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1章-4

 火星で終電を逃した時の選択肢は主に四つ存在した。

 一、歩いて帰る。道路網の貧弱な火星ではタクシーどころか、まともに車が通れる道すら少なく、歩くしか帰る手段がなかった。もちろん日向は却下した。距離自体は二駅ほどなので帰れないこともないが、火星の夜は氷点下まで冷え込む。火星の街は大気の希薄な大地の上をドームで覆うことで生活空間を確保している。そのため、日の当たらない夜になると直ぐに冷え込んでしまうのだ。街の各所に配置された暖房機が最低限の気温を確保しようと動いていたが、街全体を暖めきるほどの電力の余裕はなかった。

 一日の殆どを会社と電車の中で過ごす日向は、昼間の気温に合わせコートを持ち歩いていない。今も冷えた空気が容赦なく体温を奪い続けている。特に汗に濡れた日向の体は、その気化熱によって急激に体温を低下させようとしていた。日向は一刻も早く暖かい場所に移動する必要があった。

 二、ホテルに泊まる。こちらは日向の頭にすら上らなかった。終電を過ぎた後の火星のホテルの料金はもの凄く高価だった。日向のように終電を逃した者の足下を見て、業界全体で値段をつり上げているのだ。それに反し、予約や昼間のチェックインはかなりリーズナブルな価格となっている。

 日向はそれなりの給料に加えかなりの残業代をもらってはいたが、十五日の給料日を目前に控えたこの時期に、そんな余裕が残っているはずもなかった。

 残るは夜中まで営業している店舗で一晩明かすくらいしか選択肢がない。火星で夜中まで営業しているような店は漫画喫茶かバーくらいしかなかった。

 朝まで飲み明かすか。

 日向は凍える体を両手で抱きながら、来た道を引き返した。

 既に日付は変わっているが、金曜なのだからぱーっと飲んで仕事のことを忘れてしまってもバチは当たらないだろう。


 日向は駅から五分ほどの距離にある行きつけのバーに向かう。気温は既にマイナスの領域に突入し、スーツの薄い生地を冷たい風がすり抜けていく。自然と日向の歩く速度が上がった。

 やがて今時珍しい控えめな看板を掲げた煉瓦造りの建物にたどり着く。急いでドアを開けると暖かい空気が日向を迎え入れた。

 日向は会社から近く落ち着いた雰囲気のあるこのバーを気に入っていた。仕事が忙しくない時期は良く同期の友人を誘い飲みに行っていた。友人の都合がつかない時は一人で飲みに行くことすらあった。ただ一点、不都合があるとすれば、利用客に同じ会社の人が多く、女性を連れて行くには向いていないことだった。

「いらっしゃいませ」

 扉を開けると、マスターの愛想の言い声とともに、扉につけられた飾りがカランコロンと音を立てる。

 スキンヘッドに口髭をたくわえたマスターはいつも通りの黒いベストを着ていた。サングラスでも掛ければ、その手の筋のものに見えなくもない。しかし無駄に大きな瞳がどちらかというと愛嬌のある雰囲気を醸し出していた。

 薄明るい店内を見渡すと日向以外に五人の客がいた。ボックス席に二人ずつ、四人。カウンター席に一人。終電のなくなったこの時間にしてはまだ多い方だった。日向はそのうちの一人、カウンターに座りマスターと話している女性に見覚えがあった。あまり会話が弾まないのだろうか、彼女はカシスオレンジに挿さったマドラーでつまらなそうに氷を回している。

 今朝の値札の女性だった。まさかこんなところで会えるとは思っておらず、日向は降ってわいた幸運に胸が高鳴った。

 無根拠で陳腐な発想であったが、日向は運命を感じていた。

 冷静に考えるならば同じ駅を利用していたのだから、いつか会う可能性は非常高い。ただの偶然と考える方が自然な状況だった。当然、日向は頭ではわかっていたが、都合よく頭の片隅に追いやった。

「隣いいですか?」

 店内を見渡し知り合いがいないことを確認すると、女性に声を掛けた。一瞬ではあったが、またも不機嫌そうな視線を向けられた。しかしこちらに気付いた彼女は、途端に明るい顔で質問してきた。

