第三話 試走
第三話 試走
目が覚めてもあたしの身体は動かなかった。
「って、どういうことなの……」
あわてて、と言っても寝起きなので、テンション低めにあたりを見渡すと、その理由はすぐにわかった。
まず、あたしを後ろから抱きしめている……というか、羽交い締めにしている湊子。
そして、あたしの正面から、あたしの胸に顔をうずめてすやすやと気持ちよさそうに眠っている空ちゃん。湊子を挟んだ向こうで寝ていたはずなのにこっちに居るということは、夜中にトイレにでも行って来たのだろうか?
「んっ……」
空ちゃんが小さく口を開けて声を漏らし、そしてそのままあたしの胸をパクリ、と咥えた。
「って、ちょ、ちょっと待って空ちゃん! それはやり過ぎだって!!」
慌てて叫ぶが、空ちゃんが目覚める気配はない。それどころか、そらちゃんはもぐもぐ、と、その口を小さく動かし始めたのだからたまらない。
「ちょっ……まって……んっ……ひあっ……!?」
あたいは変な声を出しながら、この状況から抜け出すためにせめて湊子の拘束を解こうともがく。と、耳元で声が聞こえた。
「随分なつかれたじゃない。今の状況、本望じゃないの?」
言うまでもない、湊子である。というか、この女めさっきから起きてたな?
「あの、起きてるんなら放して欲しいんだけど」
「やだ」
「やだって……」
「いや、だって面白そうじゃない? 彼方ってば、これから空ちゃんにどこまで過激なことをされちゃうのかしら」
「されないからっ!」
言って、再び湊子の腕から逃れようと身体をよじる。
そんな間にも空ちゃんは口をモグモグと動かし、わたしの乳房を刺激してくる……って、だめだ! これ以上は本当にダメだ!
だがしかし、あたしの受難はこの程度では終わらない。今度は胸ではなく、耳からゾクゾクとする刺激が来た。ヌメッとした何かが、あたしの耳腔をほじり返すように刺激する。
「って、だから湊子何やってるの!?」
「いやあ、最近スキンシップ足りてなかったから、彼方が寂しがってるかなと思って」
「思ってないから! というかそんな耳元で話されると……ひうっ!?」
湊子の唾液で湿った耳に息を吹きかけられ、ビクリ、と震える。
「んっ……」
幸か不幸か、その振動があたしの胸を伝わり、空ちゃんがそんな声とともに目を半分だけ開いた。
「お、おはよう?」
「……おはよう、です」
返事こそ帰ってきたものの、空ちゃんはまだ寝ぼけているのか、ふにふにと、あたしの胸を掴んだ両手を動かしている。
「あの……そろそろ放してくれると助かるんだけどな……?」
ダメ元でお願いをしてみる。すると、空ちゃんは二度三度、確かめるようにあたしの胸を揉んだ後に目を見開いて、
「これは、違う、です」
そう言ってあたしからバッと離れた。
「えっと、違うって何が……?」
「断じてボクはおっぱいさんに甘えていたわけでは……って、お姉さま、何をしているのです?」
「え?いや、ホラ、空ちゃんが放しちゃったからうちがこの乳を支えてやらないとと思って」
◆◆◆
3人が起きてから、まだ朝6時という早朝だったけれど、うちらは予定通り、再来週に控えている高取城ヒルクライムレースの試走に行くことにした。うん? まあ確かにあの後彼方にボコボコにされたけど、それは覚悟の上よ? 女の子のスキンシップはそれぐらいじゃあないとね。
「二人共、準備はできた?」
「うん、大丈夫だよ」
「問題なし、です」
