はロードに集中するよ!」
「それもよし、よ。さて、と。もうすぐ広い道に出て、そこの信号を超えたら軽い上りがあるから、そのつもりでヨロシク」
「りょーかーい」
まだまだ呼吸に余裕があるあたしは間延びした声で答え、ギアを1段軽くしておく。軽くして進まなくなった分は回転数でカバーである。
湊子の言っていた信号はあいにく赤だった。しかたがないのできちんと停車し、特に会話を交わすこともなくぼーっと、信号を見つめる。
と、後ろからチャリリリリ、という今や慣れ親しんだ自転車の後輪、フリーハブからの音が聞こえてきた。そして静かなブレーキ音、この音はママチャリではないな、と、後ろを振り返ると、あたしの長い前髪、そしてアイウェアごしに大きな瞳と目があった。
後ろで結んだ黒くて長い髪にちょっとつり目ながらも大きな瞳、そしてあたしより10cmほど低いであろうかなり小柄な体型。薄緑色のジャージに身を包んだ典型的なロリ系美少女であった。
「こ、こんにちは……」
「こんにちは、です」
目があってしまった手前、無視というわけにもいかなかったので挨拶をする。
と、小さい声ながらも返事が帰ってきた。うん、この返事からするとこの子あたしと同じ社会不適合者だな?なんてね、まさかそんな……。
「あっれー、それうちの高校のジャージじゃん!」
そんな、という続きの考えは湊子の大声によって上書きされた。湊子は後ろを振り返った体勢でいきなりの自己紹介を始めた。
「あたしは集湊子、その自転車部の初代部長よ!」
◆◆◆
湊子の勢いに押されてあたしと、そして後ろからついてきた少女も自己紹介をした所で、信号が青になったのであたしたちは連なって走りだした。
その子は名前を大空空と言い、あたしたちの通っていた大道高校にある自転車部の新入部員なのだそうだ。そして、本来なら彼女は今日、自転車部の練習に出ているはずだったのだが……。
「でも、ボクみたいな遅いのが一緒に練習についていったら先輩の練習の邪魔になる気がするです……。だからこうやって、一人で練習している、です」
空ちゃんの言葉にあたしはハッとなる。今まであたしは自分が自転車を楽しむことしか考えていなかった。もしかしたら、あたしは湊子の練習の邪魔をしているんじゃないのだろうか。そんな心配が鎌首をもたげ、思わず暗い顔で湊子に視線をやってしまう。後ろからのあたしの視線に気がついたわけではないのだろうが、湊子はハッと笑い、両手をハンドルから離してヤレヤレのポーズを取る。
「べっつに、初心者や遅い子がいたからって練習の邪魔にはならないわよ。きちんと鍛えてやることで未来のライバルになり、そしてお互いに高め合う。それが、理想の関係ってやつじゃない?」
それにね、と、湊子は一番後ろを走る空ちゃんを振り返って、
「空ちゃんみたいな可愛い子と一緒に山を登れるなんて、それだけで嬉しいじゃない」
バチン、とウインクを決めたのであった。
さすが湊子、格好良くいいこと言うな……って、あれ?あたしは……?
