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ぎんりんっ!  作者: ちぎり
第1巻
2/15

第一話 ロードバイク

第一話 ロードバイク


 湊子(そうこ)とのメールのやり取りから数日後、湊子があたしの家にやってきた。

「あんた相変わらずおっぱい大きいわよね」

 いくらなんでも挨拶の前にその発言はどうかと思う。

「どうかとおもうよ……」

 あまりにもどうかと思ったのか、思ったことをそのまま口に出してしまっていた。湊子はあはは、と、目の前で手をひらひらさせながら笑い、

「まあ、とりあえず中に入れてよ」

 断る理由もない、というか招いたのはあたしだし、そうでなくても湊子はちょくちょくあたしの部屋の掃除とかをしてくれているのだから。

 そんなわけであたしは湊子を2階にある自分の部屋まで招いたのであるが、あたしが彼女に先んじて部屋に一歩入った次の瞬間、いきなり上着代わりに着ていたジャージ(高校で使っていた学校指定のもの……ではない、念のため)のジッパーを下ろされ、後ろから胸を掴まれた。

「うーん、相変わらず彼方のおっぱいは最高ね」

 そんな変態じみたことを言いながら胸を掴んだ指を動かし、あたしの胸を蹂躙しようとしてくる湊子に、あたしはぎゃあ、と、叫びながら思わず肘鉄で応戦してしまう。

「グフッ……お主……なかなかやりおる……」

 良い感じに鳩尾に肘が入ったのか、そんな言葉を吐き出しながら湊子はガクリと膝を落とし、同時に胸から手が離れる。

「ご、ごめん。久々だったからつい……」

 おもわず謝ってしまうあたし(だが胸は両手でかばっている、念のため)に彼女は右手のジェスチャーで問題ない旨を伝えてくるが、次の瞬間彼女は全身の力が抜けたかのようにバタリと、うつ伏せに床へと倒れた。

「そ、湊子―!?くそっ!誰がこんなことを……」

「Gカップの女に……やられた……」

「って、なんでカップ数まで知ってるの!?」

 思わず足も出た。黒のタイツに包まれたあたしの足が湊子の肩口をゲシゲシと踏みつける。

「痛っ!マジ痛い!それはマジ痛いから!!」

「いいからどこで人の胸のサイズを知ったのか教えてよ!次から絶対に見られないように対策するから!!」

「当てずっぽう!当てずっぽうだから!!別にこっそりと下着を漁ってたりなんてしないから!!」

「その言い訳が余計に怪しいよ!!」

 結局あたしの湊子に対する攻撃は、片足で湊子を踏みつけ続けたあたしがバランスを崩すまで続いたのであった。


 ◆◆◆


「それで、何を教えろって?」

 ベッドに座るあたしの前にあぐらをかいて座る湊子。本当は正座をさせたかったのだが、そこまでやるのはあまりにも酷だろうというあたしの温情であぐらを許可している。

 そしてそんな湊子の問いかけに対して、あたしの答えは決まっていた。

「自転車のこと、色々」

 そういった瞬間、ニヤリ、と湊子が笑った。

 湊子は無言で、ベッドに腰掛けるあたしの身体をつま先から頭頂部までじっとりと舐めるように観察する。なんだか悔しいので、あたしも湊子を同じように観察する。

 湊子はあたしのブヨブヨの脚と違ってスラっとした脚のラインを、惜しげもなく生で晒している。そしてそこから更に上に視線を上げると、超ミニのスカートに包まれたこれもまた小ぶりで形の良いヒップ、そしてキュッとくびれたウエストのラインからノースリーブのシャツに覆われた……うん、ちょっと残念な胸があり、ややつり目気味の瞳の上にはキリッとしたまゆにシャギーでギザギザの前髪が軽くかかる程度のショートカット、そして後髪は何重にもレイヤーがかかっていてなんというか、うん、高めの身長も相まって典型的な“カッコイイ”系の女の子だ。

 改めて彼女が“カッコイイ”ことを認識してしまったあたしはなんだか悔しくなって、視線を少し下に下げる。

 うん、胸だけは勝ってる。胸の……トップの数値だけは。そうして再び視線を上へと上げると、バチリ、と、そんな音でもしそうな勢いで湊子と目が合った。

「自転車のこと、知りたい?」

「う、うん……」

「じゃあとりあえず服、脱いで」

「はぁっ!?」

 思わず再び胸をかばおうとするが、湊子の手によりそれは阻止される。

「いいから脱いで」

「ちょっ……それは身体を対価にとか、そういうこと?」

「…………それもありだけど」

「待って待って待って!あたしにそういう趣味はなああああああっ!!!」

 後ろから体全体を使い羽交い締めにされ、再びジャージのジッパーに手がかかり、ゆっくりと、身体、主に胸のラインを確認するかのように身体に沿い、ジッパーが下げられてゆく。そして自然な動作でスッととジャージが脱がされ、スカートのホックが外される。ピンクでメーカーロゴをあしらったジャージと、フリルの付いたフレアミニスカートがほぼ同時に、パサリと床へと落下した。そしてさらに湊子の魔の手はあたしのキャミソール(これにも裾の部分にフリルがあしらわれている)へと伸びる。

「や……やめ……」

 既にあたしは涙目であるが、湊子の手の動きは止まらない。湊子は裾を掴んだキャミソールをゆっくりと、焦らすように上へとまくっていく。まずあたしの肉……うん、お腹の肉が見え、おヘソが見えて、そして肋骨のラインが見え、さらにさっき触られたあたしの胸が下側から徐々に露わになっていき、やがてその先端が……

「あ、これブラトップか」

 あたしの裏拳が湊子の顔面に炸裂した。


 ◆◆◆


 結局トップレスにまで剥かれたあたしは下着……グレーにピンクで猫のワンポイントが描かれたスポーツブラを身につけながら、湊子に聞いてみた。

「で、なんで着替え?」

「んー、いや、とりあえず自転車のことを知りたいのなら実際に乗ってもらうのが早いと思ってさ。さすがにスカートじゃ問題あるっしょ」

「それならそうときちんと言ってくれればいいのに」

「いやあ、あんた出不精だし嫌がると思って」

「…………」

 否定出来ない。でも……。

「あたしから知りたいって言ったんだし、ちょっと外に出るぐらい平気だよ」

「本当に?」

「うっ……」

 正直言うとこの間外出しただけで恐ろしく疲れた。翌日は筋肉痛でほとんど動けなかったし、メンタル的にもいっぱいいっぱいであった。だが、

「がんばるし……」

 そう、言った。

「よし、がんばれ」

「う、うん!がんばる!」

 じゃあ決意表明もした所で、着替えだけれど……と、湊子は切り出す。

「とりあえず上着はTシャツとジャージでいいとして……ちょっと運動には向かないけど下はジーンズでいいかな」

 ジャージならいっぱい持っている、ヒキコモリ御用達のいわゆる芋ジャーではない、頑張って出かけてスポーツ専門店で買ってきたものが複数だ。だが、

「上がジャージはわかるけれど、なんでジーンズ?スパッツとかじゃなくて?こないだの湊子ってスパッツ穿いてなかった?」

「あれはスパッツじゃなくてレーシングパンツ。自転車に乗りっぱでもお尻が痛くならないように、お尻のところにパットが付いてんのよ。それで、スパッツじゃなくてジーンズな理由はあれよ、転けて怪我でもされたら大変だからね。一番怪我しやすいのはお尻とかだから。だから、丈夫なジーンズ」

