09
「顔と左手と右手、どこからが良い?」
「……」
「……じゃぁ私が決めるね。右手の水ぶくれにしようか」
黙ったまま差し出されたネイトの右手に、メリッサは手を添えた。
「っ!触るのか?」
ネイトはびっくりして右手を引っ込める。
直接触らなくても光魔法をかけることはできるが、触った方が格段に効果が高いのだが、予告なく手を添えたのは非常識だっただろうか。
「ふふふ。青いですねぇ。耳を真っ赤にしちゃって」
ジョッシュの言葉を聞き、黒くて長い髪の間からはみ出ているネイトの耳を見ると、火傷の跡はないはずの耳が先まで真っ赤になっている。
「照れてなんかない!俺は貴族が嫌いなんだ!」
「はいはい」
怒鳴っていてもその場を離れないネイトと笑顔で受け流すジョッシュ。
「手を添えた方が効果が高いのだけど、ネイトが照れちゃうなら手は離すね」
「照れてなんかない!」
そういってネイトはもう一度右手を差し出す。恐る恐るその手に触ると、振りほどかれることはなかったが、ネイトの耳は真っ赤なままだった。
そうして魔力が切れるまで魔力を貯めて光魔法をかけるという反復作業を続けたネイトの右手は、水ぶくれが小さくなっただけだった。それでも何もしないよりマシなはずだと、メリッサは明日からも毎日頑張ろうと密かに決心していた。
「ジョッシュ、どうしてネイトが貴族が嫌いなのかは本人が言ってくれるのを待ってた方がいい?」
魔力操作の訓練という名のネイトの治療も終わり、昼食の前の空き時間にメリッサは気になったことをジョッシュへ聞いてみた。今この部屋にネイトはいない。
ジョンストン公爵家にいた頃のメリッサは、時間があればピアノを弾く時間に充てていたことで家族との交流が少なく、厳格な公爵家の使用人達とは距離があったため、人と話すことが極端に少なかった。いざ日常会話をするとなるとうまく喋れず、自分は内向的だと言って卑下していた。このロートンへ来てからは時間に余裕ができ、使用人との距離も近くなり、自然と会話が増えて対人能力が上がっていたが、メリッサはそんな自分の変化に気づいていなかった。
「実は私も詳しくは知らないのですよ。昨年、孤児院の定期監査の際に火傷で寝込むネイトを見かけましてね、院長に聞くとひどい火傷で意識のないまま孤児院の前に捨てられていたと言うんです。寝込んでいるネイトを看病しながらの孤児の世話は難しいと困っていたので、孤児院より大人の手がある領主館で引き取ったのです」
「ロートンの孤児院に捨てられたのは不幸中の幸いだと思う」
ほかの孤児院なら放置されてもおかしくない。
「動けるくらいに火傷が落ち着いてからは様子を見ながらここで働いてもらっていたのです。水仕事や庭師や馬丁は火傷に障りますので、ちょうど良いのが従者見習いだったんですが、あの言動から貴族と直接関わる仕事は避けたいのでしょう。それでも世話になった分働かないとと思っているんでしょうね」
従者見習いなのに「貴族が嫌い」と言うのは変だなと思ってたが、あんなに広い範囲の火傷が安定するまでの間を無償で看病してくれた人に命じられたら断れないだろう。
「ネイトは魔力持ちでもありますから貴族の庶子なのでしょうね。それとなく聞いても教えてくれないんです。まぁ12歳なんて思春期の入り口ですから、複雑な事情がなくてもあの年頃はあんなものですよ。変に気を遣って聞き分けが良いより気を許してくれている証拠です」
そう言っていつものように優しく微笑んでいるジョッシュ。こんなジョッシュだからこそネイトは無自覚に甘えて反抗的な態度を取っているのだろうなとメリッサは少し羨ましくなった。
かつて王様がその綺麗さに感動してお札の絵柄にまでしたというロートン湖。
「綺麗な湖畔に住むと心まで綺麗になるのね」
「もしかして、私を褒めてくださっていますか?ふふふ、ありがとうございます。…でも、このロートンでも犯罪は起こります。狡い者や残酷な者だっていますし、そういう輩ほど魅力的な善人を装うのが上手いのですよ」
思わず漏らしてしまったメリッサの言葉に、ジョッシュは笑いながら誡める。つい最近、天使の皮を被った悪魔に惨敗して都落ちまでしていたメリッサには耳が痛い忠告だった。