まだまだ自転車に乗り始めたばかりで、何をするのも楽しいんだろう、彼方と空は元気よく答えてくれる。よしよし、そうじゃないと。自発的に自転車を始めた空ちゃんはともかく、うちが半ば無理やり引きずり込んだ形になった彼方に対して、申し訳ない気分になっちゃうからね。
「それじゃあコースだけど、金剛山を越えていくコースと水越峠を越えていくコース、ちょっと遠回りだけど穴虫峠で楽をするコースのどれがいいかしら?」
「穴虫峠!」
彼方のそんな返事に、うちと空は顔を見合わせ、はぁ、と嘆息する。
「まあいいわ、楽なルートを通って行ったとしても、向こうで何回も登り直せばいいんだからね」
「です。何回も試走が出来ると、ここは前向きに考えるべきです」
「え、なに? あたしなにかまずいこと言った??」
「彼方はヘタレねって言ってたのよ」
「ちょっとそれは酷くないかなっ!?」
「はいはい、そうかもしれないわね。とにかく、行くわよ。コース周辺にはコンビニがあったはずだから、そこまでノンストップでね。あたしが引っ張るからちゃんと付いて来なさいよ」
「了解、です。ボクは平地巡航が苦手なので、しっかりとお姉さまのおしりを見ながら頑張る、です」
「お尻って……そこは背中じゃないの?」
「…………」
「なんであたしから目をそらすのかなっ!?」
「あんた達元気ねえ」
そう、元気で、いい子。だから、うちは彼女らに体験させなければならないと思っている。
何を? 決まっている。友逹と手を組んだ時、うちらは格上の相手にだって勝てるのだということをだ。
だから、今日は仕込みをしておいた。
「うん、じゃあ行きましょうか」
うちはそう言って自転車にまたがり、右足のビンディングをパチリとはめ込む。そしてそのまま右足を踏み込んで走りだし、左足のビンディングもパチリと、はめ込む。
これでいくらスプリントでもがいても、いくら全力で山を登っていても足がペダルからずれたりしない、安全なサイクリングが保証されるというわけだ。ちなみに、外すときは脚を内側か外側に思い切りひねればよい、それだけで脚はペダルからぱちんと外れる。本当に、誰がこんなに便利なものを開発したんだか。
初心者である彼方達のウキウキとした気分に当てられたのだろうか、あたしはそんな風に、久々に機材に対して思いを侍らせ、そして脚を踏み込み、風を切って走りだした。
◆◆◆
最初の通過地点、穴虫峠までは二人共何の問題もなく付いて来た。
この2ヶ月弱で二人共大分走れるようになったと思う。まあそれはまだまだ条件付きでの話だが……。昨晩から登りが苦手だという話をしていた彼方もこの程度、ちょっとした丘程度の斜度と距離の上りならば、遅れることなくついてくる。いや、もしここでうちがアタックをかけたら流石について来られないだろうけど。
「いやー、それにしても、ついこの前まで奈良県って隣県の割りには山があって行きづらいなと思ってたのに、今だと30分もあればついちゃうんだね」
「そうですね。でもまあ正直、奈良県に行った所でボク達が楽しめるようなことはないのですが」
「え? あるじゃん! 自転車!!」
「それはどこででも楽しめる、です」
「あんたら、そんなにおしゃべりする余裕が有るのならもうちょっとペース上げとく?」
そう言って二人をビビらせ、走ることに集中させる。
いや、あれよ? ほら、おしゃべりに夢中になって事故とか起こしたら大変だからね、二人共初心者同士楽しそうで、何年も乗っているうちが仲間はずれみたいだからジェラシーを感じたってわけじゃないのよ?
