第二話 ヘルメット
第二話 ヘルメット
「ただいまー」
「おう彼方、おかえり」
「なんでいるのさ……」
湊子と一緒にサイクリングロードに走りに行った日からおおよそ1週間。その日のお昼すぎ、重い身体を引きずりながら家に帰ってきたあたしを出迎えてくれたのは母ではなく、サイクルジャージを着た湊子であった。
「なんでとは失礼ね。うちはあんたのことが好きだからこそ、こうやって大学の講義がない日にちょくちょくと顔を見せてあげてるのに」
「頼んでないし……」
言葉を交わしながらも湊子をスルーして自室へと向かう。何よりも今は、この背中に背負った荷物を下ろしてしまいたかったからだ。なので2階へと上がり、自分の部屋のドアを開けた所で
「ふにゃっ!?」
こんな声を出してしまったのは決して居もしない男性受けを狙ってではない、決して。
さて、あたしがそんな声を出してしまった理由であるが、それは他でもない、部屋にロードバイクが置いてあったからである。そしてそのことに呆気にとられ、部屋の入口でポカーンと突っ立っているあたしの肩の上から顔を出した湊子は“うんうん良い感じ”などとつぶやいた後で、ジロリ、と睨みを効かせたあたしに対して、ゆるく握った握りこぶしで自らの頭をポカリとたたき、固めを瞑り、あまつさえには口の端から舌をぺろりと出しながらこういった。
「部屋の片付けが済んだって聞いたから、勝手に自転車を運び込んどいたよ(はぁと」
なんだかもう、そこまで開き直られると怒る気にもならなかった。
◆◆◆
「アルバイト、始めたんだって?」
あたしが着替えるのをしっかり見届けた後、湊子は床に降ろされたチラシの束の横にあぐらをかき、ニヤニヤとした顔でそう言った。
「誰から聞いたの?」
「そりゃあ、あんたの母さんから」
はぁ……。まったく、母さんってば湊子にはなんでも話しちゃうんだから。そう思うが、その程度で怒っていたらあのぽやぽやした母の娘などやっていられない。仕方がないので湊子に、これみよがしにため息を付いてみせるだけにしておいた。
「それにしても、あの人見知りな彼方がアルバイトねえ……」
「な、なにさ……」
「いやいや、そんなにロードが気に入ってくれたのかって嬉しかっただけだから、気にしないで」
「ちゃ、ちゃうもん……」
正確には気に入ったのではない。ただ、ロードバイクに乗っていたら、あたしの狭かった世界ももうちょっと広がってくれるかな、とか、そんな風に思っただけだ。
だから決して、平坦な道を走るときの風をきるような感覚とか、坂道を登り切った時の何かをやりきった感覚とか、そういうのが気に入ったわけではない、決して。
「よし、じゃあ走りに行こっか」
「はぁっ!?あたし疲れてるんだけど!!」
というか、つかれているとか以前に唐突すぎる。せめてお昼ごはんぐらい食べさせてほしい。
「いやそんなに身構えなくてもいいわよ。近所よ近所。それに道は平坦だし」
「近所ってどこさ」
「えーっと……住吉大社らへん?」
「遠いよ!」
大阪の地理に詳しくない人は是非グー●ルマップなどであたしたちの住んでいる河南町からの距離を調べてみてほしい。
「冗談冗談、隣町よとなり町」
「疑わしいなあ……」
「あら、うちが嘘をついたことなんてあったっけ?」
「思い当たることが多すぎるよ……」
「ごめんごめん、セリフ間違えた。うちがあんたの胸を揉まなかった時なんてあったっけ」
そんなことを言いながら、上に羽織ったカーディガンの上からあたしの胸を揉みしだいてきた。
「たしかにそれはなかったよね!?」
湊子の後頭部を打ち抜いたあたしの肘は、いつもの様に湊子を床へと沈めたのであった。
◆◆◆
「それでね、おかーさん聞いてよ、湊子ったら酷いんだよ?」
「なによ、ちょっとしたスキンシップじゃない」
「毎回毎回人の胸を弄り倒そうとするのはスキンシップの域を超えてるよ!」
「あらあら、本当にいつも仲がいいわねえ」
あたしの助けを求める声をぽやぽやと受け流しながら、ダイニングテーブルにオムライスの入った器を並べているのはあたしの母、平此方である。
折角の機会なので母について語っておくと、まずあたしよりもスレンダーなのに胸はあたしよりも大きい、目測Hカップ以上。ここ重要。目はタレ目で、髪の毛もふわふわの栗毛で、なんというか見た目はもうザ・おっとりさんという感じご。近所さんからの評判も上々の自慢の母親である。
それで、なんであたしたちは未だに自転車に跨らずにご飯を食べているのかというと、湊子曰く“彼方のおばさんの料理は美味しいから”とのことだ。
まったく、勝手に自転車を運び込んだことといい、どれだけ我が物顔なのだか。
そんなことをダラダラ考えている間にも食卓にオムライスが並び、あたしたちは3人揃っていただきますをし、オムライスを口に運び始める。
うん?父親?今日は平日だから仕事で居ないだけなので安心してほしい。まあいたら板で鬱陶しいのだがそれはまあ後々語ることとなるだろう。
「ところで彼方」
もぐもぐしていたオムライスをごっくんと飲み込んだ湊子は、そう切り出した。
「アルバイトを始めたっていうのはおばさんから聞いたけど、実際のところ何を始めたのよ」
ああ、母さんもさすがに内容までは話していなかったのか。そう思いながら正面に座る母さんの方を見ると母さんはあらあら、困ったように頬に手を当てながら、
「だってカナちゃん、勝手に喋ると怒るでしょ?」
そんなことを言うのであった。
わかっているのならそもそもアルバイトをしている事自体秘密にしておいて欲しかったのだが……。仕方がないのであたしは隣の湊子に顔も向けず、
「ポスティング、ポスティングやってんの。ピザのチラシとかポストに入れていくアレ」
そう説明した。
「なるほどねー。まあ、歩きまわってたらある程度の基礎体力もつくだろうし、あんた向きじゃない?」
湊子の反応は思っていたよりもあっさりとしたものだった。てっきり両手を叩いて笑い出すかとも思っていたのだが……。そう思いながら湊子の方を訝しげな顔で見ると、湊子はそれにすぐに気が付き、急に真面目な顔を作る。
「うちだってね、あんたが人と接するのが怖くて今まで引きこもってたことぐらいわかってるつもりよ。だから、色々と応援してあげるつもりではないんだから、安心しなさい」
「なんだよ、急にそんな友だちみたいなこと言って……」
再び前を向いてオムライスを食べだすが、ちょっぴりほっぺたが熱い。ほんの、ほんのちょっぴりだけど。
母さんはそんなあたし達を見て、昔から思っていたけれど本当に仲がいいのね、などとそんなことを言っていた。
オムライスは、そんなあたしを包んでくれる二人のように、ふんわりと甘い味がしたのであった。
◆◆◆
「ところで、今日は何しに行くの?なんだかただ走りに行くだけって雰囲気じゃないんだけど」
食後のコーヒー……と言っても甘いカフェオレなのだが、それを口にしながら湊子に、なんとなく気になっていたことを尋ねる。
「あー、うん、ヘルメット、あんた持ってないでしょ?」
「ヘルメット?」
思わず聞き返す。湊子は聞き返したあたしにの方へと身体を向け、脚を組み(彼女の格好はレーシングパンツなので男性諸君は足を組む際のパンチラなどは期待しないように。むしろご褒美ですとかいう層は……知らない、勝手にしてほしい)、そしてコーヒー(なんとブラックである)の入ったマグカップを口に運んでから、あたしになぜヘルメットが必要かの説明をしてくれた。
「まず、こないだの説明で転倒の怖さは十分に理解してくれたと思うけど」
「うん、した、超した」
