1章-1
火星歴一五三年三月一三日、南日向は今年五十三回目となる試練と対面していた。
火星に存在する葦牙国、自身の所属するFN重工業から割り当てられた社員寮の一室で、目を塞ぎ布団をかぶり、じっと息を殺すように眠っていた。眠っているといっても意識はあらかた覚醒している。まどろみの中で必死に自身との葛藤を繰り返しているのだった。
時刻は朝六時五十分。もう既に日は昇り、窓に吊されたカーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。布団の中から手を伸ばせば全てに手が届くほどに狭い四畳一間は温もりと静寂に満たされている。
『ピピピピピ!!』
突如、部屋中に耳障りな電子音が鳴り響く。
日向は顔をしかめるよりも早く布団から手を伸ばし、目覚まし時計の上部から出っ張ったボタンを叩きつける。何度も苛立ち紛れに投げつけられ、ヒビの入ってしまっているプラスチックの筐体はギシリと音を立てた。
動いた拍子に布団の湿っぽい匂いが日向の鼻孔ををくすぐった。もう何ヶ月も布団を干していない。
日向は今日も懲りずに時間ギリギリまで寝ようとしていた。三日前に寝過ごしてしまい、駅まで全力疾走したばかりというのに。思い返せば、新人の頃から朝のランニングを繰り返していた。
日向は再び眠りについた。
『ピピピピピ!!』
スヌーズ機能で動き出した目覚まし時計を日向は再び叩きつける。重いまぶたを上げ時計の文字盤を見つめると、短針が七の近くを示していた。時刻は恐らく六時五五分。長針は半年前に投げつけた時に折れ、透明な壁の向こうで力なく横たわっている。
この動作も本日五度目となる。朝のランニングを強制されない限界は六度だった。
何かを決意したように日向は目を閉じる。残された最後の五分間を大切に抱え込むように布団の中の身を丸めた。
会社に行かなければならない義務感と会社に行きたくない願望のせめぎ合い。それが毎日繰り返される日向の試練だった。至極普通のありふれたサラリーマンの悩みだった。
日向は半ば覚醒しかけた頭で思考する。
『技術の発展は人を不幸にする。特に目覚まし時計のスヌーズ機能は人を不幸にする。絶対的な悪徳だと言っていいし、発明した人間は馬鹿に違いない。俺が目覚まし時計の開発に携わっていたのなら、きっとこんな無駄な機能は付けないだろう。一度しか鳴らないのであれば、こんな中途半端な眠りに三十分も浪費せず、一度ですっぱりと起きて有意義な三十分を過すことが出来るに違いない』
意味不明な理論だった。商品の企画を行うのはエンジニアである日向の仕事ではないし、スヌーズ機能の付いていない目覚まし時計だって存在する。しかし寝ぼけた頭は更に加速した。
『つまり技術の発展に寄与することは悪だ。会社に行きエンジニアとして仕事をする自分も悪なのだ。人類の幸福のためにも会社へ行くべきではなく、溜まりに溜まった有給を今日こそ……』
「そう言うわけにもいかないよなぁ」
『ピピピピピ!!』
六度目の電子音が鳴り響くと同時に一人呟いた。
幸いなことに今日は金曜日。もちろん明日、明後日は待ちに待った休日となる。
「……明日は休みだし頑張ろう」
日向は自分に言い聞かせるように呟くと、両腕に力を込めゆっくりとした動作で万年床となりつつある布団から這い出した。まだ瞼は重く、無音だと二度寝してしまう心配があった日向は、枕元に置きっぱなしになっているリモコンの電源ボタンを押し込む。薄型テレビの小さな画面に映し出されたニュースキャスターは、昨今の世知辛い世界情勢を淡々と読み上げている。その声は、目を覚まさせるには静かすぎたが、見入ってしまって遅刻する訳にもいかなかった。
オーブントースターから焼き上がった食パンを取り出して、ブルーベリージャムを不器用に塗りたくる。口の中に押し込むと甘酸っぱい味覚が口いっぱいに広がったが、悠長に味わっている時間はなかった。ブラックコーヒーで半ば無理矢理流し込み、いつも通りの決まった順番で身支度を調える。
特に何かジンクスあって毎日同じ順番に行っているわけではない。日向は迷信など本気で信じてはいなかった。毎日繰り返される動作を最適化した上で、このルーチンワークに落ち着いているだけだった。
日向はいつも通りにYシャツのボタンを留めながら、壁に掛けられたカレンダーで日付を確認する。大きく印字された取引先の会社名の上に数字が七つずつ並んでいる。今日の日付がFriという三つの英字が先頭に立つ列に記されていることを確認すると、安堵の吐息を漏らした。
十三日の金曜日であることも同時に気付いた日向は一瞬ボタンを留めようと動いた手を止めた。一秒にも満たない僅かな間であった。
信じてはいないが気にはするというのが本音だった。そもそも十三日の金曜日が不吉な日だと言われ出したのは地球でのことである。暦の全く異なる火星では意味のある日とは成り得なかった。とはいえ、多くの火星の人間に浸透している迷信でもあった。
日向は自身の頬を両手で強く押さえ目を閉じる。いつもは行わない動作だ。
「大丈夫。大丈夫」
日向は自分に言い聞かせるが、そこに明確な根拠は見られなかった。論理的に否定できるような要素は何もない。理論やデータといった背景に基づく事象であれば、事象がないことを証明するに至らなくても、そこに至る論理を否定することが出来る。しかし、それがない迷信を否定することには、悪魔の証明が必要なのだった。
皺の寄ったスーツを着込み、会社用にしている黒の鞄にIDカードが入っていることを確認すると、日向はテレビのチャンネルを変えた。画面には十二星座の占いが表示されていた。いつも通りなら蟹座の占いが表示されるはずだったが、今日は最適化されたルーチンワークに異なる動作を入れてしまったため、獅子座の占いまで進んでしまっている。
獅子座のあまり良くない運勢の後、直ぐに日向の乙女座の運勢が表示された。大きく赤い文字で表示された大吉の文字が目に入り、日向は大きく息を吐き出した。恋愛運が絶好調、仕事運は悪いので調子に乗らないこと。ラッキーアイテムはハサミ。
日向は全く整理されずにエントロピーが大きくなりすぎた机の引き出しを開けると、あまり使わないようにしている安物のハサミを取り出した。
最近は実家の母親と電話する度に「もういい年なのだから結婚しろ」と口うるさく言われていた。そのたびに声を荒げつつ電話を切った。もう結婚してもいい年齢だと言うことは自分でもわかっていた。多くの友人が既に結婚しているし、子供の写真の印刷された年賀状を受け取る度に胸の詰まる思いをしていた。相手がいれば結婚したいくらいだったが、独り言が癖になるほどに一人暮らしの染みついた。
ハサミに手を合わし、頭を下げる。硬貨一つ分の価値しかない工業製品にどれほどの効果があるのか日向は疑問に思ったが、悪魔の証明を盾に無理矢理信じ込むことにした。するとこんなハサミでも少しくらいは効果があるような気がしてきた。鰯の頭も信心からとはよく言ったものだ。