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分からせシリーズ

不貞を働いた婚約者に腹パンで分からせてみた

作者: 入多麗夜
掲載日:2026/08/21

最後に告知あります。

 エレノア・ヴァレンティア公爵令嬢は、婚約者であるレイモンド・クロフォード伯爵令息から届いた手紙を読み終えると、小さく息を吐いた。


 今日の夕食は以前から約束していたものだったが、急な仕事が入ったのなら仕方がないと思っていた。


 二人は五年前から婚約しており、半年後には結婚式も控えている。レイモンドには少々軽薄なところもあり、自分を実際より大きく見せたがる癖もあったが、人間なのだから欠点の一つや二つくらいあるだろうと、エレノアはこれまで大抵のことを流してきた。婚約者として越えてはいけない一線さえ守ってくれるのなら、それでいいと思っていたのである。


 ところが、その日の午後、夕食の予定がなくなったことで友人への贈り物を探しに王都へ出たエレノアは、大通り沿いにある人気の菓子店の前で思わず足を止めることになった。何気なく窓越しに店内へ視線を向けただけだったのだが、そこには急な仕事で忙しいはずのレイモンドがいた。しかも一人ではない。向かいに座っているのは子爵令嬢クラリッサ・ベルモントで、二人の間に置かれているのは書類でも仕事道具でもなく、綺麗に盛り付けられた苺のタルトだった。


 それだけならまだ、仕事の途中で偶然会ったという可能性も残っていたかもしれない。しかしレイモンドは楽しそうに笑いながらタルトを一口分切り、それをクラリッサの口元へ運んだ。クラリッサも頬を染めながらそれを受け入れ、今度は自分の皿から同じように一口分を取ってレイモンドへ食べさせ返す。さらに彼の口元についたクリームを指先で拭い、その手をレイモンドが嬉しそうに取ったところまで見れば、さすがに言い逃れの余地はなかった。


「……最近のお仕事には、苺が乗っているのね」


 隣にいた侍女が何とも言えない表情で主人を見る。エレノア自身も、できることなら何かの見間違いであってほしかったが、二人が見つめ合って笑う姿まで確認してしまえば、結論を変えることはできなかった。


  「……最近のお仕事ってそういう事だったのね」


 そう言ってエレノアは店へ乗り込むことなく、その場を離れた。ここで感情のまま問い詰めても、レイモンドなら「偶然会っただけだ」「友人として話していただけだ」と言い逃れするに決まっている。ならば、言い逃れできないところまで調べた方が早い。エレノアは怒れば怒るほど頭が冷える性格だった。


 その日のうちに人を使って調べさせると、数日もしないうちに予想以上の情報が集まった。レイモンドとクラリッサが親しくなったのは半年ほど前で、二人は何度も食事へ行き、芝居を観に行き、郊外にあるレイモンド所有の別邸にも出入りしていた。さらに宝石やドレスまで贈っていたことが分かり、それだけでも十分に婚約を続ける理由はなくなっていたのだが、最後に出てきた帳簿を見た瞬間、エレノアはさすがに手を止めた。クラリッサへの贈り物の一部に、エレノアとの結婚準備や結婚後の共同事業に使う予定だった資金が流用されていたのである。


「……私と結婚するためのお金で、浮気相手に贈り物をしたの?」


 誰に尋ねるでもなく呟き、エレノアはもう一度目を落とした。見間違いではない。どうやらレイモンドは、婚約者との結婚準備と浮気相手への贈り物を、同じ財布から済ませようとしていたらしい。


「すごいわね。ここまで来ると、怒るより先に感心するわ」


 もちろん褒めてはいない。婚約を破棄することは、この時点ですでに決めていた。必要な家同士の手続きも進めてもらい、そのうえでエレノアは最後に一つだけ確認しておくことにした。レイモンド本人が、一体どんな考えでこんなことをしたのか。それだけは本人の口から聞いてみたかった。



 ◇



 数日後、公爵邸へ呼び出されたレイモンドは、自分の不貞が露見しているとは夢にも思っていないらしく、いつもと変わらない態度で応接室へ入ってきた。エレノアの向かいに腰を下ろすと、少し申し訳なさそうな表情を作り、「この前は悪かったな。急な仕事だったんだ。次の休みには埋め合わせをするよ」と、いかにも誠実そうな口調で言う。