◆◆◆
そのまま山沿いを30分、そして平野に降りて更に30分程度で高取山付近の道の駅……を通り越し、コンビニへと到着した。いや、だって、ここの道の駅は人が多いから待ち合わせには適さないからね。というか、道間違えずに済んでよかったー。
うちが走り慣れてると言ってもこっちの方にはめったに来ないし、だからと言ってこの子たちの前で道を間違えるのも恥ずかしいしいからね。
さてさて、二人は30km強をノンストップで走ってきたからか、飲み物や食べ物を買うためにコンビニへと入っていった。うちも右腕につけたランナーズウォッチ(インターバルタイマーがあるのでトレーニングに便利なのだ)をちらりと見て、まだ待ち合わせ時間までは余裕が有ることを確認してから、ヘルメットとアイウェアを外してコンビニの中へと入っていく。5月の中頃、既に稼働している冷房がひんやりと、運動によって火照った肌を冷やしてくれる。
「空ちゃん空ちゃん、ガツンとみかん美味しいよね!」
「ボクはギュギュッとのほうが好み、です」
「あんたら、自転車にのる前にアイス食べると内臓が冷えて後が辛いわよ」
「だいじょーぶだいじょーぶ!」
「ボ、ボクはやっぱり山を登ってからにするです」
うん、自転車はじめて2ヶ月近く立つというのに彼方のお腹が凹んでいないのはきっと練習中に食べ過ぎているからだと思う。こないだも、練習中にお菓子類を色々食べていたし、この調子だと、何時まで経っても山では空に負けっぱなしだろう。
あたしは苦笑して彼方達の後ろを通り過ぎ、スポーツドリンクのペットボトル(1リットル入りのものだ)だけを手に取り、レジで勘定を済ませてから外に出た。
自転車に2本刺さっているボトルの中身を補充し、入りきらなかった分はその場で飲んでしまう。冷たいスポーツドリンクが喉を潤す感触が気持ちいい。あー、でもあと1ヶ月もしたら、15分ぐらいでにぬるくなっちゃう時期になってしまうのよね、これ。
「湊子湊子! ピノがあったよ!」
ペットボトルをゴミ箱に突っ込んだところで彼方と空が揃って出てきた。それにしても空ったら、彼方のことを邪険にしているような事を言っておきながらも彼方のことを気に入っているようで、彼方に友達がいないことを心配していたうちとしては嬉しい限りである。
「って、結局アイスを食べるのね……」
「まあまあ、ほら、湊子も食べなよ」
そう言って彼方はピノを一粒、付属のピックで突き刺してうちの口の前へと持ってくる。
「はい、あーん」
えっと、あーんって……いや、確かに昔も今もよくやるけれど、それは大抵うちが彼方にやることなので、思わず身構えてしまう。
「あーん」
彼方の斜め後ろに居る空に視線を送ると、空は何かを期待したような目でこっちを見ている。って、この子は本当に何を期待しているのかしら……?
仕方がなく、いや、嫌ではないのだけど、恥ずかしさで顔を火照らせながら、うちは彼方が差し出したピノをその口の中に収める。
冷たくて、そして甘いチョコの味が口の中に広がり、続いてふんわりとした甘いバニラの風味が口内を満たす。久々に食べたけど美味しいわね、ピノ。
「空ちゃんも食べる?」
「もらう、です」
彼方は空ちゃんともピノを分けあい、二人でキャッキャしている。うん、こう見るとちょっと歳の離れた姉妹って感じでなかなかにお似合いかもしれない。いや、何がお似合いなのかはうちにもさっぱりわからないけど。
そうしてコンビニの前で休憩、いや、一部遊んでるのがいるけど、休憩をしていると、道の向こうにチラリと緑のヘルメットが見えた。ああ、やっときたか……って、時間ピッタリね、そのへんは流石と言うべきか。
その姿はみるみるうちに近づいて来、そしてロードノイズを響かせて、うちの前でピタリと止まった。
「お久しぶりです、湊子先輩」
「ん、久しぶり」
マットブラックに塗装された自転車にまたがり、2本の三つ編みを揺らしながらヘルメットを脱いだその少女は、うちの後輩で現自転車部部長、中川ほど子であった。
◆◆◆
「お久しぶりです、湊子先輩」
そんな声とともに現れたのは、あたしの知らない女の子であった。
先輩ってことは、湊子の後輩だよね? そういえばあたし、湊子の友達付き合いとか全然知らないなあ……。
そう思いながら新たな登場人物を眺めていると、彼女は不意にこちらへと振り返り、
「平先輩ですよね、はじめまして」
そう言って、ペコリと礼儀正しくお辞儀をしてくれた。
「え、えっと、その、はじめまして……?」
うん、先輩ってことは中学か高校の時の後輩なんだろうか? はじめましてという言葉の通り、あたしには全然見覚えが……いや、どこかで見たような……?
