白刃のマウント ――仇花は石畳に散らず――
白刃のマウント ――仇花は石畳に散らず――
王都の空は、憎らしいほど青かった。
中央広場を彩る大理石の噴水が、秋の日差しを浴びて銀色の飛沫を散らしている。
露店からは焼き菓子の甘い香りが漂い、色鮮やかな衣装をまとった貴婦人たちが笑いさざめく。馬車の車輪が石畳を叩き、商人たちの威勢のよい呼び声が響いていた。
平和だった。
少なくとも、この王都に暮らす裕福な者たちにとっては。
「おい、どけ! 道を空けろ、下民ども!」
その喧騒を、傲慢な怒声が切り裂いた。
恰幅のよい男が、二人の傭兵を従えて大通りを歩いてくる。
エドワード・ヴァルガス男爵。
かつて片田舎の徴税代行人だった男は、領民から法外な税を搾り取り、帳簿を改竄し、その金で爵位を買い取った。
肥えた腹を包む絹のベスト。太い金鎖の懐中時計。指という指を飾る宝石。
その姿は、まるで強欲という罪が人の形を得たかのようだった。
「ふん! 王都の連中も、田舎の百姓と大して変わらんな!」
エドワードは葉巻をくゆらせ、下卑た笑い声を上げた。
「金さえあれば、何でも手に入る! 爵位も、土地も、女もな! ハハハハッ!」
護衛の傭兵が、通行人を乱暴に押しのける。
老人が転び、抱えていた果物が石畳に散らばった。
「邪魔だ、老いぼれ!」
「ひっ……申し訳ございません!」
エドワードは鼻で笑った。
「まったく、貧乏人は見苦しい。生きているだけで景観を損ねおるわ!」
その瞬間だった。
「――ならば、お前はどうなのだ?」
凛とした女の声が響いた。
広場の喧騒が、ふっと遠のく。
「人の血を吸って肥え太った豚が、よくもまあ、そこまで偉そうに吠えられるものだな」
「……何だと?」
エドワードが振り返った。
人混みが、左右に割れていく。
そこから、一人の女が歩み出た。
艶やかな黒髪を後ろで束ね、身体に馴染んだ黒革の乗馬服をまとっている。
腰には、細身のレイピア。
その黒曜石のような瞳には、燃え盛る憎悪と、氷のような冷静さが同居していた。
「貴様……何者だ!」
女は足を止めた。
「忘れたとは言わせんぞ、エドワード」
「な、何……?」
「三年前。お前の領地で、一人の青年が殺された」
エドワードの頬が引きつった。
「領民を救うため、お前の不正を告発しようとした青年だ」
「……まさか」
「カイン・ヴェルナー」
その名を聞いた瞬間、男爵の顔から血の気が引いた。
「お、お前は……!」
女は静かに微笑んだ。
だが、それは人を安心させる笑みではなかった。
「その妹、エレナだ」
三年前。
故郷の村には、小麦の穂が黄金色に揺れていた。
「兄さん! 待ってよ!」
幼いエレナは、畑のあぜ道を駆けていた。
前を歩く青年が振り返る。
「おいおい、そんなに走ると転ぶぞ!」
「兄さんが速すぎるの!」
「仕方ないな」
カインは笑い、妹の頭を優しく撫でた。
「ほら、手を出せ」
「子供扱いしないで!」
「俺にとっちゃ、いつまでも可愛い妹だよ」
「もうっ!」
二人の笑い声が、夕暮れの畑に溶けていく。
カインは、村の誰からも慕われる青年だった。
病人がいれば薬を届け、老人が困れば畑を耕し、飢えた子供には自分のパンを分け与えた。
そんな兄を、エレナは誰よりも誇りに思っていた。
ある日、彼女は尋ねた。
「ねえ、兄さん。どうしていつも他人のために頑張るの?」
カインは少し考え、笑った。
「誰かが泣いているのに、見て見ぬふりはできないだろ?」
「でも、兄さんが損するじゃない」
「損かもしれないな」
彼は妹の小さな手を取った。
「だけどな、エレナ。この手は、誰かを踏みつけるためにあるんじゃない」
「……じゃあ、何のため?」
「誰かを守るためさ」
エレナは兄の大きな手を見つめた。
「私も、誰かを守れるかな?」
「もちろん!」
カインは力強く頷いた。
