4
「お嬢様、とってもお似合いです」
頬を上気させてそう言葉を絞り出したメイドに、ヘレナは微笑んで礼の言葉を返した。
丁寧にまとめたブラウンの髪とブルーネイビーのベルラインドレスの組み合わせに派手さはないが、胸元には緻密な金の刺繍が入り、ウエストから裾にかけては散りばめられた金の粒がきらめき、上品な華やかさに溢れている。
夜会用のドレスに袖を通した機会はあまり多くないとはいえ、ヘレナにもそれなりに物の価値は分かる。たった2週間前に夜会に出るとことが決まった娘が纏うにしては、あまりにも良い品に思えた。
「お父様は、随分上等なドレスを用意してくれたのね」
「まあ、お気に召されたなら何よりですわ」
そっと入れた探りは、ベテランのメイドにさらりとかわされた。
ヘレナが父に夜会に招待されたことを伝えたとき、父は静かに頷いて、ただ一言、「リーナの心に従いなさい」と言った。夜会への出欠についてにしてはやけに重々しかったそれは、番であるセオドアとの関係や、それに付随した今後のヘレナの生き方について言っていたのだろうか。
その真意は分からないが、ヘレナは、今夜、何かが変わる予感がしていた。
夜会は華やかだった。緩やかに調べを奏でる弦楽器の音、香り立つワインや香水の入り混じった空気、笑い声。
時折立ち止まって父の知人達と軽やかに言葉を交わしながらも、ヘレナは視線をそっと巡らせる。今はできるだけ、セオドアの近くに行きたくなかった。
招待客の一人が父に随分熱心に語りかけ始めたが、ヘレナは微笑みを貼り付け、令嬢らしくたおやかに見えるように律しながら、ただその場に立っていた。
近くのひそひそとした声が気になったのは、意識が会話から逸れてしまっていたからだろう。声の方にそっと視線を送ると、少し先の柱の陰で、年若い令嬢たちが華奢な肩を時折揺らしながら談笑していた。
「でもやっぱり、殿下も迷われているんじゃないかしら。だって前のパレードのときは、ずっとパンターソン卿の方ばかり向いてらしたって」
「ええ聞いたわ。殿下はお小さい頃から式典の度にパンターソン卿を侍らされていたものね」
「それが急に隣国の方とって、ねえ?」
「隣国の方が熱烈だったのかしら。ほら、パンターソン卿には、例のご令嬢がいらっしゃるし——」
ヘレナは持っていたグラスの縁を指先でなぞった。
まだ正しく場馴れできていない少女たちは、あくまでも無邪気にこの話を楽しんでいる様子だった。良識ある紳士淑女たちはこの場でそのような話はしないだろうが、まず間違いなくこの件は軍部だけでなく貴族社会にまで浸透してしまっているのだろう。
セオドアに近寄るまでもなく、視線を交わすだけでも、新たな噂の種となるのだろう。
できるだけ彼の姿を視界に入れないようにと視線をさまよわせると、結局、遠くで談笑していたセオドアが、こちらの方に向かってくるのが目に入った。どれほど気を逸らしても、どうしても目が向いてしまう。
ただ今夜、それはヘレナに限ったことではないようだ。招待客の多くが、パートナーや知人との会話に興じながらも、どこかで彼に注目していた。
「ストリックランド卿、お越しくださり感謝いたします。お変わりはありませんか?」
「ご招待に預かり光栄です、閣下。……素晴らしい夜になることを期待していますよ」
セオドアが父とにこやかに会話をはじめたのを、静かに笑んで見守る。
視線の置き場に迷っていたところ、ふと、彼のポケットチーフに止まった。ブルーネイビーのそれは、まるで同じ生地で誂えられたかのように、ヘレナのドレスと似た色をしている。
セオドアからの招待。急いで仕立てたにしてはあまりに上質なドレス。リオカストロ公爵家を象徴する金の髪を摸すような金の刺繍。
まさかと考えているうちに、広間に優雅なヴァイオリンの調べが響き始めた。奏者たちが息を合わせ、ゆったりとしたワルツの旋律を奏でる。
公爵夫妻が中央へ進み出るのを見て、ヘレナはわずかに身を引いた。
セオドアも、ダンスをするだろう。渦中のシャーロット王女はまだ夜会に出られる年齢ではない。セオドアは他の参加者から見繕うことなる。
もちろん、相手はヘレナであるべきでない。
しかし、会話を切りあげたセオドアはまっすぐにヘレナを見つめてきた。
展開を予測し、息を止めて固まったヘレナに、ごく穏やかにセオドアは声をかけてきた。
「ヘレナ嬢、一曲お願いしたい」
ヘレナは、心臓が跳ね上がる音が周囲にまで響いた気がして、思わず胸元を抑えそうになった。差し伸ばされたその手を拒むことなど、あらゆる意味で、できるわけがない。
ヘレナは、どうにか感情を抑えた声で「喜んで」と告げ、その手をとった。
手足まで震えそうな心地になったところを、セオドアの指の温度に何故か落ち着かされる。指先に込められた力に、冷静さが取り戻された。
ホールの中央には、公爵家夫妻とセオドア、ヘレナのみが立っている。取り囲む多くの男女の視線は、きらびやかなシャンデリアの光よりもずっと強く、ヘレナを射していた。
——今はこのダンスの意味するところを考えるよりも、確実に完璧にやり切ることが、貴族令嬢として大事だ。
そう言い聞かせて、ヘレナは密かに深呼吸した。
セオドアの腕が洗練された美しい動作でヘレナの腰に回り、反対の手での手を取る。彼の指はしっかりと、でも優しくヘレナの手を握った。
デビュタントこそ済んでいるが、ヘレナにはほとんど舞踏会の経験がない。それでも、セオドアのリードが非常に上手であろうことは理解できた。こんな状況だというのに、ステップを踏む度に、どんどんと体が音楽に溶けていく。
上手くやらなくては、確かにそう考えていたというのに。セオドアの息遣いまで感じられるほど近い距離で、美しいグリーンアイに見つめられて、あまつさえその体温を感じているというのに。緊張するか混乱するか、行き過ぎて冷静になるか。いずれでもなく、ヘレナはただ高揚した。
意識して浮かべていた貴族の笑みが、思わず心からの笑みにかわってしまうほどに。
一曲目のワルツが終わるまでの時間は、随分短かったように思えた。絡み合わせていた視線をほどく。次いで手を外そうとして、逆にぎゅっと強く握られた。反射で彼を見上げれば、微かにいたずらっぽさを滲ませた笑顔がヘレナを見下ろす。
「もう一曲、踊ろう」
耳元で囁かれた言葉に、ヘレナはほとんど鸚鵡返しに、「もう一曲、ですか?」と小さく呟いた。セオドアの返事は、片眉を上げる仕草だけだった。
セオドアのリードで次の曲のリズムに乗せられた体は、無意識で動いている。一方でヘレナのそれなりの頭脳はフル回転のうえ、それなり程度なせいで処理不全をおこしていた。
——シャーロット王女とのことがあるというのに、別の女性とファーストダンスから続けてダンスを? それも懇意だったと噂されている女性と? そもそもシャーロット王女とセオドアの噂は真実なのか?