その子はあたしの次に、空ちゃんと挨拶を交わす。
「空ちゃんも、おはようございます」
「おはようございます……です」
うん? 空ちゃんは挨拶を返しながらもその目はわずかに、三つ編みの彼女からそらしている。空ちゃんが人見知りだというのは何となく分かるんだけれど、知り合いではあるみたいだし、なんなんだろう??
頭の上にクエスチョンマークを浮かべていると、いつもの様にそれを察してくれた湊子は、三つ編みの彼女に対して自己紹介をするように促す。すると、彼女は焦ってこちらを向き直して自己紹介をしてくれた。
「す、すみません、てっきり湊子先輩がわたしのことを話してくれているのかと思いまして。わたしは湊子先輩の自転車部の後輩で、現在部長を務めさせていただいています、中川ほど子といいます」
部長……?
「あ、ああっ! 初心者ヒルクライム大会の時に空ちゃんと一緒にいた子だ!」
道理で見覚えがあるわけである、いや、まあチラリとしか見ていないんだけれど。
「えっと、つまり部長ってことは、空ちゃんと初めて会った時に空ちゃんが迷惑を掛けたくないって言ってたのは……」
後ろの空ちゃんへと振り返ると、空ちゃんは決まりが悪そうに、です、とだけ言い、あたしの背中にピッタリとひっついてしまった。その表情は、あたしから伺うことは出来ない。でも、そうか、この子が空ちゃんが“自分が練習についていくと遅いから迷惑になる”と言ってしまう原因になった子か。
うーん、でも、見た感じこの子は優しそうだし、失礼ながらどちらかというと文化系?っぽい見た目でそんなに速くなさそうなのだが……?
ほど子ちゃんを観察していると、パチン、と目が合ってしまった。思わず目をそらしてしまい、視線のやり場がわからなくなり困ったあたしは、自分に抱きついている空ちゃん(のつむじ)を経て、再びほど子ちゃん、と視線を彷徨わせた挙句、最終的に湊子をロックオンする。ロックオンされた湊子はやれやれ、とでも言った感じで手をひらひらさせて、
「実はほど子から相談を受けててね、未だに空が一緒に走ってくれないって。だから、今日は一緒に走ってもらおうと思ってほど子を呼んでおいたわけ」
そんなことを白状したのであった。
うーん、でもそれって、ちょっと強引じゃないのかな? あたしの後ろに隠れた空ちゃん、ほど子ちゃんから視線を逸らしてるみたいなんだけど。
そう思って疑惑の視線を湊子に送ると、湊子は“いいのよ、ちょっと強引なぐらいで”と、そんなアイコンタクトを送ってきたのであった。うん、というかすごいなアイコンタクト、流石幼なじみ。
「えっと、空ちゃん、今日だけでいいから、わたしと一緒に走ってくれないかな……?」
だがしかし、いきなりウラをぶっちゃけられたほど子ちゃんはかなり困り気味のようで……湊子、本当にこれでいいの?