前回のサイクリング中に想像してしまったおぞましい光景を思い返したりしないように、髪の毛を揺らしながら頭をブンブンと縦にふる。
「うん、転倒の怖さがわかっているのはいいことね。それに重ねて言わせてもらうけれど、自転車に乗っている時におこる一番怖い怪我は頭の打撲なの。これは下手をすると身体麻痺などの後遺症が残る大怪我になる場合もあるわ」
身体麻痺、その言葉に改めて体が震える。
「それでね、もしヘルメットがあった場合なんだけど、ヘルメットがあれば本来頭がうけるはずだった衝撃を、ヘルメットが壊れることによって吸収してくれるのね」
「えっと……ゲーム的に言うと?」
「身代わりみたいな感じかな、プレイヤーに変わってダメージを受けてくれる」
なるほど、ヘルメットが身代わりになってダメージを受けてくれるのか。つまり、そのことによって頭へのダメージが軽減されて……。
「つまり、ヘルメットが頭を守ってくれることで大きな怪我を防げるわけ。みんなヘルメットをかぶっている理由、そして各種イベントでヘルメットの着用が義務化されているのはそんな理由ね」
「つ、つまりヘルメットがなかったら……?」
「危険が危ない!」
「ひっ!?」
大声で驚かされたので思わず湊子にしがみついてしまった。湊子に抱きつくとこう、第二のおかーさんらしくあたしを安心させてくれる包み込むような母性が……
ぺたーん
うん、母性っていうのは胸の大きさだけで決まるものではないよね。仕方がないよね。仕方がないのでぺったんこの胸に頬を擦りつけておくことにする。
「あんた、今人に甘えながら何気なく失礼なことを考えてなかった?」
そう、少しだけ怒気をはらんだ声が頭上から聞こえてきたので、ごまかすためにもスリスリと胡麻をする、ならぬ頬を擦りつけておく。湊子はそんなあたしを見てはぁ、と溜息をつき、そしてあたしの頭を撫でながら言う。
「とにかく、ヘルメットは大事だから買いに行くわよ。ついでにグローブも」
「グローブ?」
「手に豆作りたくないでしょ?」
「お、おぅ」
「ねえ湊子ちゃん」
食器を洗っていた母から言葉が飛んできたので、あたしはあわてて湊子から離れる。だって、こんな格好見られるの恥ずかしいじゃん。
え?母親の後ろでベタベタしているのはいいのかって?それはいいの。
ともあれ、おかーさんは湊子に向けて言葉を続ける。
「ヘルメットとグローブ以外に安全面を配慮したら持っておいたほうがいいものってあるのかしら」
その言葉に、湊子はうーん、と、数秒間考えこむ。というか考え事をするときに漫画のキャラクターみたいに顎に手を当てる人って湊子しか見たことないんだけれど、みなさんはどうだろうか?
そして湊子はゆっくりと、安全面で必要になるであろうものを羅列する。
「まずはライトとベル……これはついていないと道路交通法違反になるので、きちんとつけたまま持ってきてます。それと、後ろの反射板なんですけど……これは反射板よりもフラッシュライトにしたほうが車とかからの被視認性が上がって、より安全になります。あとは……そうですね、彼方はメガネをかけているので必要性はそこまで高くないですけど、アイウェア……いわゆるスポーツタイプのサングラスがあれば虫や石などが目に入ってけがをすることを防げますね。ただこれは……これは、彼方みたいに視力が悪い場合にはコンタクトレンズを着用するか、若しくは度付きのアイウェアを用意する必要があるので出費としては結構なものを覚悟しないといけないと思います」
「あらあら、かなちゃんにコンタクトレンズなんて使えるかしら」
「つ、使えるよ!怖くないよ!」
「ま、まあアイウェアはなくてもどうにかなるから。まあ確かに日差しで目が痛くなったりすることもあるけど」
「それってやっぱり必要なんじゃ……」
「うーん、そうとも言うわね」
湊子はばつが悪そうにそう言い、再びマグカップを口に運び。
「まあ、あとは水分補給のための飲料ボトル、これはなければ熱中症や脱水症状で倒れることにつながるので、絶対必須で。とりあえず必要な物はそんな感じです」
そう、母のほうを見ながら話を締めくくった。
「そうねえ……いくらぐらい掛かるかしら?」
そう尋ねられた湊子は虚空を眺めながらひとつ、ふたつと指を折って金額を数える。
「そうですね、1万5千円ちょっとってところですかね。アイウェアも買う場合はそれに5千円ほどプラスで」
「うっ……」
湊子の提示した金額に、あたしは思わずそんなうめき声を出してしまう。ヒキニート改め駆け出しアルバイターのあたしにとって、その金額は決して小さくはない。というかポスティングってなんというか、ものすごく儲からないわけで……。
だがやはり持つべきものは優しい親である、そんなあたしに母からのありがたい言葉が下る。
「そうね、せっかくカナちゃんがやる気になってくれたんだし、その安全を守るという意味でそのお金はお母さんが出してあげるわ」
あたしは無言でおかーさんに抱きついた。おかーさんはそんなあたしを「あらあら」と言いながら撫でてくれる。
うん、さっき湊子に抱きついた時とは違うふかふかのおっぱいが心地よい。心地よいのでしばらくそのまま、撫でられ続けていると、湊子が咳払いであたしたちの親子愛に割り込んできた。
「あー、オホン。美しい親子愛も結構だけれど、あんまり出発が遅くなるとじっくりヘルメットを選んでる暇もなくなるわよ」
「ん、わかった、着替えてくる」
湊子の言葉に素直に従う、何故ならずっとおかーさんに抱きついていたのを湊子に見られていた事に気がついたので、あまりの恥ずかしさに着替えを理由に部屋から逃げ出したかったのだ。
「こないだと同じような格好でいいよね?」
「うん、それでいいからさっさと着替えてき」
「はーい」
そうしてあたしは湊子と母をダイニングに残し、着替えるためにとてとてと自室へ向かったのであった。
◆◆◆
「彼方、準備できた?」
そう言いながら部屋に入ってきた湊子はジャージとハーフパンツを着たあたしの身体を上から下まで眺めてから、
「もうちょっと身体のラインが出てるほうがうちの好みね」
などという親父発言をし、部屋の片隅を指さして、言った。
「で、あらためてどうよ、部屋に自転車があるのって」
「うーん……ロードバイク自体は格好いいけれど……あたしの部屋っぽくはないかなあ?」
湊子の指の先には言葉の通りロードバイクが存在している。そう、前回一緒に走りに行ったあの日、湊子に頼んだら二つ返事で、その日乗っていたロードバイクを貸してくれることになったのである。
だが流石にすぐに、というわけには行かなかった。それは湊子側に理由があったのではなく、あたしの部屋……ちょっと散らかっていた部屋に、自転車を置ける程度まで片付けを行わなければならなかったからである。
で、昨晩ようやくその片付けが終了したため、湊子に“適当に持ってきて“とメールを送っておいたわけなのだが……湊子には午前中はバイトで居ないと言っておいたはずなのに、いつの間にやらに部屋にロードバイクが置かれていたのは勝手知ったるあたしの家ということか。
「あー、まあ漫画やBLやアニメのDVDに囲まれた部屋じゃねえ、格好はつかないわよね」
「湊子の部屋だって人形でいっぱいなのになんであっちは格好がつくかなあ……」
「人形じゃなくてドールよ、ドール。あんただってああいう可愛いのは好きでしょ?」
「ま、まあね。ところで……」
「うん?」
「部屋に自転車があるのはいいんだけど、どうやって1階に下ろせばいいのかな。これ……」
自転車って結構重いよね?あたし、ママチャリを持ち上げろと言われたら多分無理だと思うのだけれど……。
「あ、あー……」
「なにその反応……ひょっとして何も考えてなかったの……?」
