死後の世界
夜の海は、昼間よりも静かだった。
波の音が遠くでくぐもって響く。
月の光が、ゆるやかに防波堤を照らしていた。
今日もサクラはその上に立って、瓶の中の光を見つめていた。
中で揺れる淡い青が、まるで呼吸しているみたいだった。
「それ、また蝶の欠片?」
「ああ。……一つ、増えた」
瓶の中には、光の粒がいくつも沈んでいる。
まるで夜空の星を閉じ込めたみたいだった。
「ねぇ、サクラ。その蝶って、いったい何なの?」
尋ねると、サクラは少し間をおいて答えた。
「……裏の世界から、表に帰る“鍵”だよ」
「裏? 表?」
「つまり――生と死の境目の話」
その声が、波音の隙間に落ちていく。
私は何も言えなかった。
サクラの瞳の奥が、ほんの少しだけ震えていたから。
「もともと、この世界は“死んだ後”の場所なんだ」
言葉の意味がすぐには理解できなかった。
でも、サクラは淡々と続けた。
「表の世界の人間が、死後に辿り着く場所。
記憶を失って、次の生を待つ……中間の世界だ」
「……嘘」
「俺も最初は信じられなかったよ」
サクラが小さく笑う。
けれど、その笑顔は悲しいほど穏やかだった。
「俺はもともと、表の人間だった。
叔母さん――科学者の桃山ヨシノが“死後の世界”の存在を発見して、その観測用に“ゲート”を作ったんだ」
サクラの声が少し低くなる。
海の音よりも静かで、けれど確かな熱を帯びていた。
「ゲートは、表の世界にしかない。人工的に、裏と繋げるための装置。けど……実験の最中、爆発が起きた。叔母のライバルの科学者だった八重が――ラボを爆破したんだ」
「爆破……?」
「ああ。叔母より先に裏の世界の真相に辿り着きたくてな。装置ごと吹き飛ばした」
サクラの手がわずかに震えている。
その横顔を見ているだけで、胸が苦しくなった。
「その時、叔母は俺を……ゲートに突き飛ばした。壊れる直前のゲートに。“お前だけでも、生きろ”って言って」
言葉の途中で、声が掠れた。
私は何も言えなかった。
代わりに、瓶の中の光が小さく明滅した。
まるで、彼の記憶に呼応しているように。
「気づいたら、ここにいた…。 この世界で生きていた」
サクラは小さく息をついた。
「最初は帰る方法が分からなかったんだ。 けど、ある日、出会ったんだ。――蝶に」
その瞬間、彼の声がかすかに震えた。
「俺は“友達”に助けられた。 この世界で絶望していた俺と、一緒に帰る方法を探してくれた」
「友達……? 以前言ってた…友達?」
「ああ。……ヒナタって名前だった」
――その名前を聞いた瞬間、
心の奥がきゅっと掴まれたように痛んだ。
ヒナタ。
どこかで、聞いたことがある。
でも、思い出せない。
頭の奥で靄がかかったみたいに、ぼやけていく。
「蝶が現れて、ヒナタに触れた。次の瞬間、ヒナタは……消えた」
サクラの声が震える。
その横顔は、涙をこらえているように見えた。
「俺の前からいなくなって、みんなの記憶からも消えた。まるで最初から存在しなかったみたいに」
「その時、分かったんだ。“蝶に触れた者は、表に帰る”。でも、裏の世界の人間は、その人のことを完全に忘れる」
サクラが瓶を見つめる。
中の欠片が、彼の言葉に呼応するように淡く光った。
「蝶は、その後に砕けた。小さな欠片になって、世界中に散った。俺はそれを集めてる。全部をひとつに戻せば、表に帰れると信じて」
「……帰るの?」
「ああ」
「どうして?」
「妹が、生まれるんだ」
そう言って、サクラは小さく笑った。
けれどその笑みは、どこか遠い。
「兄として、そこにいたい。それだけだよ」
海風が二人の間を抜けていく。
波がゆっくり寄せては返す音が、やけに優しかった。
私は黙ってサクラの横顔を見つめていた。
何かを言いたかった。
けれど、言葉が出なかった。
ただ、胸の奥で“ヒナタ”という名前がずっと響いていた。
どうしてだろう。
涙が出そうなくらい、懐かしかった。
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