まあでも、結局は空ちゃんが折れる形になり、今日だけは空ちゃんはほど子ちゃんと一緒に走ることとなった。うーん、本当にいいのかな、これで。
◆◆◆
ほど子ちゃんの飲み物補給が終わり次第、あたし達はコースのスタート地点へと移動した。
と言っても、そこはコンビニから数百メートルしか離れていないので、要した時間はわずか2~3分である。
「で、ここがスタート地点なんだよね?」
あたしたちが立つのは消防団の詰め所前なのだが、
「湊子、山はどこ?」
そう、見た感じ、どちらかと言うとそこは平地であった。
「ボクが事前に見たコースプロファイルだと、3km程度平坦が続いて、それから本格的な上りがはじまるみたい、です」
「でもさ……3kmで山にたどり着くのかな……」
「えっと、大丈夫です。わたし、去年も走りましたけどきちんと山ですよ、それも結構斜度がきつい」
「ほど子は去年女性部門で優勝したのよねー」
「優勝!?」
「そうよ。だから、おとなしそうな見た目だからって舐めてかかると痛い目にあうわよ」
確かに、人は見た目によらないというが、優勝というのが本当ならばその言葉の通りである。可愛らしい色白な黒髪三つ編みっ娘なのに運動ができるだなんて……。
「い、いえ、先輩、わたしはトレーニング教本と、先輩のトレーニング指導に従っただけですから」
「そんなこと言って、あんた十三峠をママチャリで登り切ったじゃない」
「十三峠をですかっ!?」
ここで初めて、ようやく、やっと空ちゃんがほど子ちゃんの発言に対して反応をしてくれた。
この機を逃す訳にはいかないと、あたしは低い会話スキルを全力で用いて会話を広げにかかる。
「十三峠って、知ってるの?空ちゃん」
空ちゃんはコクリ、と頷く。その表情は驚きに満ちたもので、
「十三峠とは、大阪東部にある峠なのですが、標高差は金剛山と同程度、でも、その距離は4kmと短く、平均斜度は9%、最大斜度は15%とも言われるです」
あたしの顔も同じように、驚きにそまる。
数値だけでは分かり辛いと思うので簡単に解説しよう。まず、あなたの街にある最もきつい傾斜を思い浮かべて欲しい。その傾斜が大体斜度6%前後だ。
つまり、十三峠の平均道路勾配はあなたの街にある最もきつい坂の1.5倍の傾斜、そして傾斜が最大になるところでは2倍以上の傾斜なのである。それだけならばまだ何とかなりそうに思えるが、それが4kmも続くのである。大の大人でもママチャリで登るのは厳しいだろう。
「えっと、ママチャリで……?」
「そうよ。うちが付いて行ったんだもん、間違いないわ」
「変速機のないやつで……?」
「えっと、その、そうです……」
思わず指をさして確認すると、ほど子ちゃんはおずおずと、恥ずかしそうに頷いた。
「こらこら、人を指差すのは行儀が悪いわよ」
湊子はそう言ってあたしの指を押し下ろし、更に続けてこうも言う。
「でも、ほど子が強いのは山だけじゃないからね。平地にTTにスプリント、なんでもありよこの子は」
思わず口をぽかーんと開け、空ちゃんの方を確認する。
彼女はコクリ、と、あたしに頷いて返し、そしてこう言った。
「ほど子先輩は、天性の、いえ、天才的なオールラウンダーです」
◆◆◆
空ちゃんが黙ってしまい、それ以上は何も語ろうとしなかったので、あたし達は仕方がなく試走を開始した。
でも、数回しか一緒に走っていないって言ってたのに、ほど子ちゃんが強力なオールラウンダーだということを知っていた空ちゃんとほど子ちゃんの間には、あたしや湊子が知らない何かがあるのかもしれない。
それはそうと、
「うわっ、本当に山がある……」
「なんで今まで見えなかった……です……?」
「いやーほんと、なんでだろうねえ」
「あはは……」