「いや、そういえばあんた腕力なかったなと、というかそこはあんたが考えておく場所じゃない」
「うっ……ぐぬぬ……ど、どうせ腕力も女子力もありませんよーだ!」
「開き直ってどうするのよ。というかその胸で女子力ないとかうちに喧嘩売ってんの?」
「ち、違うし……」
「まあとりあえず、一回持ち上げてみ、それで無理そうなら考えよ?」
「う、うん……湊子がそう言うなら……」
「よし、頑張れ!」
「うん、がんばる!」
結局のところ、ロードバイクはびっくりするほどと軽かったので何とか持ち上がりはしたものの階段を降りれるほどではなく、結局その日は湊子に自転車を持って降りてもらいました。
◆◆◆
「それで、今日はどこまで買いに行くの?」
「ん、いつもうちが行ってるお店。近所だし親切なのよ」
「ふーん……?」
あれ?うちの近所にそんな専門的っぽい自転車屋なんてあったっけ?という疑問は、湊子が続けた言葉によって解決される。
「まあ近所と言ってもこないだよりは走るからね、疲れたら休憩入れるから早めに言いなさいよ」
あ、近いって湊子基準なんだね。
というか、
「というか湊子って普段どれぐらい走ってるの?」
「大学の講義がある日は60kmぐらい、休日は150kmぐらいかな」
「ひゃく……ごじゅ……?」
わけの分からない数字が出てきた。150kmって、それって車で、しかも高速道路に乗る距離じゃないの?つまり、その湊子基準で近いって行ったらひょっとして60kmぐらい走らされたりするんじゃ……。
そんなことを想像し、自転車にまたがろうとした体勢のまま固まっていると、湊子はいつもの様にカラカラと笑い、
「安心しなさい、片道15kmぐらいだから」
「えっと、それって結局往復で30kmぐらい走らされるんじゃ……」
「何言ってるの、あんたこないだだって25km近く走ってたじゃないの、よゆーよ、ヨユー」
たしかにそう聞くと大した距離でもないような気がしてきたが……うん、こないだ走りに行った後のことをちょっと思い出してみよう。
見晴台でおかーさんに甘えて、そしてロードバイクを購入すると宣言したあと、あたしたちはゆっくりと、来た道を下っていった。おかーさんは電動自転車で来ていたので、みんな一緒である。キツイ下りに低いハンドル、そしてなれない高いサドルにおっかなびっくりと坂道を下り、なんとか湊子の家へと到着した。
そしてそこで湊子とは別れ、母と一緒に自分の家まで歩いて帰ったわけだが……うん、太腿の筋肉が完全にダメになっていたのか、一歩歩みを進めるごとに膝が抜けるかと思ったものだ。
だが、それもまだ序の口であった。
翌日はひどい筋肉痛に襲われ、それこそ部屋から一歩も出られない状態だったのである。
歩くだけでも這うようにするのが精一杯、もちろん階段など降りることも出来なかったのでそれはもう大変であった。うん、ヘタしたら漏らしているところだったねアレは。
……コホン、まあそんな地獄のような一日を過ごしたのだが翌日にはケロリと回復、宣言通り自転車を購入する資金を得るためにアルバイトを探し、運よくその当日中にポスティングのアルバイトに就く事が出来たのである。……よく考えたらそんなに簡単につけるアルバイトってひょっとしてかなり人気無いんじゃ……。いや、なんとなくわかってたけどね……?
だがまあ、その足の筋肉痛もおそらく、見晴台までの坂道を全力で登ったからだろう。ということは今日は見晴らし台を登らなければいいのだ。
というかあんなしんどいのもうイヤ!今回は湊子にそっち方面へと誘導されそうになっても断固、断ることとしよう。
うん、そうすべきだ。筋肉痛になったらチラシ配りも出来ないしね。
「坂道は、登らないからね?」
念の為にそう宣言しておく。湊子は手のひらをヒラヒラ振りながらオーケーオーケー、とぞんざいに答え、右足をパチリ、と、ペダルにはめ込む。
「そんじゃ、行きますか」
「う、うん」
「テンション低いぞー、もっとテンション上げといたほうがきっと楽しいわよ」
「テンション低いのは生まれつきだもん……えっと、とにかく行こ?」
「しょうがないわね。じゃあきっちりうちに付いて来なさいよ。とりあえずは先週通った橋のところまで下るからね」
「お、おぅ」
そしてあたしも自転車にまたがり、再びのパチリという音とともに左足をペダルに固定して漕ぎだした湊子に続いて、あたしは山沿いの町からゆっくりと移動を開始したのであった。
◆◆◆
先週よりもあっさりと、あたしたちはサイクリングロードを見下ろせる橋までやってきた。サイクリングロードは先週と変わりなく、まっすぐと続いている。
「今回はサイクリングロードの方じゃなくて、このまままっすぐ行くからね。というか、あんたもこれからお世話になるだろう店なんだから、しっかりと道を覚えときなさいよ。とりあえず、今日は一番車通りの少ない道を通るから」
「わ、わかった、覚える……」
信号で止まっているあたしは、湊子の言葉にそう、自信なく返答する。道を覚えるのは苦手なのだ。
湊子はあたしのそんな心を見透かしたかのように再び笑い、まあ、ほとんど一本道だから、と、宣言してから再び走りだした。
湊子の言っていた通り、道は殆ど平坦な一本道、しかも湊子は広く、しかし車通りの少ない道を知っているようで非常に覚えやすい感じであった。
先週よりも少しだけ暖かくなってきた空気が頬をなで、ジャージの内側に入り込んでジャージをふくらませる。なんとなく、その感覚が気持ちいい。そして暖かな日差しがじんわりと肌を焦がす。その暖かさに湊子などは前回着ていたウィンドブレーカーを今日は着ていないほどだ。
というか、これぐらいの日差しだと日焼け止めが必要だよね?湊子はどうしているのかあとで聞いてみよう。
信号も少ないために止まることもなく、あたしたちは湊子を先頭として淡々としたペースで走り続ける。自転車に興味が持てない人だとこれは退屈かもしれない。けれど、あたしは退屈などではなかった。
脚に力を込め、そしてペダルを回し、高い空と、遠い山の緑を感じながらスーッと、滑るように進んでいく。
うん、ロードバイクに乗るのはまだ2度目だけれどやっぱりこれは楽しい、楽しい乗り物だと思う。バイクだとこうは行くまい。きっとアレは力強く、後ろから押されるように進んでいくのだから、同じ二輪の乗り物でも自転車の、自らの力で前に進む感覚とは別物だろう。そしてどちらかと言うと、今のあたしは自分の力で進む自転車がお気に入りなのであった。
「~♪」
走りながら思わず鼻歌が漏れる。湊子には聞こえないと思い、思わず漏れでたそれは最新の電波系アニメソングであり、湊子は次の瞬間に口に含んでいた水をおもいっきり吹き出した。
「わっ……わわっ……ちょっと!なんで聞いてるの湊子!」
「なんで聞いてるのっていきなりあんたが歌い出したから耳に入ってきたんでしょうが!」
「そ……湊子のえっち!!」
「誰がエッチか誰が!うちがエッチなら社長と秘書が会議室で会議用の椅子に擬態してピ───ようなBL本を持ってるあんたは何なのよ!!」
「ちょっ!?だからなんであたしの部屋にある秘蔵の本の内容を知ってるのさーっ!!」
───なんというか色々と、気持ちのいい?春であった。
そのまま10分ほど走り続けただろうか。先を行く湊子がふと、後ろに下がってあたしに並んだ。
「今のあんたにはまだ早いかもしれないけどさ、ちょっとアドバイスね」
アドバイス、アドバイスって何のだ。さっきの流れの続きでBL本を買うときは気をつけろといかいうアドバイスなら今すぐ自転車を降りて乱闘であるが、湊子にはその覚悟ができているのだろうか?
