047
明人はそのまま北町に向かった。
本町と北町の間を流れる魔石川に架かる橋を渡り終わると、明人は数人に囲まれた。
その中に、穏和そうな、しかし威風堂々とした初老の男性がいた。初老の男性は細い杖を支えにしながら明人の前に進み出た。
「お引き取り願えぬか」
見た目にふさわしい、重厚な声だった。丁重な口調でそう告げる初老の男性は、北町自治会長で、明人が北町に入ろうとすると渚先生と同じく、阻止しようとする人物だった。
初老の男性の隣りには、渚先生もいた。
「確認したい事があるんだけど。北町の状況はどう? 悪化している? それとも改善している?」
「疫病神が戻ってきてくれてから、犯罪件数も交通事故件数も悪化なっていない」
北町自治会長であれば答えられれる内容だった。明人の想像通り、現状維持だった。。
「悪化していない。逆に言うと改善もしていない、と思って良いですか?」
「ああ」
北町自治会長は今のところ現状維持だが、改善したのはエルが北町に戻ってきた為だと考えているから、しばらくすれば改善すると思っている。
「最近エルに取り憑かれた人はいる?」
「儂が取り憑かれた。あとは氷川神社の洋子殿も取り憑かれたようじゃ」
不幸があったかと聞くと肯定された。少し腰を痛めてしまったとの事だった。
「そうですか」
不幸の中身が小さすぎる。洋子も学校で会った限りでは大きな不幸があったように見えなかった。この、不幸の内容が小さすぎるのも明人の想定通りだった。
「今日はちょっと確認したい事があるので、ちょっと通らせてもらいますよ」
明人は一歩踏み出した。
「思いとどまってくだされ」
「それムリ、ごめんね」
明人は伸びてきた右手を掴み、そのまま横にどけた。右手でそっと北町自治会長の手を取ってゆっくりと引っ張って明人の前から退かせる。北町自治会長の手を離して歩き出す。
「明人殿、北町が混乱させてまで疫病神を欲するのか」
「まあ見ててください」
振り返らずに片手を上げて挨拶する。
「ちょっと待ちなさい」
中年の男が明人の肩を掴んできた。明人が数歩歩いても男が手を話さなかったので、明人は優しく男の手を払った。男の手が跳ね上がりその場に尻餅をつく。
「おいっ!」
「渚先生。洋子に、ぼくが本気だと伝えてください」
渚先生はなおも明人を止めようとするが、明人が見つめるとその場から動かなかった。
明人はすぐに氷川神社には向かわず、北町を適当に回った。
駅前につながる国道はそれなりの交通量があり、この時間はトラックと商業車が多く走っている。しばらく見ていたが特におかしい様子はなかった。
「とくに異常はない、と」
その道路に沿って北町駅前に歩いて行く。
北町にはJRの駅が小規模だがひとつあり、駅前には店がいくつか集まった小さな商店街があった。明人はその裏通りを選んで歩く。途中で、ガラが少し悪いが目立つ程でもない十代の若い男女とすれ違う。年が近い明人を睨んでくる者もいたが、殺伐とした雰囲気は感じなかった。
人の集まる場所には邪気は集まっていない様子なので、それから明人は墓地や雑木林などを回ってみたが、問題は見つからなかった。
念のため、農家の田畑で作られた農作物の状況をいくつか確認したが、普通に育っていた。
やはり人、土地、自然のどこにも大きな問題は見つからなかった。
一日かけて北町を見て回った明人の結論だった
雰囲気も以前に比べて格段に良い。逆に前回、何故あれだけ雰囲気が悪かったのかが気になった。
もうすぐ日が沈む。
明人は携帯で氷川洋子と連絡を取り、今から行くと伝える。
洋子が何か文句を伝えてきたが無視して通話を終了して、さらに電源も切った。
明人は氷川神社に向かった。
エルが北町に戻った事で確かに北町の雰囲気は改善されている。
「何故だ?」
エルの能力を考えると明らかに矛盾がある。
洋子から聞かされた、北町の不幸を幸福にするシステムについて考えてみた。エルが運気を集めたり、放出したりできる存在でしかない場合、災厄を小出しにするとは、どのようにして実現しているのか? 不幸を小出しにするとはどういう事なんだ?