「そ、湊子!あたしのことはもういいって言うの!?」
「あー、はいはい、うちはあんたのことが好きよー、愛してるわよー」
「なんか言葉の内容と裏腹に扱い雑だよねえ!?」
「あー、はいはい、愛してる愛してる」
「人の話聞いてる!?ねえ、空ちゃんも何か言ってやってよ!」
そう言って後ろを振り返ると、空ちゃんはハンドルに器用に両肘をついてうつむき、何やら震えていた。
「そ、空ちゃん……?」
「い、いえ……その……面白くて……ぷふっ……」
どうやら笑っているようである。こんどはあたしがヤレヤレのポーズをする番であった。
「それで、いいかげんこのゆるい坂道登るのにも飽きてきたんだけど、山はもうすぐなの?」
「おっ、彼方も言うようになったじゃん。もうそろそろだよ。一旦降りてお寺の前からスタート」
湊子の言葉通り、あたしたちはすぐに下りにはいって山の入口、その目印であるお寺の前へとたどり着いた。湊子が停止のジェスチャーをしてきたので、あたしは同じジェスチャーを行い後ろを付いて来ている空ちゃんへ、停止する旨を伝える。
そうしてお寺の前で停止すると湊子はひらり、と、自転車から舞い降りて言った。
「じゃ、休憩するか」
「「へっ!?」」
あたしは、そしておそらくあたしの声にハモっていた空ちゃんもでろう、今から登る気満々だったので、かなりの拍子抜けである。
「空ちゃん、あなた初心者って言ってたけど、ロードに乗り始めてどれぐらい?」
「その……1ヶ月ぐらい……です……」
「そう、なら彼方とあまり変わらない、本当に初心者って感じね」
「です」
「そっかあ、空ちゃんも初心者なんだあ、おそろいだね」
自転車を石垣へと立てかけたあたしは、そう言って後ろから空ちゃんを抱きしめる。胸の間に空ちゃんの顔が埋まってふにゅふにゅと気持ちがいい。
「ちょっ、ちょっと、離すです!」
空ちゃんはじたばたともがいてあたしの手から離れ、湊子の後ろへと隠れてしまう。
「馴れ馴れしい人は嫌い、です」
馴れ馴れしいというか結構勇気を出した行動なんですけどね!?勇気の出し方が間違っていたのだろうか……?両手を地面につき、傍目から見てもわかるほどに落ち込んでいたあたしを見た湊子が慌ててフォローを入れてくれる。
「まあまあ空ちゃん、この子友だちいないから、空ちゃんが友だちになってくれて嬉しかったんよ」
「べつに、友だちじゃない、です」
ガーン
そんな時代遅れな効果音が脳内に鳴り響く程度にはショックであった。おかしいなあ、一緒に坂道登ってたからもう友だちだと思ってのに……。
「というか、こんな前髪お化けとは友だちになりたくない、です」
「まっ……まえっ!?」
思わず自らの前髪を両手で押さえてしまう。ひどい!気にしてたのに!!人見知りなヒッキーのあたしはこの前髪がないとだめなのだ、本当に。
だがしかし、ここまで言われて黙っている訳にはいかない。あたしはフフフ……と、低い声で笑いながらゆらり、と、立ち上がる。
そしておもむろに、空ちゃんをビシっと指差してこう叫んだ。
「じゃあじゃあ、あたしが山で勝ったら友だちになってもらうからね!!」
これは宣戦布告である。あたしも空ちゃんも初心者なのだから勝負はイーブン、こうなれば何としてでも力づくて空ちゃんを友達にしてしまうのである。だって空ちゃんちょっと口は悪いみたいだけれど可愛いし。
そして、その宣戦布告に空ちゃんは湊子の後ろから小さくポツリと、
「受ける、です」
と、言ってくれたのであった。
ちなみに湊子は途中からニマニマしながらあたしのことを眺めていた。なんだよ、なにか言いたいことがあるのなら言ってよ!
◆◆◆
10分ほどの休憩の後、あたしと空ちゃんは湊子からコースについての説明を受けていた。
コースは目の前の道を延々と登り続ける丁度10kmのコース。湊子いわく高低差はあまりないので、落ち着いて登れば登り切れないことはないというが……10km、延々と登り?1kmの間違いじゃなくて?