「あんたまた全然関係ないこと考えてるでしょ。自転車に関してのアドバイスよ」
「ああ、そっちの」
「そっちって、他に何があるっていうのよ……。まあいいわ、平坦を走るときのコツだけどね」
「うん」
「前を行く人の真後ろにピッタリとくっつきなさい。最初は怖いかもしれないけれど、30cm、20cm、10cm、5cm、1cmって段々と距離を詰めていくの」
「い、1cmって……」
「まあそれは将来的に、今はとりあえず50cmぐらいから始めてみればいいわ」
「いや、後ろに付けばいいのはわかったけれど一体何が起こるのさ」
「まあ、それはやってみればわかるわよ、やってみれば」
そう言い残して湊子は再び脚を回し、前へと戻っていく。まったく、なんだって言うのさ。仕方がなく、さっきと同じように湊子の1mほど後ろへと陣取る。
「…………」
「…………」
あたしたちは無言、あたしは湊子に答えを急かすようなことはしないし、湊子が自分からさっきの言葉の意味を語ることもない。
「…………」
「…………」
シャー、と、チェーンが回転する音と風切り音だけが聞こえる。
「…………」
「…………」
あの、口に出してないだけでさっきの言葉の意味がすごく知りたいんですけど……。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「あーもう!」
思わずそう叫んだ。だって、湊子に聞き返すのは悔しいけど、だからといって何も知らない状態なのはそれはそれで悔しいのだ。となると、あたしのやれるべきことはひとつしかない。それは湊子が最初に言った距離、50cmまで近づくということだ。
あたしは少しだけ脚に込める力を増やし、湊子との距離を詰める。たった50cm、たった50cmの距離を詰める。
そして、あたしの感じている世界は激変した。
「あ、あれ?」
思わずそんな言葉が漏れ出るほどに足の動きが軽くなったのだ。これは一体どういうことか。
だが、湊子はあたしの声が聞こえているだろうに、後ろを振り返りもしない。さっきの鼻歌が聞こえていたのだから、今のあたしのマヌケな声も聞こえているはずなのに、だ。
いや、やっぱりマヌケな声だったので聞こえていなかったことにして貰いたい。
湊子は前を向いて走り続ける。そして、あたしはそんな湊子の乗っている自転車の後輪を眺めながら、ぶつからないように慎重になりながらも足の動きは先程よりも格段に軽く、湊子について走っていた。
いつの間にか速度計の数値は先程までの20km/hと言う数字から24km/hという数値へと変動している。どう考えても速度が上がった今のほうが苦しいはずなのに、本当に、あたしには何の苦もなく滑るように走っていたのである。
◆◆◆
件の自転車屋にはそれから15分ほどで到着した。片道45分、たしかにまあ、これなら遠い距離でもないような気がする。
広い道からちょっと横にそれたところにあるその自転車屋は、店の前にこそ見慣れたママチャリが並んでいるものの、店の前面に貼られたガラスの壁の内側にあるのは機械、機械、機械、そう言ってもいいほどメカメカしいロードバイクやマウンテンバイク、そしてよくわからない不思議な形をした自転車や、それらのパーツらしきもの、そしてジャージやヘルメットなどが伺える。
湊子はそんな店の前に設置してある、サドルより少し高い高さに横一直線に固定してある鉄パイプ、その鉄パイプにサドルの頭を引っ掛けて自転車を固定(なんとロードバイクにはスタンドがついていないのだ。湊子いわく危険だかららしいが、よくわからない)すると、あたしにも同じようにするようにジェスチャーで伝えてきた。あたしは湊子が今しがた置いた自転車のとなりに自分が乗ってきたそれを設置すると、湊子に続いてガラス扉をくぐり、店内へと入った。
「おいっすー」
そんな慣れ親しんだ感じの言葉を発しながら入っていく湊子の後ろ、あたしは小さな声でおじゃまします……と言いながら後ろについていく。
湊子はシューズに固定された金具の音をカツ、カツと、まるでヒールのように鳴らし、ヘルメットを脱ぎ、サングラスを外しながら大量に置かれた自転車の腋をすり抜け、店の奥へと入っていく。
店の奥にはレジがあり、更にその奥には店内スペースの1/3程を占めている作業場のようなものがあった。そしてそこであたしは、この店の中が油の匂いと、そして少しすえたような汗の匂いで満たされていることに今更ながら気がつく。
「あら、湊子じゃない。今日はどうしたん?」
そんな声とともに下からにょきっと女の人が生えてきた。いや、実際には屈んで作業をしていただけなのだろうけれどあたしにはそう見えたので、ひゃっ、と、小さな声を出して湊子の後ろへと隠れてしまう。仕方がないじゃないか、ヒキコモリは新しい登場人物に弱いのだ。
「いや、今日はうちじゃなくてこの子」
だが、湊子のそんな言葉とともにあたしは湊子の前へと引きずり出されてしまう。恥ずかしさで頬が染まり、思わず手を前につきだして自らの顔を隠そうとしてしまう。
「えっと、随分と恥ずかしがり屋な子みたいだけど……これ湊子の彼女?」
「うちは女の子です!まったく、店長ったらいつもそんな扱いなんだから。というか見た目だけで言ったら店長のほうが男っぽいんですからね!!」
「あー、ごめんごめん。で、その子になにか必要なのかい?」
会話から推測するところ、どうやらこの女の人がこの店の店長らしい。大胆なショートヘアーにポロシャツと、エプロンの上からでもわかる筋肉質なやや日に焼けた身体に、キリリとした男前の顔。胸は……湊子よりはだいぶある、いわゆる美乳と言ったところだろうか?
