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1章-2

 電車の発車を告げるベルがホームに鳴り響く。日向は急いで電車へと乗り込んだ。

 否、詰め込まれた。それはもう押し込められたと言ったほうが正しい位だ。

 あばら骨を押しつぶされるような圧迫感。

 一歩間違えればえん罪とも戦うこととなろう緊張感。

 今まで幾度となく満員電車と言う戦場を味わってきた日向でも、耐え難いほどに人がひしめきあっていた。

 日向は鞄を床に置くと両足の間でしっかりとホールドした。置き引きに遭わないためだ。さらに吊革を両手で握る。もちろん痴漢えん罪に備えるためだった。地球時代の痴漢えん罪被害は、この遠いの地でも滅びず生き残り、重大な社会問題となっている。

 入社して間もない頃、日向を含めた新入社員が会議室に集められた。ホワイトボードの前に立つ課長は「痴漢と間違えられると会社の信用にも関わるので何があってもこの体勢を崩すな」と厳命した。まだ真新しいスーツに身を包んだ日向は、会議室で必死の形相で両手を上げる課長の姿に中間管理職の大変さを実感した。

 李下に冠を正さずと言われるように、一瞬の隙も見せず両手を上げる日向は、痴漢に間違えられたことが一度もない。戦場での不自然な動作はいつ命取りとなるかわからないのだ。

 案の定、日向の目の前には一人の女性が立っていた。

 紺色のスーツに身を包み、首もとと袖口からはブラウスの真っ白い布地が覗いている。上着のボタンはすべて留められ、女性特有の丸みを帯びつつも細い体をより細く強調していた。一見、華奢とも思えるが、まっすぐに伸ばされた背が引き締まった肉体を連想させた。

 座席と扉の間に位置するデルタ地帯、ドアが開こうとも人に流されぬ吹きだまりで、ドア側に顔を向け、悠々自適に本を読みふけっている。顔までは見えなかったが、その佇まいには余裕すら感じられた。

 日向に向けられた背に流れる黒髪は艶やかで、腰まで伸びるほどに長いのに乱れ一つ見られない。

 黒い髪は近頃の葦牙国のブームだった。ブームの発端は葦牙国を治める女王陛下の演説だ。普段は穏やかな女王陛下が熱い口調で平和を訴える姿に誰もが魅了された。それ以来、女王陛下の長くて黒い髪を真似る女性が増えたのだった。もっとも手入れが大変なため、ここまで長い女性は少ない。よっぽど熱心な女王陛下のファンなのだろう。

 日向の頭にひとつの疑問が沸き上がる。

『果たしてこの女性はどんな顔なのだろうか?』

 男の悲しい性で、ついつい黒髪に似合う美人を想像してしまう。にもかかわらず、こういうときは往々にして裏切られることも日向は経験で知っていた。

 このまま顔を見なければ幻滅することもなく、綺麗な黒髪を見たと一日幸せな気分で過ごせるだろう。しかし、日向の好奇心は是非とも顔を拝んでみたいと主張していた。少し覗き込むだけでその願いは容易に叶えられる。

 しばらくの思案のあと、日向は顔を見ないと心に決めた。顔など関係ない。ただこの綺麗な髪を見ていたいのだと自分に言い聞かせた。しっかりと目に焼き付けよう。

 女王陛下の見事な黒髪ももう見ることができないのだ。これほど綺麗な黒髪を見られることはしばらくないだろう。

 一ヶ月前の日曜日。女王陛下は他国の首脳との会談の会場となるホテルに降り立った。その車を降りる瞬間に暗殺されてしまったのだ。マスコミに紛れ警備の裏をかいた一瞬の出来事だった。

 日向は改めて黒曜石のように神秘的な髪へと目を下ろす。

 一つ異質な白があった。

 よく見るとそれは小さな紙片だった。白いプラスチックの輪の先で、電車の揺れに合わせ左右に揺れている。

 一人暮らしを始めてから独り言の多くなってしまった日向は、黒い幾本もの線の上に書かれた文字をつい読み上げてしまった。

「……きゅうせんはっぴゃくえん」

 女性は本に落とした視線を上げ、日向を不振そうに睨みつけた。


 日向を見上げる顔にも、彼女の服装と同様に一分の隙もない。

 縁のない銀色の金属フレームの眼鏡は、冷たく堅い光を放っている。さらにその奥から向けられた視線も日向の不可解な言葉の意図を探るように表情を伺っている。その鋭い視線に日向の背は嫌な汗に濡れた。

