第六話 あたしに出来ること
第六話 あたしに出来ること
朝の9時、比叡山山頂にて。
うちは自転車をその場に倒し、自分も地面にうずくまって荒い呼吸を繰り返していた。
荒い呼吸の理由は言うまでもない、レースだ。彼方達に話していた通りに参加した、比叡山でのヒルクライムレースを終えたところなのである。
標高差が少なく、なおかつ距離はそこそこあるコースであったためにレースは序盤からハイペース、一部の有力選手達が先頭を交代しながら、ハイスピードで一気に登り切ったのである。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
先頭集団になんとか食いついて、どうにか5位でゴールは出来た。だが、うちの求める場所はそこではない。
「はぁっ……はぁっ……ふぅっ……」
周りを見渡すと、同じようにうずくまっている選手は何十人も居る。中には、携帯型の酸素ボンベを口に当てている選手までもが存在している。
「はぁっ……はぁっ……」
女子よりも出走順が前だった男性選手たちは、既に回復して、そこら辺に出ている屋台で食べ物を買っている人もいる。うん、あの牛串は美味しそうだな、うちもあとで食べよう。
そう思っていると、ふと、声をかけられた。
「湊子ちゃん、お疲れ様」
「山形さん、お疲れ様です」
声をかけてきたのはうちと同じ実業団チーム、“ミラーレーシング”の男性メンバーにして自称クライマー、山形さんであった。
「どうだった?」
どう、とは順位のことだろう。うちは黙って(未だに息を整えるので精一杯なのである)指を五本突き出す。
「5位かあ、流石だね。僕は30位で、何とか完走」
あたしはなんとか息を整えてから、その言葉に返答をする。
「30位って言ったって、E2クラスタのその順位ならF1クラスタの1位よりもタイムはいいんじゃないですか?」
「まあ、ね」
彼は事も無げにそう言ってから、手にした牛串を齧る。そしてそれを飲み込んだ彼はどこか遠く、山の方を見てこんなことを言ったのであった。
「でもさ、いつか、日本人の女性レーサーが僕なんか軽々と追い越していって、世界で戦えるようになるといいなって思うんだよな。もちろん、その中には湊子ちゃんも入っててさ」
「まさか。身内贔屓が過ぎますよ」
「いやいや、贔屓とかじゃないよ? だって湊子ちゃん、強いじゃん。それに、ほど子ちゃんだって、湊子ちゃんに負けず劣らず強くなった。いや、あの子は最初からびっくりするほど速かったけどね」
「まあ、ほど子はうちの愛弟子ですから」
「おいおい、まだまだ弟子に後を任せて隠居するような歳じゃないでしょ湊子ちゃんは。ロードレーサーのピークは30前後、まだまだこれからだよ」
「そりゃどうも」
「そういえばさ、また新しい弟子をとったんだって? しかも二人」
「ええ、まあ」
「今度の子はどう? 走れる?」
「そうですねえ……あの二人はまだまだこれからですけど」
そして、あたしも視線を山形さんから遥か遠くの山々へと移して、こう言った。
「でも、見込みはありますよ」
うん、彼方達はそろそろスタートだろうか? うちは彼女たちが戦っている姿を見ることは出来ないが、
「まあ、今日の一戦でまた1つ、成長してくれると信じてますよ」
そう、信じているのだ。
◆◆◆
前日には雨が降ったが、その日の天気はなんとか回復して曇り。だが、自転車に乗るにはいい天気だ。なにせ気温が上がり過ぎない。
現在の時間は6時半。あたしと空ちゃんは、父が運転する車で、受付会場である高取町役場へと向かっていた。4人乗りの車の運転席に父、助手席に母、そして後部座席にあたしと空ちゃんという配置である。
ほど子ちゃんにも声をかけたのだが、彼女はウォームアップがてら自走で会場へと向かうらしい。ちなみに自転車はというと、車の上部に設けられたキャリアーに固定されている。
「というか、いつの間にこんなもの車につけてたのさ……」
「はっはっは、父さんちょっと張り切って5台まで乗せれるようにしちゃったぞ!」
「5台……。プロチームのチームカーみたい、です」
「そうだろそうだろ!いっそ車体にLOVE・彼方とでも描いておくか!!」