それからは、午前はネイトの火傷跡の治療、午後はピアノ、夕食後に勉強を繰り返す日々。ネイトはメリッサ付きの従者見習いとなり、治療以外の時も一緒に過ごすようになっていった。
光魔法をかけ続けているネイトの火傷跡は端から消えていき、段々と小さくなることがわかった。1日では分からず数日経ってやっと分かるくらい微々たる変化だったが、時間をかければ火傷跡が消えるとわかると、ますますメリッサのやる気に火がつく。
ネイトはメリッサ付きとなっても相変わらず黙りだったが、メリッサは日に日に饒舌になっていく。とくに火傷跡に光魔法をかけている間は返事をしないネイトに向かって今取り組んでいる曲の難しいところ、好きな曲、今より手が大きくなったら弾きたい曲など、ネイトからの反応もないのにピアノについて延々と喋っていた。
「ピアノの話しかしないのか」
ロートンに来てから2ヶ月経ち、ネイトの右手の平の火傷跡が消え、左手の平の治療に移った頃、一方的にピアノの話しかしないメリッサに呆れたのか、ついにネイトがメリッサへ話しかけてきた。
「ネイト!お嬢様にはちゃんと敬語を使いなさい」
ローズに怒られ、ネイトは顔をしかめている。火傷跡で引き攣っている口元しか見えないが、最近のメリッサはその表情の変化も分かるようになった。
「ピアノの話以外はないんですか?」
「お嬢様の話の内容に物言いするなんて失礼ですよ!」
尚もネイトに注意するローズだったが雰囲気は優しい。メリッサより10歳年上のローズはここロートン領にきてから日に日に明るくなっている。規律や序列が厳しいジョンストン公爵家本邸より、寛容なロートン領主館の方がローズには合っていたのだろう。明るく楽しそうなローズの様子がメリッサは嬉しかったが、実はローズの方こそ日に日に明るくなっていくメリッサを見て喜んでいた。
「ピアノ以外って言われてもわからないわ。ネイトはどんな話をしてほしい?」
「……」
ネイトはなぜか耳の先まで赤くし黙り込んでしまったが、しばらくして口を開いた。
「あの曲の名前が知りたい」
「あの曲?」
「フーフフフーン♪フフフフーン♪ってやつ」
耳を赤くしたのは鼻歌を歌うのが恥ずかしかったせいだとわかり、メリッサは思わず笑ってしまう。
なんかかわいい。
メリッサはその時初めてネイトの事を異性として意識した。
「“別れの時”ね。古い曲で、作者不明な上にタイトルの由来も分かってないの」
ピアノ以外と言っておきながらピアノの曲名を聞いてるよ、と言いかけて止める。この曲はロートンに来たばかりの頃、ネイトがメリッサのピアノを聴いてこっそり涙を拭っていた時に弾いていたのを思い出したからだ。
「母さんがよく口ずさんでたんだ……」
「私のお母様もこの曲が好きだったよ。お揃いだね」
その日の午後は“別れの時”を弾いた。
次の日からは少しずつネイトと話をするようになった。湖で見た魚のこと、山に猪が出たという噂、使用人から聞いたジョッシュの若い時の武勇伝、使用人から聞いた執事夫婦の馴れ初め、ローズがロートンの男性からモテていること。
二人とも、示し合わせたようにロートンに来る前のことは一切話題に出さなかった。メリッサは暗くなる事をわざわざ話したくないと思い意図的に避けていたのだが、そのうち自然と母以外の家族のことは思い出すこともなくなり、意識しないでも楽しいことしか話さなくなった。
午前中にネイトと話す時間はメリッサにとってピアノの時間と同じくらい掛け替えのないものになっていった。
それから左手の平、右手の甲、左手の甲と徐々に火傷跡が消えていき、両手の火傷跡が全部消え、ローズの教育によってネイトが敬語を覚えて従者見習いから従者になった頃、メリッサは完璧な魔力操作を覚えて自然と漏れ出る魔力を抑えることができるようになっていた。ロートンに来てから8ヶ月経った秋の終わりのことだった。
「これ」
夕食の後に部屋で休んでいたメリッサは、ネイトからロートン湖のような綺麗な青緑色のリボンが結ばれた袋を受け取る。敬語を覚えたはずなのに二人きりの時は雑な言葉に戻るネイトを、メリッサはローズに隠れて許していた。
「うわぁ、可愛い!食べるのが勿体無いんだけど、いつまで置いといて大丈夫?」
袋の中にはチョコで鍵盤が描かれたピアノの形のクッキーが入っている。
