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白刃のマウント ――仇花は石畳に散らず――

掲載日:2026/10/29

白刃のマウント ――仇花は石畳に散らず――


王都の空は、憎らしいほど青かった。


中央広場を彩る大理石の噴水が、秋の日差しを浴びて銀色の飛沫を散らしている。


露店からは焼き菓子の甘い香りが漂い、色鮮やかな衣装をまとった貴婦人たちが笑いさざめく。馬車の車輪が石畳を叩き、商人たちの威勢のよい呼び声が響いていた。


平和だった。


少なくとも、この王都に暮らす裕福な者たちにとっては。


「おい、どけ! 道を空けろ、下民ども!」


その喧騒を、傲慢な怒声が切り裂いた。


恰幅のよい男が、二人の傭兵を従えて大通りを歩いてくる。


エドワード・ヴァルガス男爵。


かつて片田舎の徴税代行人だった男は、領民から法外な税を搾り取り、帳簿を改竄し、その金で爵位を買い取った。


肥えた腹を包む絹のベスト。太い金鎖の懐中時計。指という指を飾る宝石。


その姿は、まるで強欲という罪が人の形を得たかのようだった。


「ふん! 王都の連中も、田舎の百姓と大して変わらんな!」


エドワードは葉巻をくゆらせ、下卑た笑い声を上げた。


「金さえあれば、何でも手に入る! 爵位も、土地も、女もな! ハハハハッ!」


護衛の傭兵が、通行人を乱暴に押しのける。


老人が転び、抱えていた果物が石畳に散らばった。


「邪魔だ、老いぼれ!」


「ひっ……申し訳ございません!」


エドワードは鼻で笑った。


「まったく、貧乏人は見苦しい。生きているだけで景観を損ねおるわ!」


その瞬間だった。


「――ならば、お前はどうなのだ?」


凛とした女の声が響いた。


広場の喧騒が、ふっと遠のく。


「人の血を吸って肥え太った豚が、よくもまあ、そこまで偉そうに吠えられるものだな」


「……何だと?」


エドワードが振り返った。


人混みが、左右に割れていく。


そこから、一人の女が歩み出た。


艶やかな黒髪を後ろで束ね、身体に馴染んだ黒革の乗馬服をまとっている。


腰には、細身のレイピア。


その黒曜石のような瞳には、燃え盛る憎悪と、氷のような冷静さが同居していた。


「貴様……何者だ!」


女は足を止めた。


「忘れたとは言わせんぞ、エドワード」


「な、何……?」


「三年前。お前の領地で、一人の青年が殺された」


エドワードの頬が引きつった。


「領民を救うため、お前の不正を告発しようとした青年だ」


「……まさか」


「カイン・ヴェルナー」


その名を聞いた瞬間、男爵の顔から血の気が引いた。


「お、お前は……!」


女は静かに微笑んだ。


だが、それは人を安心させる笑みではなかった。


「その妹、エレナだ」


三年前。


故郷の村には、小麦の穂が黄金色に揺れていた。


「兄さん! 待ってよ!」


幼いエレナは、畑のあぜ道を駆けていた。


前を歩く青年が振り返る。


「おいおい、そんなに走ると転ぶぞ!」


「兄さんが速すぎるの!」


「仕方ないな」


カインは笑い、妹の頭を優しく撫でた。


「ほら、手を出せ」


「子供扱いしないで!」


「俺にとっちゃ、いつまでも可愛い妹だよ」


「もうっ!」


二人の笑い声が、夕暮れの畑に溶けていく。


カインは、村の誰からも慕われる青年だった。


病人がいれば薬を届け、老人が困れば畑を耕し、飢えた子供には自分のパンを分け与えた。


そんな兄を、エレナは誰よりも誇りに思っていた。


ある日、彼女は尋ねた。


「ねえ、兄さん。どうしていつも他人のために頑張るの?」


カインは少し考え、笑った。


「誰かが泣いているのに、見て見ぬふりはできないだろ?」


「でも、兄さんが損するじゃない」


「損かもしれないな」


彼は妹の小さな手を取った。


「だけどな、エレナ。この手は、誰かを踏みつけるためにあるんじゃない」


「……じゃあ、何のため?」


「誰かを守るためさ」


エレナは兄の大きな手を見つめた。


「私も、誰かを守れるかな?」


「もちろん!」


カインは力強く頷いた。