「あら、素敵ね、あなた」
「やめてよね、絶対……」
「ボクも、さすがにそんな車には乗りたくない……です」
「あれえ? 不評みたいだぞかーさん」
「あらあら、なんでかしら?」
うん、前々から思っていたのだけれどうちの両親はどこか変なのかもしれない。
そんなことを思っている間にも、車は山を越えて奈良県へと入る。
あたし達の戦いが、もうすぐ始まる。
◆◆◆
「さて、受付も済んだし、とりあえずウォーミングアップにでも行く?」
受付を済ませて、自転車を車から下ろしたあたし達は、女子更衣室として開放された役場の一室でサイクルジャージへの着替えを済ませ、とりあえず、と言った感じで自転車を押しながら移動を開始する。
「です。今日は気温も低めなのでしっかりとアップしとかないとダメ、です」
確かに。こういったちょっと低めの気温でいきなり全力を出すと、筋肉の断裂につながる……と、湊子が言っていた。ウォーミングアップはしっかりとしておいたほうがいいだろう。
「そうだね。じゃあお父さん、お母さん、あたし達はアップしてからスタート地点に向かうから」
「うん、父さんたちは先にシャトルバスで上の方にまで移動しとくからな。がんばれよ、彼方、空ちゃん」
「二人共、がんばってね」
「うん」
「はいっ、です」
父と母、二人のエールを受け取ったあたし達は、とりあえず、そこら辺の道を軽く走り出す。
「ねえ空ちゃん」
「なん、ですか?」
走りながらも交わす言葉は、今日のレースに関することである。
「やっぱりさ、勝ちたい?」
「……先輩は、ボクが勝てるほど弱くはないです」
「……でもさ、空ちゃんが負けて、負い目を感じながら一緒に練習するよりも、空ちゃんが勝って、堂々と、胸を張って一緒に練習が出来るようになる方がいいと思うんだ」
「…………」
踏み込み過ぎかな、とも思う。
でも、あたしはそこからさらに一歩、踏み込んだ。
「だからさ、今日はあたしが空ちゃんを、勝たせてあげる」
「そんなこと、出来るわけがないです」
あたしの後ろ、ピッタリと付いて来ている空ちゃんの否定の声も気にせず、あたしは言葉の続きを告げる」
「だから、あたしを信じて、あたしに付いて来て欲しいの」
「無理……ですよ……」
「本当に、無理だと思う?」
「おっぱいさんは、先輩の本気の走りを見たことがないからそんなことが言えるのです……」
「うん、そうかもしれない」
でも。
でも。
だとしてもだ。
「でも、ほど子ちゃんがどんなに強いんだとしても、あたしは空ちゃんを、ほど子ちゃんと勝負ができるステージにまで連れて行ってあげる」
「そんな……でも……」
信号で停止したあたしは、振り返って空ちゃんを見やる。
果たして、空ちゃんはその顔に困惑の色を浮かべていた。
「もう一度聞くよ? 空ちゃん、勝ちたい?」
再度、そう聞くあたしの言葉に、空ちゃんは顔をうつむかせる。
そして、俯いた彼女の口から漏れ出てくる声は、
「…………たい……です……」
「うん」
「勝ちたい、ですっ!!」
「うん」
空ちゃんがガバリ、と、あたしを見据える。
「先輩に勝って! そして、先輩ともっともっと強くなるために、先輩と一緒に練習したい!! ですっ!!!」
「うん、そうだよね」
空ちゃんの言葉を受けて、あたしは深く、深く頷く。
2週間前、空ちゃんとほど子ちゃんとやり取りを見たあたしは思ったのだ。あたしと空ちゃん、そして、ほど子ちゃんはよく似ているって。
容姿や性格の話ではない、ただ、ちょっと不器用で、友だちとなりたいと思った子と、うまく接することが出来ないだとか、そんなところを。
うん? 湊子? 湊子はまあ、みんなを見守ってくれるお母さんって感じかな。
とにかく、あたしは、あたし達はよく似ていると、そう思ったのだ。だから、あたしにはなんとなく、空ちゃんの考えることがわかった。わかってしまった。
じゃあさ、もう手を差し伸べるしかないじゃない。
「だったらさ、勝とうよ」
あたしと空ちゃんは、つい先日、あんなに激しく争ったのだ。
そんなあたし達が組んだら、きっとほど子ちゃんにだって勝てるはずである。
いや、勝てるかどうかなんて関係ないのかもしれない。
