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それから暫くはいつも通りの日々。もう魔力操作の訓練は必要ないが、午前中は魔力が切れるまでネイトの顔へ光魔法をかけ続けた。ネイトの顔に手を添えての光魔法の時は緊張してしまい、いつまでも慣れることはない。もう9ヶ月も毎日光魔法をかけ続けているにも関わらず、効果の範囲が変わらない光魔法の才能のなさに呆れ、ピアノさえ弾ければよいと思っているのが神様にバレているのだろうなと思わず笑ってしまう。
冬に入り、ピアノを弾く前にかじかむ手を温める魔道具を用意してもらった頃には、ネイトの口が引き攣ることがなくなり、整った口元だとわかるようになった。鼻筋もスッキリしているし、まだ前髪の下を見たことがないがかなりの美形な予感がして、思わずローズへ同意を求めた。
ネイトの叔母は目も覚めるような美人だったので、ネイトも美形の可能性は高いとローズは言う。ローズとネイトの叔母は学園の先輩後輩で、仲も良かったらしく、ネイトに叔母の名前を聞いた時はびっくりしたそうだ。
口元の引き攣りが無くなってしばらくした頃、ネイトはメリッサに治療を止めて午前中もピアノを弾けば良いと言ってきた。
「俺はもうここで治療を止めていいと思ってる。でも、メリッサが火傷跡を気持ち悪いと思うならメリッサが満足するところまで治療して欲しい」
「気持ち悪いというより、痛々しくて心配になるかな」
そう言ってメリッサは治療の手を止めなかった。かっこよくても、かっこよくなくても、ネイトの事なら何でも知りたい、どんな顔なのか見てみたいと思っていたのだが、それは恥ずかしいので言わなかった。
1年で1番寒い冬の頃、ネイトはあれから手紙のやり取りをしていた叔母へ会いに、隣のリーブス辺境伯領へ行った。その日は兄の13歳の誕生日だった。
兄からの誕生パーティーへの招待などもちろんなく、メリッサからも手紙やプレゼントは贈らなかった。そもそも、兄への誕生日プレゼントは毎年兄がリクエストした曲の演奏だ。去年の誕生日も弾いていないし、今年もない。もう兄にピアノを弾くことはないのだろうな。毎年、メリッサの手の大きさでは難しい曲ばかりリクエストされ、それを頑張って練習するのが楽しかったことを思い出す。
今年は父の誕生日も祖母の誕生日も何もしていない。春まではあんなにも彼らからの愛を求めていたと言うのに、あっけなく何とも思わなくなった自分が薄情だとは思わない。だって他に愛したい人たち愛してくれる人たちがいるのだ。母の命日だけは、家令に宛ててお墓に供えて欲しいと湖畔に咲いていた青い花で作った押し花を送った。
リーブスへ行ったネイトは、たった3日でテルフォート国際音楽コンクールの願書をお土産に帰ってきた。
ネイトの叔母はネイトを責めることなく温かく迎えてくれたらしい。今は辺境伯家の使用人独身寮に住んでいるため、ネイトと話し合い、このままロートンとリーブスで離れて暮らすことにしたそうだ。
ネイトが辺境伯領から帰ってきた次の日、3日ぶりの治療の時間、ジョッシュとローズも呼んで4人で願書の要項と、帝国の音楽家について書かれた本を読み込む。この数ヶ月、ロートンの本屋や図書館でも調べて少しずつ知識は手に入れていたが、ネイトがもらってきた願書と帝国の本により様々なことがわかった。
「お嬢様、第二王子殿下や王妃様とは仲がよろしかったですか?」
「第二王子とはほとんど話したこともなかったの。王族の方にサインしてもらうなんて無理だわ」
ジョッシュがこう聞いてきたのは、テルフォート国際音楽コンクールは15歳以上であれば国籍・身分・前科を問わず誰でも応募できるのだが、貴族と貴族の子供だけは、その家の当主、もしくは自国の王族のサインが必要だったからだ。
1年に1度あるテルフォート国際音楽コンクールで最高位のアポロン賞を受賞すると、自動的に帝国の宮廷音楽家になる。もちろんその門は狭い。倍率や応募数はわからなかったが、最終的に5次審査まであり、アポロン賞該当者無しの年もあるようだ。