「お前はきっと、俺なんかよりずっと強くなる」


「本当?」


「ああ。兄ちゃんが保証する!」


その笑顔を、エレナは生涯忘れなかった。


だが、その兄は、冷たい川から引き上げられた。


全身に殴打の痕があり、指は折れ、顔は見る影もなかった。


「……兄さん?」


エレナは、遺体の前に膝をついた。


「ねえ……起きてよ」


返事はない。


「また、私をからかってるんでしょう?」


冷たい頬に触れる。


「ねえ……兄さん……!」


その手は、もう温かくなかった。


「嘘……」


喉から、かすれた声が漏れた。


「嘘よ……!」


彼女は兄の身体を抱きしめた。


「起きて! お願いだから!」


涙が止まらなかった。


「私を置いていかないで……!」


やがて、兄が男爵の不正を告発しようとしていたこと、そして男爵の手勢に襲われたという証言が集まった。


だが、誰も裁こうとはしなかった。


金で買われた役人たちは、口を揃えて言った。


「不幸な事故である」


その日、エレナは泣くことをやめた。


兄の墓前に膝をつき、静かに誓った。


「……兄さん」


風が麦畑を揺らす。


「私の手は、あなたを守れなかった」


彼女は土を握りしめた。


「だから、せめて……!」


その瞳に、燃えるような光が宿った。


「あなたの無念だけは、必ず晴らしてみせる!」


それから三年。


エレナは王都の名門剣術道場、白燕流の門を叩き、剣の修練に明け暮れた。


最初は木剣さえ満足に振れなかった。


「女の細腕で剣士になれるものか!」


門弟たちは嘲笑った。


「帰って花でも摘んでいろ!」


だが、エレナは退かなかった。


何度倒されても立ち上がった。


手の皮が破れ、血が滲んでも剣を握り続けた。


「もうやめろ、エレナ!」


師範が怒鳴った夜もあった。


「このままでは身体を壊すぞ!」


「構いません!」


「何故そこまで剣に執着する!」


エレナは震える足で立ち上がった。


「兄の仇を……討つためです!」


「復讐のためだけに剣を振るうのか!」


「そうです!」


彼女は涙を堪え、叫んだ。


「私には、それしか残されていないのです!」


師範は長く沈黙した。


やがて一本の木剣を拾い、彼女へ投げ渡した。


「ならば立て」


「……はい!」


「憎しみだけでは剣は鈍る。怒りに呑まれれば、お前が先に死ぬ」


師範は静かに構えた。


「仇を討ちたいなら、怒りよりも速く、悲しみよりも冷静になれ!」


「はい!」


その教えを胸に、エレナは剣を磨き続けた。


そして今、三年間のすべてが、この広場へと繋がっていた。


「エレナだと……!」


エドワードは一歩後ずさった。


「ば、馬鹿な! あの小娘が……!」


「思い出したようだな」


エレナはゆっくりと歩み寄る。


「三年だ」


「な、何……?」


「三年間、私はこの日だけを待っていた」


彼女は腰のレイピアに手を添えた。


「骨が折れても、血を吐いても、立ち上がった。お前に奪われた兄の無念を晴らすためにな」


「き、狂っている……!」


「そうだな」


エレナは笑った。


「お前が私を狂わせた」


周囲の人々が足を止める。


「何事だ?」


「男爵が殺人を?」


「カインという男を殺したらしいぞ……!」


囁きが広がる。


エドワードは真っ赤になって叫んだ。


「黙れ、黙れぇっ! 下民の分際で、貴族を侮辱するか!」


「貴族?」


エレナは鼻で笑った。


「盗んだ金で買った肩書きが、そんなに誇らしいか?」


「き、貴様ぁっ!」


「お前の爵位など、兄の履き古した靴より価値がない!」


群衆の中から、失笑が漏れた。


エドワードの顔が怒りに歪む。


「殺せ!」


彼は護衛を指さした。


「その女を殺せぇっ!」


二人の傭兵が剣を抜いた。


「悪く思うなよ、姉ちゃん!」


「男爵様に逆らったのが運の尽きだ!」


大剣が唸りを上げる。


もう一人の剣士が、エレナの脇腹を狙って踏み込んだ。


群衆から悲鳴が上がる。


しかし、エレナは動じなかった。


(――遅い)


シュンッ!


