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1章-3

 日向の働いているフロアは非常に散らかっていた。決して不衛生というわけではなく、現に毎日清掃業者が掃除を行っている。床はゴミ一つ落ちていないし、壁紙もまだ白く真新しい。

 しかし、掃除機を持ち歩くパートタイムのおばちゃん達が触れてはいけない区画、個人の机の上や鍵のかかった棚の中は、取り出す順番を間違えれば直ぐに崩れてしまいそうなほど堆く積まれていた。それらの多くは、製品の試作品や紙の資料が詰まったファイルだった。その他にも、個人の趣味で置かれた小物類や夜食用のカップラーメン、果てはタバコや菓子の空き箱といった明らかにゴミとわかるものまである。

 その中の一つが、日向の机だった。机の上に並べられた栄養ドリンクの褐色の瓶が仕事の壮絶さを物語っている。今も日向は、個人で持ち込んだサブモニタを見つめ、必死にプログラムのバグを探していた。

 日向の所属する課は宇宙戦艦の慣性制御プログラムを開発していた。担当は国から請け負っている新型戦艦だ。コードネームは"lily"という。

 慣性制御は現代の宇宙航行では必須の技術となっていた。むしろ慣性制御なしでは宇宙船は造れないと言っても過言ではない。艦内に疑似重力を発生させ快適な環境を提供するだけでなく、加減速や旋回時の加速度のキャンセルし乗員を保護する。船体を構成する構造材も慣性制御で守られる前提で軽量化され、強度設計されている。

 慣性制御なしでは旧世紀の宇宙船と大差ない性能となっていたに違いない。

 反面、高速な演算を必要とするため、技術的な課題が多く残っていた。今も慣性制御プログラムは多くのバグを抱え、日向の頭を悩ませていた。

 いつもの日向は自分の机の前で難しい顔をして、忙しそうにプログラムを打ち込んでいた。特に今日は突然に割り込んでくる仕事も多く、手を抜く暇もない。しかし、今日の日向は僅かに顔を綻ばせながら、楽しそうに画面を見つめていた。自席が青いパーティションで区切られていなければ、周りから汚物でも見るような視線を浴びせられていただろう。それほどににやけた笑顔だった。

 日向の腕には今朝乗った電車の時間と車両が、のたうち回ったような字ではあるがしっかりと書かれている。パソコンにも同じ文字の書かれた付箋が貼られていた。

 日向は単純な男だった。人からおだてられればつい乗ってしまうし、辛いことがあれば直ぐに落ち込んでしまう。服屋の店員が苦手で、二度目の偶然を期待してしまうような単純な男だった。


 業務が一段落した日向が壁に掛けられた丸い時計を見上げると時刻は八時を過ぎていた。既に定時を回っていたが、辺りにはまだ多くの人が残っている。終電で帰ることの多い者にとって、今日という日はまだ四時間以上残されていた。

 日向は僅かに眉を寄せながら右に視線を送る。日向から二つの机を挟んだ一番端の席が昼過ぎからずっと空いていたのだ。その机の横には小さな棚が置かれ、他の人達よりも多くのスペースが確保されている。しかし、積まれた資料の量は一際多く、日に焼けた古い紙の束も目立つ。持ち主の歴史と多忙さが見て取れる資料だった。

 日向はパソコン上でスケジューラを開き、机の主である課長の予定を確認した。二時から三時までは現在のプロジェクトの方針を決定する重要な会議が入っている。その後には課内での打ち合わせも入っていたが、戻ってきた様子はない。やはり会議は難航しているのだろう。

 例の女王陛下暗殺事件の影響により、顧客より納期変更の要求があった。一年先に設定されていた納期を一ヶ月先にして欲しいと主張された。新型の宇宙戦艦のお披露目により、国内を活気づけたいという狙いがあるという。

 顧客の都合による納期変更はよくあることであった。しかし、これまで多くの仕事をこなしてきた日向にとっても、これほどまでに無茶苦茶な要求は初めてだった。とりあえず動くものがあればいいということだったが、一ヶ月ではそれすらままならない。

 具体的なスケジュールは確定していなかったが、今も多くの人達が早まるであろう納期に対応すべく、終電時間ぎりぎりの攻防を繰り返していた。

「今日も帰られるのは終電かな」

 どこかに埋もれているであろうバグを探しながら日向は独り言を呟いた。


 二時間後、ようやく課長が戻ってきた。その顔は血色が悪く、表情も暗い。会議の結果を訊かずとも、よくないことは明白だった。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫なように見えるか?」

「いえ、見えないから訊いているんです」

「納期が一週間後に決定した」

「すいません。言ってる意味がわかりません」

「言葉の通りだ」

 日向は念のためカレンダーの日付を確認する。

「エイプリルフールは半月ほど先ですよ」

「嘘でも聞き間違いでもなく、一週間後だ。正確には月曜の朝までだから十日後だな」

 無謀とも言える納期変更だった。一週間ではまともに動かせるどころか、船そのものが用意できないだろう。今も造船所では昼夜を通して船体の組み立て作業が進められているが、一ヶ月先の納品を見越した無茶な行程だった。

「一週間後の新女王の就任式に合わせたいらしい」

「無茶苦茶じゃないですか。ハードの方が用意できないでしょう?」

 ソフトは一ヶ月先だろうと一週間先だろうと、まともに動くか怪しいソフトを放り込むだけでよかったが、ハードはそういうわけにもいかなかった。組み立て作業に要する時間だけではなく、部品を作るための期間もかかってしまう。一ヶ月先の予定ですら試作品の部品を手作業で修正して使うと言っていたほどだ。