目の前には車が滑らないようにすべり止めが施してある、曲がりくねった上り坂が出現していた。もちろん、滑り止め処理が施してあるということは、それだけ傾斜がきついということだ。
「えっと、ここで斜度はどれぐらい、なのかな……」
「暫くは10%前後の登りが続きますね」
すかさずほど子ちゃんが答えてくれるが、正直、最近登りに対して苦手意識を持ってきているあたしに対してそれは、死刑宣告のようなものであった。
「安心しなさい。今日は試走だし、みんなあんたについて走ってあげるから、ね?」
湊子の言葉に二人が頷いてくれ、あたしはそれに頷き、あたし達は高取山の攻略へとかかった。ゴールは頂上の高取城跡ということだが、しょっぱなからこんな傾斜だと、あたしはどうなってしまうことやら……。
ギアをインナーロー(前側のギアを軽いインナー、後ろ側のギアも軽いロー側に入れることだ)に入れ、回転数を落としてゆっくりと登っていく。
わかっていたことだが、流石に10%ともなると、きつい。10%という斜度自体は金剛山でも体験しているが、あそこは全体的に見るとなだらかで、ここまでの斜度になるのは一瞬である。なので、しょっぱなからこの斜度が延々と続くというのはちょっと勘弁してもらいたい。
うん、坂のことばかり考えているとよけいに辛いから、別のものに意識を逸らそう。そう思い、とりあえず前を行く三人のお尻をながめてみる。前から順に、湊子、空ちゃん、ほど子ちゃん、あたしと連なっているこの列。とりあえず見えるお尻はほど子ちゃんのものである。
ほど子ちゃんの、空ちゃんとお揃いの黒地にところどころ緑色で意匠が施されたレーシングパンツに包まれているおしりはスラっとしていて、本当にこの細い体のどこから、この山で優勝できるレベルのパワーが出ているのかがさっぱりわからない。というか、三つ編みっ娘のおしりがこんな風にラインを露わにしているというのはもしかしてすっごくエッチなのではないだろうか? うん、気のせいか。
次に、その一つ前を行く空ちゃんである。彼女のおしりもほど子ちゃんと同じくスマートな小ぶりタイプである。ああ、そうか、この二人はこんなにスラっとしていて身体が軽いから登れるのか。
そんなことに思い当たって、次の視界の行き先は湊子である。湊子は前の二人と比べると、どちらかと言うと小ぶりでありながらもムッチリとしたお尻をしている。って、やっぱり小ぶりなんだ……あたしはなんとなく不安になり、左手で自分のおしりを触ってみる。
むっちり
うん、湊子と同じようにむっちりしていた。問題は湊子のおしりよりも二回りほど大きなところなのだが。
「はぁ……」
思わずため息をつくと、空ちゃんが振り返った。あたしが3人についていけなくなり、遅れだしたと思ったのだろう。だから、あたしはなんとか浮かべた笑顔で、まだ大丈夫だよ、と返しておく。
空ちゃんはそれを聞き、じんわり汗の浮いた顔で頷いてから再び前を向こうとして、その表情を硬いものに変えた。
彼女はスッと、その位置をほど子ちゃんの隣にまで下げる。
「先輩、何をニコニコしているですか」
「えっ? わたしっ!?」
「他に、誰が居るです」
「えっと、いや、ほら、湊子先輩も笑いながら登ってるんじゃないかなーって」
「お姉さまのあれはニコニコ、ではなくニヤニヤ、です」
「そ、そうかなっ……?」
「…………」
会話を交わしながらもしかし、空ちゃんの大きな目はほど子ちゃんには向けられていない。
「え、えっと……」
それに対して、ほど子ちゃんは困惑の目を空ちゃんに向けている。しかし、いつまで経ってもそれ以上の言葉を発しようとしない空ちゃんに、仕方がなく、と言った風に彼女は言葉を紡ぎ始めた。
「その、わたしは空ちゃんと一緒に走れるのが嬉しいから、さ。だって空ちゃん、わたしとは3回ぐらいしか一緒に走ってくれてないでしょ?」