「お前はきっと、俺なんかよりずっと強くなる」
「本当?」
「ああ。兄ちゃんが保証する!」
その笑顔を、エレナは生涯忘れなかった。
だが、その兄は、冷たい川から引き上げられた。
全身に殴打の痕があり、指は折れ、顔は見る影もなかった。
「……兄さん?」
エレナは、遺体の前に膝をついた。
「ねえ……起きてよ」
返事はない。
「また、私をからかってるんでしょう?」
冷たい頬に触れる。
「ねえ……兄さん……!」
その手は、もう温かくなかった。
「嘘……」
喉から、かすれた声が漏れた。
「嘘よ……!」
彼女は兄の身体を抱きしめた。
「起きて! お願いだから!」
涙が止まらなかった。
「私を置いていかないで……!」
やがて、兄が男爵の不正を告発しようとしていたこと、そして男爵の手勢に襲われたという証言が集まった。
だが、誰も裁こうとはしなかった。
金で買われた役人たちは、口を揃えて言った。
「不幸な事故である」
その日、エレナは泣くことをやめた。
兄の墓前に膝をつき、静かに誓った。
「……兄さん」
風が麦畑を揺らす。
「私の手は、あなたを守れなかった」
彼女は土を握りしめた。
「だから、せめて……!」
その瞳に、燃えるような光が宿った。
「あなたの無念だけは、必ず晴らしてみせる!」
それから三年。
エレナは王都の名門剣術道場、白燕流の門を叩き、剣の修練に明け暮れた。
最初は木剣さえ満足に振れなかった。
「女の細腕で剣士になれるものか!」
門弟たちは嘲笑った。
「帰って花でも摘んでいろ!」
だが、エレナは退かなかった。
何度倒されても立ち上がった。
手の皮が破れ、血が滲んでも剣を握り続けた。
「もうやめろ、エレナ!」
師範が怒鳴った夜もあった。
「このままでは身体を壊すぞ!」
「構いません!」
「何故そこまで剣に執着する!」
エレナは震える足で立ち上がった。
「兄の仇を……討つためです!」
「復讐のためだけに剣を振るうのか!」
「そうです!」
彼女は涙を堪え、叫んだ。
「私には、それしか残されていないのです!」
師範は長く沈黙した。
やがて一本の木剣を拾い、彼女へ投げ渡した。
「ならば立て」
「……はい!」
「憎しみだけでは剣は鈍る。怒りに呑まれれば、お前が先に死ぬ」
師範は静かに構えた。
「仇を討ちたいなら、怒りよりも速く、悲しみよりも冷静になれ!」
「はい!」
その教えを胸に、エレナは剣を磨き続けた。
そして今、三年間のすべてが、この広場へと繋がっていた。
「エレナだと……!」
エドワードは一歩後ずさった。
「ば、馬鹿な! あの小娘が……!」
「思い出したようだな」
エレナはゆっくりと歩み寄る。
「三年だ」
「な、何……?」
「三年間、私はこの日だけを待っていた」
彼女は腰のレイピアに手を添えた。
「骨が折れても、血を吐いても、立ち上がった。お前に奪われた兄の無念を晴らすためにな」
「き、狂っている……!」
「そうだな」
エレナは笑った。
「お前が私を狂わせた」
周囲の人々が足を止める。
「何事だ?」
「男爵が殺人を?」
「カインという男を殺したらしいぞ……!」
囁きが広がる。
エドワードは真っ赤になって叫んだ。
「黙れ、黙れぇっ! 下民の分際で、貴族を侮辱するか!」
「貴族?」
エレナは鼻で笑った。
「盗んだ金で買った肩書きが、そんなに誇らしいか?」
「き、貴様ぁっ!」
「お前の爵位など、兄の履き古した靴より価値がない!」
群衆の中から、失笑が漏れた。
エドワードの顔が怒りに歪む。
「殺せ!」
彼は護衛を指さした。
「その女を殺せぇっ!」
二人の傭兵が剣を抜いた。
「悪く思うなよ、姉ちゃん!」
「男爵様に逆らったのが運の尽きだ!」
大剣が唸りを上げる。
もう一人の剣士が、エレナの脇腹を狙って踏み込んだ。
群衆から悲鳴が上がる。
しかし、エレナは動じなかった。
(――遅い)
シュンッ!