 エレノアは紅茶を一口飲んでから、静かにカップを置いた。


「そうね。苺のタルトを食べるお仕事、大変そうだったものね」


 その瞬間、レイモンドの笑顔が固まった。何の話だと聞き返す声にも、わずかな動揺が滲んでいる。エレノアはそんな彼を眺めながら、「クラリッサ・ベルモント嬢と食べていたでしょう? あなたが一口食べさせてあげて、そのあと彼女からも食べさせてもらっていたわ。あれはいくらお給料が出るの?」と淡々と続けた。


 レイモンドはすぐに「誤解だ」と否定した。クラリッサとはただの友人で、あの日も偶然会ったから少し話していただけなのだという。エレノアはそこで反論せず、「そうなの?」とだけ返し、一枚の紙を机へ置いた。そこには二人で芝居を観に行った日付が記録されている。レイモンドはそれを見るなり「付き合いだ」と言い訳し、次に宝石の購入記録を出されれば「誕生日だった」と答えた。


 エレノアはその記録を眺めながら、少し首を傾げる。


「半年で三回も贈っているけれど、クラリッサ嬢は半年の間に三回も誕生日が来る方なの? ずいぶん年を取るのが早いのね」


 レイモンドは言葉に詰まり、やがて「別の祝い事だ」と苦し紛れに言い直した。すると今度は別邸への出入りの記録が出てくる。エレノアが「では、別邸に何度も泊めたのも祝い事?」と問いかけると、彼は顔を強張らせながら、クラリッサには悩みがあり、相談に乗っていただけだと説明した。


「夜中まで、郊外の別邸で何度も相談に乗っていたのね。随分と熱心なのね」


 穏やかな声で言われたせいか、レイモンドの方が先に耐えきれなくなり、「そこまで調べたのか!」と声を荒らげた。エレノアは眉一つ動かさず、「調べられて困ることをしなければよかったでしょう」と返す。


 さすがにもう逃げられないと悟ったらしく、レイモンドはしばらく机の上の資料を睨みつけていたが、やがて深く息を吐いた。ここでようやく謝るのだろうとエレノアは思った。ところが、彼の口から出たのは謝罪とは程遠い言葉だった。


「分かった。確かにクラリッサとは親しくしていた。それは認める。だが、何をそこまで怒っているんだ? 結婚するのは君だ。クラリッサは遊びにすぎない。最後に選んでいるのは君なんだから、それでいいだろう」


 エレノアは、一瞬だけ自分の耳を疑った。聞き間違いかと思って尋ね返してみても、レイモンドの主張は変わらない。むしろ彼は、自分がエレノアを安心させることを言っているとでも思っているようだった。


「つまり、私を妻にするのだから、他の女性と関係を持っても問題ないと言いたいの?」

「そういう言い方をすると聞こえは悪いが、君が気にしすぎなんだ。貴族の男なら多少の遊びくらいあるし、結婚すれば落ち着く。それに君は昔から俺のことが好きだっただろう。五年も婚約してきたんだぞ。こんなことで全部捨てるはずがない」


 そこでようやく、エレノアは理解した。この男は、自分が許されると信じ切っているのだ。五年も婚約しているから、結婚式も決まっているから、エレノアが自分を愛しているから。だから多少裏切ったところで、最後には許してもらえると思っている。愛情を信頼ではなく、何をしても離れない保証書のように扱っていたのである。


 それでもレイモンドは止まらず、「少しくらい寛容になった方がいい。妻になるなら、その程度の度量は必要だろう」とまで言い切った。そこまで聞いて、エレノアは静かに椅子から立ち上がる。


「レイモンド。一つだけ確認していい?」


 彼は、ようやく納得してくれたのだと思ったのか、少し余裕を取り戻した顔で頷いた。エレノアはそんな彼をじっと見つめ、「ここまで説明しても、自分が何をしたのか分からないのね?」と尋ねたが、返ってきたのは「だから何度も言っているだろう。クラリッサは遊びだ。君とは別なんだ」という、相変わらずの答えだった。


