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 微かに香っただけだというのに、ヘレナは、全神経がその香りの元となる男性に集中しようとするのを感じた。

 王立楽団が奏でる円舞曲や、やけに大きく聴こえていたドレスの裾をさばく音、父の手の温度までがどんどんと遠くなっていく。

 デビュタント・ワルツを見守る紳士たちの中に、その人はいた。それなりに距離がある。

 もともと鼻は良い方だが、それにしても、ダンス中に近くを通っただけで、その香りに気付かされるなんて。


 夢中になりながらも、頭の片隅で冷静な自分が瞬時に観察する。輝かしいブロンドに、グリーンアイの整った顔立ちは、絵付きの貴族名鑑のトップを飾っていたものと一致するように思える。そして仕立てられた明らかに上質なテイルコートからも、彼がセオドア・パンターソン侯爵である——つまるところ、リオカストロ公爵家の跡取りであることは間違いないだろう。


 ヘレナはあくまで、デビュタントの娘らしく、自然に周囲に目線を送りながら眺めることを努めていた。彼に全神経を集中していることを、周囲から気取られないうちに、彼から視線を逸らすつもりだった。

 だというのに、一方的に観察しているはずの、そのグリーンアイに射抜かれ、息が止まった。不審に思われたくなどない。ないのに、目が逸らせない。彼以外のなにかを見ることができない。

 ——なぜ、彼も見てくるのだろう。もし、彼も、気づいたのだとしたら。(つがい)だと、認識できるのだとしたら。


 勢いよく期待が膨らみかけたとき、すっと視線は逸らされた。一瞬で宿った期待が、ぱちりと弾けて消える。

 彼は儀礼的にダンスを眺めているところで、たまたま目があっただけなのだろう。すでに近くの男性と談笑を始めている。


「リーナ、どうした」


 父からかけられた声に、ヘレナの意識はようやくダンスに戻った。


「少し、緊張してしまって……もう大丈夫です」


 後で話すという意思と詫びを乗せた目線を父に戻す。次いで、ヘレナは改めて、おっとり見られがちな柔らかな微笑みを浮かべた。パンターソン卿——セオドアに目線を送っていたなんて、身の程知らずなことを、誰にも気づかれていないと願いたい。

 セオドアもどうか、たまたま目があっただけだと思ってくれれば——できることなら、公爵家嫡男に熱心な視線を送った夢見がちな女の一人だとは、思われていなければ良い。いや、ヘレナの行動は正しく夢見がちな女であったのだが。


 彼がヘレナの番であることは、まず間違いないだろう。まさか、公爵家嫡男とは。

 これがもっと爵位の低い人なら、どうにか縁談をまとめてもらうこともできたかもしれないのに、なんて、数刻前までは思ってもみなかったことばかりが脳内をめぐる。


 口元に笑みを浮かべたまま、ヘレナの気持ちは急速に落ち込んでいった。自分は番へのあこがれは特にないつもりでいたが、実際心のどこかで期待していたらしい。


 ヴァルディネア王国の歴史は、様々な獣人の民族の集まりから成る。

 獣人はそのルーツにかかわらない番が居り、また、それぞれが己の番を判別することができたため、各民族同士は混ざり合って行き、いずれ国となった。

 しばらくは主に獣人のみがその国民であったが、大戦を経て、この三百年の間に急速にその血は薄まった。隣国の魔法使いや、その更に西の只人などと交わった結果、見た目も、その能力も、ほぼ只人、もしくは魔法使いである。


 ヘレナの母も、隣国の魔法使いだった。そして、ヘレナは母譲りの魔力を持っている。

 だから、他家からすると、ヘレナに獣人としての血が濃く現れていることなど分からないだろう。しかし、茶色の緩く巻いた髪に零れ落ちそうな黒い瞳は、父の血筋、モリフクロウのルーツであることが明らかだった。

 獣人としての血が濃く現れているということは、()()()である——番の匂いを判別できる可能性があると、幼い頃から言われてきた。同時に、相手は判別できない可能性が高い、とも。


 リオカストロ公爵家は、王家の血筋であるから、下位貴族と比べると獣人の血は濃いだろう。それでも、近年は隣国の王族や貴族との婚姻も多く、番を判別できる可能性はやはり低い。


 そして何よりも、そろそろ王家の血を入れても良い頃合いで、セオドアは十歳ほど年下のシャーロット第二王女との婚約が噂されている。その噂を裏付けるように、セオドアは、二十歳を超えて数年は経っているはずだが、現在も婚約者が決まっていない。

 ヘレナは、伯爵令嬢だ。王女との差なんて、比べるべくもない。これでは、例えセオドア自身が番を判別されたとしても、番というモノへのよほどのこだわりがない限りは、番なんて捨て置くのが道理である。


 それでも、認識できる側から、番という存在がいかに逃れがたいものなのか、この一瞬で体感してしまった。番を認識したとして、番ではなく、そうするべき相手と結婚するのだと、本能的な繋がりではなく、理性的な判断が重要だと、そう考えてきた。そうした考えを裏切って、番のもとに足を運びたくなる。もっとその香りが欲しくなる。