あたしはただ、手を差し伸べて。
空ちゃんはその手をしっかりと、握り返した。
◆◆◆
あたしと空ちゃんは入念なウォームアップとストレッチを終え、スタート地点で座り込んで、並んでいる。
時刻は8時半、集合時間は8時50分なので、大分余裕を持って並んでいる状況だ。
ここで今回のルールの確認だが、今回のレースも前回あたし達が走ったレースと同じ、5人ずつスタートして行うタイムトライアルだ。だが、実際にはあたし達が走る第一グループに前年度優勝のほど子ちゃん、そして若い人間が集中しているので、そこで優勝が争われることになるだろう、というのが大方の見方である。
つまり、ここでほど子ちゃんに勝てば総合優勝が出来る。ということだ。
そしてそのほど子ちゃんであるが、未だに姿が見えない。そのへんは流石、レースに慣れしているというところだろうか。
あたし達女性クラスの出走は男性クラスの後、締めのレースである。つまり、今のあたし達は男性の出走を見送っているという状態なわけであるが、
「お、男の人のペースはほんとうに速いね……」
競技時間の短いヒルクライムだからか、目の前ではスタート直後から全力で脚を踏み込み、弾けるように加速していく男の人達の背中が見える。あたしはその姿に少し、恐怖を覚え、空ちゃんの方へと顔を向ける。
「です。でも、先輩のペースも鬼のように速い、です。本当に勝ち目があるのですか?」
空ちゃんはそう言って、あたしの瞳をまっすぐと見つめてきた。
「見込みは……見込みは少ないかもしれないけど、大丈夫、空ちゃんとほど子ちゃんが正面から戦えるように、あたしがしっかりとサポートしてあげる。だから、空ちゃんも自分と、あたしを信じてほしいな」
「…………」
空ちゃんは何も言わず、ただただ力強く、頷いてくれた。
緊張からか、鼓動は早くも自転車で走っている時のような力強く、早いビートを刻んでいる。
レースまであと30分。
あたし達の戦いまで、あと、30分。
◆◆◆
ほど子ちゃんは集合時間ギリギリにやってきた。
その顔には玉のような汗が浮かび、息も上がっている。
「ほど子ちゃん、おはよう」
「おはようございます、彼方さん。空ちゃんも、おはよう」
「おはよう……です」
ほど子ちゃんが息を整えるのを待って挨拶を交わしたあたし達は、誘導員の指示に従ってスタートラインの前に並ぶ。
並び順は向かって左側から、空ちゃん、空ちゃんと同じぐらいの体格の小柄な女の子、ほど子ちゃんと同じぐらいの標準的な体格の子、ほど子ちゃん、そしてあたしである。並び順は多分、年齢順。
あたしは隣に立つほど子ちゃんに、ちょっと気になったことを尋ねた。
「かなり激しいウォーミングアップをしてきたみたいだけど、脚とか大丈夫なの?」
ほど子ちゃんは透明なレンズが嵌めこまれたアイウェアの奥から、あたしに笑顔を返し、
「最初からハイペースでのレースが予想されるので、結構頑張ってアップしたんですよ」
と、そう教えてくれた。
なるほど、最初から高い負荷がかかるから、その負荷に身体を慣らしておいたというわけか。ほど子ちゃん、本当にレース慣れしてるなあ。
感心していると、あたしが並んでいるのとは逆の列の端に居る空ちゃんが、その場に自転車を置き、スッとほど子ちゃんの前にたった。
「負けない……です」
「わたしだって、負ける気はないです」
交わされた言葉はそれだけ。ただ、それだけだった。
でも二人にはそれで十分らしく、ふたりはコクリ、と頷いてから元の場所へと戻る。
それを見て、本当に、今日これからの出来事が上手く行けばいいのにな、と、あたしはそう思ったのである。
◆◆◆
スタートのカウントダウンは残り3分から始まった。
あたしは自転車のトップチューブに跨り、しかしまだペダルに脚はかけない。それは他の選手達も同様である。
「あと1分でスタートです、準備はよろしいでしょうか」
誘導員、兼スターターの男の人のその言葉に、あたしはようやく腰を上げ、右足のクリートをペダルへと嵌めこむ。バネの強さを固めに設定してあるペダルから、バチン、と、気持ちのいい音がして右足がペダルに嵌る。
「あと30秒」