 エレノアは数秒間黙ったあと、静かに息を吐いた。


「……そう。言葉では分からないのね」


 レイモンドが怪訝そうに眉を寄せ、「だから何を――」と言いかけた、その時だった。


 エレノアが一歩踏み込む。幼い頃、護身のために最低限の体術を習ったことがある。まさかそれを自分の婚約者に使う日が来るとは夢にも思っていなかったが、教わった通りに腰を入れ、拳を握り、そのまま真っ直ぐレイモンドの腹へ打ち込んだ。


 鈍い音がした。


 完全に無防備だったレイモンドは、声を上げることすらできなかった。目を大きく見開いたまま身体がくの字に折れ、そのまま腹を押さえて床へ崩れ落ちる。口は開いているのに声にならず、息を吸おうとしても痛みでうまく呼吸ができないらしい。先ほどまで偉そうに「妻なら寛容であるべきだ」と語っていた男の余裕は、たった一発で綺麗さっぱり消し飛んでいた。


 殴ったエレノアの方も、思っていた以上の手応えに少し驚き、自分の拳を眺める。


「……思ったより入ったわね」


 レイモンドは怒ることすらできなかった。額には汗が浮かび、顔まで青ざめ、ただ腹を抱えて必死に呼吸を整えている。文句を言う余裕も、睨みつける余裕もない。エレノアはそんな彼の前にしゃがみ込み、涙目になりながら顔を上げたレイモンドへ静かに語りかけた。


「浮気をして、婚約者を馬鹿にして、それでも何をしても許してもらえると思ってはいけないのよ。分かった?」


 返事はない。というより、まだ声が出ないらしい。エレノアがもう一度、今度は少しゆっくり「分かった?」と尋ねると、レイモンドは腹を押さえたまま、必死に何度も頷いた。


「そう。ようやく分かったのね」


 言葉をいくら尽くしても理解しなかった男が、一発で理解した。


 エレノアは、分からせた。


 目的を果たした彼女は何事もなかったかのように立ち上がり、自分の椅子へ戻った。そして机の脇に用意していた書類を取り出し、レイモンドの前へ置く。


「では、分かってもらえたところで本題に戻るわね」


 床に蹲ったまま、レイモンドがゆっくり顔を上げた。その表情には、明らかに「今のが本題ではなかったのか」と書かれている。エレノアはその視線を正確に読み取り、「違うわよ。今のはあなたに常識を理解してもらうための時間。こちらが本題」と言って、婚約破棄の書類を指先で示した。


 不貞を理由として婚約を破棄すること、クラリッサへの贈り物に流用した資金については返還してもらうこと、両家にはすでに話を通していることを淡々と説明する。ようやく少し声が戻ってきたレイモンドは、「ま……待……」と掠れた声を絞り出したが、エレノアは首を横に振った。


「待たないわ。半年も好き勝手されたのに、どうしてここから私が待たなければならないの?」


 レイモンドは必死に何かを言おうとして、「やり……直……」とだけ口にした。


「嫌よ」


 エレノアは迷いなく即答した。それ以上の押し問答をするつもりはない。左手に嵌めていた婚約指輪を外し、それを机の上へ置く。


「あなたは私があなたを好きだから、何をされても離れないと思っていたのでしょう? でも、愛していることと、何をされても許すことは別よ。むしろ、愛していたからこそ許せないことだってあるわ。覚えておきなさい。……まあ、今ならかなり覚えやすいでしょうけれど」


 その言葉を聞いた瞬間、レイモンドは反射的に腹を押さえ直した。


 婚約は、そのまま正式に破棄された。


 数日後、今度はクラリッサがエレノアを訪ねてきた。てっきり文句でも言いに来たのかと思ったが、応接室へ通された彼女は顔を青ざめさせ、席に着くより先に深々と頭を下げる。話を聞けば、クラリッサはレイモンドから「エレノアとの婚約はすでに解消されることが決まっている」「家同士の事情でまだ公表されていないだけだ」と説明されていたらしい。正式な確認もせず関係を持った以上、クラリッサにも落ち度がないとは言えない。それでも少なくとも、レイモンドが双方へ都合のいい嘘をついていたことだけは明らかだった。