「……ボクは、先輩のトレーニングのジャマをしたくないだけです」
「ジャマだなんてそんなことっ!」
「…………」
ほど子ちゃんはそれからも、一緒に練習したい、と、何度も空ちゃんにうったえかけた。でも、空ちゃんは頑なに、無視、とも言える態度を取り続けている。
どうすればいいんだろう。
空ちゃんは友逹だし、今日こうして一緒に走っていることで、ほど子ちゃんとも多少なりとも縁ができた。だから、なんとかしてあげたい。
そう思っていると、いつの間にか湊子が先頭から最後尾、あたしの隣にまで下がってきていた。
「ねえ湊子、これ、どうすればいいと思う?」
調度良いので小声でそう、相談を持ちかけるも、
「だいじょーぶだいじょーぶ、なるようになるわよ」
そう言って余裕の表情である。でも、なんでこんなに余裕の表情なのかは、あたしにはさっぱりわからない。
あたしはそんな疑念を含んだ顔を表に出してしまっていたのか、湊子はあたしに顔を近づけてきて、小声でこう告げる。
「ほら、ほど子だってうちや、あんたと同じで空ちゃんのことを大好きなのよ。それにね、別に空ちゃんもほど子のことを嫌いって言ってるわけじゃないんだから。だから、ちゃんとなんとかなるわよ」
「そう、なのかなあ……?」
でも、あたしたちが小声でそんなやり取りをしている間にも、前方ではほど子ちゃんと空ちゃんんのやり取りがヒートアップしていた。、いや、実際にしゃべっているのはほど子ちゃんだけなのだが、空ちゃんの頑なな態度もどんどんと強いものになっていたのだ。
「じゃあ、空ちゃんはどうしてもわたしとは走らないって言うの?」
「…………です」
そこでついに、ほど子ちゃんが我慢しきれなくなったかのようにハンドルの上部を両手でバシン、と叩いて宣言した。
「じゃあ、レースでわたしが勝ったら、これからずっと!空ちゃんに練習に付き合ってもらうからっ!」
◆◆◆
空ちゃんは目を見開いてほど子ちゃんを見た。
そこにあったのは、さっきまでの柔らかなニコニコ笑顔ではない、決意を秘めた、そして、少し怒ったような表情。
空ちゃんはそんなほど子ちゃんを見て、一旦目を瞑り、そして大きく深呼吸をする。
そして再び見開かれた空ちゃんの目に灯る光は、決意、多分、そういうものだと思う。
「受けて立つ、です」
そらちゃんは、あたしが持ちかけた勝負を受けた時よりも緊張していて、そしてきっとそれはほど子ちゃんが、それほどまでに強い事の証で。
あたしはちょっと、悔しいな、と、思った。
◆◆◆
勝負を決めた二人は、試走だというのにチラチラと視線を交わし、視線が交わるたびに火花が飛び交っている。
あたしはそんな二人のうしろを湊子とともにゆっくりと登りながら、ヒソヒソ話を続けていた。
「ところでさ、なにかおかしくない?」
「なにがかしら?」
「いや、だってさ、空ちゃんはほど子ちゃんより遅いから、遠慮して一緒に練習に行かないんだよね? じゃあさ、ほど子ちゃんが勝ったら今後一緒に練習に行くって、なんか逆なんじゃないかな? ここは、空ちゃんが勝ったら一緒に練習に行くって、そういうシーンだと思うんだけど」
そう、疑問点を正直に告げると、湊子はニヤリと、いつもの様に笑う。
「若さよねえ」
「わけわかんないんですけど……」
「まあ、これで二人の仲が縮まればいい、とは思ってるわよ?」
「ひょっとして、こういう展開になることまで全部織り込んだ上で、ほど子ちゃんを呼んだわけ?」
湊子のことだ、それもありえるだろうと思って念の為に聞いてみると、
「まあ、なくもないわね」
と、湊子は言って、バチンというウインクを決めてみせた。
「はぁ、まったく、今自分がこうやってロードバイクに乗ってることすらも湊子の陰謀に思えてくるよ」