 その値札に書き込まれた価値からは想像できないほどにきっちりと着こなしたスーツと相まって、彼女の周りには他の人を寄せ付けない透明な壁のようなものが横たわっているように思えた。

 時間にして数秒、僅かな時間の観察の後、特に害がないと判断した彼女は再び読みかけの本へと顔を向けた。しかし、その背中には先ほどまでと同様に九千八百円の文字が左右に揺れ動いている。隙のない見た目とのギャップに日向は思わず笑いがこみ上げてきた。

 慌てて口元を隠すために吊革を握った手を離したとき、日向は不幸にも彼女の読みふけっている本の上部に書かれているタイトルを見てしまった。

 日向は堅い経済書や資格試験の参考書のような予想していた。もっと俗なものを読んでいたとしても、著作権すら切れているような古く有名な文学だろう。しかし書かれたタイトルは予想を裏切るものだった。

『恋に恋する鯉』

 最近、密かなブームになりつつある木星の恋愛小説だ。内容は恋に恋する年頃の鯉が金魚の一途な思いに本当の愛を知るという切ない真面目な恋愛小説だった。しかし、その奇抜さを狙ったタイトルは、こらえた笑いにとどめを刺すには十分過ぎる威力を持ち合わせていた。

 再びこちらに冷たい視線が注がれる。先ほどよりも数段冷たい凍り付くような視線だった。彼女の無言が言葉を促すように緩やかな圧力を放っている。

 日向は子供時代に経験したような、教師か両親に怒られるような居心地の悪さを感じながら、本当のことを言わなければいけないと決心した。彼女の雰囲気に物怖じすることなく、初めから本当のことを言っていれば何も問題なかったのだ。

「笑ってすいません。スーツに値札がついていますよ」

「え? うそ?」

 彼女は身をよじり必死に値札を探した。値札は襟の位置にあり、少し体をひねったところで見つけることはできそうにない。

「ここですよ」

「あ、ほんとですね、昨日急いでいたから外すの忘れたのかなぁ」

 日向が少し躊躇いつつ髪の間で揺れる値札を指で押すと、彼女の手が日向の指ごと値札を掴んだ。彼女の行動の突拍子もない行動に、日向は笑いを隠すために押さえた口元をさらに腕で覆いなおした。

 動いた拍子に彼女の肩にかけられた革のバッグが、すぐ傍に立つ男にぶつかった。男はドアにもたれかかり立ちながらに眠っていたが、僅かに目を開けると煩わしそうに彼女を睨みつけた。しかし、彼女の姿を確認するとすぐに小さな子供を見守るような柔らかな表情に変化した。

 彼女の着込むスーツは生地こそ値段相応に薄く安っぽいが、センスがよく彼女の細身の体をよりすっきりと引き立たせていた。一見キャリアウーマンと言った印象だったが、それに見合わない彼女の愛嬌のある表情や仕草をより際立たせていた。銀色の眼鏡も落ち着いたアクセントとなっていてすごくお洒落だ。

 日向もいつの間にか同じような優しい表情になっていた。

「混んでいるので降りてからの方がいいですよ」

「ありがとうございます」

 幸せそうな表情で何度もバッグをぶつけられる男を少し不憫に思った日向が注意すると、彼女は耳まで真っ赤にしながら礼を言った。


 駅に着くと彼女は襟元の値札を気にするように、首の後ろに手を回しながら電車を降りた。奇遇にも日向の会社の最寄り駅であったため、日向も彼女の後ろに続いた。

 今すぐにでも値札を取りたいのか、降りてすぐ、黄色い線の数歩先で上着を脱ごうとした。

 ドアの左右は乗車するタイミングを待つ二つの列でふさがれ、真ん中には彼女が立つ。電車を降りる誰もが迷惑そうに眉をひそめた。

「端に行った方がいいですよ」と日向は軽く背中を押した。

「あ、すいません」

 彼女はそのまま前へと進み、壁際に移動した。

 彼女にはどこか放ってはおけない雰囲気があった。美人特有の近寄りがたさがなく、作り上げられた天然キャラのようなわざとらしさもなく、ただ不思議と人を引きつける親しみやすさがあった。