 なるほど、確かに理にかなっている。しかしこれだけは反論させてもらおう。

「あたし転けるほどドン臭くないし……」

「メカクレ属性入ってるヒキコモリが何を言うか。人間身体を動かしていないとどうしても身体も、とっさの判断力も鈍るから、保険よ保険」

「うう、ヒキコモリっていうな……というかメカクレってなんだよぉ……。もお……しかたが無いし……じゃあジーンズで……しばらく履いてないけどきっと大丈夫だよね……」

 そう言ってタンスからジーンズを取り出そうとするあたしに対し、

「あんた高校の時より明らかに太ってるわよね」

 グサリ、と、湊子の言葉がお腹のお肉に突き刺さる。

「うっ……だ、大丈夫だよ、ちゃんと穿けたよ」

「よし、じゃああとは携帯と念の為に財布も持って」

 ごそごそと、ベッド脇で充電していた携帯電話と鞄に入れっぱなしにしていた財布を用意する。

「リュックとか、いる?」

「あんたがリュックなんて背負って自転車に乗ったら、すぐ肩が痛くなっちゃうわよ。うちが持っといてあげるから安心しなさい」

「ありがとう、おかーさん」

「だから誰がおかーさんか!」

 そうして準備を終えたあたしたちは、まず、湊子の家へと向かったのであった。


 ◆◆◆


 湊子の家はあたしの家から歩いて3分、走って1分という至近にある、2階建ての一軒家である。久々にその家の門をくぐると、湊子は“とりあえずあたしの部屋にいけ”と、ジェスチャーで示してきた。これから自転車に乗るのに部屋にと言うことは、湊子も着替えるのだろうかなどと思いながら、急な階段を登り、キュルキュルと音のする重い遣戸を開けるとそこには複数の可愛らしい人形(ドール)が飾られた湊子の部屋が……

「って、自転車があるよ!?」

 予想していたとおり、部屋の一面には複数の人形(50cmぐらいのものだ、みんなフリルの付いたドレスやら、カジュアルな洋服やらでお洒落をしている)が並べられているが、それとは別の一面には上下に並べられた2台の自転車が、さらにPCデスクに面するようにさらにもう一台の自転車が鎮座してあった。

「そりゃそうよ。自転車やってるんだから、部屋に自転車の1台や2台置いていて当然でしょ?」

 湊子はそんな風にあたしの衝撃を軽く流し、PCデスクの脇に座っていた人形の髪の毛を手櫛でスッと梳いてから、

「とりあえず着替えるから、ちょっと待っとき」

 言いつつ、服を脱ぎだした。

 彼女はまず上に羽織っていたカーディガンを脱ぎ、綺麗に畳んでとりあえず、とでも言うかのようにベッドの上へと置く。続いてシャツをババっと脱ぎ、それも丁寧に畳んでカーディガンの上に重ねる。最後に、プリーツスカートのホックを外し……

「って、あんまジロジロみんな!」

 そのまま脱いだスカートをあたしの顔面へと投げつけてきた。

「ジロジロ見るも何も、あたしなんてさっき脱がされた上に胸もまれたんですけど……」

「よそはよそ、うちはうちよ」

「横暴だー!」

 そう言って頭を抱える仕草をした時である、ふとあることが気になった。

「ねえ湊子、自転車、普段は部屋の中においてるの?」

「うん?そうよ?」

「それってひょっとして盗難防止だったりするの?」

「まあそれもあるけど……?」

 そこで気になったことが、予想から確信に変わる。

「ひょっとして……この自転車って結構な値段がしたり……する……?」

 そう聞くと湊子は下着姿のまま苦笑して、目の前で手をパタパタと振りながら言った。

「大丈夫大丈夫、バイクとかよりは安いから」

「ぐ、具体的には……」

「そこにぶら下がってるのが50万ぐらいかなあ?」

 あまりの値段にあたしは吐血した。

「いや、そこまで驚かんでもいいじゃん。だってバイクなんて何百万ってするでしょ?自動車なんて場合によったら桁が一桁多くなるし」

「そんなの一部の高級車だけだよ!」

「まあまあ、安心しな。一番高いのは50万だけど、今日あんたに乗ってもらうのは原付よりも安いから、色々と安心しな」

「色々ってつまり、壊した時の弁償とかだよね……」

「大丈夫大丈夫、少々コケて傷いっても大丈夫なやつだから。大丈夫だから大丈夫」

 そう、手をひらひらと振りながら湊子は下着……ショーツを脱ぎだす。彼女の引き締まったお尻と、ツルッとした股間があたしの視界に……。

「って、なんでパンツまで脱ぐの!?ひょっとしてしばらく会ってないうちに湊子ったら露出に目覚めた!?」

 今のあたしに出来る全力を持ってツッコミを入れたら、今度はスカートではなくショーツがあたしの顔に向かって飛んでくる。流石にそれを食らう訳にはいかないと間一髪で避けて、ショーツに行っていた目線を湊子へと戻すと、

「誰が露出狂か。失礼なこと言わないで。自転車にのるときは下着も脱いで、これを穿くのよ、これを」

 そういって彼女がピラピラと振り回すのは黒地に空色とオレンジ色で柄の入った(たしかあれは数年前に流行ったアーガイルだとかいう模様だ。あたしだって女の子なのだからオシャレ用語の一つや2つぐらい知っているのだ)スパッツのようなものであった、そういえばさっきあたしの家で何か言ってたな。たしかあれは……

「レースのパンツ!」

 そう、大きな声で答えると、湊子は、はぁ、と、息をつき、レースのパンツ(仮)を持つのとは逆の手で頭を抱える仕草をし、

「レースのパンツじゃなくてレーシングパンツ。レーサーパンツとも言うわね。さっきも言ったみたいに、基本的にはスパッツと同じようなものなんだけれど、おしりから股にかけて、擦れ防止のパットが入っている下着兼用の服なのよ。ほら、知らない?陸上用の短パンでも下着が一体型になってるでしょ?」

