プロローグ
プロローグ
「スー……ハー……スー……ハー……」
ゆっくりと、深い呼吸を繰り返しながら、うちは自転車のハンドルに取り付けた出力系のメーター部分を見やる。
「スー……ハー……スー……ハー……」
ここまで大体予定通りのペース。そしてうちの家はもう目と鼻の先。
「スー……ハー……スー……ハー……」
早朝5時から走り続けていたため、今日の走行距離はそろそろ150kmを示そうとしている。
「……うーん……?」
身体はいい感じに疲れているのだが、だがしかし、ちょっと身体への刺激が足りない気がする。
うちがそういう時にやることはもう決まっている。こんな時にやるとスッキリ気持ちいいこと、それは全力全開の藻掻きである。
場所はこの近く、マツドの前のゆったりとした坂道。うちから500mも離れていないので、もがいた後は遠回りしてクールダウンをしなければならないが、まあそれは仕方がない。
よし、行こうか、と、心のなかで言い、脚に力を込め直す。
LSDペースまで落ちていたペースが高速巡航ペースにまで上がる。
うちの視線はママチャリよりも圧倒的に低く、そして身体に身につけているものはぴっちりとしたジャージとヘルメットだけ。そのために体感速度はママチャリや車、バイクで感じるそれよりも圧倒的に速い。
視界の端をビュンビュンと景色が後ろへ、吹っ飛んでいく。
マツドナルドが見えてきた。
うちの心拍数がだんだんと上がっていく。
下ハンをぎゅっ握りしめてスプリントの体勢に入る。
そして、坂道の下にある信号を通過した次の瞬間、うちは腰を上げ、身体中の筋肉を爆発させた。
前に倒しきった上半身を、しかしハンドルに体重を預けることなく腹筋で支える。
猛烈な脚の踏み込みによって吹っ飛びそうになる上半身を、しかし吹っ飛ばないように、上半身の力を総動員して支える。
踏み込みとともに倒れてしまいそうになる車体を、しかし腕の力を使って強引に引き上げる。
ああ、ママチャリではない、この自転車に乗っていてよかった。
ママチャリではこうは行かない。あれは快適だが、こんな風に、全身の力を使うことは出来ない。
メーターの数値、速度の表示がドンドンとその数値を大きくしていく。
最初は30だったものが、35、45、50、そして55km。
10秒が経過したところで、急に身体に限界が訪れる。
でも知ったことか。
うちは身体中、全てを振り絞って坂道の頂上まで駆け上った。
◆◆◆
その日あたしは、銀色に煌めく一陣の風と出会った。
それは、突き刺さるような寒さの冬も終わり、桜が花をを咲かせはじめた4月の頭の話である。
その日、あたしこと平彼方は普段の業務である自宅警備の任を一時的に解かれ、ファーストフード店での食事をしていた。
いや、遠回りな言い方はよそう。
大阪府内の高校をなんとか卒業してからの2年間、ろくに家から出ずに引き篭っていたあたしに、近所ではおっとり美人と有名な母も流石に業を煮やしたか“お金をあげるから外で食事でもして、天気もよいのだからついでに散歩でもしてきなさい”とのお達しをあたしに出した。母親にだけは逆らえないあたしは、お金を受け取り、半泣きで重い身体を引きずり、近所(と言っても自宅から1km以上離れている、と思う)のハンバーガーショップ、マツドナルドで少し遅めの昼食をとっていたのであった。
2階窓際のカウンター席に座るあたしの隣の席には、久々に使う小ぶりなバッグ。隣の席を占領していても2階にはあたししかいないので、誰に迷惑がかかることもない。
窓ガラスには半透明に写る、少々前髪が伸びすぎたオカッパの少女、まあつまりあたしが映っている。
そしてあたし自身はというと、ガラスに映っている地味な自分と向き合いたくないとでも言うかのように、通販で取り寄せたライトノベルを前髪と、眼鏡のレンズ越しに、ぼーっと眺めていた。
この本はあたしのお気に入りの一冊である。
何度も読んだ内容は、今更本など持たずとも頭のなかの引き出しにしっかりとしまわれている。
その内容はというと、友達の居ない男の子が、それでもいろいろな人達の力になりたいと願い、そして実際にいろいろな人達を助けて、その人達と友達になっていくというお話。
あたしはその本を読みながらも、はぁ、と、ため息をつく。
あたしにもこの男の子ほどでなくていい、もうちょっと友達がほしい。
友だちがいっぱいいれば、きっとこんな風に引きこもっていることも無いのに。
念のため、あくまで念の為に言っておくが、あたしだって友達が皆無というわけではない。あたしにも友達は居る。
……まあ、一人だけなのだけれど。
そんな誰に対するでもない言い訳を心のなかで行いながらも読み進めていく本の中では、少年が、自分の力で手に入れた友人達と共に花火を鑑賞している。光が弾け、キラキラと夜空に瞬く。
「あれ?」
ふと、お話の中ではない、実際にガラス張りの窓の外で、何かが瞬いた気がした。
あたしはガラス窓の外に視線を送り、目を凝らす。何かがメガネのフレームにでも反射したのだろうか?