「また、お会いしましたね。このお店よく利用されるんですか?」

「はい、会社がこの近くなので、時々飲みに来るんですよ」

「お知り合いですか?」

 話を遮られたマスターが少し迷うような表情で訊いてきた。

「今日、電車の中で知り合った九千八百円のお姉さん」

「へぇ、こんな綺麗なお嬢さんが……。それはお買い得ですね」

 意味のわからないマスターは、それでも適当に話を合わせた。

「もう、その話はやめてくださいよ」

「そうだ、良かったら一緒に飲みませんか? もちろん俺の奢りで」

「是非お願いします。私、こういうところ初めてで落ち着かなかったんです。でもお会計は割り勘ですよ」

 この言葉に日向は密かな感動を抱いていた。

 最近日向にはよくデートをする女性がいた。男女が二人で出かければデートとはよく言ったもので、日向にはそのつもりはなかったのだが、何かと理由をつけて連れ出されることが多かった。あるときはそれほど詳しくもない電化製品選びを手伝わされ、またあるときは荷物持ちと称して重たい棚を運ばされ組み立てまでもさせられた。日向自身は内心良いように使われていると理解していた。しかし、良く言えば柔和な、悪く言えば弱気な性格が災いし一度も断ったことがない。

 その女性は奢られることが当たり前に思っている節があった。会計の時は財布すら出さず、当たり前のように立ち呆けている。一度流石の日向も腹に据えかねて文句を言ってしまったことがあったが、顔色一つ換えずに「お財布、忘れた」とだけ言い放った。地下鉄でやってきた彼女が財布を持っていないはずはないことは日向もわかっていたが、鞄の中身を改める訳にもいかず、日向はいつも通り二人分の料金を支払った。

「ありがとうございます」

 礼を言いつつ隣へ座り、とりあえずビールを注文する。

「今日は会議が長引いてしまって終電を逃してしまったんですよ、私あまり電車使ったことなくて、終電のことをすっかり忘れていました」

 彼女は舌をぺろりと出して、照れた笑いを浮かべた。やはりおっちょこちょいな性格のようだった。

「俺も今日は仕事で終電を逃してしまって、でもまた会えて嬉しいです」

「私もですよ」

 彼女はアルコールで赤みを帯びた頬を緩めて笑った。


「最近紅茶にはまってるんですけど、えっと……」

「ゆかりです」

「ゆかりさんは紅茶派? それともコーヒー派?」

 最初は当たり障りない最近のニュースの話をしていたが、彼女のカシスオレンジがなくなりかけた頃に日向は話題を変えた。

「私も紅茶好きなんですよ」

 女性は紅茶が好きな人が多い。そもそもこの訊き方でコーヒーが好きだとはっきりと言える人も少ないだろう。現に日向も本当はコーヒーが好きだった。

「知ってます? 紅茶を使わずに見た目や味が紅茶っぽいカクテルがあるんですよ」

「おもしろそうですね。ちょうど無くなってきたし頼んでみようかな」

 ゆかりはグラスを傾け、ほとんど氷だけになった中身を見せながら言った。

「マスター。ロングアイランドアイスティ」

 程なくしてマスターが琥珀色の液体で満たされたグラスをコースターに乗せる。

 ロングアイランドアイスティはウォッカをベースにしたカクテルだ。ウォッカをベースとしているため、もちろんアルコール度数は高い。甘味が強く、度数の割に非常に飲みやすいカクテルだった。

 いわゆるレディキラーと呼ばれるカクテルだ。アルコールが強い割に飲みやすいため、知らずに何杯も飲んでしまうと思った以上に酔っぱらってしまう。泥酔しまともな判断が下せなくなった状態で口説いてしまおうという魂胆だった。

 特に有名なレディキラーとしてスクリュードライバーがあるが、あまりに有名過ぎて警戒されてしまうことが多い。あまり有名ではないものをさりげなく飲ませることが重要だった。