白銀の閃光が走った。


エレナは大剣の軌道を受け流し、踏み込んできた男の顎をレイピアの柄頭で打ち抜いた。


「がっ……!」


巨体が崩れ落ちる。


続けざまに身体を半回転させ、もう一人の刺突を紙一重でかわした。


「なっ!?」


「甘い!」


鋭い切っ先が男の膝裏を薙いだ。


「ぎゃあああっ!」


男は石畳に転がり、剣を取り落とした。


わずか三秒。


二人の傭兵は、地面に倒れ伏していた。


「う、嘘だろ……!」


「何て剣の腕だ!」


「すげえ……!」


どよめきが広場を揺らした。


エレナはレイピアを一振りした。


「さて」


その声は、驚くほど静かだった。


「邪魔者はいなくなったな」


エドワードの膝が震えた。


「ひ……ひぃぃっ!」


彼は踵を返して逃げようとした。


だが、恐怖で足がもつれ、無様に転倒する。


「ま、待て! 待ってくれ!」


エレナの靴音が近づく。


コツ。


コツ。


コツ。


それは、男爵にとって死を告げる鐘の音だった。


「金か!? 金が欲しいのか!?」


エドワードは必死に叫んだ。


「いくらでもやる! 金貨千枚! いや、一万枚だ!」


エレナは答えない。


「屋敷も土地もくれてやる! 貴族の暮らしをさせてやるぞ!」


「……黙れ」


「そ、そうだ! 私の養女にしてやろう! お前も貴族になれる!」


エレナの瞳が、冷たく細められた。


「お前は……」


その声が震えた。


「兄の命に、値札をつけるつもりか?」


「ち、違う! そういう意味では……!」


「黙れと言った!」


ドンッ!


エレナの靴底が、男爵の背中を踏みつけた。


「ぐえっ!」


彼女は男爵を仰向けに転がすと、その肥えた胸板に両膝を落とした。


馬乗り。


完全なマウントだった。


「ぐふっ……!」


エドワードの肺から空気が押し出された。


「お、おも……苦し……!」


「苦しいか?」


エレナは男の顔を見下ろした。


「兄も苦しかっただろうな」


「た、頼む……!」


「何人もの男に囲まれ、殴られ、冷たい川に沈められた」


彼女はレイピアを逆手に握った。


鋭い切っ先が、男爵の喉元に迫る。


「それでも兄は、最後まで領民たちの未来を案じていたそうだ」


「や、やめてくれ……!」


「兄は、お前に命乞いなどしなかった」


エレナの頬を、一筋の涙が伝った。


「兄は……!」


その声が、初めて大きく震えた。


「誰よりも優しい人だったんだ!」


広場が静まり返った。


噴水の水音だけが響く。


エドワードは涙と鼻水にまみれ、必死に首を振った。


「わ、悪かった! 謝る! 何でもする!」


「……そうか」


エレナは静かに呟いた。


「ならば、兄に謝れ」


「わ、分かった! 墓に行く! 金も供える! だから……!」


「違う」


彼女の瞳から、涙が消えた。


「兄のいるところで、直接謝るんだ」


エドワードの顔が凍りついた。


「ま、待っ……!」


「さらばだ、エドワード」


白刃が閃いた。


ザシュッ――!


レイピアの切っ先が男爵の喉を貫いた。


「カハッ……!」


エドワードの身体が大きく痙攣する。


その瞳には、信じられないという驚愕と、底知れぬ恐怖が浮かんでいた。


やがて、全身から力が抜けた。


エレナはしばらく、その顔を見下ろしていた。


かつて兄の命を奪い、村人たちを苦しめた男。


金と権力で、あらゆる罪を覆い隠してきた男。


その男が今、自分の下で動かなくなっている。


「……終わった」


小さく呟いた。


「兄さん……」


エレナはレイピアを引き抜いた。


赤い血が石畳に流れ、噴水の水たまりへと細い筋を描いた。


彼女は立ち上がった。


秋風が黒髪を揺らす。


空を見上げる。


どこまでも青い空だった。


三年前、兄と見上げた空と同じ色。


(――兄さん)


