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返事を書かない男

作者: 奉元
掲載日:2026/10/10

 机の引き出しには、十七年前に届いた手紙が入っていた。


 封筒は幾度かの引越しで角が潰れ、表面も黄ばんでいたが、宛名と差出人の名前は今でも読めた。差出人は、三年前に亡くなった男である。


 私は其の手紙を、少なくとも年に一度は取り出していた。封筒を手に取る度、今度こそ返事を書こうと思った。然し、実際に書いた事は一度も無かった。


 返事を書かなかった理由なら、幾つも挙げられた。


 手紙を受け取った当時、私は仕事が忙しかった。休日にも職場から連絡が入り、家に帰っても翌日の準備が有った。返事には、相手の近況に応じた言葉を書かなければ失礼に当たる様に思われた。


 だから、時間の有る時に書こうと考えた。


 其の時間は、十七年の間、一度も訪れなかった。


 然し、時間が無かったという説明は正確ではない。年賀状や仕事上の礼状を書く時間は有った。手紙を書く事其のものが不可能だった訳ではない。私は、此の一通にだけ返事を書かなかったのである。


 差出人の男は、私が二十代の頃に勤めていた会社の上司だった。


 当時の私は仕事が出来なかった。覚えが悪く、要領も悪い。何か一つを覚えると別の事を忘れ、注意を受けると、其れを気にする余り別の所で失敗した。入社二年目には、会社を辞める事を考えていた。


 ある日の夕方、男は私を会議室へ呼び出した。使われていない長机と紙の束が置かれ、窓の外は暗くなり始めていた。


「君は、自分が仕事の出来ない人間だと思っているのか」


 私は、そうですと答えた。


「では、何故そう思う」


「失敗が多いからです」


「失敗が多い事と、仕事の出来ない人間である事は、同じなのか」


 私は答えられなかった。


 男は、私の仕事ぶりを褒めた訳ではない。改めるべき所は多く、其れを直さなければ、どの職場でも同じ事を繰り返すだろうとも言った。


 然し、失敗をする事と、失敗を改められない事は別だとも言った。


「間違いを指摘されると、次から間違えない様にしようとする。其れは悪い事ではない。然し、間違えない事ばかりを考えていると、仕事よりも、自分が間違えない人間である事を証明する方に気を取られる。其れでは、却って仕事が出来なくなる」


 男は、辞表を出すなとは言わなかった。辞める事が間違いだとも言わなかった。続けるにしても別の仕事を探すにしても、決めるのは自分だと述べた上で、もう少し考えてみてはどうかと言った。


 私は会社に残った。


 仕事を覚えるまでには時間が掛かったが、少しずつ失敗は減った。男は私を特別扱いせず、必要な時には叱責した。それでも、失敗したという事実だけで、私という人間の全てを判断する事はなかった。


 其れが私には有難かった。


 男が私を見抜いていたのか、単に部下を辞めさせる事が会社の損失になると考えたのかは分からない。然し、理由が何であれ、私は男に救われた。


 会社を辞めたのは、其れから五年後だった。別の会社へ移ってからも、男とは時折電話で話した。仕事で困った時には相談に乗ってくれた。


 十七年前の手紙は、私が転職して数年後に届いた物だった。男は、転職先の仕事には慣れたか、自分の考えを持って働ける様になったかと尋ねていた。


 最後には、こう書かれていた。


 ――仕事という物は一生懸命にやれば必ず報われる訳ではないが、だからといって、何もしないで良いという事にもならない。


 私は其の一文を、今でも覚えている。


 手紙を受け取った翌日の夜、私は返事を書こうとした。机の上の仕事書類を脇へ寄せ、便箋を一枚置いた。


 転職先では、以前より責任の有る仕事を任されている。周囲にも、以前ほど迷惑を掛けてはいない。そう書き始めたが、途中で手が止まった。


 仕事には慣れたのか。自分の考えを持てる様になったのか。以前より成長したのか。


 男の問いは、便箋に向かうと私自身への質問に思われた。


 失敗は減った。判断出来る事も増えた。然し、誰かに確認しなければ不安になる事も有る。上司の顔色を見て意見を変える事も有る。其れを正直に書こうとすると、筆が進まなかった。


