第2章 俊介とみさをの出会い ― 哲学と医学が交わるとき
東京大学・駒場キャンパス、理学部棟・第3講義室。
午後の陽光が差し込むその部屋で、柊俊介は静かに黒板の前に立っていた。白いチョークで描かれていたのは、時空間の屈折を表す数式と、エントロピーの概念を拡張した仮説図。
「……つまり、われわれの意識とは、時間の流れに一方通行で従属しているようでいて、実は“戻る”ための自由度をどこかに持っている。問題はそれを、どのように“観測”できるかだ」
後方の席で、一人の女性がそっと手を上げた。
「質問、いいですか?」
俊介は微かに驚いたように目を細めた。
「どうぞ」
「『意識の自由度』というのは、神経系におけるシナプス可塑性や、記憶の再構築と関係していると思いますか?」
俊介は少し目を見開いた。そしてふっと口元を緩めた。
「……面白いですね。あなた、医学部の方ですか?」
「はい、脳神経外科です。葛城みさをといいます」
「なるほど。お名前に聞き覚えがある。去年、補助脳デバイスの発表をされた…あの?」
「恐縮です。でも、私の研究はまだ机上の話ばかりです。先生の話のほうが、ずっと夢があります」
俊介はしばらく黙り、彼女をじっと見つめた。彼の瞳には、何かが閃いたようだった。
「夢、ですか。僕はむしろ、あなたの方こそ“現実”に近づこうとしていると思いますよ。――後で、少しお話しできませんか?」
その日の夕暮れ、二人は構内の喫茶室で向かい合っていた。窓の外では、セミの声とともに柔らかな風が夏の夜を運んでいた。
「先生の“時空的意識論”は、哲学的ですね」
「僕は、哲学者でもあるつもりなんです。“智に働けば角が立つ”――漱石の言葉、ご存じですか?」
「ええ。でも、“情に棹させば流される”とも言ってましたね」
俊介は不意に笑った。
「なるほど、一本取られました」
「でも、私は先生のような理論を夢物語とは思いません。脳の補助記憶は、いずれ“別の脳”と接続される時代が来ると信じています」
「つまり、あなたは――人の意識そのものを、共有可能な“情報”として扱えると?」
みさをは頷いた。
「補助脳は、記憶と推論の延長でしかありません。でも、もしそこに“自己認識”を持たせられたら――それは、別の“わたし”になる。あるいは、未来の“あなた”とすれ違えるかもしれない」
俊介はしばし目を伏せ、静かに言った。
「……僕の祖父が、生涯を賭けて追ったテーマと、よく似ています」
「葛城善一博士ですね。時空転送理論の。――偶然です。私の父も彼の論文を読んで、医療AIの道を選びました」
俊介は驚きの色を浮かべた。「あなたのお父上は……」
「元は防衛医大の研究医でした。今は沖縄で離島医療に携わってます」
「……すごい。そうだったんですね」
沈黙が数秒、二人の間に流れた。
だがその沈黙は、居心地の悪いものではなかった。
それから二人は、毎週のように互いの研究室を訪ね合い、議論を交わした。
「意識とは観測できるものか?」
「補助脳に倫理的自律はあるか?」
「時空を超えるのは肉体か、魂か?」
「記憶と愛情、どちらが人格を規定するのか?」
真夜中の実験室、研究棟の屋上、附属病院の手術後の廊下。議論はどこまでも続き、やがてそれは敬意と信頼、そして深い情へと昇華していった。
ある冬の夜、俊介がぽつりと漏らした。
「……君と話していると、科学が急に人間くさく見えてくるよ」
みさをは微笑んだ。
「それなら、私の勝ちですね」
俊介はしばらく沈黙し、彼女を見つめた。
「……結婚しませんか?」
「……研究の話の続きかと思いましたよ」
「違います。これは、未来を“選び取る”ための提案です」
みさをは頷いた。
「では、Yes。科学と医学と――愛の融合、ですね」
こうして、二人の人生は重なり始めた。
やがて彼らは、四人の子を授かることになる――
陸、海、空、そして宙。
広大な時空を翔ける、特別な名前をもって。