「お、おー、それだ、レーシングパンツ!」

「あんた人の話の頭しか聞いてなかったでしょ」

 まさか、そんなことはない。ちゃんと聞いていた、多分。そう答えると、湊子は再び、はぁ、と、息をついてからレーシングパンツを身につける。彼女の引き締まったおしりが黒地のピッチリとした生地に包まれ、そのラインを強調する。

「いい尻してますなあ」

 思わずそんなことを言ってしまった、これでは湊子と同じではないか。だが、湊子はそんなあたしをスルーし、レーシングパンツと同色の半袖ジャージ(これも身体のラインが出る、ピッチリとしたものだった。そのピッチリとした感じにより彼女のやや残念な胸が強調されるが、スポーティーなので逆に格好いいのが悔しい)を着用し、先ほど投げつけてきたスカートとショーツを回収、綺麗に畳んでこれも重ねてベッドの上へ。そうして振り返った彼女は、

「じゃあ、行こうか」

 そう言って、今朝一番で見せたにやりとした表情ではなく、カラッとした笑顔をその顔に浮かべたのであった。


◆◆◆


 まずは自転車を持ち出すとこからだった。とは言っても、2階から自転車を担いで1階へと行くだなんてことがあたしにできるはずもないので、そこは湊子任せである。湊子はささっと自転車2台を外へと持ち出し、玄関脇の塀へと立てかける。

 2台の自転車はあたしが極希に使用するママチャリとは違い、ハンドルがU字型に曲がっているものであった。そして、タイヤが細い、とにかく細い。こんなのでパンクしないのかというレベルで細いのだが、湊子いわく“ちゃんと前見て走ってりゃパンクなんて滅多にするもんじゃないわよ”ということらしい。

 湊子はその2台のうち1台を手に取り、あたしの方へと押してくる。その自転車は色は黒地、そしてところどころに蛍光グリーンで模様が描き込んであり、正直派手だと思う。湊子はそれをあたしに押し付け、

「とりあえず、跨いでみ」

 言われ、またがってみるが……

「湊子、これちょっとサドル高すぎじゃない?」

 あたしの脚が、つま先がなんとか地面に付く程度の高さに、サドルの高さは設定してあった。だが湊子は、そんなあたしの右足に屈み込み、マジックテープのバンドであたしのジーパンの裾を絞りながら、

「うん、予想通りちょっと低めね。最初はそんなもんでいいか」

「これが低いってどんだけなのさ……どんだけなのさ……。それと、なんだかハンドルがすごく遠いんだけど」

 そう言って、U字の下側を持っている自分の右手を、左手でもって指差す。

「ハンドルはそこじゃなくてここを持つのよ」

 湊子の手があたしの左手を持ち、あるべき場所へと誘導する。そこはU字の上のラインが丁度曲がり始めるあたり、そして丁度そのへんからブレーキレバーが生えてきており、

「そこね、ブレーキレバーの根本、ブラケットっていうんだけれど、基本はそこを持って走るといいわ。ブレーキレバーに指は届く?」

 言われ、右手もブラケットへと移動させ、ブレーキレバーへと手を伸ばしてみる。

「ちょっと遠い気がするけど、大丈夫」

「そか、ちょっと遠いか。まあ今日はとりあえずそのままでいいね。次があったらもうちょっと近くに設定するから」

「さすがに次はないと思うよ……」

 そこからあたしは、湊子から簡単な手信号と、自転車は車道の左側通行だということを教わる。

「最初は片手運転とか危険だから、手信号は覚えてるだけで使わなくて大丈夫だから」

 そう言いながら湊子も自転車へとまたがる。湊子のそれは白地のなんだかカクカクとした太いチューブで構成されており、そして、ところどころに蛍光ピンクでラインが入っていた。こっちも派手だなあなどと思っていると、白地にピンクのヘルメットを被った湊子から声が掛かる。

「じゃあ、行こうか」

「お、おう」

 それに精一杯威勢のよい声で答える。そうしてあたしたちの初サイクリングは始まった。


◆◆◆


 あたしたちはゆるい、ほとんど平坦といっても良いような坂を下り続けていた。湊子いわく、こままま川沿いまで降りればサイクリングロードがあるということで、今日はそこへと向かうという。

 だが、サイクリングロードに着くまでにあたしは既に感動していた。

 ほとんど脚を動かしていないのに自転車はスーッと、道を進んでいく。普段乗るママチャリだとこうはいかない、平坦でもえっちらおっちらと足を動かさないといけないのに、この自転車はあたしに“ここは俺が頑張るから、嬢ちゃんは目的地に着くまで休んでな”とでも言うかのように勝手に進んでいくのだ。

 うん、自転車擬人化ネタ、ありかもしれない。帰ったら早速掲示板にそのネタでスレを立てようなどと、そんなことも頭の片隅においておく。

 原付のような振動もなく、本当に滑るようにスーッと走っていく。そんな生まれてはじめての体験にあたしは、自分の頬が緩くなっていることを認識する。  

 と、前を行く湊子が自分の腰のあたりであたしに手を向け、速度を下げるようにジャスチャーを送ってきた。湊子越しに前を見ると、どうやら信号のようである。赤信号で停止したあたしは、興奮して湊子へと話しかける。

「湊子!これすごい!スーって、スーって進むよ!」

「はいはい、気に入ったのはわかったからもうちょっと緊張した顔をしなさい。あんたヘルメットも被ってないんだから、自動車にちょっとぶつかられただけでも即死よ?」

「えっ!?」

 今なんだか、さらりと怖いことを言われた気がする。

「もし転んだら、とにかく頭を守ることを考えなさい。と言っても、この辺りは車もめったに通らないし、うちが普段通るルートだから安全性も確認済みだけどね。とにかく転けなければ大丈夫なんだから、気持ちは緊張して、身体はリラックスしてればいいわ」

「ち、ちなみに湊子は転けたこととかあるの……?」

「うち?うちはレースで1度、落車に巻き込まれてね。雨の日だったから地面を5メートルぐらい滑っていって擦り傷だらけになったわよ」

「ぎゃああああああっ!!」

「こらこら、そんな近所迷惑になるような声を出さないの。とにかく転けなければいいんだし、レース中じゃないんだから、ルールとマナーを守っていればコケることなんてそうそうないわ。パンクよりも低い確率よ。わかった?分かったなら返事」

「わ、わかった!」

「よし。じゃあ信号も変わったし、行こうか」

 そう言って湊子はスッと、発進する。その時にパチンという音が聞こえたのだが、その音についてもあとで聞いてみよう。というか、レースとか言ってたけど湊子って速いのかな?それも聞いてみたいな。そんなことを思いながら、あたしも足に力を込めて発進する。ママチャリみたいなギィという音もなく、湊子と同じように、あたしもスッと走りだす。それにしてもこれ、変速レバーとかが見当たらないけど変速はできないのかな?