 左腕に巻かれた時計に視線を移すと、始業時間まではまだ数分だが余裕があった。日向は素知らぬ振りで自動販売機のブラックコーヒーを購入した。

 ぎこちない動作で缶のタブを起こすと、コーヒーから暖かな湯気とともにいつも通りの安っぽい匂いが立ち上った。

 日向は遠目から彼女を観察していた。きっちりとスーツを着込んだ姿も良かったが、ブラウスだけの姿もさわやかでまた違った趣があった。

 彼女は綺麗な顔を僅かにゆがませながら、白いプラスチック製の輪を必死に引っ張っている。彼女の上着は半ば無理矢理に引っ張られ、薄っぺらい生地に少し皺が寄っていた。

 しかし輪はわずかに伸びるばかりで、少しも切れる気配がない。

 日向は、ハサミが見つからず、面倒で同じように引きちぎろうとした時のことを思い出していた。指に輪が食い込むばかりで、とても引きちぎられるような強度ではない。そのときは諦めて、服の内側にセロハンテープで値札を留めて誤魔化した。

 彼女は本を読むために掛けていたであろう眼鏡を外し、ケースにしまった。眼鏡のない顔もぱっちりとした目の大きさが強調され、非常に愛らしい。

 大きく深呼吸をし、意を決したように大きく口を開けた。最後の手段、その白い歯で噛み切ろうと言うのだろう。

「あのー」

 流石にこれ以上は見かねた日向が声を掛けた。

 綺麗に並んだ彼女の歯をそんなことに使っていいはずがないと日向は憤った。歯を咀嚼以外の用途で使って許されるのは乳酸菌飲料の蓋までだ。

「はひ?」

 餌をねだるひな鳥のように大きく口を開けたまま返された返事に、またしても日向は吹き出してしまう。

 ポケットの中にあめ玉の一つでも入っていたのなら、放り込んでみたかったが、あいにく持ち合わせがなった。非常に残念だ。

「あ、また笑いましたね。失礼な人です」

 彼女は少しおどけた口調で怒った。

「すいません、つい。先ほどのお詫びも兼ねて、こんな物をお貸ししようかと思ってたのですが、こんな失礼な人のものなんて使いたくないですよね」

 申し訳なさの欠片もない謝罪とともに、今日のラッキーアイテムを取り出す。

「そうですねぇ。あんまりお借りしたくはないのですが、そのハサミさんがどうしても切りたいと言うんでしたら切らせてあげてもいいですよ」

 さぁ切れとばかりに、ナイロンの輪をつまみ上げ日向に向ける。

 しかしそれは叶わなかった。

「すいません。実は手が余り動かせなくて、自分で切ってもらえますか」

 日向はネタを真面目に返す申し訳なさを感じながら、ハサミの持ち手を彼女の方に向け差し出した。

 彼女は日向の手首を数秒見つめていた。そこにはライブイベントで買った少しよれたリストバンドが巻かれている。ろくに動かせない手と隠すようにつけられたリストバンドを見れば、その下にあるものは殆ど絞られてしまう。

 嫌われるだろうか。軽蔑されるだろうか。日向の心に暗く重い感情が心に潜り込んできた。

「私もこのバンド好きなんですよ」

 それだけ言うと何事もなかったようにハサミを受け取り、日向の悩みの種など大して気にもとめずあっさりと断ち切った。

「またつまらぬものを切ってしまった」

 また冗談を言いながら名刀を日向に向ける。優しい笑顔だった。

 多少なりとも理解の得た親しい者以外の多くの人間は、リストバンドの下のものにいい顔をしない。その反応は二つに分かれた。

 一つは腫れ物に触るように扱う。もう一つはあからさまな嫌悪感を示す。どちらにしても日向とって喜ばしい反応ではなかった。

 彼女は再び上着を羽織る。

「ありがとうございます。助かりました」

「何も言わないんですね」

「あ、えっと、あの曲が好きですよ」

「バンドの話ではなくて、手首の話です」

 指を振り音程を取りながら歌い出された鼻歌を止めながら日向ははっきりと口にする。

「はい? 私の部下、いえ後輩にもいますけど、それがどうかしたんですか?」

 彼女は心底不思議そうに問い返す。日向の胸に布団に包まれた時のような心地良い安堵感があふれた。

 きっとこの人には些細なことなのだろう。無視する訳でもなく、触れるでもなく、ただ当たり前に受け入れているのだ。 

 またこんな風に話してみたい。しかしハサミを貸した程度で連絡先を聞くわけにもいかず、日向の心はプラトニックな下心と気取った理性の間で揺らいだ。

 返事のない日向に少し首をかしげた後、彼女は腕時計を確認する。

「あ、では重要な会議がありますので、失礼します。ありがとうございました」

「どういたしまして」

 少し駆け足で人混みであふれる改札へと消えていった。


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