そんな彼女は湊子の前に引きずり出され、ビクビクしているあたしを見てこういった。
「随分恥ずかしがり屋な子みたいじゃないか。そうかい、可愛い子だし、確かに湊子はこういう子が好みっぽいさね」
「だーかーらー!」
あたしの頭の上で湊子が犬歯をむき出しにして反論しているのがなんとなくわかる。そして、何やら諦めたようにため息を付くのもだ。
ため息を付いてから、湊子は今日店に来た用件を述べる。
「で、この子。うちの幼馴染なんだけど、ヘルメットとかグローブとか必要だから、見繕ってくれん?」
「よしよし、それなら任せときな。あたしゃうちの儲けになることならなんだってやるよ。とりあえず、新しいお客さんには優しくしておくのが儲けの秘訣だからね」
そう、頼りになるのだか獲物にされているのだか、イマイチ判断の付かない言葉を放ちながらレジの奥から出てくる彼女は、湊子よりさらに、頭半個分ほど高い身長であった。というかすごい身長、筋肉質な身体も相まってスポーツ紙の女性モデルみたい。
「えっと……その……」
その大柄な身体にさらに萎縮するあたしに、店長さんは膝を折って視線を合わせてくる。
「この鏡自転車店、お客さんからの信頼を持って儲けとしているからね。安心しな、予算内でばっちりコーデしてあげるよ」
そう言って目の前でバチコーン!と音がしそうなほどビシっとウインクを決めてくれた。なんとなく、この人ならまあ信頼出来るのかな。とそう思わせてくれるような笑顔であった。
予算と必要な物をを伝えると、店長さんはじゃあまずヘルメットから選ぼうかと言って、ヘルメットのコーナーへとあたしの肩を持って誘導してくれた。
ちなみに、湊子はそこら辺に設置されてあった椅子にドカッと座り、レジに置いてあった自転車雑誌を読みふけっている。うん、自分の家のように振る舞うのはあたしの家だかけかと思ったらどうやらそうでもないらしい。
まあ湊子のことはさておき、店長に連れられてやってきたヘルメットのコーナーには帽子掛けのようなものにかかった十数種類のヘルメットと、そしてヘルメットのカタログのようなものが置かれていた。
店長はその冊子のうちの1冊を手に取りパラパラとめくり、並べているヘルメットを指さしながら冊子のページをあたしに見せてきた。
「今のあなたの予算だと、余裕を持って他の製品も揃えれる値段のヘルメットがこれね。でもまあ廉価モデルだから男性向けの作りになっているし、もしかしたら被った時にゴツゴツした感触が気になるかもしれないわね」
ふむふむ。と、あたしは首を縦に振って話の続きを促す。
「それで、これが女性向けモデル。ちょっと値段は上がるけれど長い間被っているのならきっとこっちのほうが楽なはずよ」
なるほど、長時間かぶるということも考慮しないといけないのか。
「それで、その上でまずはこの廉価なモデルを被ってもらおうかしら」
「へ……?」
あれ?今の言い方だとこっちのモデルはあんまりおすすめできないような言い方に思えたのだが……?
「男性向けモデルと入ってもXSサイズもあるからね、もしかしたらピッタリとフィットするかもしれないでしょ?そうしたらちょっと高い女性向けモデルを買うよりもお得だし、その分他の装備にお金を回せるってわけ」
「あ、なるほど」
店長さんの言葉に納得して、彼女が突き出してきたヘルメットを手に取る。自転車用のそれはバイク用のヘルメットとは異なり、たくさんの穴が開いたピーナッツのような形をしていた。
そしてその、軽量なヘルメットをあたしは自分の頭にあてがう。すると店長さんがクイッと、ヘルメットの位置を調整してからあたしの後頭部へとその手を伸ばす。その際にぐいっと近づいてきた顔に、思わずどぎまぎしてしまう。
……それにしても肌が綺麗だなあ、この肌の様子だと20代だろうか?そして後頭部からカチカチ、と、何かを調整するような音が聞こえて来た後に、店長はすっとあたしから離れる。
「どうだい?頭の何処かが痛かったり気になったりはしないかい?」
「ふぇっ!?え、えーっと……うん、大丈夫みたいです」
「そうかい。……うーん、一応こっちも試着してもらおうかな」
店長さんはそう言ってもう一つのヘルメットを差し出してきた。それはさっきカタログに乗っていた、今被っているものよりもちょっとお高い女性向けモデルである。
「えっと、どうしてでしょう?」
「あなた、自転車向けヘルメットは初めてでしょ?もしかしたら気がついていないだけで、何処かに違和感があるかもしれないからね。だから、それがわかるようにいいものも含めて何種類か被ってもらうわけ」
「あ、なるほど」
さっきと同じ言葉をつぶやき、被っているヘルメットを脱いで店長さんへと渡す。そしてもうひとつのヘルメットを受け取るのだが……。
「あれ?さっきより軽い?」
「あら、よくわかったね」
「えっと、まあ、なんとなく」
意外そうな店長に、そんなふうに返す。店長はあたしから受け取ったヘルメットをヘルメットかけに戻してから腕を組み、
「基本的に自転車やヘルメット、シューズは軽いほうがいいからね。それらの違いをなんとなくでも感じることのできるあなたは素質があるのかもね」
「へ、そ、素質って……?」
素質があるだなんて、そんなこと今まで言われたことがないので重ねて戸惑ってしまう。そして、そんなあたしに店長は再び目線を合わせてきて、
「ロードレーサーになる、素質」
そんな言葉を放ったのである。
ロードレーサー、それはつまりロードバイクでレースをする人ということだろう。出れるのだろうか、あたしに。今はまだ想像がつかない。でも、湊子はレースに出ているようだし……。
「まあ、近いうちにレースに出ることもあるさ。それよりも、そっちのヘルメットはどんな感じだい?」
あたしの“今は”特に意味もない思考は、店長さんのそんな言葉により中断される。あたしは慌ててヘルメットを被り、さっき店長さんがやってみたいに後頭部へと手を伸ばす。と、そこに何かダイヤルみたいなものがあることに気がつく。
「それ、回したらヘルメットが締まったり緩まったりするから、自分のいいように調整してちょうだい」
その言葉に頷き、ダイヤルを回す。さっきと同じようにカチ、カチという音がし、ヘルメットが締まっていくことがわかる。それはある程度締めた所でちょうどいい塩梅になった。
「どうだい?」
「う……うーん……」
どうだろう?いや、どうだろうも何もない。これは……
「さ、さっぱりわからないです……」
とたん店長さんはお腹を抱えて笑い出す。
「あはははは、あはは、そりゃ……そりゃあわからないわよねえ……」
「え、えっと……」
困惑するあたしの肩を店長さんはバシバシと叩き、言った。
「あんしんして、わたしも神経集中させるか、6時間ぐらいつけっぱにしないとわかんないから」
商売人としてそれはどうなんだろう、と、正直思った。
◆◆◆
結局ヘルメットは最初に被ったモデルを買うことにした。大体8千円ぐらいである。とりあえず倉庫には全部の色が揃っているというので、カタログに乗っていた桜模様のものをお願いしておいた。湊子のヘルメットもピンク色だし、ちょっとしたおそろいである。
というか女の子っぽいデザインがそれぐらいしかなかったというのもあるのだが……。
ともあれ、ヘルメットは選んだので次はグローブである。店長さんいわく、グローブがなかった場合は自転車に乗り続けていると豆が出来るだけでなく、転けた時に手のひらがズル剥けになってしまうらしい。なにそれこわい。