 再び走りだして数分、まだ春になりきっていない空気がちょっと肌寒い、長袖を着るように湊子から指示があったのは、怪我防止だけじゃなくてこういうのもわかっていたんだなと思う。でも湊子は半袖だしどうするのだろうかと思っていると、湊子が背中に手を回すのが見えた。何するんだろうと思ってみていると、湊子は背中に3つあるポケット(背中じゃなければ入れているものが落ちてしまうらしい)の、ひとつから、なにか布のようなものを取り出す。そして、自転車に乗ったまま袖に手を通していく。

 なんと、湊子は自転車に乗ったまま上着を着用してしまったのである。

「湊子すごい!自転車に乗ったまま上着を着ちゃうなんて!!」

 後ろから大声で話しかけるあたしに、湊子は前を向いたまま言葉を返す。

「そう、あんたも練習すればすぐに出来るようになるわよ」

 いや、練習とか怖くて出来ませんので。というかそれなんて曲芸!?

 それ以上の言葉を交わすことができずに、あたしたしは川へと向かって走り続ける。

 そうして暫く、前を行く湊子が

「もう3分もあれば着くから」

 と、大きな声でこちらへと伝えてきた。

 サイクリングロードは、目と鼻の先である。


◆◆◆


 湊子の家を出発してから15分ほどであろうか、眼下に大きな川が見えてきた。あたしたちの住んでいる河南町からすこし下った位置にある石川である。

 あたしたしは、山側からゆるゆると下ってきてその石川へと突き当たったわけだ。石川にかかる橋を渡りながら、湊子は大声で

「あんまキョロキョロよそ見してるとコケるからね。ちゃんとうちを見て付いて来なさいよ」

 そういって、彼女は橋を渡りきろうかというところで停止のジェスチャー。

 あたしは彼女の後ろで停止し、自転車を降りて歩道へと入っていく湊子に同じようにして続く。橋の上から下を望むと、こんな時期だからだろうか、やや水量の少ない河と、広い河川敷、そしてその河川敷に1本の道がすーっと伸びている。

「ここから河川敷のサイクリングロードに降りれるから。ここで注意だけど、子供とかがボールで遊んでたら注意してね、飛び出してきたりボールが飛んでくる可能性があるから。あと、犬の散歩をしている人にも要注意、犬が飛び出してきたり、リードに引っかかったりする可能性があるからね。最後に、歩いている人や走っている人を追い越すときは、ちゃんと追い越しますって口で伝えてあげてね……まあこれはあたしが先頭を行くから関係ないか。とりあえず、サイクリングロードを走るときの注意事項はそれぐらいかな」

 湊子は前を向いたままそこまで喋ると、一度そこで言葉を切り、あたしへと振り返る。

「それで、ここまで走ってきた感想は?」

「なんかピューって!ピューってなってスーって行ってすごいの!」

「擬音ばっかりって子供かあんたは。あんたうちと同い年なのに、そんなことでどうすんの」

「あっ……こ、コホン。でも本当にすごいね、これ。でもさでもさ、これって変速とかないの?それっぽいレバーが見つからないんだけど」

 そう尋ねると、湊子はニッコリと笑う。

「そうねえ、変速ねえ。じゃあここらへんで教えておきましょうか。右のブレーキレバーをよく見てみ、レバーの内側にもう一本、黒いレバーがあるでしょ?」

「えっと……うん、あるね」

「走ってる時に、それを内側に倒すと1段重く、早くなるわ」

「おー!じゃあ軽くするのは?」

「軽くするのは右のブレーキレバーを内側に曲げるの」

「おー!おー!!湊子!ハイテクだね!」

「まあ、ハイテクといえばハイテクなんだけれどね、でもその自転車も古いからなあ……」

「古いってどれぐらい?」

「うちが16の時に買ったやつだからね、もうそろそろ4年目」

「ふーん……?」

 自転車の新しい古いだなんてよくわからないので、そうとしか反応できない。

 湊子はあたしのよくわからない、という顔をちらりと見て、苦笑する。

「まあ、今日のこれで興味を持ってくれればおいおい分かるようになるわよ。あんたもはじめからパソコンとかやおいとかに詳しかったわけでもないでしょ?」

 そんなことをこんな屋外で不意に言われ、思わず赤面して叫び返す。

「や、やおいじゃないし!BLだし!!」

「うちにはそっちの違いのほうがわかんないわよ……」

「BLはやおいみたいにエロエロじゃないの!」

「うち、こないだあんたの家に行った時にBL小説ってやつをこっそり帰りてみたんだけれど、正直アレもかなりのものだとおもうわ」

「借りるなら堂々と借りろー!!」

 はぁはぁ、と、連続で叫び続けたあたしは息をつく。そんなあたしを見て湊子はじゃあ行くからね、と言って、再び自転車にまたがり、橋の脇からサイクリングロードへと侵入していく。あたしも慌ててそれに続く。

 湊子はあたしのペースに合わせてくれているのだろう、ゆっくりとしたペースで平坦なサイクリングロードをすーっと、走っていく。そしてその3メートルほど後ろを走るあたしも、5分もすれば先ほどまでのゆっくりとした下りとは違う、自分の力で進む自転車という乗り物に慣れてき、あたりを見る余裕も出てきた。

 ちらりと右を見ると、そちらには広い川が。そして左には土手が。そして湊子の前方には延々と道が続いている。

 延々と続く道を見ていると、ふと、先ほどあたしが湊子に尋ね、答えを得たものを試したくなった。そう、変速である。

 あたしは先ほど湊子に言われたように、右ブレーキレバーの内側にあるもう一本の黒いレバーを、中指でもってカチリ、と、押し込んでみた。するとほんの一瞬の間の後に自分の後ろでカコン、と音がし、今まで何の抵抗もなく動いていた脚に抵抗がかかる。

 湊子は変速時の音を聴きとったのか、後ろのあたしを振り返り、走行コースを左端から自転車一台分、あたしの分だけ右にずれ、あたしに先にいくよにジェスチャーで伝えてくる。それを見たあたしは、力を込めてペダルを踏み込んだ。

 速度が変わる。そして見えている景色も変わる。先程までよりも勢いに乗って、景色が後ろへと飛んでいく。速度を落とした湊子はすぐに追いぬくことが出来た。そして、抜かれ際に湊子は、20分ほど走ったらそこに大きな橋があるから、とりあえずそこまでいってみ、と、そんな言葉をあたしに投げかける。