あたりは静寂に包まれる。どうやら今回はスタート時に音楽などもかからないようである。
たったそれだけのことなのに、あたしの心のなかでは不安が大きくなっていく。
「15秒前」
口から心臓が飛び出そうなのを必死にこらえ、腰をサドルの上へと据える。
「10秒前」
隣のほど子ちゃんは至って落ち着いている。だが、それは気が抜けているとかそういうことではなく、彼女はただひたすら真っすぐに、前を見つめていた。
「5秒前」
スーッ、ハーッ、と、大きく深呼吸を行い体中の筋肉をリラックスさせる。緊張したままスタートすると筋肉の断裂につながるおそれがあるからだ。
空ちゃんの様子は、間にいる人達に阻まれて伺うことが出来ない。
「4」
冷たい風があたし達の間を通り過ぎる。
「3」
カウントダウン以外は何も聞こえなくなる。
「2」
視線を上げ、コースを見つめる。
「1」
スタート直後の加速に備えハンドルを持つ手にぎゅっと力を込める。
「スタート!」
スターターの声と、そしてプォーンと鳴り響くスタートの合図。
あたし達はそれが聞こえた瞬間にペダルにクリート嵌めこみ、走りだす。
まず先頭に出たのはスムーズにペダルをはめ込んだほど子ちゃんであった。
彼女はあたし達、同一グループの走者達がペダルにクリートを嵌めこむのを確認してから、そのポジションを下ハンを持つ、スプリント体勢へと変える。
あたしは慌てて後ろを伺い、そこにきちんと空ちゃんが付いて来ているのを確認してから、同じように下ハンへとハンドルを持ち変える。
それとほぼ同時、ほど子ちゃんは猛烈なアタックを行った。いや、それはもはやアタックなどという生易しいものではなく、既にスプリントといっても良いシロモノであった。
下ハンを持った彼女は腕、腹筋、背筋、臀筋、そして足の筋肉をフルに使い、猛烈な加速を行なっていく。
勝てるのか?これに?
そんな思いが一瞬脳内を駆け巡る。が、あたしはその思いに対して、シッティングのまま行う加速で応えた。
下ハンの中頃を持って行う、体重を使ったゆっくりと、だが徐々に伸びていく確実な加速であたしはほど子ちゃんを追走する。
瞬間の加速のみで、既に巡航体勢に入っていたほど子ちゃんにはすぐに追いついた。
ほど子ちゃんは、あたし達を見てニコリ、と、笑う。その顔にはまだまだ余裕が感じられる。
「…………ッ!!」
次にアタックを行ったのは標準体型で、オレンジ色のジャージを着た女の子であった。
彼女は先程ほど子ちゃんが行ったように、全身の力を使って、まるでここがゴール前であるかのようなアタックを行う。
あたしの前を走るほど子ちゃんは、だが、落ち着いて、ゆっくりとペースを上げていきそのアタックを確実に潰していく。
今はどれぐらいの速度が出ているのか、あたしには既にサイコンを見る余裕もない。
あたしが今行なっていること、それはただ、ほど子ちゃんを完全にマークし、可能な限り空気抵抗が少ない位置を見つけ、そして後ろについて来ている空ちゃんを風圧から守る。ということだけである。
だが、のっけからのハイペースで、ただ、それだけのことが恐ろしく難しく。そして、ひたすらに体力と、脚力を持っていかれる。
チラリ、と、後ろを振り返る。
大丈夫、空ちゃんはしっかりと付いて来ている。
なら、やれるはずだ、あたしは。
平坦区間で行われた3度目のアタックは、再びほど子ちゃんであった。
彼女は今度は、共に走る走者4人の反応を確かめるかのように、グッとペースを上げる。
あたしはそれに遅れないようにペダルを踏み込み、ほど子ちゃんの後ろをしっかりとキープしていく。
間髪置かず、4度目のアタックが行われた。
おそらく、これが本命のアタック。
そう思わせるほどにそのアタックは強烈で、あたし達はほど子ちゃんとの距離をぐんぐんと離されていく。
これは、マズイ。
思うよりも先に足のほうが動いていた。あたしの脚は後のことなど考えずに、ガッ、ガッっとペダルを強く踏み込み、そしてガン。ガン。ガンと、3段階のシフトアップを行なって、なんとかペースを上げにかかる。
だが、ペースはどんどん上がっているはずなのに前のほど子ちゃんとの距離が縮まらない。
なら、なら、それならっ!!