「道なりに進めばいいから、間違えても左右に曲がったりはしないでね。山頂のトンネルの入り口のラインがゴールライン、うちは先に行って待ってるから、しっかりと登ってきてね。どうしてもダメなときはうちに電話すること。空ちゃん、ちゃんとうちの番号は登録してくれた?」
「問題ない、です」
「よし、じゃあスタートの合図もうちがするからね。準備はいい?」
湊子の言葉にあたしはまだ見ぬ先のコースから目の前へと意識を切り替え、慌ててハンドルをぎゅっと握り直す。
「彼方、あんたそんなに緊張してたら上半身が先に疲れちゃうわよ。リラックスリラックス」
そうは言われても緊張しているのだ、仕方がないではないか。だが、湊子の言葉通りである。上半身が先に疲れてしまっては元も子もないので、あたしは深呼吸をしてなんとか上半身から余分な力を抜く。
「空ちゃんも、準備はいい?」
「大丈夫、です」
「よし、じゃあいくわよ!」
湊子は天に向かい指を3本突き出す
「3!」
指が1本折れて2本となる。
「2!」
チラリ、と、隣の空ちゃんを伺う。彼女はもともと無表情なのか、それとも緊張していないのか、無表情に近い顔をしている。
「1!」
前を見据える。ドクン、ドクン、と自らの鼓動が聞こえてくる。
「スタート!!」
ペダルに足を載せ、思い切り踏み込む。直後に跳ねるような加速。加速のために軽めに設定していたギアをガチャン、ガチャン、と落としていき、より重いギアへと切り替える。
あたしの位置は空ちゃんの前、ほとんど平坦なこの道ではどちらかと言うと不利になる位置である。ここは一旦空ちゃんに前に出てもらうか、と、考えるまでもなく空ちゃんがダンシングであたしの前へと出る。それはあたしには負けない、という意思表示に見えた。
そのまま空ちゃんはさらなる加速を続ける。あたしも遅れないように慌てて腰を上げ、ハンドルを強く握りダンシングで加速する。
不意に、あたし達の隣を更なるスピードを持って通過する存在があった。湊子である。
「本格的な登りは7kmぐらい後だから、そこまでに力尽きないでよー!」
湊子はそう叫んで、あたしたちを置き去りにして行ってしまう。追おうか、と、一瞬思ったがやめておく。完全な平坦でも湊子の後ろに張り付き続けることはできなかったのだ。わずかではあるが登り基調のここでそんなことをしたら一瞬で体力を使い果たしてしまうであろう。
空ちゃんも湊子のスピードを見て、風よけやペースメーカーにするのは無理だと判断したらしく、速度は変わらない。そして、前を譲ることもしない。
空ちゃんが前を譲らない、それはあたしにとって都合のいい展開である。都合のいい展開ではあるのだが……。
「空ちゃん、ずっと前を引っ張ってたら苦しいんじゃないかな。このまま行くとあたしのほうが有利なんじゃないかなって……」
あたしはそう言葉を発して、空ちゃんに揺さぶりをかけると同時に忠告をする。
「ヒキコモリさんにそんな忠告をされる言われはないです」
そう軽く応える空ちゃんは未だ、ほとんど息を乱していない。
早くも地力の差が明らかになってきていた。
ほとんど行きを乱していない空ちゃんに対し、あたしの息は既にハァ、ハァ、と、軽く上がってきている。空ちゃんの後ろについて楽をしているはずなのに、である。
確かに彼女の言う通り、ヒキコモリのあたしがこんな忠告をするものではないな、とも思った。だが、勝負はまだ始まったばかりである。ここから逆転するチャンスは何度でもあるはずだと自分に言い聞かせ、空ちゃんの後ろについてじっと期会を伺う。
チャンスの前にやってきたのはピンチであった。スタートから3kmほど進んだあたし達の目の前に立ちはだかるのはあの、見晴らし台の続く坂のような傾斜のきつい坂。終わりが見えている短い坂だが、運動強度が急に変わるであろうことは想像に難くない。
もしかしたら、ここで置いて行かれるかも、と思った。実際、ダンシングでギュッ、ギュッっとタイヤの音を響かせながら登っていく空ちゃんと、サドルに腰を下ろしたままペダルを踏み込んでいくあたしとの差は僅かずつ開いていく。
はぁ、はぁ、と、先程までよりも深く呼吸をしながらあたしはそれでもペースを変えず、チャンスを伺う。
チャンスは有るはずなのだ、絶対に。確実に。
そしてそのチャンスがやってきた。一時的にきつくなっていた傾斜を空ちゃんに遅れること約5秒、ようやくクリアしたあたしの目に映っていたものは、先ほどのダンシングで体力を大幅に削られた空ちゃんであった。
あえてペースを上げなかったあたしの判断は間違っていなかったのだ。
そしてもちろん、あたしはこのチャンスを逃すつもりはない。あたしは一気に2段階のシフトアップを行い、ダンシングの体勢に移行した。再び平坦基調に戻っていたためにあたしの身体はわずかなダンシングで一気に加速する。
そして、その速度を持ってして、登りで速度が落ちたままの空ちゃんを抜き去ったのだ!