 20分、あたしも舐められたものだ。20分だなんてアニメ1話分にも満たないし、ネトゲをしていたら一瞬で過ぎ去ってしまう時間ではないか。

 ならば見せてやろう、本気を出したあたしの力というものを。

 と、そんなことを思いながらもう一段階レバーを押しこみ、変速を行う。後ろからペースを上げ過ぎだ馬鹿などという声が聞こえるが、無視。脚に掛かる負担がさらに大きくなる。

 だがしかし!いくらヒキコモリといえどあたしはまだまだ19歳!お肌のケアもきちんとしてるしまだまだイケる!いや、むしろこれから!この程度の負担に負けるはずがない!そう、つまり……

 つまり、5分後にはあたしはゼエゼエ言いながら湊子の後ろをフラフラと走っていたのであった。

「あんたって本当にバカねえ」

 前方からそんな声が飛んでくるが、ゼエゼエと呼吸をして、こけないことに精一杯のあたしは当然、返事などできない。

「ヒキコモリのあんたが、いきなりさっきみたいなスピードで走り続けることが出来るわけがないじゃない」

 ごもっともである。

「でもまあ、これでどれぐらいのペースなら走り続けられるかが少しは分かったでしょう?」

 うん、ちょっとはわかった。あたしはその返事をゼエゼエという呼吸音に込めて返すと、前方で湊子が苦笑している気配が伝わってきた。

 湊子はゆっくりとしたペースを保ちながら、このままのペースでしばらく走ってたらちょっとは回復するわよ、と言ってペースを保ったまま走り続ける。

「ゼエ……正直……休憩……ゼエ……ゼエ……したい……んだ……けど……」

 そう、なんとか正直なところを吐露するが、湊子はそれは一笑に付し、

「ちょっとでも身体を動かしていたほうが回復も早いのよ」

 そんなことを言い、あたしはそれから20分、最初に予定していた橋まで走り続けることとなったのであった。


◆◆◆


「意外と回復するものだね」

 予定通りサイクリングロード上にある大きな橋まで走ってきたのであるが、あたしというと、既にけろりとしていた。

「だから言ったでしょ、走ってるほうが回復も早いって」

 橋の中ほどにあるベンチに腰掛け、湊子はそんなことを言う。確かに湊子の言うとおりなのかもしれない、流石に疲れてはいるが、脚ががくがくしていたりするわけでもなく、これならきちんと家まで帰り着くことも出来そうである。

 だが、湊子はこんな言葉を続ける。

「まあ、基本的に行きより帰りの方が精神的にも、肉体的にもきついものだけどね。彼方はヘタレだから今まであえて言わなかったけど、往路で下ってきた道を、今度は登って行かないとダメなわけだし」

 そう言ってケラケラ笑う湊子だが、対照的にあたしの周囲の空気は暗く沈んでいた。そうか、上りがあるのか……。

「あの、湊子、どうにか登らないで帰る方法は……?」

「え?そんなのあるわけ無いじゃん」

「酷いよ!詐欺だよ湊子!!このAAカップ!!」

 恨みを込めてそう叫ぶと、とたん、湊子は両手で自らの胸をかばい反論してくる。

「む、胸のサイズは関係ないでしょ!?というか何よあんた、さっき人の胸のサイズをなんで知ってるんだみたいなことを言って、あんただってうちのサイズ知ってるんじゃん!!」

「湊子のこと大好きだから知ってるだけだし!湊子のばーか!ばーか!!」

「いきなりハズいこというなーっ!!」

 二人して全力で叫びきり、はぁ、はぁ、と、息をつく。そしてそんな状態からいち早く回復したのは湊子であり、

「とにかく、もうちょっと休憩したら走って帰るわよ。うちまでの高低差は100メートル程度なんだし、彼方でも気合出せばなんとか帰り着くわよ。まあ、これも脱ニートのための訓練と思いなさい」

 脱ニート、それを言われると弱かった。仕方がないので、湊子の言葉に渋々ながら頷く。そんなあたしを湊子はびしりと指差し、

「とりあえずうちはそこら辺でジュースでも買ってきてあげるから、あんたはもうちょっと休んでなさい。それと、自転車に刺さってる水のボトル、自由に飲んでていいから」

 そんなことを言い残し、自転車に乗って何処かに消えていってしまった。

 あたしは全身から力が抜け、ベンチに横になり、ジャージの前を開け、空を見上げる。

 まだ湿度が低い時期だからか、空も抜けるように青いし、家の方角に見える山々も、生い茂る木々の一本一本が認識できそうなほどにすごく綺麗に見える。

 あまりに綺麗な景色にしばらくそのまま、山と空に視線をフラフラと行ったり来たりさせてしまう。

「来てよかったかも……」

「そう言ってくれるのならうちとしては嬉しいけどね」

 思わずポツリと出た言葉に返答があり、同時に冷たいものが首筋に押し付けられる。思わず“ひゃぁっ!?”と、間の抜けた甲高い声を出し、身体をビクリと跳ねさせてしまうが、それもしかたのないことだと思って貰いたい。だって本当にびっくりしたのだから。

 視線を山の方角から少し下へと戻すと、湊子があたしの顔をニヤニヤと覗き込みながら、スポーツドリンクのペットボトルをあたしのほっぺたに押し付けてきていた。

「ちょっとはやる気出てきたかー?このメカクレ娘」

 そんなことを言いながら、ペットボトルの尻であたしのほっぺたをグリグリと弄ってくる。当然、ニヤニヤ笑いもやめない。

「やーめーろー。やーめー!」

 バタバタと抵抗し、ペットボトルを受け取り、身を起こす。

「早かったね」

「だって、自販機、目と鼻の先だし」

 そういって橋の、あたし達が入ってきたのとは逆の端を指さす。視線で指の先を追うと、そこには自販機が設置されていた。

「あんなに近いのなら歩いていけばよかったのに」

「あはは、それもいいんだけどね、これ見てみ」

 そう言って足を持ち上げ、靴の裏を見せてくる湊子。その靴の靴底は本来あるべきゴム系の素材ではなく、プラスチックか何かの硬質な素材で出来ているようであった。そしてその爪先よりの部分に、青い色をした金具が取り付けてあった。当然、このような靴では滑ってしまって歩くのも一苦労であろう。というか……

「というか、ナニコレ」

「ナニコレとは失礼ね、これが自転車用の靴なの。この金具部分をペダルにはめ込んで足を固定するわけ。ペダルに足が固定されてないと、不意の振動でペダルから足が離れたり、全力で足を回している時に足が滑ったりするのよ。そんなことになったら危ないでしょ?」