グローブはヘルメットの隣の壁に大量にかかっていた。その数はヘルメットとは比較にならないほど多く、パッと見でも30種類ぐらいあるのではないだろうか。店長さんはそんなグローブの前へと一歩移動し、まずは3種類のグローブを提示してきた。
「グローブだけど、これからの時期に使用するグローブとしては3種類あるの」
ふむ。
「まず、このパットが分厚いタイプね。これは地面からの振動を吸収してくれるので疲労軽減効果があるわ」
店長さんが差し出してきた指ぬきのグローブには、なるほど、ふかふかのパットが装着されていた。
そして次に差し出されたグローブは、同じ指ぬきではあるがさっきのものとは真逆で、かなり薄いものであった。
「次に、これみたいに薄いグローブ。こっちのメリットはまず、ハンドルをおもいっきり握った時にダイレクトに感覚が伝わってくること。これは瞬間的に大きなパワーを発揮する、湊子みたいなスプリンターと呼ばれる人たちに人気ね。そして軽いこと。ヘルメットだけに限らずジャージやグローブでさえ軽量なものを好む人達がいるの。例えば山登りが得意なヒルクライマーにも人気があるわ」
ふむ、なるほど、湊子みたいな、ね。
「そして最後に……見て分かる通り、指ぬきじゃない、指の先まで覆うフルフィンガータイプのグローブね。これは主に女性が日焼け対策として使うことが多いわ。あなた……えっと、そう言えば名前をまだ聞いてなかったね」
「えっと、カナタ、遥か彼方の彼方とかいてカナタです」
「そう、自転車乗りにいい名前ね。どこまでも走っていけそう」
さっきのヘルメットの時に続いてほめられた。名前をこんなふうに褒められるだなんて初めてなので、思わず頬が緩んでしまう。
「彼方ちゃんが湊子みたいに、本格的にバンバンレースに出るようになるまではこういうのを使うのもいいかもしれないね。まあ確かに指ぬきタイプと比べると夏場は暑いし、ちょっと値段が貼ってしまうのが難点だけれど……どうする?」
提示された3つの選択肢。そしてまずは指ぬきかそうでないか……か。
そういえば昔の男のオタクってなぜだか指ぬきのグローブつけてたよね……と、そんなことを思うとみるみるうちに指ぬきグローブという選択肢が非・魅力的に思えてきた。うん、フルフィンガーにしておこう。日焼けも怖いし。
「フルフィンガーにしておきます」
「そうかい、じゃあ……彼方ちゃんの予算だと候補はこれとこれかね」
店長さんはそう言って、あたしの手をみてから二種類のグローブをあたしの眼の前に突き出してきた。
「こっちは生地の薄いタイプ、それでこっちはクッションが入ってるタイプね。彼方ちゃんは初心者だって言うから最初はクッションの付いているタイプをおすすめするよ」
ふむ、クッションのあるなしか。たしかにあたしは初心者だし、店長さんの言うとおりにしておいたほうがいいのだろう。
「じゃ、じゃあクッションのついてる方で……」
「よしよし、じゃあちょっとこれを試着してみてね」
「は、はい」
店長さんに渡された白いグローブを試着してみる……うん?ちょっと窮屈かも……?
「ちょっと……小さい?です」
そう言うと店長さんはすぐにワンサイズ大きなものを出してくれた。それは男性用のMサイズであり、
「あ、ぴったり」
あたしのちょっとぷにぷにとした手にジャストフィットしたのであった。
店長さん曰く、今このサイズのグローブは倉庫にある物を含めてもこの色しかないとの事だったので、カタログで他の色を見た上でこの色、白色を購入することに決めた。うん、だってオレンジだとかちょっと派手すぎるし……。
そして次、次はサングラス、格好良く言うとアイウェアである。
「ちょっと予算に余裕が出てきたね、どうする?ちょっと良い奴を買っとくかい?さすがにこの予算だと度付きや日差しの強さで色の濃さが変わる調光タイプは無理だけど、たしかこのへんに女の子向けの在庫があったから安くしとくよ」
そう言ってレジの裏でゴソゴソと何か探すような素振りを見せる店長さん。やがて取り出されたのは、ヘルメットと同じようなピンク色をしたアイウェアであった。
「女の子のお客さんは少ないからね。つけてみてピッタリだったら半額にしとくけど、どうだい?」
「えっと、つけてみてもいいですか?」
「ああ、つけてみな。横幅が狭かったりしたら流石に問題ありだから別のを見繕うよ」
サングラスを手渡されたので、おずおずとかけているメガネを外し、透明な、そう、色がついていない透明なレンズがはめられたアイウェアを掛けてみる。
当然、度は入っていないので視界がぼやけるのだが……うん、特に幅が狭くて締め付けられたりはしないみたいだ。そのことを店長さんに伝えると、彼女はアイウェアをつけたあたしの顔を四方から眺めた上で頷く。
「うん、顔への密着度もいい感じ。これなら高速域でもコンタクトが外れたりはしないね」
そう、お墨付きをもらった。
「あとはフラッシュライトだっけ?それはとりあえずこれが定番さね」
店長さんはさらに、レジの隣のライトコーナーから一つのライトを手に取る。
「値段も1000円と手頃だし、単四電池を使うタイプだから充電池も使えて経済的だよ」
「えと、じゃあそれでお願いします……」
「それで、あとはボトルだね。湊子―っ、この子の自転車にはボトルケージは何個ついてるんだい?」
「んー、ふたつー」
言葉を投げかけた先は湊子であり、湊子は相変わらず雑誌を読みながら、生返事で返す。だが答えはそれだけで十分だったらしく、店長はあたしに向き直ってグローブのコーナーの隣に設けられた靴下のコーナー、さらにそのとなりにある色とりどりの容器が置かれたコーナーを指さし、
「じゃあボトルは……ボトルは柄が色々あるからね。この中から好みのものを2つ、選んでちょうだい」
そう言ったのであった。
「えっと……」
そのコーナーにはほんとうに様々な柄のボトルが置かれていたのでどれを選ぶか非常に悩む。とりあえず、これって自転車に取り付けるんだよね?じゃあ自転車の色に合わせたほうがいいのだろうか……?それともヘルメットとかの色に合わせたほうが……?
そのまま5分程度悩み、結局あたしは白地に水色でよくわからないロゴ(あとで湊子に聞いたところ自転車のプロチームのロゴらしい)が描かれたものと、同じく白地に黒と赤でロゴが描かれたものを選んだ。
「これから物入りだろうしね、とりあえずそのボトルはサービスしておくよ」
会計の時に、店長さんがそう言ってくれたのでなんとか会計は15000円程度に収まったのであった。ありがとうございます、店長さん。
◆◆◆
「そうこ―、会計終わったよー」
「んー」
お金を支払った後、湊子にそう声をかけるが湊子はまたもや生返事、座って雑誌に目をやったままこっちを振り向きもしない。
「ねえ湊子ってばー!」
後ろから抱きつき、うなじの匂いを嗅ぎながらほっぺたをグリグリとこねくり回すとようやく湊子はあたしに対する反応を見せた。と言ってもそれはほっぺたをこねくり回していた手をぺちんと叩く動きだったのだが。
「あんたねー、家の外でもそうやってベタベタベタベタひっついて……」
その言い方だと、家の中でならいくらひっついてもいいように聞こえるのだがどうだろう?
「だって、湊子ってば呼んでも反応しないんだもん」
「あー、ごめんごめん、それはうちが悪かったわよ」
そう言って湊子はパタン、と雑誌をたたみ、こちらへと向き直る。
「で、終わった?」
「だから終わったって言ってるじゃん」
「そ。じゃあもうちょっと休憩してから帰ろっか」
そう言って湊子はくるりと向きを変え、再び雑誌を開く……って、ちょっと待って!