「くっ!」
後ろから空ちゃんの悔しそうな叫びが聞こえるが、今は後ろを振り返っている暇はない。あたしはハンドルを下ハンに持ち替えて、巡航体勢に入る。
小柄で、見るからに身軽そうな空ちゃん。きっと焦らずにじっくりと登ったら登りは速いのだろう。そう予想し、あたしは本格的な上りが始まるまでに少しでも差をつけようと、更に1段のシフトアップを行う。
空ちゃんに後ろに付かれたら楽をさせてしまうことになる。それだけは避けなければならないと、その思いだけであたしはペダルを踏み続けた。
そうして10分ちょっとだろうか、ついにあたしは空ちゃんに後ろにつかれることなく、本格的な上り道に差し掛かった。
目の前に延々と続いている登り坂に思わず不安になり後ろを振り返ると、空ちゃんはあたしから離れること約20秒ほどの場所を走行していた。この差をどこまで保てるか、あたしの頬を運動による発汗だけではない、別の汗がタラリ、と、撫でていく。
とにかく、勝つためには登らねばならない。あたしはギアを一番軽いところまで落とし、じっくりと腰を据えて登りの攻略にかかる。
ギシギシとチェーンが軋む。その音を一定に保ちながら、あたしは目の前の坂道を登っていく。
ふと視線を上げると、道路標識に10%という文字が書いてあった。10%ってなんの数字だろう?
苦しさを紛らわせるためにそんなことを考えながら登り続けていると、ふと、あたしの後ろから自分の自転車のものではない、チェーンの軋む音が聞こえてきた。
ギシリ
見なくてもわかる、空ちゃんが追いついてきたのだ。
ギシリ
振り返らなくていい、振り返ると力が逃げてタイムロスにつながる。
ギシリ
ペースを上げたくなる気持ちをぐっと堪え、一心にペダルを踏み込む。
ギシリ
落ち着けあたし。追いつかれても離されなければよいのだ。
ギシリ
もう振り返らずにはいられなかった。いや、振り返るまでもない。すでに彼女はあたしのすぐ隣にいたのだ。
彼女を見るあたしとは対照的に、空ちゃんはじっと前を見つめていた。そう、前を、この坂道の先を。
あたしもあわてて前に向き直るが、何故だろう、先程までも自分のスピードが遅く感じる。
ギシリ、と、自分の自転車のチェーンがひときわ大きな音で軋んだ気がした。
そして目の前に黄緑色のジャージが踊り出る。そう、空ちゃんがついにあたしを追い抜いたのだ。
落ち着け、落ち着くんだあたし。追いぬかれたら今度は空ちゃんをペースメーカーにして登っていけばよいではないか。お互い初心者なのだし、きっと調度いいペースで引っ張ってくれるはずだ。そう自分に言い聞かせ、ハンドルを強く握り直し、空ちゃんの自転車の後輪、その20cmほど後ろに張り付く。
空ちゃんは一定ペースであたしの目の前を走り続ける。あたしを追い越したことでペースが落ちたのか、それともあたしが空ちゃんに引っ張られてペースが上がったのか、その差が開くことはない。
あたしたちは登り続けた。つづら折りになっている山道を、右へ左へとゆっくりと、だが確実に。
そして、段々と空が近くなってきたなと思ったその時、空ちゃんが新たなアクションを起こした。
空ちゃんは下を向き、フーっと息を吐きだす。
もしや疲労が溜まってきたのか、と期待したのは間違いだった。すぐに前を向き直した彼女は、その脚に力を込め直し、脚の回転数を上げたのである。
一瞬で5mほどの差が開いた。
あたしはそれを追おうと、自らも脚の回転数をあげようとして……だが回転数は上がらない、これ以上素早く脚を踏み込むことが出来ない。
ならば、ならばとあたしはギアを1段重いものへと切り替える。ガチャン、と、チェーンが落ちる音がし、そしてあたしの足にかかる重みが大きくなる。悲鳴を上げる太ももを無視して、あたしはそれを強引に踏み抜いた。高回転で足が回らなくてもこれで……っ!