「んー……」

 言われ、想像してみる。想像されるシチュエーションは、街中を走行中に空き缶を踏み車体が跳ね、体制を立て直そうとするもペダルから足が離れてしまっておりそのまま転倒、そんなシチュエーションである。そして乙女特有の妄想力に秀でたあたしの脳は、後続の車に轢かれてぱっくりと頭が割れるところまでも想像してしまう。ナニコレこわい。

「おかーさんこわい……」

「だから誰がおかーさんか!というかなんで抱きつくの!なんでそんなに震えてるの!あんたはいったい何を想像したのよ!!」

「ザクロが……地面にザクロが……」

「そんなグロいところまでしっかりと想像せんでもええわ!!」

 ひっつくあたし、それを引き剥がそうとする湊子、端からたら、いや、自分でもわかる。仲の良いじゃれあいであった。美少年同士ならもっと絵になるのにね。

 閑話休題、靴の話に戻ろう。

「つまり、その自転車用の靴のせいで歩きづらいから、わざわざこの短距離を自転車に乗って、自販機までスポーツドリンクを買いに行ってくれたんだね」

「なんだか説明的な台詞だけれど、その通りよ」

「さっきから湊子が走りだすたびにパチパチ音がなってたのは、その金具を嵌めこむ音だったんだね」

「その通りね」

「ところで湊子、自分の飲み物は?」

「え?いらんし」

 その言葉にガバっと立ち上がり湊子の顔を見上げてみるが、まだ多少の冬の気配が残っているというのに汗だくなあたしに対して、湊子はその顔に汗の一つもかいていない。

「なんで……?」

「鍛え方の差よ」

 身も蓋もなかった。なんだか不公平である。いや、湊子は自分で鍛えているだなんて言うだけあって日々トレーニングに励んでいるのだろうが、やっぱりなんだか不公平なのであった。

 しかし、そんな汗をほとんどかいていない湊子を見ていると、ふと気になる点が浮上する。

「じゃあさじゃあさ、湊子みたいに鍛えてたら真夏でも汗をかかなかったりするの?」

 汗の対策、大変なんだよ?いや、あたしはほとんど外出せずクーラーの効いた部屋に引きこもっているので殆ど関係ないといえば関係ないのだが、やはりその点は気になるところなのである。

「んー、汗をかかないってことはないけれど、確かに汗の量が減ったのか夏場の不快感は減ったかも。夏休みはほとんどずっと自転車に乗ってるから、汗を不快だと思う暇もないだけかもしれないけどね」

 なるほど、やっぱり夏のベタベタとした不快感は緩和されるのか。つまりですよ、世の中の皆さん。ベタベタとした日本の夏はスポーツで乗り切るといいらしいですよ。

「あんた、今、夏に自転車に乗ってたら不快感が緩和されるのかなとか思ってるんじゃない?」

「お、思ってないよ……思って……思ってます……」

 そう言うと、湊子は両手を腰に当てて、あからさまに残念そうな顔を作った。

「はぁ……。いい?彼方、あんたここらへんの夏場の気温がどのぐらいかわかる?」

「えっと……天気予報だと35度ぐらいって……」

「そうね、天気予報的にはそれで合ってるわ。でもね、実際に屋外の日の当たる、アスファルトの路面に設置された温度計は40度を軽く超える温度を示すの。そんな中で普段運動してない人が自転車に乗ったりしたら……」

「倒れる!そんなの絶対に倒れちゃうよ!!」

「実際にニュースとかでも、熱中症の危険があるから運動は控えるようにって言ってるでしょ?」

「…………」

「…………」

 なるほど、と、そういう意味合いの沈黙である。だが、ただ単に納得させられるだけでは悔しいので、ひとつ軽口を叩いておくことにした。

「そんな気候でも自転車に乗るって……ひょっとして湊子って……マゾ?」

 ツッコミを期待した言葉であったのだが、湊子からのツッコミはなかった。

 あれ?と思い、湊子の顔を見上げると、湊子は遠く、山々の方角を見つめていた。その時の湊子の目は深く、今日の空の青よりも、そしてあまり見たことがないけれど、深い海の青よりも。もっともっと深い色をしていた。

 そしてその目に思わず吸い込まれそうになるあたしであったが、その動きは湊子の言葉により遮られる。

「苦しんで、苦しんで、苦しんでさ。その先で何か掴める……うん、レースでの勝利だとか、過去の自分に打ち勝つだとか、そんな何かを掴める時もあるけれど、何も掴めないこともあるんだ……」

 そう言って山の方を見つめたまま、湊子は告げる。その表情は逆光のせいか、あたしにはよく見えない。

「頑張って、頑張って、それでも何も得られないことがあるのに自転車に乗り続けるってさ、たしかにうちはあんたの言う通りマゾヒストなのかもしれないわね」

 そう言ってこちらを向いた湊子の顔は、少し残念そうな顔をしていた。過去の何か、苦い体験を思い出したのかもしれない。と、そう思っているあたしに再び背を向け、自分が乗ってきた自転車に刺さっているボトルの中身を一口だけ口にして、言った。

「それ飲んだら帰ろっか。大丈夫、あんたならちゃんと帰りつけるよ」

 そう言う湊子の笑顔は先程までとは違う、いつも通りのひまわりのような笑顔であった。


◆◆◆


 スポーツドリンクを飲み干したあたしは、それを自販機の隣に設置してあったゴミ箱に入れ、テクテクと歩いて自転車の腋まで戻ってきた。

「準備、できたよ」

「よし、じゃあ行こうか。さっきと同じようにうちが前を行くから、ペースが早すぎたら大きな声で合図してね」

 あたしは頷き、自転車にまたがる。湊子も自転車にまたがり、パチリ、と、左足から音がする。これがさっき言っていた自転車用シューズの金具が、ペダルへと嵌り込む音なのだろう。未だ足をかけられてない右の方のペダルを観察してみると、なるほど、ツルッとした、少し不思議な形をしていた。と、そちらのペダルにも足がかけられ、パチリという音の一瞬後に足が動き始める。湊子はついーっと、橋を、さきほどあたしたちが来た方向へと戻っていき、あたしもワンテンポ遅れながらも、後に続く。

 ペースは先程までの、あたしの回復を待つゆっくりとしたペースよりも、少しだけ速かった。あたしの息が上がらない、長時間走っていても大丈夫なラインを既に見極めているのだろう。さすがは湊子、あたしの第二のおかーさんである。

 と、不意に湊子が後ろへと下がってきてあたしに並ぶ。そしてあたしの手元よ指さしながら、

「これ、速度表示ね」

 言われて視線を少し手前に落とすと、なんだか小さな機械が装着されており、それの液晶が現在の走行速度を指し示していた。現在の走行速度、18km毎時である。さらに湊子は指を少し動かし、