 日向はこのテクニックを、会社に入ってすぐの頃、先輩に教わった。

 この先輩は日向に仕事に関する知識などよりもろくでもない知識ばかり教えてくれた。合コンでのテクニックから有給の取り方、仕事のサボり方……。どれも抜群に役に立つ知識ばかりだったが、本当にろくでもない知識ばかりだ。

 ゆかりはコースターの上に乗せられたロングアイランドアイスティをしげしげと眺めた。何度か角度を変え、更に揺すってみせる。そしてグラスに浮かべられたレモンの輪切りをマドラーで突きながら口を開いた。

「本当に紅茶っぽいですね」

「でしょう。俺も初めて見たとき驚いたんですよ。味も結構紅茶っぽいんですよ」

 ゆかりは日向の勧めるままに一口飲み込んだ。

「これ、凄くおいしいですね」

 相当気に入ってもらえたのだろうか、ゆかりは目の前のロングアイランドアイスティをすぐに飲み干してしまった。

 ゆかりはグラスが空になる度にロングアイランドアイスティを注文した。日向は何度か別のカクテルも勧めてみたが、よほど気に入ったのか頑なにロングアイランドアイスティばかりを注文していた。

 その姿を見て日向は内心ガッツポーズを決めていた。つきあって同じペースで弱い酒ばかりを飲み続けている日向ですら、かなり酔い始めているのだ。この調子で酔いつぶれないはずはなかった。

 二人は好きな音楽や趣味の話を繰り返すが、日向の予想に反して彼女の口調はしっかりとしたものだった。


 夜も明けかかった午前四時。空はわずかに薄明るく、もう一時間もすれば始発も動き出す頃合いだった。

 今なおゆかりは少しもペースを落とすことなくロングアイランドアイスティを飲み続ていけた。しかし一向に酔いつぶれる気配はない。それどころは、顔色も最初とあまり変わってはいない。このままでは日向の方が先に酔いつぶれてしまう。日向は飲むペースを弱め始めた。このときの日向はもう今日の負けを確信していた。とはいえ会話は楽しく後はメールアドレスを聞くことさえ出来れば十分な戦果だろう。

「亡くなられた女王陛下のことどう思います?」

 ゆかりはわずかにろれつの回っていない口調で訊いてきた。摂取したアルコール量から考えるとろれつが回りすぎている口調とも言える。

 女王陛下を真似した黒い長髪をしているのだから、色々と思うところがあるのだろう。しかし唐突過ぎて意図がわからず、日向は当たり障りの返事を返した。

「惜しい人を亡くしたと思ってる。国民に慕われていたし、政治手腕も見事な物だった。陛下のお力で、この国は随分良くなったよ」

 西暦二十二世紀後半、この国の前身となった国家は様々な問題を抱えていた。一部の評論家はその原因を政治にスピーディさがないと批判した。影響を受けた一部の国民はカリスマ的指導者を求めることとなる。

 ちょうどその頃持ち上がっていた火星への移民計画に合わせ、この国、葦牙国が建国された。独立に当たり宇宙条約などの諸問題もあったようだが、無事建国し、今のところは上手く機能しているようだった。

 しかし一週間後に控える就任式で現在の王女が新女王へ就任することとなっている。現王女はまだ若く、経験が足りないとしか言えなかった。そもそも王女はまだ十歳で、経験をどうこう言えるほどの年ですらない。マスコミがこのことに関してあまり悪く言うようなことはなかったが、周囲の大臣や議員の傀儡になるのではないかという疑問を誰もが口にしていた。

「私、あの場にいたんです」

 世界中の全ての罪を背負ったかのような口調で彼女は呟いた。

「私のせいで陛下が亡くなったのかもしれない。私がもっと早く気付いていれば守ることが出来たかもしれない。せめて盾になることくらいは……」

「それはゆかりさんのせいじゃないでしょう。現にあの場にいた人は誰一人として、何も出来なかったんだから」

 テレビや新聞で見聞きしただけの内容であったが、女王陛下の暗殺はその場にいた野次馬も警備員も誰一人として何も出来なかったそうだ。警備の隙を突いた見事と言う他にない完全な不意打ちだった。

