海
夏休み、最初の日曜日。
雲ひとつない空の下、潮の香りが胸いっぱいに広がる。
「ねぇハナビ、こっちこっちー!」
カズハの声が弾む。私は手に持ったビーチサンダルを砂浜に叩きつけながら、その背中を追いかけた。
「ちょっと待ってよカズハ、そんなに走ったら転ぶって!」
「へーきへーき! 夏は勢いが大事!」
砂を蹴り上げながら、私たちは浜辺の端まで走った。
海はキラキラと光っていて、まるでガラスを砕いたみたいにきれいだった。
……でも、私の視線はその少し先、堤防の上に釘付けになった。
そこにいたのは――あの日、ビルの上を駆けていた少年だった。
黒いTシャツ、無造作な髪。
彼は堤防から海に向かって軽く助走をつけ、飛んだ。
その一瞬の姿勢が、まるで蝶が羽ばたくみたいに見えた。
「うわっ、あの人……飛び込んだ!?」
「待って、カズハ、行こっ!」
気づけば私は駆け出していた。
堤防の下の海面に泡が広がり、少年の姿が見えない。
まさか、溺れた? いや、あれだけ動ける子が……。
でも、気づけば私は靴を脱ぎ捨てて海に入っていた。
波が太ももまで押し寄せる。冷たくて、でもそれ以上に胸が熱くて――
「おい、なにしてんだお前!」
後ろから声がして振り向いた瞬間、ぐいっと腕を引かれた。
バランスを崩して、そのまま――どぼん。
「ぷはっ! な、なにすんのよっ!」
「それはこっちの台詞だ! 勝手に海入って、危ねぇだろ!」
至近距離。
目の前にいたのは、やっぱりあの少年だった。
濡れた髪から滴る水が頬を伝い、彼の黒い瞳に夕陽が反射している。
そして気づいた。
……彼の腕の中に、自分がすっぽり収まっていることに。
「え、ちょ、ちょっと!」
「……あ、悪い!」
慌てて離れる少年。私も顔が熱くなって、思わず目を逸らした。
「だ、大丈夫か」
「う、うん……。助けてくれてありがと」
「別に助けたつもりはねぇよ。お前が勝手に突っ込んできただけだろ」
「む、むかつく言い方!」
言い合いながらも、胸の奥はなぜか高鳴っていた。
まるで、心臓が“夏の始まり”を告げているみたいに。
名前も知らない彼。
でも、たぶんこの夏――私はこの人に、もう一度出会う。
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