白銀の閃光が走った。
エレナは大剣の軌道を受け流し、踏み込んできた男の顎をレイピアの柄頭で打ち抜いた。
「がっ……!」
巨体が崩れ落ちる。
続けざまに身体を半回転させ、もう一人の刺突を紙一重でかわした。
「なっ!?」
「甘い!」
鋭い切っ先が男の膝裏を薙いだ。
「ぎゃあああっ!」
男は石畳に転がり、剣を取り落とした。
わずか三秒。
二人の傭兵は、地面に倒れ伏していた。
「う、嘘だろ……!」
「何て剣の腕だ!」
「すげえ……!」
どよめきが広場を揺らした。
エレナはレイピアを一振りした。
「さて」
その声は、驚くほど静かだった。
「邪魔者はいなくなったな」
エドワードの膝が震えた。
「ひ……ひぃぃっ!」
彼は踵を返して逃げようとした。
だが、恐怖で足がもつれ、無様に転倒する。
「ま、待て! 待ってくれ!」
エレナの靴音が近づく。
コツ。
コツ。
コツ。
それは、男爵にとって死を告げる鐘の音だった。
「金か!? 金が欲しいのか!?」
エドワードは必死に叫んだ。
「いくらでもやる! 金貨千枚! いや、一万枚だ!」
エレナは答えない。
「屋敷も土地もくれてやる! 貴族の暮らしをさせてやるぞ!」
「……黙れ」
「そ、そうだ! 私の養女にしてやろう! お前も貴族になれる!」
エレナの瞳が、冷たく細められた。
「お前は……」
その声が震えた。
「兄の命に、値札をつけるつもりか?」
「ち、違う! そういう意味では……!」
「黙れと言った!」
ドンッ!
エレナの靴底が、男爵の背中を踏みつけた。
「ぐえっ!」
彼女は男爵を仰向けに転がすと、その肥えた胸板に両膝を落とした。
馬乗り。
完全なマウントだった。
「ぐふっ……!」
エドワードの肺から空気が押し出された。
「お、おも……苦し……!」
「苦しいか?」
エレナは男の顔を見下ろした。
「兄も苦しかっただろうな」
「た、頼む……!」
「何人もの男に囲まれ、殴られ、冷たい川に沈められた」
彼女はレイピアを逆手に握った。
鋭い切っ先が、男爵の喉元に迫る。
「それでも兄は、最後まで領民たちの未来を案じていたそうだ」
「や、やめてくれ……!」
「兄は、お前に命乞いなどしなかった」
エレナの頬を、一筋の涙が伝った。
「兄は……!」
その声が、初めて大きく震えた。
「誰よりも優しい人だったんだ!」
広場が静まり返った。
噴水の水音だけが響く。
エドワードは涙と鼻水にまみれ、必死に首を振った。
「わ、悪かった! 謝る! 何でもする!」
「……そうか」
エレナは静かに呟いた。
「ならば、兄に謝れ」
「わ、分かった! 墓に行く! 金も供える! だから……!」
「違う」
彼女の瞳から、涙が消えた。
「兄のいるところで、直接謝るんだ」
エドワードの顔が凍りついた。
「ま、待っ……!」
「さらばだ、エドワード」
白刃が閃いた。
ザシュッ――!