「まさか。そうなればいいなとは思ったけど、あんたがこんなにもすんなりこっちの世界に入ってくるとは思ってなかったわよ」
「その言い方だと否定はされてないような気がするんですけど……」
前髪の下から半目で睨む。だが、湊子は気にした風もなく、先を行く二人に大きな声で警告する。
「そこ、その道を右に下るからね! 信号機の手前で180度反転して登り直すから! 登ったら右折で頂上まで!」
昨年も走っているだけあって、言われなくてもほど子ちゃんはわかっていたのだろう、彼女は横に向かって腕を突き出し、サムズアップで了解の意を示し、右折して下っていく。そしてそれに空ちゃん、あたし、湊子という順番で続いて、下りの途中にある信号で反転、再び上りに入る。
「ここも大体10%ぐらいね。彼方、まだ大丈夫?」
「うん、大丈夫。みんな、ペース落としてもらっちゃってごめんね?」
「いえいえ、気にしないでください」
「おっぱいさんは大きな重りを2つも持っていますからね、仕方がないです」
「そのネタまだ続いてたの……?」
まだ多少の余裕があるのでそんなことを話しながら、再び山頂へと向けてゆっくりと進んでいく。そして、再び元のコースに戻ってからいくつかのカーブを曲がり、1kmほど経過した時に湊子が再びの注意喚起を行った。
「ここを曲がった先にある15%の激坂を超えたらあとはやや下り気味の平坦、そこを暫く進んだらゴールになるわ。ここでつけられた差を挽回することは事実上不可能だから、まあここが一番の勝負どころよね」
「じゅ、じゅうごぱーせんと……って、どれぐらい続くの?」
「うーん200mぐらいかしらねえ」
「ぐぎゃっ……!?」
だが、未だ登ったことのない斜度に怯えている暇もなく、その道はあたし達の目の前に姿を表した。
「みんな、前輪浮かせてひっくり返って落車しないように、しっかりハンドルに体重残しときなさいよ」
そんな湊子の言葉も右から左、あたしと空ちゃんは目の前の上りを唖然として見上げるだけである。
「これは……流石に……です」
「だよね……うわぁ……」
脚をゆるめ、そんな言葉を漏らすあたし達に反応したのはほど子ちゃんであった。
「あれあれ? 空ちゃんったら怖気づいちゃったんですか?」
むっと、そういう顔で空ちゃんが素早くほど子ちゃんを睨みつける。
「空ちゃんがここを登れないのなら、本番はわたしが勝っちゃいますね。そうなると毎日部活で空ちゃんと一緒に練習、楽しみですっ♪」
え? ほど子ちゃんってそんなことも言っちゃう子なのっ!?
びっくりして湊子を見やるが、彼女はやはり気にした風もない。う、ううん……?
「まあまあ、いいから見てなさい」
挙げ句の果てにはそんなことまで言ってくる。
「この程度、なんともないです」
「そうですか、じゃあここで前哨戦と行きましょう」
ほど子ちゃんはそう言って、不意にアタックを仕掛けた。
アタックといってもダンシングを用いたものではない、それは腰をサドルに下ろしたまま、ギアも変えずに回転数だけを上げ、鋭い加速で周囲を置き去りにするアタックだ。
空ちゃんは即座に反応した。彼女はほど子ちゃんとは逆、回転数はそのままにギアを上げてアタックに対応する。一瞬のタメを持って、そして空ちゃんも一気に加速する。
「って、ちょっと!置いてかないでよ!?」
危うく置いて行かれるところである、というか既に距離は10mほど開いている。追いつくことが無理でも、すこしでも近くにいるために、あたしも空ちゃんと同じようにシフトアップして、二人を追いかけた。
「ま、待ってーっ!」
「ま、これだけ登れればあんたらの完走は確実ね」
あたしの隣に並んで走りながら、湊子はそう言ってニヒヒ、と笑ったのであった。