「欲しくなったらまた作るから、すぐ食べて」
「えっ?これネイトが作ったの?」
耳を赤くし、右手の甲で口を隠しているネイト。顔は見えなくてもネイトが照れているのだとわかる。
「前は近所のケーキ屋の手伝いをしてたんだ。クッキーしか作らせて貰えなかったけど、味は保証する」
ネイトの照れにつられたのか、恥ずかしくなってネイトから目を逸らし手元のクッキーを見たメリッサは、1枚だけ鍵盤じゃなくて”ありがとう”と書いてあるクッキーを見つけた。ネイトはこれを渡すのが恥ずかしくて照れていたのだ。
わざとそのクッキーがネイトにも見えるように取り出し、食べてみる。
「今まで食べた中で一番美味しい……。公爵家で出されてたクッキーより美味しい!」
ネイトの口角が上がっている。
「手は治ったしこれからは料理人に変えてもらう?デザートもあるからケーキも習えると思うよ」
「従者のままでいい。……メリッサの従者がいい」
メリッサは、心の中に炎がぽっと現れたような温かさを感じた。明日からは顔の治療になるけれど、耳と頬を赤くせずにネイトの顔に手を添えられるか不安になる。
「王都に帰るのか?」
そういえば、王都に帰るために魔力操作をしていたのだと、ネイトのその一言で思い出した。魔力操作の訓練のためにネイトの治療をしていたはずなのに、本来の目的をすっかり忘れてしまっていた。
あのジョンストン公爵家へ帰る必要はあるのだろうか?
王都にいたころのメリッサは家族の愛情を取り戻すにはどうしたら良いかと足掻き、八方塞がりな状態に絶望していたが、そもそも、取り戻そうとしていた家族の愛情などメリッサが見ていた幻影だったのだ。
ネイト、ローズ、執事夫妻にその息子など、ロートンの使用人たちとは、庭の花が咲いているのを見つけたら教え合って、激しい雷で不安になる時は自然と一部屋に集まり、美しい湖を共に眺め、ロートン領の噂や怪談などで盛り上がった。
メリッサは愛されることを知ったが、同時に愛するということも知った。そして、愛されるには、自分も愛することが必要だったのだと悟った。
ジョンストン公爵家にいたころは、最初から最後まで、メリッサはずっと受け身だったのだ。母からの無償の愛を当然のものとし、他の家族からも母と同じように愛が欲しいと嘆いていただけの自分。自分はその家族のために心を砕いていたかと言われると、何も言えなくなる。
クリストファー殿下のことだって、上位貴族の義務として婚約者候補を受け入れて出された課題をこなしていただけで、好きだったわけではない。
孤立状態を打破するには、アメリアと戦うしか道はないとどこかでわかっていたのに、敵前逃亡していた。つまり自分にとって家族の愛情はアメリアと戦ってでも手に入れたいほどのものではなかったのだ。
メリッサはもう父と兄と祖母のことは愛したいと思えない。アメリアが来る前だったら、愛してもらうために愛する努力をしたかもしれないが、メリッサが会話に入っていないことにも気づかない、魔力の暴発で倒れても駆けつけてくれない、家から追い出した人たちを、それでも尚愛することができる人がいるだろうか。
「私、帝国に行ってピアニストになりたい」
ジョンストン公爵令嬢の立場は、ジョンストン公爵家に生まれたからと、そのように振る舞っていただけで、望んで手に入れたものではない。今まで育ててくれた恩はある。それは家族に対する恩ではなく、税を納めてくれた民への恩だ。
でも、その恩を返すための立場を私から奪ったのは父だ。クリストファー殿下との婚約者候補を降ろされたことは、メリッサに原因があったことになっているはずだ。ロートンにいるメリッサにはそれを挽回する手立てはないし、父達がメリッサの名誉回復をしてくれているとは思えない。
ピアニストになって、民への感謝を返していこう。
貴族学園も魔法学園も教育内容についての条約に加盟している国であれば、自国の学園の卒業でなくても卒業資格が得られる。魔力持ちを他国に流したくないために積極的に周知されていないのだが、王子妃教育で習ったメリッサは知っていた。
帝国でピアニストになるにはどうしたら良いか考えようと、メリッサは決意した。
「メリッサは絶対、聞いたみんなを虜にするすごいピアニストになれる。……でも、なんで帝国なんだ?」