胸の奥に、熱いものが込み上げた。


(――やっと、終わったよ)


その瞬間。


「……おおっ!」


群衆の中から、男の声が上がった。


「よくやった!」


一人の老人が拳を突き上げる。


「俺の息子も、あの男爵に税を搾り取られたんだ!」


「そうだ! あいつは悪魔だった!」


「見事な仇討ちだ!」


「女剣士万歳!」


歓声が爆発した。


拍手が、地鳴りのように広場を包み込む。


露店の商人たちも、職人たちも、買い物帰りの市民たちも、次々に声を上げた。


「エレナ!」


「エレナ!」


「エレナ!」


いつしか、その名が広場中に響き渡っていた。


エレナは驚いたように目を見開いた。


そして、ゆっくりと微笑んだ。


それは復讐を果たした者の冷笑ではなかった。


三年前、兄の隣で笑っていた少女の、懐かしい笑顔だった。


「……ありがとう」


小さく呟く。


「兄さんを、覚えていてくれて……ありがとう」


やがて、王都警備隊の笛が鳴り響いた。


「道を空けろ!」


「何があった!」


甲冑をまとった警備兵たちが、広場へ駆け込んでくる。


男爵の遺体を見つけ、隊長が叫んだ。


「誰がやった!」


エレナは一歩前へ出た。


「私だ」


群衆が静まる。


「私がエドワード・ヴァルガスを討った」


隊長が剣に手をかける。


「貴様、何者だ!」


「エレナ・ヴェルナー。カイン・ヴェルナーの妹だ」


彼女は堂々と両手を広げた。


「逃げも隠れもしない」


「貴族を殺したのだぞ! 分かっているのか!」


「分かっている」


エレナは真っ直ぐに隊長を見つめた。


「だが、兄を殺した者が、金で法を買い、何事もなかったように笑って暮らすことを、私は許せなかった」


「だからといって、勝手に人を殺してよいわけではない!」


「そうだな」


彼女は静かに頷いた。


「ならば、法廷で裁いてもらおう」


「何……?」


「兄の死も、男爵の不正も、そして私のしたことも、すべて白日の下にさらせばいい」


エレナの声が広場に響いた。


「私は、自分の剣から逃げるつもりはない!」


その瞬間、再び歓声が湧き上がった。


「そうだ!」


「裁くなら、男爵の悪事も裁け!」


「俺たちが証人になるぞ!」


「エレナを守れ!」


警備隊長は、押し寄せる民衆の声に圧倒されていた。


エレナは静かにレイピアを鞘へ納めた。


そして、最後にもう一度だけ空を見上げた。


(兄さん)


秋の陽光が、彼女の頬を照らす。


(私の手は、あなたのように優しくはなれなかった)


風が吹いた。


(だけど……)


彼女は胸に手を当てた。


(もう二度と、誰かがあなたのように踏みにじられない世界を、私は見たい)


その瞳には、もはや復讐の炎はなかった。


代わりに宿っていたのは、静かで、決して折れることのない意志だった。


エレナは警備兵たちに囲まれながら、堂々と歩き始めた。


背後では、なおも群衆が彼女の名を叫んでいる。


「エレナ!」


「エレナ!」


「女剣士エレナ!」


その声は、王都の青空へと高く響いていった。


翌朝。


王都の瓦版には、これまでにないほど大きな見出しが躍った。


『悪徳男爵、白昼の広場で討たれる! 美しき女剣士、壮絶なるマウント仇討ち!』


その記事は、王都中を駆け巡った。


酒場では男たちが杯を掲げ、街角では子供たちが木の枝を剣に見立て、エレナの真似をした。


そして、彼女の故郷。


小さな村の外れにある、一つの墓。


そこには、誰が供えたのか、真新しい白い花が置かれていた。


墓石に刻まれた名は、カイン・ヴェルナー。


秋風が、花びらを優しく揺らす。


まるで、妹の帰りを待つ兄が、静かに微笑んでいるかのように。


白刃は悪を討ち、仇花は石畳に散らず。


その女剣士の名は、エレナ。


彼女の復讐は終わった。だが、彼女の物語は、まだ終わってはいなかった。


――完――



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― 新着の感想 ―
これは女性剣士の世直し物語として連載してほしいですね
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