「私は、あなたとの婚約はもう終わっているものだと……」

「私は半年後に彼と結婚するつもりだったわ」


 エレノアがそう告げると、クラリッサはしばらく固まり、やがて額を押さえながら深い溜息をついた。


「……最低ですね、あの男」

「そこは意見が一致したわね」


 少しの沈黙のあと、クラリッサは何かを思いついたように顔を上げ、「一度くらい殴った方がいいんじゃありません?」と真顔で言った。


「もう殴ったわ」

「え?」

「お腹を。かなり効いたみたい」


 数秒間、クラリッサは目を丸くしたまま固まっていたが、やがて妙に納得した様子で頷いた。


「わ、私はやめておきます……」

「その方がいいわ。殴る方も結構痛かったから」


 こうしてクラリッサもレイモンドとの関係を終わらせ、彼は婚約者と浮気相手をほぼ同時に失うことになった。


 ところが、その後社交界へ婚約破棄の話が広まる際、なぜか不貞そのものよりも「エレノアがレイモンドを腹パンした」という部分だけが異様な勢いで広まってしまった。最初は「腹を一発殴った」程度だったはずなのに、人から人へ伝わるうちに、「一撃で床へ沈めた」「三歩ほど吹き飛んだ」「壁まで飛んだ」「公爵令嬢は素手で男を倒せるらしい」と、話がどんどん盛られていく。


「誰よ、壁まで飛ばしたことにしたの」


 ある日の茶会でエレノアが頭を抱えると、向かいに座る友人の令嬢は笑いを堪えながら、「でも、本当に一発で黙らせたのでしょう? どんな感じだったの?」と興味津々で尋ねてきた。


「どんな感じと言われても、殴ったら動かなくなったわ。あと、思ったより手が痛かった」

「感想がそこなの?」

「だって本当に痛かったんだもの」


 すると隣にいた別の令嬢まで妙に真剣な顔で身を乗り出し、「実は私の婚約者も最近ちょっと怪しいのだけれど、どこを狙えばいいのかしら?」と相談を始めた。


 いつの間にかエレノアは、「浮気男を一撃で黙らせた公爵令嬢」として、一部の令嬢たちから妙な尊敬を集めるようになっていた。本人としてはまったく嬉しくないのだが、噂というものは一度広まれば簡単には止まらない。


 そんな騒ぎからしばらく経った頃、エレノアは王都の通りで偶然レイモンドと再会した。婚約破棄後、以前より少しやつれたように見える彼は、エレノアを見つけると何か言いたそうに足を止める。それでも未練が残っているのか、一歩こちらへ近づこうとした。


 エレノアが、ただ身体を彼の方へ向ける。

 その瞬間、レイモンドは反射的に両手で腹を庇った。

 二人の間に、何とも言えない沈黙が流れる。


「……何もしていないわよ」


 エレノアが呆れて言うと、レイモンドは腹を庇ったまま気まずそうに視線を逸らした。


「身体が勝手に……」


 その返事を聞いたエレノアはしばらく彼を見つめ、それから少しだけ満足そうに頷く。


「なら、ちゃんと覚えているのね」

「……何をだ」

「私を舐めてはいけないってこと」


 レイモンドは何も言い返さなかった。


 言葉をいくら重ねても理解しなかった男だったが、あの日の一発だけは二度と忘れなかったらしい。つまりエレノアは、確かに分からせたのである。


 もっとも、彼女自身は二度と同じ方法を使うつもりはなかった。


 殴った右手も、しばらく普通に痛かったからである。

別作ですが連載を始めました!(代表作にも設定しました)


『一度は私を捨てたくせに、今さら口説き直すおつもりですか?』

https://ncode.syosetu.com/n9992mo/

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― 新着の感想 ―
彼女には拳が痛くならない気功波(カメハメ波)を教えて差し上げたいw
面白く読ませてもらいました。ただ、一つ訂正して欲しいのは、無防備で骨のない腹部に拳を入れても手はほとんど痛くありません。痛くなるとしたら手首ですが、それもインパクトの瞬間に手首の保持が弱くて力が逃げよ…
このコメント欄の方々めっちゃ好戦的というか戦闘力高そうで好き(真顔)
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