candle of the advent 前編 作:ちぐ
……あまい、あまい。
甘いかおり。蜜の味。
ねぇ、ほしくてたまらないでしょう。喰い尽くしたくて止められないでしょう?
はやく集めてきて。私のところに届けにきて。
役立たずはいらないよ。
可愛い私のシモベたち。
――右と左には白い壁。窓は無くて、僕が殴った跡がある。
眼前と背後には硝子の壁。一方の奥には白い廊下、もう一方の奥にはひとつの部屋
が見える。
白い壁の片側には開く事の無い鉄の扉が埋め込まれ、それには小形の画面が張り付
いている。
そこに映し出されているのは広くて澄んだ大空の一角と、それに透過して重なって
いる、白くて簡素なベッドに座る僕の姿。
僕はどこか分からない場所で、いつかわからない時を過ごしていた。
外へ出せと叫ぶ事の無意味さと、孤独を嘆く事の億劫さ。そして、ただ果ての見え
ない時間を受け入れるしか無い平淡な生活。もう、それら全てを知って受け入れてい
た。
そんな僕に、蝋燭が一本。
「俺に?」
硝子に向かって僕が言う。
「うん、もうすぐクリスマスだから、あげる。アドベントの蝋燭だけど、あ、アド
ベントってわかる?」
向こうの部屋から少女が言う。
「アドベント……? 何?」
僕はベッドの上で胡坐をかいていた。彼女の方を向くと、ベッドの横幅が広かっ
た。
「キリスト教の行事だよ。キリスト教ではね、クリスマスの前になると四本の蝋燭
を用意して、週に一本ずつ燈すの。そうやってクリスマスを待つ行事がアドベント」
彼女は部屋の中にぽつんと置かれたパイプ椅子に座っていた。白地に金色の獅子が
描かれた蝋燭を右手に持ち、左手で長い黒髪を撫で付ける。
その少女には何度も会っていたが、僕には彼女が誰だかわからなかった。住んでい
る場所も通っている学校もわからない。その上、名前すら知らなかった。ただ、彼女
は今の僕にとって唯一の外への繋がりだった。
「キリスト教か……。クリスチャン?」
口に出して初めて、宗教の存在を忘れていた事に気が付く。ここに閉じ込められて
神頼みに効果が無いという事を知ってから、それは僕にとって無意味な物になってい
た。
「ううん、学校がキリスト教ってだけ。アドベントになると生徒全員に配ってもら
えるから、おすそ分けだよ」
少女はそう言いながら微笑んだ。
「……じゃあ今は、12月なのか……」
僕がつぶやく声は小さすぎて、厚い壁の向こうまでは届かなかった。
「連絡です。明後日、テストを行います」
彼女が帰ってしばらくした後、反対側の硝子の壁の向こう、白い廊下から青い目の
男が言った。
僕の世話をしたり妙なテストを受けさせたりする、この建物の住人のひとりだ。彼
等は大方青色か灰色の目をした男だった。
「ああ」
僕は彼等が何物なのかはわからなかったが、多分何かの研究員だろうと思ってい
た。全員白衣を着ていたからだ。
「それに、また手に入ったので置いていきます。また、あたなは手をつけないつも
りかも知れませんが。何度も言いますが……」
僕はモニターの空を見ていた。この空は常に少しずつ動いている。今は夕方らし
い、画面は紅かった。
「吸いなさい。吸わなければ、死にます」
その雲は少しずつ、しかし大きく空の模様を変え、画面の隅に到達すると何事も無
かったかのように途切れてゆく。
「ああ。わかってる」
画面がゆっくりと色彩を失ってゆく。それとともに、画面の中の僕も薄闇に紛れて
ゆく。
いつもここで会話は終了だ。これ以上続けるつもりもないし、そんな必要もない。
しかし、男は珍しく言葉を継いだ。
「――……本当に分かっていますか?」
青い目でほくそ笑むと、男は硝子の壁の端にある小さな丸い扉を開いて一本のスプ
レー缶をほうり込んだ。プシュ、カランという無機質な音が響き、消えるのを聞き届
けると、男は言った。
「残された時間は、思うよりずっと短いものです」
甘い香が、部屋に広がる。僕が顔をしかめると、男の顔に笑みが増す。
「四本目の蝋燭が灯る日が、楽しみですね」
僕は男の足音が遠くなるのを聞くと、床に転がっている缶を手に取ってベッドの下
に投げ込んだ。
既に積まれていた缶に命中したらしい、ガツンと音がした。
「……っ、ごほっ」
手の平で鼻と口を抑えるのに、甘さが喉と鼻腔に纏わり付いてなかなか離れない。
奴らが僕に不定期に与える気体は、甘い香と味がした。
一体その気体の正体が何なのかは分からなかった。ただ、それは少し嗅ぐだけで体
じゅうの血液を波打たせ、震えるほどの欲望を掻き立てた。
本能があの甘い味を貪り喰い尽くしてしまいたいと嘆きの声を上げ、吸ってしまえ
ば自由になれると脳に直接囁きかける。
しかし、心は喰うなと叫んでいた。あれを喰って外で生きるより、捕われのままで
も必死で抑えて死ぬほうがまだましだ、と。
なぜかはわからないけれど。