あたしは腰を上げ、ダンシングの体制に入る。そしてそのまま空ちゃんを守りつつも、さらなる加速を行った。
でも、それでも差は少しずつしか詰まらない。このままでは先にあたしの体力が尽きてしまう。それは、非常に良くない。あたしにはまだやるべきことが残っているのに。
と、そんなあたしの目の前に2つの影が躍り出た。
それは、あたしが引っ張っている空ちゃんのさらに後ろに付いて来ていた二人の出走者達である。
「回して! 何としてでも追いつくの!! あの子、去年もこの区間で全員を引き剥がしてそのままっ!!」
言いつつも先頭に踊りでたオレンジのジャージの彼女はダンシングで藻掻き、あたし達4人で形成される縦一列の集団のペースを上げ、そして集団の後ろへと下がっていく。
チラリ、と後ろを伺うと、そのオレンジ色のジャージは、下を向いて、何とか付いて来ているといった様子の空ちゃんの前へと入った。
次に集団の先頭に立ったのは小柄な、赤いジャージの女の子である。
彼女もオレンジの子のように、ダンシングでもがき、ペースを上げ、そして後ろへと沈んでいく。
再び先頭に立ったあたしには分かる、未だ全力で脚を回し続けているほど子ちゃんとの距離が、確実に、しっかりと、詰まってきていることがだ。
これが、集団の力。強大な個人に対抗しうる力。
あたしも前の二人に習ってダンシングでもがき、しかし10秒程度で力尽きて後ろへと下がり、空ちゃんの前へと入る。
「ハァッ……ハァッ……ハアッ……」
無酸素域での加速を終えた途端、身体中が酸素を求めて暴れだす。
心臓が、血管が、肺が、その能力を全て使ってあたしの全身へと酸素を送り込む。
だが、集団は加速をやめない。集団はあたし達の体力を削り続けながらも加速して、加速して、そしてついに、平坦区間の終わり際でほど子ちゃんへと追いついた!
ほど子ちゃんがここでついに、少しだけ苦い顔をする。彼女の予定では、このタイミングであたしたちに追いつかれるという展開はありえなかったのだろう。
だが、あたし達はそれを成した。1人対4人という構図ではあるが、それを成したのだ。
ならば、次はあたし達が攻撃に出る番である。
そしてあたし達はここから延々と続く10%の上り区間へと入る。
本当の勝負は、ここからだ。
◆◆◆
上り区間に入って1分ほど、ほど子ちゃんに追いつき5人となった集団はおとなしく、縦一列となって走行していた。
順番は前から、ほど子ちゃん、あたし、空ちゃん、オレンジジャージの子、赤いジャージの子である。
傾斜が10%ともなれば速度が落ち、空気抵抗も殆ど関係ない。だが、それでもほど子ちゃんは一般的には不利とされるポジション、即ち先頭に居た。
山では、目の前に何か、いや、誰か目標となるペーサーが居るだけで心理的に非常に楽になる。逆に、後ろに誰かが付いていると前にいるものは振り切るためにペースを上げ、そしてオーバーペースで自滅してしまうことすらある。だから、山では前にいるほうが不利なのだ。
だが、ほど子ちゃんは前を引き続ける。
この時点で、あたしとほど子ちゃんの力の差は歴然であった。
彼女はペースを乱さず、シッティングで淡々と登り続ける。
対して、練習の時とは比較にならないハイペースに、あたしは呼吸を乱しながらもダンシングを交えたクライミングで必死で食らいつく。
既にあたしは、後ろに空ちゃんがきちんと付いて来ているかの確認すら出来なくなっていた。
でも、あたしは信じている。空ちゃんがしっかりと、付いて来てくれていることを。
そして登りに入ってから、初のアタックがかかった。
仕掛けたのは赤いジャージ、彼女はダンシングで、自転車を左右に振りながら一気に集団から飛び出し、そして集団から15mほど離れるとそのままペースを維持、一人旅に持ち込もうとする。
だが、集団を引くほど子ちゃんはそれを許すほど甘くはなかった。
一見集団はペースを変えていないようで、しかし、先頭を行く赤ジャージの子との距離は段々と詰まっていく。
アタックはまるでアリ地獄に落ちたアリが飲み込まれてしまうように、確実に、そしてアタックをかけた選手を追い越していくという念入な潰され方をする。
アタックをかけた女の子は、そこで力がつきたのか、心が折れたのか、ズルズルと集団から離れていった。