以前ジョッシュが言ったように、宮廷音楽家は皇帝の所有物なのだ。貴族は貴族ではなくなり、外国人は帝国人になる。貴族ではないが、帝国の一代限りの伯爵位と同等の身分で、皇帝の許可なく誰も何事も宮廷音楽家へ強制できない。怪我はもちろん、無理やり演奏をさせたり、行動を制限したり、婚姻を迫ったりすると帝国法で罰せられる。
かつて他国の高位貴族令嬢が勝手にコンクールを受け宮廷音楽家となった。その令嬢を自国へ連れ戻そうとした親と帝国とで諍いが起き国際問題になりかけたらしい。そのため、貴族と貴族の子供がコンクールへ応募するには、その家の当主、もしくは自国の王族が各要項に了承して応募している旨のサインが必要なのだ。
宮廷音楽家はたとえ元平民でも貴族と結婚することができるし、もちろん平民と結婚しても構わない。“歩く国宝”と呼ばれ、帝国民皆が憧れ大切にする人達らしい。
皇帝が命じたことは断れないようだが、長い歴史の中で宮廷音楽家を傷つけると国民人気が下がり国が荒れるという教訓があるらしく、皇帝が宮廷音楽家へ無理難題を課すことはほとんどないようだ。多民族国家なのに皆が音楽好きという国民性に憧れる。
そんな音楽家の最高峰の宮廷音楽家。もちろんそうなりたいと目指し頑張るが、アポロン賞受賞の平均年齢は28歳とある。
宮廷音楽家ではないピアニストが帝国で仕事を得るには、帝国貴族の伝が必要だ。普通は平民や外国人にその伝は無いが、コンクールで勝ち進み、貴族が観覧する3次審査以降まで進めれば、貴族の目に止まりパトロンが付いたり仕事を得ることがあるようだ。アポロン賞を逃したとしてもコンクールに参加さえできれば道は開ける。
コンクールは何度でも応募可能で、参加料はかからない。帝国でピアニストとして生計を立てて、毎年コンクールに応募するのが理想だ。
私がコンクールに参加するには“父か王族からサインをもらう”、もしくは“平民になる”のどちらかしかない。
貴族学園に入学しなければ貴族になることはないので、平民扱いとなり当主のサインはいらないのではと思い詳細まで読み込んだのだが、貴族学園に入学しなくても15歳の場合は当主のサインがいるようだ。それは庶子でも同じらしい。貴族学園がなかったり、制度が違う国もあるため、どんな国籍でも応募できるためにこうなっているのだろう。
「貴族のままでサインを貰うのは現実的ではないですね。たとえ帝国でピアニストになるというのを納得してもらえても、アポロン賞を取れるまでは心変わりして何処かへ嫁がされたりしそうです。帝国でピアニストになることはバレないようにしないといけません。貴族学園入学前に公爵家を出奔して16歳になったら受ける、わざと貴族学園を落第し出奔し16歳になったら受ける、の二択でしょうか。魔法学園は平民として帝国で通えばいいですし」
ローズの意見を元に皆で考える。
魔法学園は卒業したい。魔力持ちなのに魔法学園を卒業しなかった場合は、魔力封じをされてしまうが、それは両手に重い腕輪をつけることになるのだ。魔力の流れが変わった後の指の動きにも不安がある。思うようなピアノ演奏ができなくなるのは避けたい。
「私が勝手に家を出て姿をくらましたとして、家族がどうするのかが予測ができないことだけが不安だわ。私を有効活用したいのだったらここまで放置はしないと思うから、出奔してもわざわざ探し出すことはないと思いたいけど……」
「叔母はリーブスの関門で働いている。頼めば出国記録を誤魔化してもらえると思う」
「ヴァネッサ様が亡くなった時にヴァネッサ様のご実家からの財産を相続された個人資産があります。それさえあれば平民としてなら20年は暮らせます。私は貧乏男爵家で平民とあまり変わらない水準で育ちましたので手助けできます」
ローズは平民として生きるメリッサにもついてきてくれるらしい。
「その財産でローズを雇うお金も出せる?」
「もちろんです。それに、お嬢様の演奏を毎日無償で聴けますし、お嬢様が変な輩に騙されないように絶対ついていきます」
こうして、やることが決まった。
ネイトの叔母に頼んで帝国の口座を作り、そこへ個人資産を移し、帝国での住処を探し準備しておくこと。
髪を切り今の茶髪のカツラを作ること。