「それと、その下の小さいのが走行距離表示」

 それは現在丁度11kmという数字を示していた。なるほど、こんな便利なものがついていたのか。乗り物の速度表示というと、クルマやバイクのタコメーター的なものが思い浮かぶのだが、こんな小さな機械でそれと同じよな機能が得られるとは……ところでタコメーターのタコってなんなのだろう?あ、晩御飯にはタコの湯引きをわさび醤油で食べたいな。

「ほら余計なこと考えてないで。とりあえずあとは家まで、しっかり前見て走りなさい」

「よ、余計なことなんて考えてないよ!?」

「本当に?夕飯のこととか考えてたんじゃないの?」

 大当たりである。本当に湊子はなんでもお見通しだなあ。

「とにかく、怪我だけはしないようにね」

 そう言って、湊子は再びあたしの前に出る。あたしよりも軽いギアを回しているのだろうか、高速でくるくると回るその両足の動きに見とれてしまいそうになるのを必死に抑え、飛び出しなどがないか周囲に気を配らせていると、湊子が不意にサイクリングロードの右端によれ、と、そんなジェスチャーを送ってくる。

 湊子はそんなジェスチャーを送りながら、自らも走行ラインをサイクリングロードの右側へと変えていく。家を出る前に自転車は原則左側通行って言っていたのに、危ないんじゃないのかと思いながらあたしも右による。

 と、その途中でサイクリングロードの左寄りに何かが落ちているのが見えた。なるほど、障害物が落ちていたので、回避のために後方に指示を送ったわけか。

 それにしてもこんなトコロに一体何が落ちているのだろうかと、落下物を追い越し際に観察すると……

「カメ……?」

「川沿いだからねえ」

 最近冬眠から目覚めたのか、眠そうな顔でゆっくりと道を歩く亀なのであった。

 カメを追い越した後、再び走行ラインは左端に戻り、そのまま順調に走行は続いていた。時折、ウォーキング等をしている人を後ろから追い越す際には、湊子が“右側通りまーす”と、元気な声で注意喚起をする。なるほど、そうやって事故を防ぐのか。というかベル使えばいいのに(あとで知ったことだが、そういうことにベルを使うことは“道路交通法違反”なのだそうだ)。

 ともあれ、そういった湊子の元気な声と、自転車で走ることによるチェーンの駆動音、そして風切り音。さらには短く刈られた草木の間から見える川の水のきらめき、空の青、山の緑。そんな色々を体全体で感じて、ちょっといいな、と思ったのも確かなのである。確かなのであるが……。

 約20分後、サイクリングロードから外に出、信号待ちをしていたあたしたち……いや、湊子はけろりとした顔をしているのであたしだけか。あたしは、暗く、沈んだ顔をしていた。

「ねえ湊子、目の前に上りがあるんだけど……」

「うん、そうね」

「確か湊子の家からここまではずっと下りだったと思うんだけど……」

「うん、そうね」

「つまりそれって湊子の家までずっと上りってことじゃあ……」

「うん、そうね」

「いや、さっき言われてわかってたけどね……うん……」

 あたしはずーん、と、一人で落ち込む。だが、湊子はあたしに落ち込み続ける時間はくれなかった。とにかくいくよ、と、そう言って、再び走りだす。仕方がなく、あたしはその後に続いたのであった。

「大した上りじゃない。大した上りじゃないけど、あんたは初心者な上にヒキコモリだしね。とにかく軽いギアを使いなさい。そう、もっと、もっと軽いやつ、レバーがこれ以上動かないってところまで軽くしなさい」

 走りだしてすぐ、あたしの後ろに移動した湊子はそう指示を出してきた。

「いちばん軽いって、そんなのにしたらものすごく遅くなっちゃうんじゃ」

「遅くていいのよ、とりあえず登り切るの。なにより家に帰り着くことが大事なんだから」

 そう言われてみればたしかにそうである。あたしは素直にギアを軽くし、ゆっくりと、のろのろと進むことにした。さっきまでとはぜんぜん違う、ママチャリと同じようなペースで、上りまでの平坦な道をゆるゆると走っていく。

 そのまま5分ほど走っていると、足に帰ってくる感触が変わった。先程までは力を抜いていてもくるくると回った足が、少し力を込めて踏み込まなければ動かなくなってきたのだ。

「上りに入ったわね」

「言われなくてもわかるし……」

 まだ軽口を叩く余裕が会ったので、今のうちにそんな返しをしておく。

「安心し、このペースだと15分ぐらいでうちに帰り着くから」

「15分……」

 先ほどおもいっきりペースを上げ、5分も持たずに失速したことを思うとそれは非常に長い時間に思える。おもわずフラついてしまったあたしを、慌てて横に回ってきた湊子が左手で、ぐっと支える。

「大丈夫、さっきみたいに無茶なペースじゃないから。というか、ぶっちゃけ帰りのサイクリングロードと同じぐらいの力しか出してないし、問題なく帰れるわよ」

「なんだよそれーなんでそんなことがわかるんだよー」

「ふふふ、それは企業秘密。まあ、おいおいね」

「むぅ……」

 唇をとがらせるあたしに、湊子はあたしを支えていた左手で、あたしのおしりをグッと、前に押してから後ろに戻る。押されたことで一瞬だけ楽になった足に、再び力を込めてあたしは、自分たちの住む町へと向かい坂道を登る。

 そのままのペースでさらに5分ほど登り続けただろうか、いい加減景色も慣れ親しんだ近所のものが増えてきた。湊子は相変わらず後ろからあたしを応援するのだか炊きつけるのだか、そんな声をかけてきてくれている。

 正直、結構息が上がってきているので彼女のそんな気遣いがありがたい。

「あと……はぁ……はぁ……少し……はぁ……だよ……ね……」

「うん、あと少しあと少し」

 なんで湊子はこんなに余裕なのだ……。やっぱりずるい。

「そろそろ……ぜぇ……かなり……きつ……」

「大丈夫大丈夫、大丈夫よ彼方」

 そろそろ会話をすることも無理かと思った所で、不意に湊子があたしの前へと出た。

「じゃあ、とりあえずあっちの見晴台寄って帰ろっか」

 そう言って湊子は彼女の家よりも更に高い位置にある、あたしたちの町を見下ろすことのできる見晴らし台を人差し指で指し示す。鬼か!と思ったのだが、あがった呼吸のせいで会話ができないので実際にそう言うことは出来なかった。