ここまで来ると、あたしだっていつあんな風に集団から遅れていくかわからない。だって、もう足の筋肉はガチガチに張り詰めていて、これ以上動かすと血が吹き出そうなほどに痛いのだ。
レース開始から僅か15分。既にあたしの勝利はフィジカル的に、ありえないものとなっている。
だが、それでもいい、あたしは“あたしに出来る事”をやるだけだ。
レースはそのままほど子ちゃんが完全に集団を支配下に置き、そのプレッシャーにより誰もがアタックを仕掛けることのできないまま、最初の10%区間も残り僅かとなる。
そして中腹の5%区間が見えてきたその瞬間、ほど子ちゃんは再びのアタックを仕掛けた。
登りなのに、まるで平坦を走るかのようなスピードでほど子ちゃんは加速し、四度、あたしたちを突き放しにかかる。
ここで離されてはいけない。ここで離されてはいけないのだ。だって、あたしは……。
あたしは脚から聞こえてくる痛みという警告サインを無視し、身体を大きく前につきだしたダンシングでほど子ちゃんを追う。
あたしの後ろの気配が1つ減った。それは、空ちゃんのものか、それともオレンジのジャージを着た子のものなのか。気になる。でも、気にしていても仕方がない。
あたしはやれることをやるだけである。
「ぐっ……あっ……」
脚が痛い、膝から骨が、皮膚を突き破って飛び出してきそうな痛みだ。
だけど、あたしはそれを無視し、吠える。
「だあああああああああああああああっ!!!!!」
10%区間の終わりまで、必死で距離がそれ以上離れないように食らいつく。
そして5%区間に入り、ほど子ちゃんとの距離は詰まり、詰まり、詰まり。
そしてあたしはほど子ちゃんの真後ろにピッタリと張り付くことに成功する。
でも、そこまでだった。
そこが、あたしの限界だった。
短かった5%区間はあたしがほど子ちゃんに追いついたすぐ後に終わり、コースは一旦、下りへと入る。
あたしはそこで脚を回すことも出来ず、ただただ、ほど子ちゃんの後ろを慣性と、重力に任せて下っていくだけである。
幸い、前日に雨が降って路面がウェットだからか、ほど子ちゃんは下りではペースを上げようとはしない。そのため、あたしはなんとかその後ろから離れず、ピッタリとくっついたまま下ることができていた。
だが、あたしにはもう、登る力は、ない。
ッはぁ……ッはぁ……と、呼吸の音だけが聞こえてくる。
限界まで、力を絞り切った身体は視界を維持することすら出来ず、あたしはただ、重力に引っ張られ、落ちて、ゆく。
もう、こんなものでいいかな。
そんな考えがあたしの脳内をよぎる。
あたしは十分頑張ったじゃないか。ほど子ちゃんを徹底的にマークして、ここまでしっかりとついてきた。きっと、あたしの後ろで勝負の機会を伺っている空ちゃんだって十分に脚を温存できただろう。ここから先の斜度15%の激坂でだって、しっかりと、いい勝負をしてくれるに違いない。
だから、もういいじゃないか。
あたしはここで足を止めてリタイア。そして空ちゃんはほど子ちゃんと戦って、いい勝負になって、勝っても負けても友情が芽生えてハッピーエンド。
それで、いいじゃないか。
そう、自分の中で結論を出してあたしは坂を下り続ける。
はぁっ……はぁっ……。
決めてしまうと緊張の糸が切れたのか、あたしの身体は全身から、痛みという名の警告サインを送ってくる。
ダンシングをするために必死にハンドルを引き付けるために使った腕が、肩が、広背筋が。
なるべく空気抵抗を少なくするようにと小さく身体を畳む時に使った腹筋が。
そして、苦手な登りでほど子ちゃんについていくために酷使した脚の筋肉が。
身体中、まるで寒さに凍えているかのようにガタガタと震えていた。
ああ、でもこんなに辛いのももうおしまいだ。
後は、空ちゃんに任せてあたしはここでリタイア。
これでようやく、楽になれる……。
そう思い、景色がブラックアウトしてほとんど見えなくなっていた目を一旦閉じ、そして大きく息を吐く。
「彼方―っ!!」
目を開けると同時、大きな声が聞こえた。
それは、あたしの名を呼ぶ声。
「かなちゃーんっ!!」
そう、これは、いつだってあたしを傍で支えてくれた両親の声。
「ゴールまで後少しだぞーっ!! 頑張れ彼方ーっ!!」
頑張れって、お父さん、あたしはここまで必死に頑張ってきたんだよ?
