背中を追いかけて
次の日。
昨日の出来事が、まるで夢みたいに感じる。
――桃山桜。
あの少年の名前を、私は何度も心の中で繰り返していた。
口にするたび、胸の奥が少しざわつく。
不思議な名前。春の花みたいな、でもどこか冷たい響き。
「ハナビ〜、聞いてる?」
「え、あ、ごめんカズハ。なんだっけ?」
「もうっ、またぼーっとして! 昨日の港のこと考えてたでしょ?」
「そ、そんなこと……ないし」
「ふ〜ん。じゃあなんで顔赤いの〜?」
「ちょ、ちょっと! 日焼けだってば!」
笑いながらカズハは、私の頬をつんと突いた。
まったく、この子には隠し事なんてできない。
「でもさ、あの子すごかったね。パルクール? 映画みたいだった!」
「……うん。ほんと、風みたいだった」
「ねぇ、あの子と話したんでしょ? 名前とか聞いた?」
「……桃山桜、って」
「サクラくんか〜! へぇ、かわいい名前! で、で! LINEとか交換した?」
「してないって!」
「え〜、なんで!? あれだけドラマみたいな出会いしといて〜!」
カズハがテーブルに突っ伏す。
ほんと、恋バナに関しては行動が早すぎる。
「……でも、また会える気がするんだ」
思わず口からこぼれた言葉に、自分で少し驚く。
そう言った瞬間、海の光景が頭をよぎった。
青く光る蝶。サクラのまっすぐな瞳。
――『触るなよ。消えるから』。
あの言葉、ただの冗談じゃなかった気がする。
夕方。
帰り道の商店街を歩いていると、路地の向こうで人だかりができていた。
何だろうと思って覗くと、そこにまた――青く光る蝶。
そして、その蝶を追う黒い影。
「……サクラ?」
思わず声が出た。
サクラは振り返ることもなく、手すりを蹴って高く跳んだ。
まるで重力が存在しないみたいに、軽やかに。
私は気づけば駆け出していた。
人混みをすり抜けて、彼の後を追う。
「ちょっと、また危ないことして!」
サクラはようやく立ち止まり、こちらをちらりと見た。
そして、呆れたように笑う。
「……お前、また来たのか」
「“また”ってなにそれ。たまたま通りかかっただけ!」
「ふーん。偶然って便利な言葉だな」
「むっ……!」
言い返そうとして、ふと気づいた。
サクラの手には、何かが握られている。
小さな瓶の中に、淡く光る蝶の羽――。
「それ……捕まえたの?」
「ああ。けど、まだ“本体”じゃない。これは、欠片だ」
「欠片……?」
彼の横顔が、夕陽の中でほんの少しだけ寂しそうに見えた。
風が吹く。蝉の声が遠くで響く。
「俺は、この蝶を追ってる。……“帰るため”にな」
「帰るって、どこに?」
問いかけても、彼は答えなかった。
ただ小さく笑って、「お前には関係ない」とだけ言った。
でも――その背中が、ひどく苦しそうに見えて。
放っておけなかった。
「……私も、手伝っちゃダメ?」
「は?」
「蝶、探すの。……なんか気になるし」
「お前な、これは遊びじゃ――」
「わかってる。けど、1人より2人のほうが早いでしょ?」
言い切ると、サクラはしばらく黙り込んだ。
やがて、ふっと息を吐いて。
「……勝手にしろ。ただし、危ないと思ったらすぐ離れろ」
「……うん!」
その瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
たぶんこれは――期待。
そして、知らない世界への小さな一歩。
青く光る蝶が、空へと舞い上がる。
その光が、私たちの影をゆっくりと重ねていった。
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