第1章 出会いと別れ ― 葛城善一とアヤ
研究室の窓辺には、初夏の風が吹き込んでいた。
高エネルギー加速器研究所――通称KEK。その一角にある理論物理学の研究棟で、葛城善一は黙々とホワイトボードに数式を並べていた。小柄な体に不釣り合いなほど大きな声と、誰にでも分け隔てのない笑顔。その日も彼は、居合わせたポスドクたちに「時間とは重ね書きされた楽譜のようなもんだ」と熱弁を振るっていた。
「過去も未来も、実は同時に存在している。ただ、我々の意識が一方向にしか進めないだけだ」
そのとき、部屋のドアがノックされた。
「失礼します。こちらに配属されたアヤ・カトウです。今日から助手として……」
その声に、善一はふり返った。黒髪をすっきりと結い上げた女性が、研究用の白衣を抱えて立っていた。瞳は落ち着いた灰色で、声には毅然とした響きがある。
「ようこそ、カトウ君。――よし、今から一緒に時間旅行の準備だ」
「は?」
彼女はぽかんとしたが、すぐに微笑んだ。「了解です、キャプテン」
それが、すべての始まりだった。
善一とアヤの共同研究は、瞬く間に研究室内でも評判となった。彼の突飛な仮説に、彼女は冷静な実験計画と観察眼で応えた。二人は補完しあうように進み、「意識の時空転送」理論を着実に現実に近づけていった。
「未来の自分が、もし過去に干渉できたら、人は“選びなおす”ことができるんだ」
善一は夜遅く、よくそう語った。アヤはその横で熱い紅茶を差し出しながら、「でも選び直した先の“自分”は、今のあなたとは別人になるかもしれませんよ」と返す。
それでも彼の目には、いつも“その先”が見えていた。
やがて、二人は結婚した。
慎ましい式だったが、研究仲間たちの笑顔と、祝福のワインであふれた。アヤは「時空を超える花嫁です」と冗談を言い、善一は「世界一尊い助手だ」と答えた。
事故は、五年後に起こった。
試験中の装置の暴走。アヤは被験者カプセルの中で、脳内時空転送プロトコルのテストを受けていた。
突如生じた磁場異常、そして発火。善一が駆けつけたとき、彼女はまだ生きていた――が、目には焦点がなく、言葉は意味をなしていなかった。
「アヤ……アヤ、聞こえるか!? おい、目を見てくれ、頼む!」
アヤの口が微かに動いた。
「……あなたは、どなた……?」
その瞬間、善一の中で、何かが音を立てて崩れた。
彼女の魂はどこへ行ったのか。彼の問いはそこから始まった。
アヤの死後、彼は狂ったように研究に没頭した。彼女の脳の一部は、最先端の保存技術によって保管された。やがて、記録された脳波はAI化され、シミュレーション上で“彼女”と会話が可能になった。
それでも彼にとって、まだ足りなかった。
「意識は情報だ。情報は保存できる。そして転送もできる。ならば、過去のアヤを――もう一度救えるはずなんだ」
それは彼の執念であり、愛の記憶でもあった。
――その研究は、やがて孫たちに受け継がれることになる。