ぐるぐると迷走するヘレナの思考が伝わったのか、セオドアはまた耳元で「ヘレナ」と呼びかけた。壁際でこちらを注視している招待客はもとより、二曲目になって増えた、近くで踊る招待客にも、まるで親密であるかのように映るだろう。
つい恨めしげに見上げたヘレナに、セオドアは相好を崩した。「すまない。でも、この曲も楽しんで」、また顔を近づけて囁かれて、ヘレナは今度は力が抜けた。
——セオドアの言動にはいつも振り回されているのだ。こんな状況で考えて答えが出ることなどないだろう。
セオドアはヘレナの様子を見て、「言うタイミングを逃してしまっていたけど」と言葉を続けた。
「今日は一段ときれいだ」
着飾った相手への賛美など、社交の基本中の基本である。それでも、この距離で率直に褒め言葉を告げられて、ヘレナは頬を染めた。
「ありがとうございます。閣下も華やかで素敵です」
「どうも。特に、君のドレスと揃いのポケットチーフが素晴らしいだろう?」
「……まさかと思ったんですが。その、つまり?」
「急に誘ったんだ。ドレスくらい用意するさ」
「……素敵なドレスを、ありがとうございます」
軽く言うが、ドレスの用意をするなど、相当親しくないとすることでない。今まさに、二曲続けて踊っているのと、同じくらいに。
ヘレナがこの会場に足を踏み入れたときには、考えもしていなかったことが幾つも起こっている。夢の中を歩くように、ステップを踏み続け、二曲目の終わりに二人でダンスの輪を抜けた。
「もう少しだけ挨拶周りをしてから迎えに行くよ」
「まさかこの状況で、今夜二人で話をされようとしています?」
約束していた件だとしてもあんまりだと驚いたヘレナに、セオドアは笑った。
「今更だと思わないかい?」
確かに、あまりにも今更な話ではあった。
ダンスの後、父と、ごく親しい父の知人達と談笑しているところに、宣言通りセオドアは迎えに来た。父や、知人はすでにヘレナ以上にこの件について知っていることがあるのか、ダンスの件にも、揃いの色の件にも、触れられることはなかった。
多少時間を空けたところで、周囲の興味の視線が減ることなどない。それでも、この間によって、ダンス後にそのまま姿を消したというような醜聞にはならないだろう。
セオドアとヘレナはホールの喧騒を背に、広間の隅にある扉へと歩を進めた。先には、夜だというのに、幾つもの光が散りばめられた庭園が広がっている。
白い石畳に、ヒールの音が控えめに響く。熱気と、過分に想定外な状況のせいで火照った首筋に、夜風が心地よかった。
アステリアに似た白い花々が光源となって足元を照らしている。少し先にある噴水の音が静かに響き、舞踏会の音楽はもう風の向こうに微かにしか聴こえない。隣を歩くセオドアは、凪いで沈着で、これが予定通りであるかのような足取りだった。一方で、ヘレナの心はまだ舞踏会の喧騒の中に置いてきたままだった。
——手をとって踊ったことも、二曲続けて彼の腕の中にいたことも、本当に、現実だったのだろうか。
「寒くないかい?」
セオドアが歩みを緩め、さりげなくヘレナの方を向いた。
「いえ……大丈夫です」
小さく返した声は、出したヘレナ自身が頼りなく思えるものだった。セオドアが一瞬だけ何か言いたげに口を開きかけた気配があったが、結局言葉にはせず、代わりに手を差し出した。石畳の終わりの少しの段差を理由に、ヘレナも自然体を装ってその手をとる。軽く手を重ねただけなのに、その指先の熱はじわり、じわりとヘレナの心まで侵食していった。段差を超え、噴水の前で歩みを止めてもなお、セオドアは手を握っていた。
水音が静かに響いて、他の音を遮る。まるで、ふたりだけの空間だった。
「ヘレナ」
名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。声は低く、でも不思議なくらい優しかった。
「君が好きだよ」
——そんなはずがない。そんな訳がない。そう言い聞かせながら、恐らくずっと、心のどこかでこの言葉を期待していた。
はらりとヘレナの瞳から零れ落ちた雫は、セオドアに静かに拭われた。