「って、湊子その雑誌読みたいだけでしょ!?」
「あはは、冗談冗談」
湊子はそんなあたしのツッコミをさらりと流し、再びあたしに向きあう。
「まあでも、もうちょっと休憩してもいいでしょ。彼方だって聞きたいことがあるだろうし」
「聞きたいこと……?」
「行き際に言った言葉の意味、知りたくない?」
そう言って、湊子はニヤリ、と笑みを浮かべたのであった。
◆◆◆
「えっと、つまり、自転車で走るときは誰かの後ろにぴったりくっついていたら空気抵抗が少なくなって楽ちんってこと?」
湊子の説明は要約するとだいたいそんな感じであった。だが、その言葉はにわかには信じがたい。
「でも、誰かの後ろにひっつくってそれだけでそんなに疲労が変わるものなの?いくらロードバイクがママチャリより速いって言っても、せいぜい自転車の速度だよ?」
「それはもう行き掛けに体験してるでしょ?」
そう言われ、行き掛けの出来事を思い返してみる。
確かに湊子の後ろにピッタリとくっついているときは、速度が上がっても苦に感じなかった。
なるほど、たしかに自転車程度の速度でも空気抵抗というものは重要らしい。
だがそういう話を聞くと早く走りたくてウズウズしてきた。帰りもピッタリと湊子の後ろをマークしようかと思っていると湊子がおもむろに立ち上がり、
「じゃ、説明もできたしそろそろ帰ろうか」
まるであたしが早く走りたくてたまらないというのを見越しているかのようにそう言ったのであった。
◆◆◆
「気をつけて帰りなよ」
店長さんはそう言って店の奥に戻ろうとしたあと、だがしかし、その歩みを止める。
「そういえば、今日はやけに可愛いお客様が多かったけど、さっきの子もあんたたちの知り合いかい?」
「へ?さっきの子?」
「髪の長い、小柄な猫みたいな感じの子だったんだけどね、新しく自転車を始めたからってヘルメットからシューズまでの一式を買っていったんよ」
その言葉に、あたしと湊子は顔を見合わせる。
「湊子、知ってる?」
「うーん、いや、知らないわ」
「湊子、あんたが高校の時に着てたジャージと同じジャージだったんだけど、あんたの後輩じゃないのかい?」
同じジャージってことは、部活用の専用ジャージとかがあったのだろうか?なにそれ格好いい。だが、湊子は首を横に振って店長さんに応える。
「まあ、そうだったとしても今から自転車を始める子でしょ?新入生じゃないの?だったとしたらうちには流石にわかんないわよ」
そういうと、店長さんはワッハッハ、と笑い、
「ま、そりゃそうか。まあ、1人で来たってことは部活になじんでないのかもしれないから、見かけたら親切にしてやっておくれ」
そんな店長さんの言葉に湊子とあたしは首を縦に振って答えてから、あたしたちは帰路についた。
先ほど買ったばかりのヘルメットを被り、グローブをはめ、ボトルに水を入れ、コンタクトがないのでアイウェアはまだ出番なしなので湊子の背負ったリュックサックの中であるが、準備万端で自転車へとまたがりゆっくりと走り出す。
「湊子の後輩だってさ」
「そうねえ、部活に馴染めてないだなんて、友だちの居ないあんたと気が合うかもね、友だちになれるんじゃない?」
何気なく発した言葉に、そんな微妙にダメージをうけるような言葉で返された。
うん、でもまあ、友達、なれるといいな。
「ねー彼方―」
「なーにー?」
そのまま広い道に入るまでの細めの道を走っていると、前を行く湊子が大きな声でそう語りかけてきたので、あたしも大きな声で返す。
「道―、もう覚えたー?」
「大体はー」
覚えるも何も、ほぼ一直線だったのだ。来るときに通ってきた広い道に出てしまえば家までの道は間違え用もない。
「おっけー、じゃあ何かあっても大丈夫だねー」
うん?嫌な予感がする。それはまるでこれからあたしが湊子に置いて行かれるような……。
その嫌な予感を信じ、あたしは湊子との距離を詰める。ヘルメットを被っているという安心感からか、来た時よりももっと近い、湊子の乗るロードバイクの後輪から20cmほどの距離だ。
前を行く湊子がニヤリ、と笑ったような気がした。
そして広い道へと出る。
途端、スピードが上がった。
先程まで20km/hほどだった速度が、来る時と同じ25km/hほどまで一気に跳ね上がる。湊子との距離を詰めておいてよかった、距離が近かったので空気抵抗も少なく、しっかりとついていけている。だが、嫌な予感はまだ頭から離れない。
次の瞬間、湊子の身体が小さく丸まった。ハンドルを今まで持っていたブラケット部分からU字の下の部分、いわゆる下ハンと呼ばれる部分へと持ち替えたのだ。
そして、徐々に速度が上がっていく。後ろについてきているあたしを考慮してか、加速は非常にゆるやかなものである。だが、確実に、その速度は増していく。
未だ下ハンを握ったことのないあたしであるが、これはまずい、と、恐る恐るであるがハンドルをしたハンに持ち替えてみる。先ほどの湊子が言っていた、下ハンを持って身体を小さく丸めることにより空気抵抗が全然違ってくるという話を覚えていたからである。
カコン、と、ギアが上がる音がして速度が上がる。25km/hと言う速度から26……27……28……そして30km/hへと。
あたしは未だに何とかついていくことができていた。それは、必死に湊子の後輪へと追いすがり、空気抵抗の少ない場所をキープできているからであるが……嫌な予感はまだ消えてはくれない。
上に羽織っているジャージがはためき、バタバタと音を立てる。
そして湊子はチラリ、とあたしを振り返り、
更に速度が上がった。
速度が一気に5km/hほども上がる。腰を上げ、ギアを上げ、足の回転数を上げて加速し、なんとか湊子の後ろへとつける。が、息が上がる。楽な位置についているはずなのに、太ももがビクビクと痙攣する。平坦なのに、まるで坂道を登っているかのような苦しみがあたしを襲う。
ゼエゼエと、心臓の音が聞こえないほどに自分の呼吸の音がうるさい。
ビュオーッっと、まるで突風が吹いているかのような風切り音が耳元で渦巻く。
こんな速度、こんな速度はこの間サイクリングロードで何も考えずにぶっ飛ばした時よりも圧倒的に速い。
思わずハンドルを握る手がぎゅっと、固く握りしめられる。
信号、赤信号はまだだろうか?赤信号さえあれば止まって休むことができるのに!
あたしの脳内には脚を緩めて湊子から遅れる、と言う選択肢がすっぽぬけていた。きっと、それが闘争心というものなのだと思う。
目の前を行く湊子から離れたくない、遅れたくない、負けたくない!
いくつか通り過ぎた信号は青を示し続けている。そして、遠く数百メートル先に見える信号も、赤色に変わる気配はない。
ゼエ、ゼエ、という音を発していた呼吸はいつしかヒュー、ヒュー、という音に変わっていた。
酸素が足りない、脚が乳酸でパンパンに張る。でも脚を緩めることは許されない、あたしのなけなしのプライドが許さない。
湊子の身体が一瞬、膨らんだように見えた。
否、筋肉の膨張で本当に膨らんでいたのかもしれない。
そして速度は更に上る、その速度は40km/hを軽く超えるもので……。
必死に付いて行こうとしたがそれは叶わず、湊子は一瞬で豆粒よりも小さくなって行く。
そして、あたしは一人置き去りにされた。
◆◆◆
湊子という風よけがなくなったことで今まで湊子が受けていた風圧が一気にあたしへと襲い掛かる。
速度が維持できない、一気に速度が25km/hまで落ちる。湊子はこんな風圧を受けながら、そして速度を上げたことによってさらにものすごい風圧に晒されて走っていたのか、と、驚嘆する。
正直、悔しい。前回見晴らし台を登らされた時みたいに、湊子の思い通りの展開になっているであろうことではない。
置いてきぼりにされたこと、そしてあたしが湊子についていけなかったこと、湊子に付いて行くだけの力がなかったこと。
悔しい、本当に悔しい。
じゃあ悔しがるだけじゃなくて、今のあたしには何ができるだろうか?