「顔を上げてーっ!! 頑張ってーっ!!」
お母さんまで、そんなことを言う。
「彼方―っ!! 優勝はすぐそこだーっ!! L・O・V・E・ラブリー彼方―っ!!」
お父さんったら、本当に、なんて恥ずかしい応援をしてくれるのだろう。車の中でやめてと言ったのが聞こえていなかったのだろうか? ああ、いや、あれは確か車に施すマーキングの話か。
「彼方ーっ!! 彼方ーっ!!」
あはは、もう、全くお父さんったら……。
あたしは顔を上げ、前を見据える。
下り区間はもう数十メートルしか残っておらず、目の前のほど子ちゃんが、そしてあたしも減速を始めている。
コースとその他をを隔てているコーステープの向こうには、お父さんと、お母さんの姿。そうか、あそこから声を届けてくれていたのか。
「彼方ーっ!! ファイトだ彼方ーっ!!」
「空ちゃーん!! 頑張ってーっ!!」
そしてあたし達はコーステープにそって180度反転し、再びの登り。15%区間の前哨戦である斜度10%の区間に入った。
「彼方ーっ!! 彼方ーーっ!!」
本当に、本当に恥ずかしい父親である。
あそこまで応援されたら身体が限界でも、心が折れそうでも、それでもあたしは戦うしかないじゃないか。
ほど子ちゃんはダンシングで加速を行うつもりか、腰を上げようとしている。
それを見たあたしは後ろを振り返って空ちゃんの姿を確認し、こう宣言する。
「勝つよっ! あたし達っ!」
空ちゃんは一度目を大きく見開いた後、うんっ、と、力強く返事をしてくれる。その目に宿るのは、今朝までの不安そうな色ではなく、ただただ、力強い闘志の炎だ。
「そう簡単に、勝たせはしませんっ!」
そう言って、ほど子ちゃんが加速していく。
あたし達もこんなところで遅れる訳にはいかない。
でも、身体は、特に何度も行ったダンシングによって上半身はもう限界、ハンドルを握るのがやっとである。
じゃあどうするか?
決まっている、足の力だけでクランクをぶん回せばいい。
あたしは太腿と、そしておしりの筋肉を使ってペダルを強く、強く、今日一番強く踏み込む。反転するために減速していた車体が、あたしの身体が、グンッ、と、加速する。
15%区間まではあと2分というところだろうか。
じゃあ、もうどうにでもなれ。
あたしは左の変速レバーを中指で二度、クリックする。
ガンッ。ガンッ。と、大きな音を立ててペダルが重くなる。が、それも無視して更に踏み込む。
一瞬だけ離れたほど子ちゃんとの距離が詰まる。
これでよし。
そんなわけない。
なんと言ったって、あたし達は勝つのだ。この程度で満足して入られない。
そしてあたしは、左手を使い、変速レバー兼用となっているブレーキレバーを大きく、内側へと倒しこむ。
ガギリッ、と、無茶な変速にチェーンが嫌な音を立てる。
だが、それも無視してあたしは右足を精一杯、体重も力も勝ちたいという気持ちも、全てを込めて踏み下ろすっ!
ガッ、と、そんな音が聞こえた。
あるいはそれは幻聴だったのかもしれない。
音とともに、チェーンがアウターへと掛けられたクランクは回転し、あたしは今のあたしにできる最大限、そして今日一番の加速を行う。
そして今日のレース中はじめて、あたしはほど子ちゃんの前へと出た。
その時のほど子ちゃんの顔はどうだっただろうか。
驚いていただろうか?
それとも想定の範囲内とでも言うにっこり笑顔だっただろうか?
