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第七章‐世界の基準‐対峙

 シンガポール・チャンギ国際空港に降り立った瞬間、肌にまとわりつくような熱気と湿度が、ここが決戦の地であることを告げていた。タクシーの窓の外には、近未来的な高層ビル群と、南国特有の緑が流れていく。

「ついに来たな……」

鼓太郎が小さく呟き、高鳴る胸を抑えるように拳を握った。

やがて視界の先に、それは現れた。


 アステリア・ウォータードーム。

白く輝く巨大なドームは、水面に浮かぶ真珠のように静かに佇んでいる。その存在感は、風景の一部というより“場そのもの”を支配していた。

一歩、足を踏み入れる。

数千人を収容する圧倒的なスケールの観客席が言葉を失わせる。

……美しい。

誰もが、そう感じるはずだった。

だが。

「……静かだな」

誰ともなく、呟いた。

歓声はない。

それでも、この空間には確かに“何か”が満ちている。

視線。気配。圧。

まだ誰も泳いでいないはずのプールが、すでに“勝負の場”として完成している。

ここは、ただの会場じゃない。

“選ばれた者しか立てない場所”だ。

その時だった。

「……バシャッ!」

硬く、鋭い入水音が一つだけ響いた。

振り向くと、誰もいないはずのメインプールを一人で泳ぐ影があった。

無駄のない動き。静かなのに、目を引く。

波紋が小さすぎる。 

ただ泳いでいるだけのはずなのに……

視線が、外せない。

湊は、無意識に息を止めていた。

違う。

それが誰なのか、まだ分からない。

だが、それでも確かに理解する。

ここには、自分たちと同じ“完成を目指す者”がいる。


翌朝。

日本代表の四人は、会場での最終調整に入っていた。

水に入った瞬間、湊は指先から伝わる感覚を研ぎ澄ませる。

水温は26度前後、塩素の匂いは薄い。身体を押し返す水の反発力も理想的だ。環境としてはこれ以上ないほど整っている。

「一本、レースペースでいくぞ」

荒城の号令に、4人が頷く。

スタートの電子音が響き、四人が順に飛び出す。湊の泳ぎは軽やかだった。加速に乗る感覚もあり、スムーズだ。

タッチ。

電光掲示板に表示されたタイムを見て、怜が短く言った。

「……悪くないな。」

事実、タイムだけを見れば順調だった。このまま維持できれば、決勝進出も現実的な数字。

だが、湊の胸には鉛のような違和感が残っていた。

(……何かが、噛み合っていない)

ブルー・キューブで掴んだ繋がりは、確かにあった。

だが、この水、この空間、この圧の中に入ると、それはまだ“完成”と呼ぶには薄かった。

途切れてはいない。

けれど、世界を相手に押し切るほどの強度がない。

「もう一本いこう」

鼓太郎が明るい声を出したが、その視線は鋭くプールを見つめている。

二本目、三本目。繰り返すたびに、タイムは安定していく。だが、それは「無難にまとまっている」だけでしかなかった。

「成功しているのに、完成していない」

その矛盾した感覚が、四人の間に重苦しい沈黙を広げていった。


二本目のセットの終盤。

湊の視界の端に、威圧的な影が入り込んだ。

隣のレーンに、星条旗のキャップを被った集団、アメリカ代表が現れたのだ。

「……見ろ」

怜が短く促す。

アメリカ代表の引き継ぎ練習。

彼らの泳ぎは、日本代表のそれとは根本的に異なっていた。

速いのは当然だ。しかしそれ以上に、彼らには「迷い」がない。

湊が見たのは、第二泳者から第三泳者への引き継ぎだった。

通常、引き継ぎは前の泳者のタッチを見て、コンマ数秒のタイミングを「合わせる」作業だ。だが、彼らは違う。前の泳者が加速を維持したまま壁に迫るよりずっと早く、次の泳者がすでに空中へ飛び出す準備を完了させている。 

まるで、四人が一人の生物として、神経系を共有しているかのような連動。

「……合わせているんじゃない。最初から繋がっているんだ」

遥斗の声が、震えていた。

 日本代表は、まだどこかで互いの顔色を気にしながら必死にバトンを「繋ごう」としていた。

 対してアメリカ代表の引き継ぎには、“祈り”がなかった。

合え、繋がれ、届いてくれ……そう願う余白が、どこにもない。

最後のタッチ。水面が静まり、アメリカの選手たちが淡々とプールから上がる。

そこにあるのは、圧倒的な「個」の集合体ではなく、完璧に計算された「一つの形」だった。


 調整を終えた湊たちがプールサイドを歩いていると、正面から長身の男が近づいてきた。

――ジャックスだ。

彼は足を止めると、湊の目を真っ向から見据えた。

「……悪くない」

低く、感情を削ぎ落としたような声。

「でも、まだ祈ってる。」

挑発ではない。それは、世界一の座を知る者が突きつける、残酷なまでの「事実」だった。

「まだ、未完成だ。」

湊は拳を強く握り、視線を逸らさなかった。

 心臓が早鐘を打つ。恐怖ではなく、自分達の弱さを正確に指摘されたことへの、熱い衝動。

「……分かってる」

湊は短く、だが確かな足取りで一歩前へ出た。

「だから、そこまで行く。アンタたちの見ている景色を、俺たちも掴み取る」

ジャックスはわずかに目を細めた。

「来いよ。」

背を向け、去っていくジャックス。

残された四人の間には、重苦しい空気はなかった。

自分たちに何が足りないのか、どこを目指すべきなのか。ジャックスの言葉によって明確になったからだ。

「……行こう」

湊が言うと、遥斗、鼓太郎、怜の三人が同時に頷いた。

足りないものは見えた。あとは、自分たちなりの「答え」を水の中で見つけ出すだけだ。

四人は、自分たちの戦場へと再び視線を投げた。

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