08
ジョンストン公爵家には複数の領地がある。ジョンストンの名がつく一番大きな領地にしか行ったことがなかったメリッサが行き先に選んだのは、帝国との国境に近い小さな領地ロートン。
帝国の帝都は音楽の都として有名で、多民族国家を理由に多種多様な音楽が街中でも流れているらしい。メリッサが弾いているピアノ曲も8割が帝国出身音楽家の作品だ。その帝国に接している辺境伯領の隣の領地ロートンなら、王都では手に入らない楽譜と出会えるかもしれないと期待したのだ。
馬車で3日かけて着いたロートンは、メリッサが期待していた帝都の影響は残念ながら一切なかったが、かつてお札の絵柄になったこともあるほどに美しい湖、ロートン湖が領地の半分を占める、美しくて静かな田舎町だった
「すごい、綺麗……。吸い込まれてしまいそう」
「ふふふ。初めてロートン湖を見たヴァネッサ様も同じことを仰ってました」
どこまでも透明な大きい湖に感動していると、後ろに控えている領主館の執事に笑われる。母と同じと言われたメリッサは、知らず知らずににっこりと笑っていた。笑ったのは久しぶりだ。
父から捨てられたと言っても相違ない都落ちを命令された時は、真っ暗な闇の中へ一人で放り出されたような気分だった。でも、この雄大な自然と美しい湖を見ていると、息を潜めて過ごしていたあのジョンストン公爵家を出られてよかったのではないかと前向きに思えてくる。
さっそく執事に珍しい楽譜がないかと聞くと、隣の辺境伯領へ行けば見つかると思うと言われ、なぜかまた笑われてしまう。会ったばかりだが、笑顔が多いこの執事を好きになれそうだとメリッサは安心した。
領主館は祖母よりも年上に見える老夫婦が家族で管理してくれていて、この執事がその老夫婦の夫だ。彼の息子が主体となり領地の管理を行っている。代々ロートンの管理を行っている家系らしい。
メリッサはロートンの使用人たちに、妹と魔力の相性が悪いため領地で魔力操作を覚えるまで王都に帰れないのだと素直に伝えた。その妹は最近養子縁組した従妹で、実子のメリッサが本邸から出されたのだと皆理解しても、メリッサを下に見る者は誰一人おらず、優しくメリッサを受け入れてくれた。
王都にいた時よりも親身に寄り添ってくれる侍女のローズもいたし、我慢せずにピアノを弾けるようになった。そして、何より、ロートン領主館で働く従者見習いの少年との出会いがメリッサの傷ついた心を癒していった。
貴族の子女は13歳から3年間、王都にある貴族学園に通う。13歳からの貴族学園は領地経営や外国語、地学、環境学など貴族として必要な知識を学ぶためにあり、貴族学園の卒業者のみ貴族籍に入籍し貴族として認められるのだ。それ以外は直接国王から叙爵される以外に貴族になる方法はない。その後は16歳から3年間、魔力を持つ者の入学が義務になっている魔法学園に通う。魔法学園では正しい魔力の使い方を学び、もしも卒業できずに退学する場合は魔力封じをされてしまう。
メリッサはもうすぐ11歳になる。2年後から通う貴族学園で学ぶ内容は6歳からの王子妃教育ですでに終わってしまっていた。忘れないように復習はするつもりだが、そこまで時間は必要ない。魔力操作の訓練も父に領地行きを言われた次の日から取り掛かっていたが、1日で使える魔力には限りがあるようで、朝食後に訓練を始めると昼ご飯の前には魔力が尽き訓練ができなくなる。
メリッサは、午前中は魔力操作の訓練、午後はピアノ、夕食後に勉強をしようとこれからの日程を決めた。6歳からは1日1時間しか弾けなかったピアノが、これからはたくさん弾けるのだと考えるだけで身震いするほどに嬉しい。
公爵家では消音魔道具を使っていたが、久しぶりにありのままで演奏するピアノ。まるで身体中の血が沸き立つようだった。しばらく集中してピアノを弾いたメリッサは、一息ついて周りを見渡すと領主館の使用人達に囲まれていた。
「今までこんな素晴らしいピアノを聞いてなかったんだって思うと悔しいです」
ローズのその一言を皮切りに、次々と言葉をかけられる。
「すごい!」「泣きそう」「こんなのはじめて」「すごいピアニストがロートンに来てくれた!」
拙いながらにメリッサのピアノを聞いた思いを必死に言葉を紡いでくれる皆に、胸が熱くなり涙が目に溢れる。「ピアノはきっとメルを助けてくれる」かつてそう言ってくれた母の声が聞こえた気がした。
メリッサが王都に帰るために毎日頑張っている魔力操作の訓練は、ただただ魔力の溜めと放出とを反復し続ける単純作業。通常はこのような訓練をしなくても、魔法を使っていくうちにいつかは魔力を抑えることができるようになる。それを早めるためだけのつまらない訓練なのだが、メリッサは元来真面目な性格で、幼少期からの王子妃教育により稽古事に慣れていたために毎日続けることができている。
通常なら魔力が尽きるほどに集中力が持続する人などいないということにも、アメリアが自分にとって利益のない訓練をするわけがないことにも気づかず、メリッサは毎日必死に単純作業を繰り返していた。二人ともに魔力を抑えられるようにならないといけない、つまりメリッサだけではなくアメリアも魔力操作を覚えない限り、メリッサは王都に戻れないというのに。
「お嬢様、一つお願いがあるのですが良いですか?」
いつも優しい笑顔を湛えている執事が、一人の少年の手を引きメリッサに声を掛けてきた。
「こちらは従者見習いのネイトです。ご覧の通り、ひどい火傷跡があるのですが、お嬢様が毎日行なっている魔力操作の訓練として、ネイトに光魔法をかけていただけませんか?」
長い前髪で隠しているものの、それでも分かるほどに顔全体が真っ赤に爛れていて、よく見ると両手も見える範囲に真っ赤な火傷跡がある。執事が握っているネイトの手の甲の火傷跡はまだ安定していないのか、水ぶくれも確認できてとても痛々しい。
「必要ない!」
当のネイトはそう言って、執事の手を振りほどこうと必死に足掻いている。
「態度が悪く申し訳ございません。これでもネイトはお嬢様と同い年の魔力持ちでして、ゆくゆくは一緒に魔法学園に通うことになります。きっとお嬢様の手助けにもなると思うのです」
顔全体が火傷で爛れてしまっている魔力持ちの少年。魔力持ちということは貴族の血が流れているのだろう。厄介ごとの匂いしかしないから、断るべきなのだろう。
でもメリッサは、ピアノを聞いた後に感想を伝えてくれている使用人達の隅でこっそりと涙を拭っていた彼を覚えていた。
「私の光魔法は簡単な傷を治す程度のものなの。だからきっとジョッシュが思っているような効果はないと思う。でも、その水ぶくれを治すことはできると思うし、どこまでできるかやってみたいわ」
ジョッシュとはこの微笑みの老執事の名前だ。
「えぇ、構いません。ネイト、これは仕事です。従者としてお嬢様の魔力操作の訓練の補助を命令します」
こうしてメリッサは魔力操作の訓練としてネイトの火傷跡に光魔法をかけることになった。