 男は、私が仕事の出来ない人間ではないと考えてくれた。其の判断が正しかった事を示したかった。失敗を繰り返していた頃の私と、今の私が同じではないと証明したかった。


 私は便箋を破り捨てた。


 翌日、もっと簡単に書けば良いと思い直した。手紙を有難うございました。仕事には慣れました。元気にしています。そう書けば十分である。


 然し、それも書けなかった。短く書けば何も返していない様に思われ、詳しく書けば、今の自分が不十分である事が露わになる様に思われた。


 私は、時間が出来たら書こうと考えた。


 仕事が落ち着けば、自信が持てれば、転職先で結果を出せば書ける。そうして私は、返事を書く為の条件を増やしていった。


 立派になったら返事を書く。


 自分の考えを持てる様になったら返事を書く。


 男の判断が正しかったと証明出来たら返事を書く。


 其れは感謝から出た考えの様に思われた。男に恥をかかせたくない。助けてもらった人間として、相応しい姿を見せたい。


 然し、本当は、男に自分の不十分さを知られるのが怖かったのである。


 男に救われた事が、男に認められ続けなければならないという義務に変わっていた。私は其の事に気付かないまま、返事を書かない理由を忙しさのせいにしていた。


 男が亡くなったのは、三年前の秋だった。


 葬儀で棺の中の顔を見た時にも、手紙の事を思い出した。私は返事を書かなかった事を後悔していた。然し、後悔する事によって、男への義理を果たした様な気にもなっていた。


 後悔している限り、男を忘れていない。男に対して誠実である。私は、そう考えていたのかも知れない。


 然し、後悔する事と、相手を大切にする事は同じではない。私がどれほど悔やんでも、男が其れを知る事は無いのである。


 それでも、私は手紙を捨てなかった。


 ある年の年末、封筒をゴミ袋の上に置いた。捨てれば、引き出しが少し広くなる。其れだけの事である。然し、手を離す事が出来なかった。


 手紙を残しておく事によって、男との関係が続いている様に思いたかったのかも知れない。或いは、返事を書かなかったという過失を保存しておきたかったのかも知れない。


 私は、男がしてくれた事と、男に何も返さなかった事の両方を覚えていた。前者だけを残し、後者を忘れる必要は無い。然し、後者だけを残し、前者を忘れる必要も無かった。


 先月、私は会社を定年退職した。


 時間が出来た私は、書類棚から手紙を取り出した。今なら返事を書けるのではないかと思ったのである。


 便箋を買う前に、私は手紙を読み返した。


 男は、私に成長したかとは書いていなかった。仕事には慣れたか、自分の考えを持って働ける様になったかと尋ねていただけである。其の問いは、報告を要求する調子ではなかった。


 最後の一文も、私への命令ではなく、男自身の考えを述べた物だった。


 私は其の言葉を、長い間、男からの評価として読んでいた。男は私に期待している。だから、期待に応えなければならない。そう考えていた。


 然し、男は私を審査していたのではない。ただ、私がどうしているのかを知りたかったのである。


 私は、男の問いに答えようとしていたのではなかった。男に認められる答えを作ろうとしていた。


 其の事に気付いた時、十七年間返事を書かなかった理由を、初めて自分の言葉で言えた。


 私は男に感謝していた。だからこそ、感謝に相応しい人間になった事を証明してから、返事を書こうとした。男の好意を受け取る代わりに、私は其れに条件を付けていたのである。