欲望の衝動を抑えるために僕ができたのは、布団に潜って目をつぶり、服のどこか
を掴んでやりすごす事だけだった。
朦朧とする意識の中で、一瞬、向こうの部屋に置かれたままの蝋燭が見えた。
四本目の蝋燭が灯る日、クリスマス。
クリスマスが、何なんだ……。
きらきらした輝きで満たされる町や、目一杯飾られたツリーを見上げる恋人、サン
タからのプレゼントを待つ子ども達が幻覚に浮ぶ。
けれど、どれももう、僕には触れる事が出来ない。
硝子の向こうにある燭台に立てられた一本の蝋燭が、獅子の瞳でむせ返る僕を静か
に眺めている。
「……もう来たのか」
「うん。蝋燭、届けたかったから」
次に少女が現れた時、来るのが妙に早いと思った。いつもは忘れた頃にやってくる
というのに、その時は前に来てから一週間しか間が空いていなかったのだ。と言って
も、ずっとあの部屋に居る僕には時間が分からなかったので、正確な間隔は彼女の話
から推測した。
「もうすぐクリスマスだね。イチ君は、何か予定ある?」
彼女は僕をイチ君と読んでいた。本名には全く関係がないが、理由は簡単だった。
僕はそこで四十一号と呼ばれていたのだ。
「いや。お前は何かあるのか?」
「あたし? ううん、何も。あのさ……」
「ん? 何?」
「……来ても、いい? クリスマス」
「ああ、うん。――……っ!」
ベッドから転げ落ちそうになった。驚いたから。それだけじゃない。
突然窓の向こうから、甘い香りが襲ってくる。
「本当? ……? どうしたの?」
その時には、僕はもう反対側の壁の方まで後ずさっていた。
「いや……なんでも……」
手で口を覆いながら、注意深く息を吸ってみる。大丈夫だ、ここまで香りは追って
こない。
彼女は訝しげな顔をしたが、幸い僕の顔色を心配しただけで深くは訊かなかった。
「それより……今日は何か、話すことは無いのか?」
「ううん、今日は大丈夫。ありがとう」
「じゃあ、外の話。聞かせて」
「うん。あのね、最近は急に寒くなって……」
彼女は一通り外の話を聞かせてくれた後、まだ自分の居る部屋に残されている獅子
の蝋燭を見て、「この前の、まだ一回も点けてないの? まぁいいけど……観賞もい
いけど、今度使ってよ」と言い、また一本、鷲の絵柄が入った蝋燭を残して帰って
行った。
それから徐々に甘い香りは薄らいでいったが、喉に残る味がいつまでもこびりつい
て離れなかった。
甘い、甘い……。熔けるように、暖かい……。
「……はぁっ」
壁にもたれて座り込む。
香と共に、彼女の姿が脳裏に残った。
甘い香がする。
どこからだろう。
数時間後。いや、もしかしたら数日経っていたのかもしれない。立ち上がろうとす
ると、手に力が入らなかった。
「……」
もう一度ぐっと床を押すが、やはり立ち上がれない。
「……」
しかし、あまり気には留めなかった。こんな事は以前にも何度かあった。一度諦め
て、扉に付いたモニターを見上げる。それは廊下側の壁の前に座り込む僕を俯瞰し、
瞬く星のちりばめられている濃紺の空を煽っている。
どうして僕の居る部屋に、僕を監視する映像を映すんだろう。どうして白い天井の
部屋で、果ての無い空を見せるんだろう。よくわからない。
それより、これを考えたのは何度目だろう。もっとわからない。
「はぁ……」
視線を投げ出すと、今度はベッドの下に山積みにされたスプレー缶が目に入った。
いつか、この部屋はあの缶で一杯になってしまうのだろうか。あの甘い、喉に張り
付くもので溢れて。
考えていると、なぜだか失笑が零れた。
「いつになったら、一週間が経つんだろうな……」
それは僕にはわからない。この部屋に時計は無いから。
もう一度ぐっと力を込めると、やっと立ち上がる事ができた。
その時、こんな事を考えるのは初めてだと言う事に気が付いた。
「体力が落ちていますね。結果が悪い」
「ああ……でも、当たり前だな。殆ど絶食状態なんだから。それにしても、こんな
に抑制が効いたやつは初めてだ。こいつはいわゆる『役立たず』だな」
「しかし、観察のしがいはあります。成果も上がりました」
「そうだな。その点は、見ていて楽しいな」
「……このままだともう長くはないですね。あと数週間」
「数週間……ね。でも……先に目覚めたらどうなると思う? きっと抑制の分、堰
が切れたらより多くを求めるぞ。その時、どうする」
「さあ。彼は『役立たず』を脱せてよいのでは」
「お前なぁ……」
「どちらにしろ、面白い事になりそうです。折角です、最後まで楽しみましょう
よ。命がけの仕事なんですから」
――空が与えられている理由が分かった。それは、僕に時間を与えるため。
朝と夜。そのサイクルがここにはある。今までは必要なかったけれど、今の僕には
必要な循環。
夜寝よう。朝、起きられるように。
きっと彼女が来るのは昼だから。
燭台の蝋燭は二本になっても明かりが燈される事は無く、ただ誰も居ない部屋に佇
んでいた。