今のあたしにできること、それはきっと……!
あたしはギアを一弾落とす。湊子について走る35km/hという速度に合わせていたギアは、あたしが一人で踏み続けるには重すぎるからだ。
そして軽くなったペダルを……あたしは全力で踏み抜いた。
脚の回転数が上がる。
そして、わずかではあるが速度が上がる。
湊子に置いていかれた今のあたしが出来る事、それは速度を緩めることでも、脚を休ませて家までの登り坂に備えることでもない。
そう、それは速度を維持して走れるところまで走り通すこと。
きっとどこか、あたしの体力が尽きるであろうところで湊子は待ってくれている。だから、だからあたしはそこまで決して、ペダルを踏む脚を緩めない。やめたいと思う自分に負けたくない!
その思いを両の車輪に乗せ、あたしは前を見据え、ペダルを回し続けた。
運よく、通り過ぎる信号達は青を示し続けている。一度止まってしまったらもう走り出せないであろうあたしには、それがあたしを応援する人々のように見えた。
ヒュー、ヒュー、という呼吸音さえも今は気にならなくなっていた。
あたしの身体がいつまで持つか、そんなことすら気にならない。
ただただ、ペダルを回し続ける。
前に、進み続ける。
その日、あたしは風になった。
◆◆◆
酸欠で視界が狭くなり、脚が引きちぎれそうに痛く、そろそろペースが落ちてきた所でようやく、湊子の姿を見つけることができた。
湊子はいつもの橋の前で待ってくれていた。というか、湊子はあたしを置き去りにしたあのままのペースでここまで走ってきたのだろうか?
橋の欄干にもたれ、スマートフォンを眺めていた湊子はあたしが湊子を見つけたタイミングよりワンテンポ遅く、あたしに気がつく。
あたしは笑顔で手を振る湊子に向けて、最後の一踏みとばかりにペダルを踏みつける。そのことによりロードバイクは一瞬だけ加速し、だが続けてペダルを踏みつけるだけの脚力が残っていなかったために失速、ブレーキも相まってちょうど湊子の目の前で停止する。
「おつかれー、結構速かったじゃん」
湊子は気楽にそんな声をかけてくるが、当然ながらあたしにはそれに返答をする余裕はない。ただただ、ハンドルに両肘を付いてうつむき、荒い息を繰り返すのみである。
「最初はあたしが引っ張ってたって言っても幹線道路に出てからここまでの平均時速が約30km/h、これなら十分……」
と、湊子はそこで言葉を切る。十分、なんなのだろうか?もやもやするので最後まで言い切ってほしいと、顔を上げられないままに思う。
「……っと、とにかくちょっと休憩しよっか。あんたそんなんじゃ家まで帰り着けないでしょ?」
休憩、ああ、なんと甘美な響きだろうか?あたしはそれをどれだけ待ち望んでいたか、どれだけ我慢してきたか。あたしは無言で自転車を橋の欄干へともたれかけさせ、その場でベタリと地面に腰を下ろした。
「ちょ、ちょっとあんた、流石にそこは通行人の邪魔だって」
慌てた様子でそんなことを言い、湊子はあたしを引きずって通行の邪魔にならない場所まで移動する。というか引っ張られた腕がずっぽ抜けしそうなんですけど、もうちょっと優しく運んでくれませんかね?具体的にはお姫様抱っことか。
そう言いたいものの、あたしの口は呼吸することに精一杯で言葉を紡いではくれない。しかたがないので息が落ち着くまでこのままへたり込んでおくこととする。
数分後、ようやく立ち上がることの出来るようになったあたしは自転車につけてある飲料ボトルを手に取り、逆さまにして一気に煽ってから叫んだ。
「殺す気かあああああああああっ!!!!!」
「元気ねえ」
「軽く流さないでよ!めちゃくちゃしんどかったんだよ!?」
湊子の顔を見上げてそう続けると、彼女はニヤニヤ笑顔をふと、真剣な顔へと変えてあたしの両肩に両手を置いた。
「大丈夫、うちもしんどかったから」
「お、おう……?」
そうか、湊子もきつかったのか。じゃあ仕方がない……って、
「それがどうしたああああああっ!!!!!!」
「えー、だめー?」
「ダメとかそういうのじゃなくてさ!ちゃんとペースを上げるならそうと、前もって言ってよ!!」
そう抗議すると、湊子は頭の後ろで手を組み、唇を尖らせて、更に半目にまでなって、言った。
「えーっ……めんどい」
あたしはもう我慢の限界であった。
「面倒臭がらないでよ!?」
「あはは、じゃあ肉体言語ってことで」
「何そのちょっとバイオレンスな響き!!それと置き去りにするのは絶対に違うと思うな!?」
「まあまあ、うちとあんたって以心伝心の仲じゃないの」
「そりゃ、友達だけどさあ……?」
「あんたも不撓不屈の精神でここまでこれたわけだしさ、一つ成長したと思って」
「全く、湊子の言い訳の上手さには青息吐息だよ……」
「お褒めにいただき感謝感激」
「褒めてない!というか四字熟語で畳み掛けてごまかそうとしてもダメだからね!!」
「…………ちっ」
「舌打ち!?今舌打ちした!?友達に対してその態度ってどうなの?」
「安心して、うちはだれにでもこうだから」
「余計にだめだよ!」
激しいやり取りで落ち着いてきたばかりの息が再び上がってしまった。はぁ、はぁ、と再び息を整える。
「大丈夫?」
「湊子のせいだよ!?」
はぁ、はぁ、まったく、息を整えることすらさせてくれないのかこのイケメン女子は。
「それはそうと」
言葉をかけてくる湊子に、今度変なこと言ったら暴力に訴えようと思いながらうん?と、返事をする。
「楽しかった?」
「辛くて、しんどかったよ……」
「そう?」
「でも……」
「でも?」
「でも、まあちょっと気持よかった。風みたいに速く走れた……と思うし」
うん、こないだみたいに必死に坂道を登るのも登り切った時の達成感があったけれど、平坦を飛ばしているときはそれとは別の気持ちよさや、苦しさ、そして目的地についた時の達成感があったと思う。
「そう、ならまあ、あんたを放置して全力で走った甲斐があったわ」
湊子は満足気に目を細めるあたし……と言ってもあたしは前髪が長いので外からはほとんど目が見えないのだが……まあ、そんなあたしを見て、彼女自身も満足げに頷く。
「でも、完全に置いてけぼりにするのはやり過ぎだからね?」
「はいはい。じゃあ、そろそろ脚も動くだろうし帰ろっか」
そう言って湊子は自転車にまたがる。
あたしはそんな湊子に対して1つだけお願いをした。
「う、うん。前みたいに急に見晴らし台に連れて行ったりしないでね?」
「じゃあ今のうちに前持って言っておけばいいのね?」
「それでもだめだよ!その、坂道登るのはまた今度ってことで」
「そう。じゃあ前持って言っておくけど来週は山だから、あたしが大学に行ってるうちにしっかりと足腰鍛えておきなさいよ」
「山!?今坂道じゃなくって山って言った!?」
「あー、あー、気のせいよ、気のせい」
「気のせいじゃないよね絶対!」
「いいからほら、行くわよ」
そう言って湊子はあたしを置いて走りだしてしまう。
「ちょっと待ってよ、ちょっと!湊子ってば!!」
あたしも慌てて自転車へとまたがり、重い足を何とか動かして湊子を追いかけるのであった。