レイピアの切っ先が男爵の喉を貫いた。
「カハッ……!」
エドワードの身体が大きく痙攣する。
その瞳には、信じられないという驚愕と、底知れぬ恐怖が浮かんでいた。
やがて、全身から力が抜けた。
エレナはしばらく、その顔を見下ろしていた。
かつて兄の命を奪い、村人たちを苦しめた男。
金と権力で、あらゆる罪を覆い隠してきた男。
その男が今、自分の下で動かなくなっている。
「……終わった」
小さく呟いた。
「兄さん……」
エレナはレイピアを引き抜いた。
赤い血が石畳に流れ、噴水の水たまりへと細い筋を描いた。
彼女は立ち上がった。
秋風が黒髪を揺らす。
空を見上げる。
どこまでも青い空だった。
三年前、兄と見上げた空と同じ色。
(――兄さん)
胸の奥に、熱いものが込み上げた。
(――やっと、終わったよ)
その瞬間。
「……おおっ!」
群衆の中から、男の声が上がった。
「よくやった!」
一人の老人が拳を突き上げる。
「俺の息子も、あの男爵に税を搾り取られたんだ!」
「そうだ! あいつは悪魔だった!」
「見事な仇討ちだ!」
「女剣士万歳!」
歓声が爆発した。
拍手が、地鳴りのように広場を包み込む。
露店の商人たちも、職人たちも、買い物帰りの市民たちも、次々に声を上げた。
「エレナ!」
「エレナ!」
「エレナ!」
いつしか、その名が広場中に響き渡っていた。
エレナは驚いたように目を見開いた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
それは復讐を果たした者の冷笑ではなかった。
三年前、兄の隣で笑っていた少女の、懐かしい笑顔だった。
「……ありがとう」
小さく呟く。
「兄さんを、覚えていてくれて……ありがとう」
やがて、王都警備隊の笛が鳴り響いた。
「道を空けろ!」
「何があった!」
甲冑をまとった警備兵たちが、広場へ駆け込んでくる。
男爵の遺体を見つけ、隊長が叫んだ。
「誰がやった!」
エレナは一歩前へ出た。
「私だ」
群衆が静まる。
「私がエドワード・ヴァルガスを討った」
隊長が剣に手をかける。
「貴様、何者だ!」
「エレナ・ヴェルナー。カイン・ヴェルナーの妹だ」
彼女は堂々と両手を広げた。
「逃げも隠れもしない」
「貴族を殺したのだぞ! 分かっているのか!」
「分かっている」
エレナは真っ直ぐに隊長を見つめた。
「だが、兄を殺した者が、金で法を買い、何事もなかったように笑って暮らすことを、私は許せなかった」
「だからといって、勝手に人を殺してよいわけではない!」
「そうだな」
彼女は静かに頷いた。
「ならば、法廷で裁いてもらおう」
「何……?」
「兄の死も、男爵の不正も、そして私のしたことも、すべて白日の下にさらせばいい」
エレナの声が広場に響いた。
「私は、自分の剣から逃げるつもりはない!」
その瞬間、再び歓声が湧き上がった。
「そうだ!」
「裁くなら、男爵の悪事も裁け!」
「俺たちが証人になるぞ!」
「エレナを守れ!」
警備隊長は、押し寄せる民衆の声に圧倒されていた。
エレナは静かにレイピアを鞘へ納めた。
そして、最後にもう一度だけ空を見上げた。
(兄さん)
秋の陽光が、彼女の頬を照らす。
(私の手は、あなたのように優しくはなれなかった)
風が吹いた。
(だけど……)
彼女は胸に手を当てた。
(もう二度と、誰かがあなたのように踏みにじられない世界を、私は見たい)
その瞳には、もはや復讐の炎はなかった。
代わりに宿っていたのは、静かで、決して折れることのない意志だった。
エレナは警備兵たちに囲まれながら、堂々と歩き始めた。
背後では、なおも群衆が彼女の名を叫んでいる。
「エレナ!」
「エレナ!」
「女剣士エレナ!」
その声は、王都の青空へと高く響いていった。
翌朝。
王都の瓦版には、これまでにないほど大きな見出しが躍った。
『悪徳男爵、白昼の広場で討たれる! 美しき女剣士、壮絶なるマウント仇討ち!』
その記事は、王都中を駆け巡った。
酒場では男たちが杯を掲げ、街角では子供たちが木の枝を剣に見立て、エレナの真似をした。
そして、彼女の故郷。
小さな村の外れにある、一つの墓。
そこには、誰が供えたのか、真新しい白い花が置かれていた。
墓石に刻まれた名は、カイン・ヴェルナー。
秋風が、花びらを優しく揺らす。
まるで、妹の帰りを待つ兄が、静かに微笑んでいるかのように。
白刃は悪を討ち、仇花は石畳に散らず。
その女剣士の名は、エレナ。
彼女の復讐は終わった。だが、彼女の物語は、まだ終わってはいなかった。
――完――