また何かが光った。何もない、ずっと真っ直ぐな、しかし起伏のある山際の一本道。そんな周りが畑しかないような、そんな場所にポツリと立つマツドナルドの2階から見えたそれは……。
「バイク……?」
バイクならそう珍しくもない、この辺りをツーリングで通る人も多い。
でも、何故かバイクだとは思えなかった。なぜだかは分からない。あんなに遠くだとエンジン音も聞こえないだろうし、つまりエンジン音が聞こえないからといって、バイクではないと判断できるということもない。
「それにしてもすごく派手な……」
豆粒のように見えるライダー(?)は、派手なピンクの服に、それと同色のヘルメットを被っていた。
そう認識する間にも“それ”は起伏のある道を、グングンとこっちに接近してくる。
あたしにはもう“それ”が何なのか、はっきりと認識することができていた。
“それ”の車輪は二度三度、太陽光を反射させ、そして凄まじい勢いでファーストフード店の前を通り過ぎて行く。
ガラス越しなのに、何故だか吸い込まれるような風の流れを感じた。
「じて……んしゃ……だよね、どう見ても……」
風の流れに吸い込まれるように、視線を先ほどとは逆へとむけ、その姿を追ってしまう。うん、間違いなく自転車だ。
だがそれは自転車とは思えないスピードで走っていた。目の前のこの道は上りのはずである、それなのに……
「うわ、原付を追い抜いた……」
買い物帰りなのだろう、前カゴに買い物袋を乗せた原付を、ヒラヒラと舞うような立ち漕ぎで軽々と追い越していく。
そしてそのまま、自転車は丘の向こうへと消えてしまった。
「なに……あれ……?」
後にはただ、ポカーンと口を開けて窓の外を見つめるあたしだけが残った。
「本当になんなの……?」
そう、本当に何なのだろうか。あたしの胸はいつもより少し、ほんの少しだけ鼓動が早くなっていたのであった。
◆◆◆
あの後、マツドナルドの2階に女子高生の集団がやってきたので、あたしは逃げるように店を出た。店を出た所で“散歩でもしてきなさい”という母の言葉を思い出し、仕方がなく、家とは別の方向に向かって歩くことにしたのであった。そしてその方向は、
「なんであたし、こっちに向かって歩いてるんだろう」
そう、その方向はさっきの自転車が登っていった丘の方向であった。
多分この丘も、あたしの家からファーストフード店までと同じぐらいの距離、つまり1kmほどの長さだろうか。傾斜は……わからない、産まれてからずっとこの街で暮らしてきたあたしには、傾斜などそこにあって当然のものだからだ。
なんにせよ、あたしはえっちらおっちらと丘を登っていた。引きこもっている間に増えたお肉が重い。まだ長袖でなければやや肌寒い時期だというのに、レギンスに包まれた内ももが汗で湿ってくる。それでもあたしはそれが義務であるかのように身体を動かし、ようやっと、丘の頂上へとたどり着いた。
「来てみたはいいけれど、流石にもう見えないよね……」
丘の頂上からあたりを見渡すが、当然、さっきの自転車は影も形も見えない。
「うぅ、疲れた……」
もう脚が動かない。とりあえず手近にあった個人商店(都会の人には信じられないかもしれないが、コンビニよりも圧倒的に狭いのである、この手の個人商店というものは)で炭酸ジュースを買う。本当はコーラなどが飲みたかったのだが、炭酸はオロCしか売っていなかったのでオロCである。
「とりあえずここで30分ほど休むし……」
そう言って、商店の前のベンチへと座り込み、ポケットからスマートフォンを取り出す。携帯性よりも操作性を優先させた5インチ超の画面を両手で操作して行うのは、あたしの唯一の友人、集湊子に対するメール作成だ。
「さっきマツドの前で原付よりも速い自転車を見た件について……と。それにしても独り言が増えたなあたし、引きこもってtwitterとかやりまくってたせいかなあ……?」
