1章-5
火星歴一五三年三月一六日七時、土曜日の朝の誓いも虚しく、日向は五十四回目の危機的状況を迎えていた。休み明けの月曜日の朝は特に辛い。
二日間の休みの間、日向は事あるごとに携帯電話を確認しながら過ごしていた。しかし届いたメールは迷惑メールフィルタの目をかいくぐり届いた出会い系サイトの誘いが二通のみでゆかりからは何の連絡もない。
メールが来ないことは彼女の態度から予想出来てはいたが、やはり期待してしまうのは悲しい男の性だと言える。
その後、日向はいつも通りに日曜夜の長寿アニメを見ながら、いつも通りに休みが終わる事を実感し、いつも通りに明日の会社のことを思い出して鬱になった。
何一つ変わりない、いつも通りの日曜日だった。
布団の中で丸まっていた日向は意を決して起き上がるとルーチン化されてしまった動作で身支度を調える。
いつも通りテレビで運勢を確認したが、今日の仕事運は最悪だった。金曜の時点でわかっていたことではある。一ヶ月先の予定を一週間で完成させろと言うのは無茶を通り越して無謀としか言えなかった。
「一週間しかないのか……」
日向は重く悲痛な独り言を玄関に残し家を出た。
日向は自宅から会社までの間、道行く人の顔ばかり眺めていた。またゆかりに会えることを期待していたのだ。しかし、あの一見取り付きにくい顔を見つけることなく、会社に辿り着いてしまった。
自席につくと課長の心底辛そうな表情が待っていた。早朝より行われていた会議の結果が相当に悪かったのだろう。そもそも一週間で納品するという無謀な計画なのだ。まともな会議になるはずがないことは日向にも容易に想像出来た。
金曜に適当に理由をつけ早い時間に帰ってしまった後輩は、事情を知らず不安に駆られているようだった。説明を求めるように寂しそうな視線をこちらに向けている。
どうせ後で課長から話があるだろうと日向はその視線を無視し、パソコンを立ち上げた。プログラムのソースコードを開いて、金曜から引き続き見つかっていないバグを探しにかかる。何度も処理の内容を確認していたが、一向に原因はわからなかった。
ここまで見つからないとなるとプログラム以外の部分が原因である可能性も高い。日向の担当する慣性制御システムと密接に関わる他のシステムやハードなど疑うところはいくらでもあった。特にコンパイラなどはその最たるものだ。今回使用する慣性制御用の専用プロセッサは完全に新規設計のもので、特殊な専用命令も多い。となるとプログラムを機械語に翻訳するコンパイラもかなりの手が加えられているだろう。
しかし、もっとも怪しいものは自分の書いたプログラムであった。日向は自分のところに問題がないとわかるまでは他に問題があるとは言えないでいた。
チームメンバーが全員出社した昼前、課長が全員を会議室に集め、状況を説明した。
納期は先週金曜に課長から言われたようにの月曜の朝、新女王の就任式当日に正式決定していた。二週間後には特に深刻な影響のあるバグを修正する。
新型艦は進水式から一年間、お披露目の意味も兼ねて各資源惑星を回ることになっている。ソフトのアップデートは火星に戻ってくるタイミングに合わせ行う。最終的には元々の納期である一年後に本来納める予定だった艦と交換し、完成となる。
予想以上に無茶苦茶な日程だった。
周りの顔を見回してみても全員が陰鬱とした表情を浮かべている。
ホワイトボードに日程を書きながら課長は日向を見つめていた。凄く嫌な視線だった。これまで何度も投げかけられてきたいつもの仕事を振る時の少し嬉しそうな視線とはどこか違う。少し申し訳なさそうで、同情するような哀しい視線だった。
精神的なストレスだろう、日向は課長の熱い視線を浴びていると胃腸の調子が悪くなった。正確には悪くなったような『気』がする。気のせいのような気もするが多分痛い。むしろ痛いに違いないと自分に言い聞かせた。
課長の話が終わると日向は一目散にトイレに逃げ込んだ。
日向は新人の頃、仕事に行き詰まったり先輩に叱られる度に、こうやってトイレに駆け込んでいた。慣れないタバコを手に喫煙所に逃げ込んでいたこともある。
腰を下ろすと便座の温もりが伝わってきた。熱すぎず冷たすぎず心地よい温度が荒んだ日向の尻を温めた。日向は温い便座を開発した遠い昔のエンジニアに感謝すると同時に深いため息を吐き出す。
隣からは携帯電話で雑談する声が聞こえる。日向の会社のトイレは埋まっていることが多い。皆トイレが唯一心休まる場だと知っているのだろう。
言い換えるならトイレに籠もらないといけないほどの激務なのだとも言える。トイレの利用率がブラック企業の指標となり得るのではないだろうか。日向はふと思いついたアイディアにイグ・ノーベル賞への確かな手応えを感じた。
もういっそトイレで仕事をさせてくれれば良いのに。
課長の引いた日程には大きな穴があった。新型艦の最初の目的地となっている資源惑星パラスには最低でも十日の日程を要する。往復で二十日だ。当然新型艦は火星にはおらず、二週間後のアップデートは現地で行うこととなる。その作業は果たして誰がするというのだろうか。課長の熱い視線が全てを物語っていた。
トイレで気持ちを落ち着けた日向は、意を決して自席へ戻ると予想通り課長に呼び出された。腕を無理矢理引っ張られるようにして有無を言わさず会議室に連行される。周りからは同情を帯びた視線が送られていた。
課長は日向の向かいの席に座ると机の上にいくつかの書類を並べた。書かれた文面を見る限り日向の予想は見事に的中していた。
「申し訳ないが、三週間ほど出張に行って欲しい」
課長にしては珍しく、本当に申し訳なさそうに切り出した。
「どこにですか?」
「パラスだ」
火星軌道と木星軌道の間に存在するアステロイドベルトの小惑星の一つだ。各国のレアメタルの採掘施設が建ち並び、その労働者を対象とした小さな街が存在する。そして新型艦の目的地だった。
「そこで、ソフトのアップデート作業をしてもらいたい」
予想通りの内容が課長の口から発せられる。
もちろん日向に拒否権などあろうはずが無い。上の言うことには黙って従うのがサラリーマンというものだ。
「わかりました。では今から出張の準備をします」
通常の宇宙船よりもかなり速い新型戦艦の速度ではパラスまで四日といったところだろう。明日出発すれば同じ日に到着できる。移動中に仕事をさぼれると考えれば悪い話でもないと日向は自分に言い聞かせる。
「出発は一週間後だ」
「それではlilyの到着に間に合いませんよ」
もうあまり使う必要のなくなってきた新型艦のコードネームで指摘する。
「間に合うさ。それに出発までの間もバグの修正をやってもらわないといけない」
課長は日向の指摘に対し自信満々に答えた。
「もしかして乗るのは……」
「もちろんlilyだ。今朝決まった正式名称で言うなら白百合だな」
日向の言葉を遮り課長が一番聞きたくない言葉を言った。せめて民間の高速船に乗れと言って欲しかった。
「嘘ですよね?」
「申し訳ないが本当だ」
こうして日向は、まともに動くはずの無い、それもいつ攻撃されることになるかわからない戦闘艦に乗ることとなった。