前しか見ていないあたしには、わからなかった。
自分の後方に居た気配がない。おそらく空ちゃんはあたしのアタックの意図を察してくれ、ほど子ちゃんの後ろへとついたのだろう。実に堅実な走り。あたしと同じ初心者とは思えない判断力である。
あたしはほど子ちゃんを1センチメートルでも、1ミリでも突き放すために強引にペダルを踏みつけ続ける。
今日ばかりは、苦手な山がまるで平坦のように見えた。
後ろでチェーンが落ちる音がする。ほど子ちゃんがあたしを追撃するために、ギアを一段重いものに入れ替えたのだろう。
だが、あたしはフロントをアウターにまで入れたのだ、その程度のシフトアップで追いつかれてたまるものか。
あたしはペダルを踏む。踏む。踏みつける。
痛みとか、苦しさとか、そんなのはもう感じない。
ただ、踏むだけだ。
そしてついにほど子ちゃんを突き放したあたしは、それでもペダルを踏み続ける。
それはこのアタック、ほど子ちゃんにチャージ(追走)を行わせ、そして消耗させるという作戦が成功したことを意味している。
斜度10%の斜面を駆け上がり、右に曲がり、左へ曲がり、そして直線をガン、ガン、と登っていく。
15%の激坂まではあと300mぐらいだろうか? 気を引き締めなければならない。
と、そこで強引に、力づくで引き剥がしたはずの気配が、後ろに現れた、現れてしまったのだ。
振り返らずにはいられなかった。多分、そうさせてしまうのが強者のオーラというものなのだろう。
振り返ると、僅か5mほどの至近に彼女、ほど子ちゃんは迫ってきていた。
後ろにピッタリとひっついてきている空ちゃんを気にも掛けず、彼女はただ、あたしと、そしてそのさらに先のゴールを見据えて、瞬く間に距離を詰めてきた。
そしてあたしに並んだほど子ちゃんは呼吸を荒げながらも一言だけ、あたしに語りかける。
「彼方さんがここまで走れるとは、正直思っても見ませんでした」
そうだろう、あたしだって思わなかった。ここまで戦えるだなんて。戦うことがこんなに苦しいだなんて。
あたしはほど子ちゃんに言葉を返さない。荒い呼吸により返すことが出来ない。
だから、あたしはその言葉に対する返答を、行動で示した。
ガンッ、と、ギアを更に一段上げる。
重くなったペダルに瞬間的に速度が落ちる。そのことにより一瞬だけ、ほど子ちゃんの先行を許すが、でもあたしは堪えて、堪えて、色んな物を堪えて、脚を、踏み込んだ。
まだだ、まだ加速できる。
そんな思いだけで、あたしは加速をつづける。
当然、ほど子ちゃんがあたしの先行を許すはずもない。彼女もあたし同様ギアを上げ、さらなる加速を行う。
既に状況はゴールスプリントのような加速勝負となっていた。
あたしも、ほど子ちゃんも、まるでこの10%区間の終わりがゴールだとばかりに加速していく。
やはりほど子ちゃんは強く、あたしはほど子ちゃんの強烈な加速に引き剥がされる。だけど、あたしは脚に込める力を緩めず、その後ろを追撃していく。
そしてその数メートル後ろを、淡々と、しかし離れすぎないように自分のペースを守って走る空ちゃん。
状況は理想的だった。
だから、あたしはペダルを踏む。踏む。
わずかながらに残っていた何かをすべて、吐き出すかのように。
酸素が足りない。
視界が再び黒く染まっていく。
激坂区間までは後どれぐらいなのか、わからない。
ほど子ちゃんも、あたしも、限界を迎えたのかだんだんと速度が落ちてきているような気がする。
だけどあたしは脚を止めない、緩めない。
そしてついにその時がきた。
斜度の変化により、あたしの脚に掛かる負荷が一気に増す。
湊子の言っていた通り、ここが勝負どころなのだ。
だからあたしは叫んだ。
あたしの力と、そして勝利への気持ちを託して。
「空ちゃん! 行って!!」
その言葉にあたしの後ろから弾けるように現れる緑色の旋風。
そう、あたしが今日ずっと戦ってきた理由。
そして、今日のあたしにできる精一杯のアシストによって、ここまでアタックするための脚力を温存していた空ちゃん。
大空空なのである。
彼女はあたしのことをちらりとも見ず、さっきのほど子ちゃんがそうであったように、眼の前に居るライバル、ほど子ちゃんと、そしてゴールを見据えて飛び出した。
それを見届けたあたしは、今度こそ、今度こそ限界を迎えた身体からのサインに従って、自転車にまたがったまま、その場にバタリ、と、倒れこんだ。