口座の名義、平民としての名は「メル」にした。
1年後に入学する貴族学園が帝国や他国だった場合はそのまま公爵令嬢として入学し卒業直前に出奔する。
自国の貴族学園の入学だった場合は公爵家へ戻ることになるが、カツラを被り、できれば寮に入れてもらい家族とは関わらない。そして、卒業直前に出奔する。
そして帝国の魔法学園へ平民として通い、16歳になったらコンクールへ応募する。
周囲に善良な努力家を装っているアメリアが姉のために魔力操作の訓練をしないのはおかしいので、ある程度訓練は進めているはず。ローズが言うにはこんなに早く魔力が漏れ出ないようになったメリッサが特別珍しいらしく、魔法学園入学くらいまでは訓練が終わらなくても違和感がないらしい。
そのため、メリッサの公爵令嬢の地位を欲していたアメリアがいる限り、自国の貴族学園入学の可能性は低い。国境を接している国の中で我が国が一番馴染み深いのは帝国だ。帝国の貴族学園への入学を命じられる可能性が高いと、皆でホッとする。
今すぐに出奔して帝国へ行かないのかとネイトに聞かれたが、ロートンにいる間に出奔するのは、ジョッシュやこのロートン領の人達の責任を問われるのでしたくないとメリッサは答えた。
10年前に貴族学園に入学したローズが言うには、夏の終わり頃に制服の採寸や持ち物へ家の紋章を入れるなどの準備が始まるらしい。遅くとも秋には、メリッサがどの国の貴族学園へ入学するのか判明するだろうとのことだ。
ローズは、秋に自国以外の貴族学園入学だとわかったら、ジョンストン公爵家を辞めると決めた。自国の場合は、メリッサと一緒に公爵家へ戻ってくれるそうだ。その時は腹を括って、アメリアのように周囲をごまかすのだとローズは宣言している。
明日、ジョッシュが髪を伸ばす魔道具を買いに行くという宣言で話は終わった。
カツラを作るために根元で髪を切ってしまっても髪を伸ばす魔道具がある。切った髪はローズが次の休日に隣の領地でカツラにしてもらうそうだ。メリッサは髪色を変える魔道具はどうかと言ったが、近くで見ると独特な艶感があり魔道具で色を変えていると分かってしまうものらしい。
その日の晩、部屋で勉強しているメリッサの元へネイトが来た。
「貴族学園は卒業しないってなったのに勉強してるの、メリッサらしいな」
初めてクッキーをもらったあの日から時々、ネイトはこうしてお菓子を作りメリッサへ振る舞ってくれることがある。今日はチョコレート味のクッキーを作ってくれたようだ。
「ネイトも帝国の魔法学園に入学しようよ。入学直前に帝国へ出国していたら帝国の学園に入学できるし、義務だからお金もかからないし。……私、ネイトと一緒に学園に行きたい」
メリッサは勇気を出して言った。
「ごめん……俺、この国の魔法学園でやらないといけないことがあるんだ」
話し合いの時にネイトが自分はどうするかを全く言わなかったから、そんな予感はしていた。ネイトはメリッサと一緒の未来を見ていないと。
「やらないといけないことって、教えてもらえないの?」
「ごめん……もしも、終わったあとにメリッサが俺を受け入れてくれるなら、俺はメリッサと生きたい」
「そんなんじゃ分かんない。……私がネイトを受け入れないなんて、想像もできないよ」
そのあとネイトと食べたチョコレート味のクッキーは、いつもよりも苦かった。
それから数日後、カツラ用に髪を切りすぐに魔道具で髪を伸ばしたメリッサは、鏡に映った金髪の自分に母の面影を見た。もう少し大人になったら生き写しといっても過言では無いだろう。
髪色が違うだけで母にこんなにも似ているというのに、それに気付かなかった家族は母の顔を忘れてしまったのだろうかと思ったが、母の顔を忘れているのではなく、誰もメリッサの顔をちゃんと見ていなかったのだなと悟った。
そして春になり、メリッサとローズがロートンへ来て1年経った。そのお祝いとメリッサの12歳の誕生日はネイト手作りのケーキで祝った。それからも、ネイトの治療は続き、残す火傷跡は右のこめかみとオデコのみになった頃には初夏になっていた。
長い前髪の下には、心臓が止まるかと思うほどの美形が隠れていたが、顔の造形よりも、ロートン湖のような青緑の瞳が綺麗だとメリッサは思った。
