4章-2
時間があまりないと言われ日向は少し早足で通路を歩く。かといって走るほど急ぐ必要もなかった。皆、戦闘の準備に忙しいのだろうか、誰かとすれ違うことは一度もない。
道すがら課長から辞令を受け取った日のことを思い出した。
会議室で出張を告げられた日向は、机上に並べられた三枚の紙にサインをさせられた。
一昔前は旧態依然な紙媒体は排斥するような運動もあったが、現在も他の媒体にその地位を譲ってはいなかった。移行のためのコストや規格の統合など、現実的な問題もあったが、信頼性の面から不動の地位を築いていたのだ。
乗艦のための手続き、入艦証の発行手続き、機密保持の誓約書。それらの文書に一字一句見落とさぬよう慎重に目を通し、サインを入れていく。
読んだところでただサインをすることには変わらないのだが、変に几帳面な性格上、隅から隅まで念入りに読まないと日向の気は済まなかった。課長もそんな日向の性格を知っているため、黙って手元を見つめている。
サインを入れてから念のためもう一度読み返すが、特に問題となるような記述は見あたらなかった。。
机の上で二度ほど落とし、きっちりと角を揃えて課長に渡す。簡単に確認された後、封筒にしまわれた。
最後に一枚の書類が手渡される。
「こっちにサインは必要ない。いざと言う時のために持っていて欲しい」
紙に目を落とすとそれは雇用契約書だった。サインをすれば、日向はこの国を守る警備会社の社員となる。意外な内容に日向は思ったことを思わず口にした。
「死んでこいということですか?」
法律や市民団体のことを考えると、そんな危険な場所に一般の会社の社員を向かわせることは企業イメージとしてマイナスになるのだろう。
「サインはしなくても良いと言っているだろ。戦闘が起これば脱出艇で脱出していい契約になっている」
「じゃぁ何のためですか?」
「もしも何らかの事情で脱出出来なかった場合のためだ」
それだけのはずがない。かといって日向は何も言えず、無言が部屋を満たす。
「ここだけの話、会社としては何かあった時、艦を沈めたくないそうだ」
「それで俺に艦に残って何とかしろと」
「そうだ。でもそんなものに法律上は何の拘束力も持たない。だから絶対に生きて帰ってくれ」
課長は中間管理職の苦悩を拳で堅く握りしめ、震える声で言った。
通路を踏みしめる足の速さは僅かに鈍らせながら、日向は記憶から意識を引き上げた。
一介のエンジニアとしてこの艦に残る理由はある。また一介のサラリーマンとして残らなければならない理由もまたいくらでもあった。
エンジニアとしてのプライド。
製品への愛着。
会社からの重圧。
社内での立場。
顧客との関係。
並べ上げればキリがないほどだ。
しかし、自身の命の重さには圧倒的に届かない。それら全てを合わせ天秤の片側の皿に勢いよく乗せたとしても僅かに動くことすらないだろう。
詰め所へと向かう日向の足を鈍らせたものは一体何だというのだろうか。
巡らせた思考が白百合の乗組員へと辿り着いた時、不動の皿は僅かに動いた。
先ほどまでの会話から察するに勝算は十分にあるように聞き取れた。しかし、百パーセントと言うにはほど遠い。数分前交わした会話が最後となる可能性は十分にあったのだ。
大丈夫だ、大丈夫だと日向の心は言い訳のように繰り返す。
日向にはまだ出来ることがあった。百パーセントにはほど遠い、しかし決して少ないとも言えない確率を少しでも引き上げることが出来る能力を持っている。だから本来なら誰でも出来る簡単なソフトのアップデート作業が回ってきたのだった。確認するように二つの拳を握りしめてみた。
しかし天秤の傾きは依然変わらず、足を鈍らせた理由はわからない。まだ時間に余裕があるといっても、ゆっくりと悩むほどの時間は残されてはいなかった。正体不明の迷いだけが日向の両肩に重くのしかかっていく。
気づけば日向はいつのまにか、格納庫の横にある整備班詰め所の前までやってきていた。
悩むことに夢中で、気づかなかったらしい。
扉の前に立ち尽くし更に思考を巡らせた。本当にこのままで良いのだろうか。焦りと迷いが日向の心を乱す。
そのとき、内側から扉が開かれた。
「どうした? 入らないのか?」
「いや……」
秋葉が扉の磨りガラスに写った日向の陰を見つけ、声を掛けてきたのだ。答えの見つからない日向は言葉を濁した。
「ゆかりから話は聞いている。念のため出来るだけ早く脱出させたいから行くぞ」
手を取り格納庫へと引っ張ろうとするが、日向は動かない。