 廊下ですれ違った同期は既に虚ろな目をしていて、「不眠不休で働いている」と力なく言っていた。彼の目の下に作られた隈は、うちの部署の誰よりも濃く、会社に泊まり込んでいることも想像に難くない。

「試験用の試作機をベースに使える艦をでっち上げる」

 課長は半ば吐き捨てるように言った。

「それならかろうじて可能ですが、奴らは何を考えてるんでしょうね。まともに動かない艦で戦ったところで、勝てる見込みもないでしょう」

「まぁそう言ってやるな。あっちだって必死なんだ。この国の象徴とも言える女王陛下がお亡くなりになって、押さえるもののなくなった二つの政党は激しく争いだした。国は内部から崩壊しつつあるような状況だ。更に国を治める新しい女王陛下はまだ幼い。何か力の象徴が欲しいのだろう」

「それはわかりますが……」

「まぁ仕事なんてそういうもんだ。誰かの都合で別の誰かが迷惑を被る」

 課長が悟ったような表情で言った。昔は今よりもひどかったと、忘年会の席で年寄り特有のありがた迷惑な昔話をされたことがある。きっと今より凄い修羅場をくぐってきたのだろう。

 課長はもう四十を超えていたが、子供どころか結婚すらしていなかった。特に顔や性格に問題がある方ではない。日向の主観的な判断の下に述べるなら、女が放って置くはずがないとまで言えるレベルであった。しかし日向は課長と入社以来の付き合いだったが、これまでに一度も課長の浮いた話を聞いたことがない。日向は自分も将来は課長のようになると思うと不安で仕方なかった。

「顔色が悪いな。ちゃんと休んでいるか?」

 突然課長が心配そうに日向の顔を覗き込みながら訊いてきた。確かに最近は残業時間も多く疲れ気味だった。それでも課長の疲れ具合に比べればまだ余裕があると日向は軽く握っていた拳に力を込める。

 日向は少し頭を巡らせた後、絶好の機会であると気がついた。一応言うべきことは言うべきだろう。

「そういうなら人を増やしてくださいよ。仕事の量と人数があってませんよ」

「一応、人事に申請はしているんだがな。あんまりきつかったら遠慮なく言ってくれよ、何とかするから」

「はい。まだ大丈夫です。任せて下さい」

 何とかするとは言っても実際にどうにかなるわけでもない。課長が一言言ったくらいで下りる予算ならもう既に下りているだろうことは日向にもわかっていた。

「そうかそうか、それはよかった。実は月曜朝の会議に使う資料を作ってくれる人を探していたんだよ」

『課長に隙を見せてはいけない』

 課内で言い続けられている格言だった。日向が知っている限りでも多くの人間がこうやって仕事を増やされていた。しかし時は既に遅く、課長は机の上に複数のファイルを広げ意気揚々と説明を始めだした。広げたファイルの多さが資料作成にかかる時間を如実に示していた。

 その後、資料の説明を終えた課長は、「出来たらメールで送っておいてくれ、明日確認する」とだけ残し先に帰ってしまった。

 時刻は午後十時半。日向が机の上に張られた時刻表を確認すると終電は零時だった。火星は自転周期が異なるため、地球よりも一日が四十分長い。十分の移動時間を考えると残りは二時間である。

 日向は頭の中でおおざっぱに必要な時間を見積もった。終電に間に合うかどうかは微妙なところだった。かといって課長のように明日の休日に出勤して貴重な時間を潰すようなこともしたくはないし、泊まり込みで働くつもりもない。意を決した日向は嫌々ながらも、いつもより真面目な顔でまだ白紙のモニタ画面を睨み付けた。


 二十四時三十分、資料が完成させた日向は、メーラーの宛先リストから課長のアドレスを抜き出し添付ファイルの設定すると、本文も書かずにメールを送信した。その間も椅子から腰を半分浮かせ、空いている左手で机の下に置かれた鞄を探している。

 パソコンがシャットダウンを始めると、日向は再び時計を確認した。ゆっくりしていられるほどではなかったが、終電にはまだ十分に余裕があった。

 日向は浮かせていた腰を伸ばし、顔を上げる。開けた視界の向こう、そこには誰一人として残っていなかった。照明は自席付近以外全て落とされ、緑色の非常口の文字だけが明るく輝いている。終電に合わせ、全員帰ってしまっていたのだった。

 日向のいるフロアでは最終退場者が施錠して帰るルールとなっていた。出入り口は広いフロアの四隅に配されていたが、一つの出入り口までは一分とかからずに往復することが出来る。しかし一人ではフロアを一周する必要があるため、どうしても時間がかかってしまうのだった。

 日向はタイルカーペットの床を走り、大急ぎで鍵をかけて回る。途中スチール棚に靴をぶつけてしまい、悶絶しつつも全力で走った。最後に夜勤の守衛に鍵を預けた頃には5分が過ぎてしまっていた。

 それでもなお薄い希望にしがみつく日向は、既に切らせた息のまま駅までの道のりをひた走った。これほど走ったのは何年ぶりだろうか。日向は酸欠で朦朧とする意識の中、記憶を辿った。三日前寝坊したとき以来だった。

 汗だくで駅にたどり着いた日向を待ち構えていたのは、最終電車の過ぎ去った寂しいホームだけだった。

「これからは余裕を持とう」

 日向は自らの過ちを悔いるように呟いたが、三日前と同じく白い息となって消えていくだけだった。


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