差は縮まらない、しかし5mの差という現状維持は出来た。これ以上コースのことがわからないあたしにはどうすべきかわからない。再びのチャンスを待つか、それとも更にギアを重くするか、その2つの選択肢が頭のなかでグルグルと回る。
顔を上げ、道のゆく先を見やる。今は大回りに左方向へと回り込んでいるが、もう少し行ったら右へと曲がって、そこから再び大回りに左方向へと回っていくようだ。それ以上先のことは、見えない。
残りの距離は、どれぐらいだろうか。ハンドルに装着されたメーターを操作し、現在の走行距離を見る。現在の走行距離は……9km、ゴールまではあと1kmである。
あと、1km。これ以上ギアを重たくしてそれだけの距離を登り続けることができるだろうか?
わからない。うん、わからない。
じゃあ、試してみよう。
あたしは先ほど空ちゃんが行ったように、息を大きく吐き出す。
そして新芽香る空気を肺いっぱいに吸い込んでから、右手の中指でシフトアップレバーを押し込んだ。
ガチャン
チェーンが落ちる音がいつもより大きく聞こえたような気がした。
これでもう後戻りはできない。なるようになれ、だ。
両の脚が“もうやめろ”と、苦言を吐く。激しい呼吸に肺が、心臓が悲鳴を上げる。だけれど、あたしはそれら全てを無視して脚を踏み込む。ペダルを強引にぶん回す。
空ちゃんとの差はグングンと縮まり、先ほど見えていた右へのカーブにたどり着く頃には完全に横並びになっていた。
流石に、空ちゃんがあたしを見た。
「…………」
「…………」
お互いに会話を交わす余裕などはない。聞こえる音はただゼエゼエという呼吸音と、ギシギシというチェーンの軋み音だけである。
そのままあたしたちは横並びで左へと回りこんでいく。麓からの走行距離は9.5km、ゴールまではあと500m!
行く先は曲がりくねっているためにまだゴールのトンネルは見えない。このまま最後まで横並びで行けば勝機があるかもしれない。
そんな思いは空ちゃんのシフトアップにより、一瞬で打ち砕かれた。
空ちゃんはギアを一気に二段上げた。そして、腰を上げて行うそれは、
「ダン……シング……!?」
思わずあたしも腰を上げようとして、だが腰が上がらない。今まで重いギアを踏みすぎたため、筋肉が限界に達していたのだ。
そのまま空ちゃんはダンシングを続ける。
差が、開いていく。
5m
10m
15m
そして空ちゃんは脚をがくがくさせているあたしを置いて、カーブの向こうへと消え去ってしまった。
脚から、力が抜けた。
ギアを維持できない、思わずギアを一番軽いものに下げる。
涙が、溢れてくる。
悔しい、悔しい、悔しい悔しい悔しい悔しい悔しいっ!!!
あたしがロードバイクに乗り慣れていないだとか、そもそも練習不足だとか、そんなことは関係ない。
勇気を出して友だちになろうと手を伸ばした空ちゃんに逃げられたようで、ただただ悔しく、ただただ悲しかった。
そして、あたしが泣きながら、フラフラになりながらもゴール地点であるトンネルへとたどり着いたのは、その三分後。空ちゃんがゴールしてから丁度一分が経過した頃であった。
それから一ヶ月、あたしは空ちゃんに会っていない。