「なぁ俺はどうしたらいいんだろう」
「脱出艇に乗るんだろ。もう部下に準備はさせてるから早くしろ」
秋葉は更に手の力を強める。普段から重い機材を扱い、引き締まった体を持っていると言っても大の男を無理矢理動かせるほどの力はない。二人は扉の前で立ち尽くした。部屋の中に並んだ班員の若い顔達が心配そうにこちらを見つめている。
日向は未だに自分の感じている迷いの正体があまりよくわかっていなかった。
それは自分達で作り上げた製品を壊したくない技術者魂ではない。
かといって会社で待つ仲間への負い目や会社への義理でもない。
もちろん死地に赴く少女達を助けたいなんていう安っぽいヒロイズムでもない。
日向は命を捨てる覚悟もないままに、戦艦に乗り込んでしまった自分自身を呪った。
「良いから早くしろ。私だって忙しいんだ」
痺れを切らせた秋葉は怒気を孕んだ声で促すが、日向は動けない。
「あの約束を気にしているのか? なら大丈夫だ。私もゆかりもお前が思っているよりもずっと強い」
秋葉は力強い声で言ったが、そんなはずはないことを日向は確信していた。
三十にも届かない年齢で人が強くなれるわけがないのだ。いや、所詮人はいくつになっても弱いものなのだ。現にあの日のゆかりは壊れそうなほどに弱かった。
終電を逃して入ったバーで夜通し飲み明かしたあの日、ゆかりは負いすぎた責任と無力な後悔に押し潰されそうになっていた。強いという言葉にはほど遠く、流した涙は受け止められないほどに脆かった。
ゆかりの力になりたい。支えになりたい。
天秤の二つの皿が大きく揺れ動いた瞬間だった。
しかし、揺れ動くばかりの針はどちらが重いか示してはくれない。
今のゆかりと日向の距離は酷く中途半端なものだったのだ。自分には関係ないと突き放せるほど遠くにはいなかった。しかし手が届きそうなほどには遠く、抱きしめられないほどには近い。当惑した距離感は針を更に揺らすばかりだった。
「お前が残ったからって何が変わるんだ? 何も変わらないから安心して逃げろ」
秋葉が腕に巻かれた時計を確認しながら問い正した。しかし、残念ながら日向は変わるだけの力を持ち合わせていた。あの時は何も知らず、何も言えず、無為に消えていった想いを、今は実現する出来るだけの状況が目の前に揃っていた。
「なぁこれどう思う?」
日向は袖をめくり、その下のリストバンドの更に下にあるものを見せた。
秋葉の顔が一瞬強ばった。翠ほどあからさまに嫌悪感を示さないにしてもやはりそういうものなのだろう。あの時のゆかりのような自然さは到底誰にも出来ようはずもない。
「あ、おい」
日向は答えの出ないままに走り出した。
通路の堅い床を力一杯蹴りながら、ブリッジに向けて走る。それほど長い距離ではないのに酷く息が上がった。社会人になってからこれほど真剣に走ったことがなかった。走る機会も電車に乗り遅れそうな時くらいだ。
「普段からもっと運動した方が良いな」
仕事にかまけて体調管理を怠った自分を悔やみ誰もいない廊下で日向は一人呟いた。
覚悟はまだ決まらない。それでも足はブリッジに向かって動いている。
一歩踏み出す度に『死にたくない』という当たり前の本能が浮かび上がる。
しかし浮かび上がる度に、大丈夫だと根拠のない励ましで塗り潰していく。
心理上の不都合は義務感と責任で上書きしてしまえばいい。思いつく限りのありとあらゆる言い訳で説き伏せればいい。社会人になってからずっと続いている日向の悪い癖だった。
入社してから何年もの間、まともな業務は一切無かった。誰がどうみても明らかに無茶な納期や実力に見合わぬ仕事を押しつけられた。それらを潔く断る勇気もなく、されど誠意的にやる元気も無く、毎日襲いかかる苛立ちと怠惰を義務と責任で無理矢理に塗り潰しながら過ごしてきた。
根本的な問題に触れることもなく、義務と責任ばかりを問うてきた。
問題のすり替えは大人の特権だ。例えそれが自らの首を絞めることになろうともだ。
日向にカタルシスは訪れない。
若さも勢いも持たない日向には抑圧を壊すことなど出来ないのだから。大人とはそれほどまでに弱い存在だった。
地面を叩く右の足が確率論で恐怖を踏み潰す。左の足が経験で不安を押し潰す。自分を誤魔化す方法だけは嫌と言うほどに身につけていた。
交互に繰り返しブリッジの扉の前にたどり着いたころには、いつも通りの一介のサラリーマンとしての仮面が出来上がっていた。
日向は精一杯の笑顔を取り繕い扉を開けた。