「エルにムリヤリ運気を吐き出させる事で運気を北町に充満させているって事なんだったら、何故エルが北町にいなくなった時に、北町の雰囲気が悪くなったんだ?」
不思議なことに氷川神社に近づくにつれて周りの雰囲気が悪くなり、運気も少なくなっていった。結局、北町でいちばん雰囲気が悪くて運気がないのは氷川神社だった。
氷川神社の鳥居の下には渚先生がひとりで立っていた。北町自治会の人達はいなかった。
明人が石段を上がりきると渚先生が近づいてきて、数歩の距離を残して立ち止まった。
「ここは通さない」
渚先生は神具を持っていた。細長い木刀のようなものから神力を感じる。それを明人に向けて構えている。
「洋子さんは?」
「……まだ学校から帰ってないの。携帯で連絡が付かない」
まさかアヤカが洋子の事をまだ開放していないのか?
明人は頭を振って考えない事にした。とりあえずあとで洋子に謝ろうと思った。
「渚先生……どいてくれないかな」
明人は一歩進むと、渚先生が一歩下がる。
「止まって」
明人は応えるかわりに渚先生が持っていた神具を掴んだ。
「えっ? な、なんで触れられるの……!?」。
明人は驚いて固まってしまった渚先生ごと神具を引っ張り、渚先生を抱き寄せた。
そして神具をへし折った。
「う、うそ……?」
「ごめんなさい。でも北町の神具ぐらいでは、ぼくを止める事はできないんだよ。一応、ぼくはこの地域を統べる和紙司の氏に属しているのだから」
北町は属領であるため本町の者を害することは基本的にできない。
明人はへし折った神具をその場に放り投げて、渚先生の首筋を軽く咬む。洋子が小さく喘いで体を震わせた。
「あ、あなた吸血鬼なの?」
「ちがうよ。普通の人間だよ。ちなみに今は、ただの甘噛みだから。……こうすると女の人は力が入らないんだよね」
明人は渚先生を抱き上げたまま参道を進んでいく。
「いや、やめて」
渚先生は熱くもないのに汗をかきながら、ときおり喘ぐ。
定期的に背筋をゾクゾクっと震わせるのが明人に伝わってきた。
明人は氷川神社に入り、渚先生を側にあったベンチにそっと下ろした。
渚先生はグッタリしている。座っていられずにそのまま横に倒れる。うつろな目で明人を見上げるようにして見つめてきた。
「はぁはぁ、こ、こんなコトを君に教えたのは、誰なのよ?」
「アヤカがぼくにしていたことを、やってみただけ。さすがに渚先生に怪我させるわけにはいかないからね。……少ししたら、動けるようになる、と思いますんでここで休んでてください」
「……お願い。こっちに来て」
呼ばれて明人が渚先生に近付く。
突然、渚先生が襲いかかってきた。
避けきれず、その場に背中から倒れる。
渚先生が覆い被さってきた。
そしてキスされた。
くちゅ。
舌が入ってくる。
覆い被さった渚先生を引き離すために胸を掴んだ。すると、渚先生の体がビクンと痙攣する。
「な、なに、すんですか?」
「先にしたのは、明人くんでしょう。お、おねがい、もう少しこのままでいさせて」
唇を一度離してそう言った渚先生がそう言って再び明人の唇を奪ってきた。渚先生の両腕に頭を抱きしめられる。渚先生から甘い香りがした。
明人が渚の舌に自分の舌を絡ませて応える。
しばらくすると渚先生はその場に倒れてしまった。
スカートが乱れて下着が露わになっていたので、明人は渚先生のスカートの裾を伸ばして下着が見えないようする。
明人は渚先生に頭を軽く下げて、裏手にある祠に向かった。
祠の中に入る。
誰もいなかった。その代わり何重もの封印呪文で覆われた中心にエルの憑代の像があった。
明人の掌から腕くらいの大きさの女神像だった。女神像自体にも封印が何重にもされていた。
「こんなに封印するのは、大変だったとは思うけど」
明人は柏手を一度打った。
封印がひとつ解かれる。
もう一度柏手を打つ。さらにもう一度打つ。
明人が柏手を打つ度に封印が解かれていった。
明人は祭壇場の中心に行き、解かれた数印を全て千切って女神像をつかみ取った。
「エル、明人だよ。迎えに来たよ」
明人は女神像に軽くキスをした。すると次の瞬間、明人の姿が半透明にぼやけてスッと女神の中に吸い込まれていった。