 立派にならなければ、礼を述べてはいけない。


 失敗をしなくならなければ、助けられた事を認めてはいけない。


 私は男の言葉を信じる代わりに、自分を審査していた。


 私は普通の便箋を一冊買った。


 机に向かい、最初の一行を書いた。


 ――お手紙を頂いてから、十七年が経ちました。


 其れから、定年退職した事、新しい会社で以前より仕事が出来る様になった事、それでも失敗をする事、注意を受けると今でも気にしてしまう事を書いた。


 書いている内に、自分が思っていた程には変わっていない事に気付いた。以前の私は、失敗する自分を認められなかった。今の私は認められる様になったつもりでいた。然し、男に返事を書く時には、失敗をしなくなった自分を見せたいと思っていた。


 私は、便箋の上にペンを置いた。


 男はもう此の手紙を読めない。それでも、私は会議室の長机を挟んで、男の前に座っている様な気がした。今の文章を読まれれば、期待を裏切った人間と思われるのではないか。


 然し、男は失敗をしない人間になれとは言わなかった。


 私は、男の期待を恐れていたのではない。自分で作った期待に怯えていたのである。


 私は再びペンを取り、返事を書かなかった理由を書いた。仕事が忙しかった事、何を書けば良いか分からなかった事、未熟さを知られるのが嫌だった事、いつか立派になってから返事を書こうと思っていた事。


 最後に、こう書いた。


 ――私は、貴方に感謝している事を、感謝に相応しい人間になってから伝えようとしていました。


 感謝していると伝えれば、自分が助けられた人間である事を認めなければならない。私は、男に救われた事を、返さなければならない借りの様に考えていた。


 立派な仕事をする事か。誰かを助ける事か。男の言葉を証明する事か。


 どれも、男が求めた物ではなかった。


 私は、男の好意を返済しなければならない物に変えていたのである。


 私は、男に感謝していると書き、返事を書かなかった事を詫び、最後にもう一度礼を述べた。


 便箋は二枚になった。


 読み返してみると、立派な文章ではなかった。男が読めば、相変わらず物事を難しく考え過ぎていると笑ったかも知れない。


 然し、私は初めて、自分の書いた物に納得した。男に見せる為の自分を作らず、今の自分を書いたからである。


 封筒に宛名を書こうとして、私は手を止めた。


 男の住所には、今、家族が住んでいる筈だった。送る事は出来る。然し、男に届く訳ではない。


 私は、宛名を書く為の空白を見つめた。


 以前の私は、返事を書けなかった。今の私は、返事を書く事が出来た。其の違いは、男に届くかどうかとは関係が無かった。私は、男に読まれる為ではなく、自分が何を恐れていたのかを知る為に、返事を書いたのである。


 以前は、書かない事によって自分を男の判断から隠していた。今は、書いた物を送らない事によって、男に届かない事実を受け入れている。


 私は封筒を机の上に置いた。


 男が私にしてくれた事は、私が手紙を書いたから意味を持つ訳ではない。返事を書かなかった十七年間にも、男の言葉は私の中に残っていた。仕事を覚え、失敗をし、時には他人を助ける立場になった時にも、其の言葉は私の判断に影響していた。


 男に感謝していた事と、感謝を伝えなかった事は、両方とも事実である。前者が有るからといって、後者が無かった事になる訳ではない。


 私は封筒を引き出しにしまった。便箋は折り畳み、男から届いた手紙の隣に置いた。


 翌朝、読み返してみたが、書き直す必要は無いと思った。今の私が書ける返事としては、此れで十分だった。


 引き出しの中には、二通の手紙が有る。


 一通は、私が受け取った手紙。


 もう一通は、私が書いた手紙。


 其の間には、十七年という時間が有る。


 私は其の時間を取り戻せない。男に返事を届ける事も出来ない。然し、返事を書かなかった自分を、いつまでも未熟な人間として扱い続ける必要は、もう無いのだと思う。


 男の手紙には、私がまだ仕事に慣れていなかった頃の筆跡が残っている。


 私の返事には、男がもう読む事の出来ない言葉が残っている。


 其の二通は、互いに届く事は無い。


 然し私は、届かなかった事だけを理由に、書いた事まで無意味だとは思わなかった。


 何も言わずに、引き出しを閉めた。

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