そして、メリッサはその美形にそっくりな人を知っている。ネイトにその自覚があるのかはわからないが、貴族が嫌いだと言い、自国の魔法学園にこだわるネイトに嫌な予感がしている。メリッサに事情を明かさないネイトを問い質して良いのかと迷っていた時、事件は起こる。
ネイトの前髪の下へ手を入れ、右のこめかみへ光魔法をかけていた時、ジョッシュが慌て部屋に入ってくる。
「お嬢様、5日後から1週間ほどジョンストン公爵とアメリア様がロートン領主館を訪れるという先触れが来ました」
ジョッシュのその言葉にメリッサの心臓がドキドキと嫌な音を立てる。
「最近、ロートン湖の真珠養殖所で珍しいピンク色の真珠が収穫されているんです。報告と共に送った真珠を見た公爵がアメリア様に贈るためにと避暑をかねて真珠の選別に来るそうなのです。その1週間はお嬢様をロートン領の外へ出すように、くれぐれもアメリア様と接触しないようにとのことです」
父とアメリアがロートンへ来る。大切なものをまたアメリアへ奪われるのではないかという不安と、ネイトの顔を見られてはいけないという恐怖で、心の芯が凍りついたように動けない。
「リーブスへ行こう」
メリッサの震える手の上に手を重ねたネイト。その手の温かさにホッとして緊張が解け、ジョッシュの前だから敬語を使わないとだめだよと思う余裕までできる。
「そうですね。ローズさんとネイトと3人で珍しい楽譜を探すのはきっと楽しいですよ。リーブスの宿を手配しておきます。何も起きません。こちらのことは任せて安心してリーブスで楽しんできてください」
ジョッシュのいつもの笑顔で安心したメリッサ。それでもメリッサの心臓は、まだドキドキとした余韻が残っていた。
それから4日後、ネイトとローズと3人で隣の辺境領リーブスへ行き、大きな本屋や楽器屋やローズが行きたいと言ったカフェなどへ行ったり、宿のピアノを弾かせてもらったり、ネイトの叔母と会ったりと、アメリアへの恐怖を無理矢理見ないふりをして、今までで一番幸せな楽しい1週間を過ごした。
父とアメリアが王都へ帰った次の日、メリッサ達はロートンへ帰った。昨日まで父とアメリアがいたとは思えないほどにいつも通りの静かな湖畔に安心し、メリッサはいつも通りの日常へ戻ろうとピアノを弾く。
ピアノを弾きだすとメリッサは周りが見えなくなる。
突然ローズに肩を叩かれて、メリッサはびっくりした。王都の実家で消音魔道具を付けて演奏していた頃、約束の時間になるとローズからされていたその肩たたき。ロートンへ来てからはされなくなったそれに、一瞬そのころの自分に戻ったかのような錯覚に陥る。
「お嬢様!ネイトがっ!ネイトが、アメリア様に連れ去られましたっ!」
ローズのその言葉に立ち上がり、メリッサは領主館の門へ向かって走りだした。
きっとアメリアはネイトの顔を見たんだ。ネイトはどうなるのだろう。もう1日リーブスにいたらよかった。ピアノが弾きたいからとすぐに帰るんじゃなかった。
後悔ばかりが押し寄せてくる。
門には立ちすくむ数人の使用人とジョッシュがいた。
「昨日王都へ見送ったはずの馬車が帰ってきまして、忙しくて早く王都に帰らないといけない公爵とは別行動をしてるけど忘れ物を思い出したからアメリア様だけで戻ってきたと言い、なぜか、メリッサ様の従者を連れてこいと言い出しまして、ネイトを見たアメリア様が馬車にネイトを乗せて王都へ行ってしまったのです」
そこへジョンストン公爵家の紋章が入った制服を着ている護衛騎士が一人馬に乗り戻ってきた。騎士はメリッサへ手紙を渡し、去っていった。
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メリッサ様
私は王都へ行きアメリア様の従者となります。ロートンへは戻りません。今までありがとうございました。
ネイト
心配ない 計画通りで
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最後の一文は走り書きのように手紙の隅に小さく書いてあった。