そう、独り言を続けながら友人、湊子へとメールを送信した。
そのまま返信を待ちつつ、何をするでもなくぼーっと空を見上げていると、不意にあたしに対して声がかかった。その声はおとなりに住むおばさん(おばさんと言っても60は超えているはずだ)のもので、
「あらかなちゃん、お出かけ?それともお使い?」
徒歩で坂を登ってきたおばさんは息切れもせずにそう言った。あたしは慌てて身体の向きを変え、挨拶を返す。
「あ、安在のおばさん、こんにちは。いえ、ちょっと散歩に出たら疲れてしまって」
「あかんで、こんな近所まで歩いただけでヘタれとったら。もっとちゃんとお日さまに当たらな」
「そうですよねー……」
まったくである。
「まあとりあえず疲れたんやったらこれでも舐めとき、こないだちょっと小旅行に行った時に買った那智黒や」
そう言いながら、おばさんはあたしの手を握るようにして、隣県の定番おみやげである黒飴を握らせる。
「オバちゃんはあっちのスーパーまで買い物やさかいな、気をつけて帰りや」
「あ、ありがとうございます」
そう言っておばさんは元気な足取りで、登ってきたのとは反対側の道路を元気に歩いて行った。というかスーパーってここからかなり離れてる気がするんだけれど、歩きで……?
そして残されたあたしはというと、
「あたしの体力は60過ぎたおばーちゃん以下か……」
流石に本気で凹んでいたのであった。
◆◆◆
湊子からのメールの返信があったのは、あたしが疲労で重い身体を引きずり、そしてなんとか家に帰り着き、自室の床にへたり込んだのとほぼ同じタイミングであった。そしてその内容はというと、
“あんたは引きこもっている間に友人の顔すら忘れたんかい”
はて、どういうことだろう?あたしが唯一のリアル友人である湊子の顔を忘れるわけがない。なんせ幼稚園、小学校、中学校、高校とずっと一緒だった、いわゆる1つの幼馴染という間柄なのだから。その大切さたるや母親と同じぐらい、いや、昔から消極的だったあたしに色々と世話を焼いてくれ、今もちょくちょくうちまで様子を見に来てくれる湊子はもう既に、あたしのもう一人の母親といってもいい存在なのだ。そんな理由で湊子からのメールには、
“あたしが湊子おかーさんの顔を忘れるわけがないじゃない!おかーさんのばかっ!”
と、返信する。
すると、1分もせずに再びメールが届いた。
“誰がおかーさんか!というか、今日見たその自転車の人ってどんな顔してたか思い出してみ。あと、うちが高校の時に何同好会に入ってたかも思い出してみ!”
メール越しにそんなことを言われ、今日見た自転車の人を思い出してみる。サングラスをかけていたが、どこかで見たようなあの顔は、よくよく思い出すと……。
「というか湊子じゃん!」
思わず自室で叫んでしまった。その叫び声に反応したのか、階下からなにかあったのと母親が声をかけてくるが、なんでもないと応じてから、メールの返信を書く。
“湊子だった!そういえば湊子ってば人を集めて自転車同好会立ち上げてたよね。てっきりサイクリングとかに行くんだと思ってたんだけれど、あんなに本格的な自転車に乗ってるなんて知らなかった。なんで教えてくれなかったの?”
「まったく、湊子ってばあたしをほったらかして……」
高校時代を思い出しながらメールを打っていると、なんだか高校2年ぐらいから割と放置されることが多くなったことを思い出し、ムカムカしてきた。
そんなわけでメールの最後にこんな一文を追加する
“教えてくれなかったバツとしてあたしに色々教えろ!”
思えば自転車に乗っていた湊子に出会ったこともそうだが、本当の始まりはあたしのこのメールだった。
このメールから数日後、あたしは湊子と共に人生の転換期を迎えることになったのだ。