 ゆかりもその現場に居合わせた野次馬の一人なのだろう。女王陛下の暗殺の現場を見てしまったなら自分でもショックを受けるだろうと日向は感じた。

「頭ではわかっているんです。でもあのとき私が気付いていたらっていう仮定ばかりが頭をぐるぐる回るんです」

 ゆかりはアルコールで赤くなった頬を涙で濡らしながら言った。

 ゆかりの中では『罪を背負わなければならない』という結論が出てしまっている。その結論は明らかに間違っているいるし、彼女自身も間違っていることを理解しつつも感情として許容できないのだ。

 日向はゆかりに掛ける言葉が見つからず黙り込んでしまう。

 本音を言うならば彼女の力になりたかった。特に何が出来るという訳ではないが、精神的な部分だけでも支え、助けたかった。

 重い雰囲気に耐えきれず喉の奥から無責任な言葉が出掛かった。

 そう、無責任な言葉なのだ。今日初めて会った人間に背負えるものなんて何一つ無い。覚悟や理由が根本的に足りていないだろう。

 だからといってゆかりを考えすぎだと一蹴することも出来なかった。誰にでもある些細な思い込みと言えばそれまでだが、彼女の中では絶対に放棄できない重要な問題になってしまっているのだ。日向や他の人にだって他人から見れば考えすぎだと笑われてしまうような悩みの一つや二つ持っている。

「……」

「……」

 日向は何も言えない。

 彼女も何も言わない。

 きっとゆかりもわかっているのだろう。ただ聞いて欲しいだけなのだ。悩みなんて結局自分で解決するしかない。他の人に解決出来るような問題ならば、それほどまでに悩む必要も無い。

 沈黙に耐えかねたゆかりは話を切り上げようと口を開きかけた。

 日向は多分酔っていたのだろう。彼女のハイペースに合わせ飲み続けたのだ。学生の頃ほどは飲めなくなっている体には堪えたに違いない。日向は口から零れ出た言葉を酒のせいにしてしまいたかった。

「せめてもう少し早く出会っていたら……」

「出会っていたら?」

 彼女はきょとんとした表情で一瞬考え込んだ。

 日向は慌てて自分の口を閉じる。ゆかりに向けていた顔をそらし、彼女の視線を避けるように顔の横に手を当てる。

「なんなんですかー?」

 続きに思い当たったゆかりは更に追求した。かなり酔いが回っているはずはずだったが、それでもまだ頭は回るようだった。

「……」

 日向は答えられず、黙秘を貫く。

 すると、ゆかりは体を左右に振り、急かすように肩をぶつけてきた。やはりかなり酔っぱらっているらしい。

 日向が表情を伺うと言うまで絶対にやめないと目が語っている。諦めた日向はようやく口を開いた。

「……一緒に支えられたのに」

「私そんな安い言葉で喜ぶような女じゃないですよ」

 ゆかりは言葉では貶しつつも嬉しそうに笑っていた。

「九千八百円のくせに」

「もう! その話はやめてください!」

 頬を膨らませながら、日向の背中を叩いた。


「そろそろお開きにしましょうか」

「そうですね、もうすぐ始発も出る頃ですし」

 そろそろ電車も動きだそうとしていた五時前、どちらからともなくお開きの雰囲気となり、日向が切り出した。

 日向としてはもっと話していたかったが、若いとも老いたとも言えない体には徹夜の疲労がそれなりに重くのしかかっていた。

「もし良かったら、連絡ください」

 名刺の裏にメールアドレスと電話番号を汚い字で書き殴り手渡す。

「はい、後でメールしておきますね」

 ゆかりは一瞬迷うような表情で名刺を見つめるとすぐに笑顔を作り答えた。

 表情からメールすると言っているのは口先だけで連絡するつもりが無いことは日向にも確信出来た。それでも楽しく充実した一晩を考えると無駄では無かっただろう。

 外に出ると登りかけた朝日が眩しく日向は目を細めた。月曜日は頑張ろうと日向は自らの心と朝日に誓った。

「私、友達と約束があるので、ここで失礼します」

 それだけを言い残すとゆかりはしっかりとした足取りで立ち去った。


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