帝国の帝都は音楽の都と呼ばれているほど、たくさんの音楽で溢れている。我が国でさえいるピアニストが帝都が音楽の都と呼ばれている帝国にいないわけがない。
それに、我が国のピアニストは継ぐ爵位がない貴族子息や、持参金を用意できない貴族令嬢や裕福な平民がなるものという考えがある。音楽家ではなく使用人という認識だ。ジョンストン公爵令嬢が他家の使用人になることを父が許すはずがない。
第二王子に婚約者候補を降ろされ、領地に追いやられている、瑕疵がある令嬢になっているとしても、ピアニストにするくらいなら無理やりでもどこかの家に嫁がせるに決まっている。嫁いだ家がピアノを弾き続けることを許してくれる、そんな少ない可能性にかけるくらいなら、ジョンストン公爵家を出てしまった方がよいだろう。
我が国のピアニストは、演奏会よりも夜会や舞踏会の演奏やピアノ講師の仕事が多く、社交界との縁は切れない。ジョンストン公爵家を出た上でピアニストになるならば国外に出るしかない。
長々とした説明になっても、顔は見えないが、ネイトが真剣に聞いて考えてくれているのがわかる。“第二王子の婚約者候補を降ろされた”と言った時はびっくりしていたが、そういえばネイトとはお互いロートンに来る前の話をしたことがなかったのだと思い出す。
「この国でのピアニストのことは大体わかったけど、帝国のピアニストのことは知っているのか?」
「ううん。今まで帝国でピアニストになるなんて考えたこともなかったから、全くわからない」
「帝国でピアニストになるのに貴族籍が必要かもしれない。公爵家を出るとか決めるのはちゃんと情報を集めてからにしよう」
さすがに、帝国でピアニストになるためにどうしたら良いかまでは王子妃教育では習わなかった。ネイトが言うようにまずは情報が必要だ。
図書館へ行って本を探せばローズには必ずバレる。誰かに話を聞きに行くにはジョッシュに外出先を教えないといけない。
「ローズとジョッシュに相談しても大丈夫だと思う?」
祖母へアメリアのことを相談したせいで、祖母に怒られ後に父と兄から尋問された苦い記憶が脳裏をよぎる。
メリッサはこのロートンに到着してすぐ、父と兄と祖母へ手紙を書いた。ロートン湖の素晴らしさを綴ったその手紙に返事はなくそこから3人とは没交渉だ。メリッサ自身からの手紙が必要ないならば、この領主館から定期的にメリッサについての報告をしているはず。おそらくその報告はジョッシュの仕事。そしてローズもジョッシュも雇い主はジョンストン公爵である父なのだ。
計画も立てていない段階で、ジョンストン公爵家を出て帝国でピアニストになりたいことを父に知られる訳にはいかない。
父との繋がりがある二人に相談しても大丈夫だろうかと、怯えで瞳を揺らすメリッサがネイトを見ると、口角が上がっている。笑っているのだ。
「俺には言えてジョッシュさんには言えないなんて変なやつ。ジョッシュさんに限ってありえないけど、でも、もしも裏切られたら裏切られた時に考えればいいよ。その時は俺も一緒に考えるし」
そっか。信じて裏切られたら裏切られた時に考えればいい。アメリアみたいな策略ができない私には、こういう考えの方が楽に生きられる気がする。それにネイトが一緒にいるなら、他の誰に裏切られても大丈夫な気がするから不思議だ。
「俺たちで隠れてコソコソ調べるより、二人の力を借りて、二人には迷惑がかからないやり方でメリッサの夢を叶える方法を考えようよ。俺たちは子供なんだから大人の力を借りたらいいんだ」
今はもう夜。二人に話すのは明日、ネイトの火傷跡の治療の時にしようと決め、ネイトとメリッサは二人でクッキーを食べた。
ネイトが退出しようと、クッキーの入っていた袋とリボンを片付けようとしていたので取り上げる。
「おいっ、ゴミは捨てとくから」
「ゴミじゃないよ。綺麗なリボンだから気に入ったの」
「湖と同じ色だからってお土産屋で売ってたやつだぞ。公爵令嬢が持つようなリボンじゃない」
「公爵令嬢はやめるんだからいいの!」
ネイトが部屋を出ていった後、メリッサはその青緑色のリボンを宝箱にしまった。寝る前にもう一度見ようとベッドの上で宝箱を開けるとほのかにクッキーの香りがした。