 ——ひと目見ただけの相手に、こんな衝動を、抱えていかないといけないというのか。


 ヘレナは笑顔を貼り付けたまま、心がどんどん重くなっていくのを感じた。




 精密に均された石造りの床に、カツカツと軍靴が音を立てる。ヘレナはその少し後ろを、いつものようにできるだけ静かに追いかけていた。


「全く、正気の沙汰じゃないね。娘の我儘のために2ヵ月後のパレードにねじ込むなんて何を考えているんだ? 何も考えていないのか?」

「閣下、いくら閣下でも不敬です」

「事実だろう。パレードはまだしも警備計画まで練り直しだ。平和ボケし過ぎだよ大叔父殿は」


 足早に軍部の廊下を進むセオドアの顔はかの公爵家長子としては相応しくないほど分かりやすく顰められているうえ、国王陛下に関する愚痴をこぼしているが、幸いここには気にする者はいない。

 魔法の香りの強い伝令鳥や誰かに呼び寄せられている最中だろう紙の束は飛び交っているが、日の陰る渡り廊下に人通りはなかった。


「そもそも魔法部隊に興味があると言うのなら、そこらでやっている訓練でも見に来れば良いものを」

「シャーロット殿下に雑に訓練をお見せするなんてできません」

「本当に魔法部隊にご興味がおありなら楽しめるはずだろう?」


 ヘレナは早足でついていきながら、「殿下のご興味の先は魔法部隊ではなく閣下なのでは」という言葉をどうにか飲み込んだ。


 デビュタントから3年。

 ヘレナは結婚という重苦しい課題を早々に放り出して、陸軍の魔法部隊に事務官として勤めている。

 番以外と結婚することを、当時は決断することができなかった。だとしても、本人とは距離を置くべきであったのに、たまにすれ違う程度を夢見て、魔法部隊に入ってしまった。そして、あろうことか直属の上官が彼——セオドア・パンターソン卿となった次第である。3年前の自分の甘えによる負債に、日々利子まで払っている状況だ。


 つらつらと考えごとをしていたせいで、ヘレナは少し前を歩くセオドアが足を止めたのに気づくのが遅れた。どうにか躓かずに自分も止まりつつ、心を落ち着かせることができないまま、セオドアの顔を見上げてしまったのが良くなかったかもしれない。

 立ち止まって振り向いてきた彼のグリーンアイに見つめられて、ヘレナは平静に対応するでなく、固まってしまった。


「……どうかされましたか」


 硬直を解いて、努めて穏やかな声を絞り出す。常に変わらない対応というのはヘレナの得意分野であるはずだが、声の調子がおかしい気がしてならない。——どうか意識していることが気づかれないようにと、いつも考えているのだが、考えているせいか、いつも上手くいかない。

 セオドアは、一瞬考えるように眉をひそめて、ちらりと数歩先にある執務室の方を見てから、ヘレナにだけ聞こえるように囁いた。


「すまない。今日の約束は、無理そうだ」

「謝らないでください。もちろん、理解しております」

 

 ——高位貴族だというのに、そういえば、彼からは謝りの言葉を何度か聞いたことがある。

 そんな詮無いことを考えないと、まるで秘め事のように近くで囁かれたことで、セレナは顔に熱が集まりそうだった。


 苦心して気を逸らすヘレナをセオドアは少しの間見つめ、やがて視線を落とし、一呼吸おいてから執務室の方に向き直った。その背中を追うようにして、ヘレナも歩を進める。


 執務室に戻ったセオドアは、無言で自席に腰をおろした。ジャックとルーシーの二人がいつも通り出迎えているが、ヘレナは、ルーシーがちらりとこちらを見て、興味深そうに笑ったのを感じ取った。思わず目を逸らしながら、自席の羊皮紙とペンに手を伸ばし、先ほどの勅令の簡略を魔動筆記させる。軽く咳払いをして、2人の方に向き直った。


「国王陛下の命によって、建国記念の祝賀式の件に変更が出ました」


 ルーシーの顔があからさまに「他にもっと気になることがある」と言っているが、それは無視して続ける。


「具体的にはパレードで、魔法部隊も行進することになりました」

「えっ? 行進ですか。周辺警備ではなく?」

「はい。急ではありますが、魔法部隊もパレードの隊列に加わることで、式典に花を添えて欲しいと……」


 例年、歴史の浅い魔法部隊は祝賀式典のパレードには参加していないにもかかわらず、急遽の参加となったのである。書き上がった文書をジャックとルーシーに手渡せば、ジャックは「うへえ」と不満気な声をあげた。


「大体、式典なんてもう再来月じゃない。さすがに急すぎない?」


 興味の先を切り替えて文書にさっと目を通しながら、ルーシーが紙には記せない裏事情でもあるのかとヘレナに促す。


「それが、シャーロット第二王女殿下たってのご希望のようなんです」

「なるほどね」

「うわあ。少佐案件じゃないっすか」

「何が俺案件だよ」


 思考をまとめたらしいセオドアが会話に入ってきたので、念の為概略を記した先ほどの羊皮紙を手渡す。律儀に「ありがとう」と礼を言ったセオドアは、それに数秒目をやって、一つ頷いた。


「パレードには第一と第二の一部と、第四で加わる。各部隊の残りは予定通り警備に。騎兵部隊の現場警備要員を増員させる予定だから、第三でそっちと連携して計画の練り直しだな。ルーシー、頼む。」

「承知しました」

「ジャックはパレードの方を早急に。騎兵も例年通り魔導具を使うだろうから、そことかち合わないようにしてくれ」

「そうなりますよねー。とりあえず騎兵の方に確認に行ってきます」

「頼んだ。騎兵部隊は相当苛立っているだろうな」

「もうほとんど準備も終わってるでしょうしねえ。……少佐が出ない限り収まらないんじゃ?」

「せいぜい目立って矢面に立つことにするよ」


 セオドアの指示に、早速アポイントを取り付けるため、ヘレナは各部隊長に向けて伝令鳥を放った。



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