 ◆◆◆


 ここまで来たら道もわかるのだし。湊子を無視して家にまっすぐ向かおうかとも思った。すごく思った。うん、すごく思ったのだ。

 がしかし、結局あたしは湊子と共に道を逸れ、先程までよりも更にきついつづら折りの坂道を登っている。それは何故か。一人で帰るのが心細いということもあった。

 だがしかし、それ以上に、せっかく外に出てきたのだし“何かを成し遂げたい”という気持ちもあったのである。

 多分、湊子はそこまで全て計算済みで、あたしが成せる、ギリギリの目標を準備してくれていたのだろう。本当に、母親みたいな娘である。

 だが、先程まで息を上げながらもなんとか“回転“と言える動きで動いていたあたしの足は、今はそのような動きをしていない。なぜなら傾斜がきつくなってきているからだ。初めはほとんど地面が傾いているという気がしなかったのに、今のあたしに、この道路は壁のように見えていた。

 そしてあたしの足の動きも、そう、言葉にするのならば”力を込めて一歩一歩踏み込む“と言った感じになっている。

 力を込めて右足を踏み込む。すると、車輪がゴロリと少しだけ回転して前に進む。

 もう一歩、力を入れて左足も踏み込む。すると、また車輪がゴロリと、回転して前へと進む。

 その繰り返しであたしは湊子に続いて、ゆっくりと、歩くより遅いペースで見晴台に向かう一本道を登っていく。

 苦しい、苦しい、死ぬほど苦しい。今すぐに自転車を降りてその場で大の字になりたい。今すぐ家に帰ってゴロゴロしながらインターネット掲示板に入り浸りたい、大好きなBL小説を読み漁りたい。

 だけれど、あたしはまだ、脚を動かしていた。

 なんでかはわからない。苦しすぎて今すぐ辞めたいのは本当なのに、脚が止まってくれない。

「はぁ……っはぁ……んぐっ……」

 湊子がなにか言ってくれている気がするけれど、よくわからない。とにかく、なんだかこの先に行かなければいけない気がして、あたしは脚を動かし続ける。脚を、動かし続ける。

 立ち漕ぎが出来れば少しは楽になるのだろうかとも考えたが、ママチャリよりも不安定な乗り物であるこの自転車で、あたしがそんなことをしたら確実に転ける。絶対に転ける。

 しかたがないのでうつろな目で地面を見つめ、路面の白線にそってゆっくりと、ほんとうにゆっくり、前へと進んでいく。

 残り400m程度だろうか、見晴らし台がしっかりと見えてきた。普段は誰も居ない様な場所なのに今日に限って誰かがいる。その誰かというのは、ふんわりとした栗色の髪の毛をした……

「お母……さん……?」

 それを認識した次の瞬間、不意に、ペダルに置いた右足がズルリと滑り、転けそうになった。

 再び横に並んだ湊子があたしを支えてくれ、転倒は免れる。転倒しかけたという恐怖に足がすくんでしまい、速度がさらに落ちる。そんなあたしを見た湊子は先ほどそうしたように、あたしのおしりの部分に手を当て、グッ、と、あたしを押そうとするが、駄目だ、それでは駄目だ、駄目なのだ。

 そう思った瞬間、あたしはハンドルをぐっと握り直し、今までずっとサドルの上に乗っかっていたお尻上げ、立ち漕ぎで、湊子の手を振り切るかのように前へと、上へと、進んでいた。

 苦しさが消えたわけではない。でも、これはあたしの気持ちの問題なのだ。

 今まで何も出来なかったあたしが、ずっと湊子やお母さんに頼りっぱなしだったあたしが、ちょっとだけでも、自転車でこの坂を登る程度のことだけでも、それだけのことでいい。一人でも何かができるところを見せてあげたい。そう思うとあたしの脚は、身体は、全力以上のものを振り絞って前へと進もうとするのだ。

 ドッドッドッと、心臓が大きな音を立てる。

 今すぐに破裂してしまうのではないだろうかと、そんなことを思わせるぐらいにその音はあたしの脳内に響く。

 ガチャンと、音がした。

 半分無意識のうちにギアを1段重くしていたらしい。足に掛かる負担が更に増え、脚が引きちぎれそうになる。かまうものか、このまま行けるところまで行ってやる。

 そのまま、体を大きく振りながら、脚をより強く踏み込みながら、あたしは見晴台に向けて突っ走る。

 傍から見ていたら突っ走る、だなんて速度じゃなかったかもしれない。半分泣きながら自転車にまたがるあたしは滑稽に見えたかもしれない。

 それでも、それでもあたしは登り坂を登りきり、自転車を飛び降りて、ガクガクする脚でお母さんへと走って行き、そしてその大きな胸に飛び込んだのであった。


◆◆◆


 見晴らし台について暫く、あたしはお母さんに半泣きでひっついたまま、ベンチに腰位かけていた。そして、さっきから気になっていたことを聞いてみる。

「お母さん、なんでこんなところにいたの?」

 お母さんはあたしの髪、汗でベタベタの髪を汗など気にせずに、あらあら、こんな髪の毛ボサボサになっちゃって、などと言いつつ、軽く手櫛ですきながら、今回のネタばらしをしてくれた。

「湊子ちゃんがね、うちの彼方が頑張ってるから応援に来てちょうだいって、そんな電話をくれたの」

 どうやら全て湊子の仕込みだったらしい。あたしは目の長さまで伸びた前髪の下から、半目で、ストレッチをしている湊子を睨む。

「こんなことしなくても、あたしはがんばったのに……」

「いい年して母親の胸にべったりひっつきながらそんなこと言っても、説得力ないわよ」

 いわれ、ガバリと母から離れるあたしだが、直後にお母さんの両手で引き戻され、両腕で頭を撫でくりまわされる。

「お母さんやめ……やーめーっ!」

「あらあら、さっきは自分から飛び込んできてくれたのに、彼方ちゃんったらもう恥ずかしがり屋さんなんだから……」

 自分から飛び込んでおいてなんだけれど、もうすぐ娘が二十歳になろうかという親子のスキンシップではなかった。あたしはため息を付き、母の手から逃れることを諦め、こう告げた。

「お母さん、あたし、今日、がんばったよ」

「ええ、そうね」

「これからは、今までよりももうちょっと頑張るから」

「ええ」

 そう言って、今度こそ母から身を離し、湊子の方を見て、告げた。それはひとつの疑問でもあり、あたしの新たな決意ともなる、そんな言葉である。

「ねえ湊子、こんなかんじの自転車……えっと……」

「ロードバイク」

「そう、ロードバイク。それって、どんな所で幾らぐらいで買えるのかな?」

 その日、自分の部屋で燻っていたあたしの人生が、そんな言葉とともに、ガチャリ、とギアが入ったかのように、再び動き出したのである。


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