オレンジ
天気のいい午後だ。
アーケードのある商店街で、さらにここは店内で空は直接見えないが晴れ渡っているのが感じられる。
朝、ここに来る途中で見上げた空は青く澄み渡っていて、空が高く、なんだかまぁるく見えた。
地球は今日も丸くて、それを囲む大気も丸いのね。この雄大な空の下で私は今日も生きるのね。
胸いっぱいに空気を吸い込むと、すがすがしい気持ちになり
生きているって素晴らしい!
と、そんなことを考えていたのはほんの3時間前だと言うのに、
空はあんなに澄み渡っているのに、
今の私の心は曇天。雨こそ降っていないが、風が吹き荒れ、雷が鳴っているような嵐の暗闇だ。
「ちょっと聞いているの!? 私が頼んだ量より少なのよ!ほら、レシートを見て!レシートにも載っていないの!でも私はちゃんと25個注文したはずなのに、20個しか入っていない!一種類足りないのよ!私は五種類を五個ずつ、間違いなく注文したはずなのよ!!!」
レシートにも載ってないなら、そもそも金も払ってねぇんだろ。黙って足りなかった5個を買って、とっとと出て行けよクソばばぁ。
心の嵐の中で私は叫び、今にでもこのクレーマーの胸倉をつかんでやりたい気分だったがそんなことは出来ない。
「大変申し訳ございません。すぐに足りなかった分の5個をご準備いたします。どのお品でしょうか?」
心底申し訳ございませんの表情をなんとか意識的に顔面に張り付け、
トレイとトングを手にする。
私の仕事は、営業スマイルでお客様に指示されたドーナツを掴み、間違いのない数と種類をレジに打ち込み、ポイントカードの有無を確かめ、代金を徴収し、優しくドーナツをトングではさみ箱に並べて丁寧にお客様にお渡しすることだ。
注文されていないドーナツには触れないし、レジにも打ち込まない。
あきらかにこのクレーマーババアが勝手に注文し忘れたんだろうとしか思えないが、接客業で「はぁ?アンタが注文し忘れたんじゃないっすかねぇ?」とか鼻ほじりながら言うわけにもいかず、こうして申し訳ないと謝って下手に出てやっているのだ。
「この生クリームの入ったやつよ!サッサとして頂戴!子供会はもう始まるのよ!?」
知ったこっちゃねェよと嵐の中の私は悪態をつくが
「かしこまりました、エンゼルクリームを5つでございますね」
笑顔で対応、やさしく、しかし素早くトングでドーナツをトレイにのせクレーマーババアに見せる。
「そう!あ、紙袋でいいから!」
へぇへぇそうですか。
「かしこまりました。少々待ちください」
さっきまで同僚のバイトたちが同じカウンターに二人いたが、このクレーマーババアが入ってきた途端
一人は店内飲食のお客様にコーヒーのお替りをすすめに行き、
もう一人は「ドーナツ補充してくるね」とバックヤードに消えた。
二人はこのババアが入り口を開けた瞬間から、表情とその勢いで面倒なことが起こりそうだと咄嗟に判断したらしい。
私はどうにもいつもそういったことに疎い。鈍い。
クレーマーに当たることが多い気がする。
ため息をつきたい気分だったが、まだクレーマーババアの前だからグッとこらえレジを叩く。
「エンゼルクリームを5点で、675円でございます」
さっさとこのババアにはご帰宅いただこう。幸いご本人もお急ぎの様だし。
しかしクレーマーとは時に、謎の理論を展開するものだ。
「どうして?そちらのミスでしょう?お会計が発生するの?」
「えっ!?」
さすがの接客モードもぶち壊すKYババアだ。素の表情丸出しで、目を見開いてしまった。
元々お代をいただいていて、品物が入っていないとなればこちらの完全なミスで、会計など発生せずすみやかに品物を渡す。
しかし今回はレシートにも載っていないなら未徴収だ。
なぜ品物だけ欲しがるのか?
「えーと… レシートを拝見したところ、エンゼルクリームのお代はまだ頂いていないようでしたので…」
「こちらの貴重な時間と往復する手間までかけているのよ?そのくらいサービスしたっていいじゃない?! こっちは最初に来た時にハッキリ言ったもの。これも5個って。入れ忘れも会計忘れも、そっちのせいでしょ!!」
何コイツ?なにこいつ?ナニコイツ?
何理論なの?
その理論は【お客様は神様です】理論からの派生なの?
そもそも人が話してるのにかぶさってきてんじゃなねぇえぇェェ!!!!
さすがにコーヒーのお替りから帰ってきた同僚が、哀れみのような視線をこちらにチラリと向けてきた。
が、私がそちらを見ると視線を逸らした。
くそぅ、助けてくれないのか…
バックヤードに消えた方は、どれだけドーナツ補充してんのか知らないが一向に戻ってこない。
なに?何なら一から作ってんの?だからこんなにかかるの?
どいつもこいつも裏切者め。
こういった摩訶不思議なクレーマーは本来、店長にご対応願いたいが、店長はたまたま銀行に両替に行っている。
バイトの私に、料金踏み倒してこのババアにドーナツを差し上げていいかの判断は出来ない。
そしてなににしろ、子供会とか、まかりなりにも人の親であろうこのババアに、こんな資本主義のシステムの根本を揺るがすような(資本主義について全く詳しく理解していないが)自分勝手な理論を押し通されるのは私の腹に据えかねる。
世の中が貴様の思い通りになどならないことを、その身をもってとくと思い知るがいい!!!!
「お手数をおかけして大変申し訳ございませんがお客様、お代を頂かないと商品はお渡しできません」
いい加減許しがたい。ここはきっぱりと断っておく。
「さらに、ただいま責任者がおりませんので私では判断できかねます。もうしばらくこのままこちらでお待ちいただければ、責任者も戻りますので、そちらにかけてお待ちください」
相手のババアもきっと血管切れんばかりに怒り狂っているんだろうが、
こっちも内心大荒れだし、青筋も額に浮くってもんだ。
私が今お前の胸倉をつかんでいないのは、私が立派なオトナだからよ!!決して喧嘩とかしたことないし、ビビってるとかじゃないから!!!
自分を鼓舞し、人とマジな喧嘩なんて、まして殴り合いなどしたことのない私は精一杯ババアに向かって言い放つ。
急いでるかなんだか知らねぇが、どうしてもドーナツをタダでゲットしたいならそこに座って、時間を無駄にし待つがいい!!!店長を!!!
「私は急いでいるのよ!!待てないわよ!」
「いらっしゃいませ、こんにちはー」
「しかし責任者が戻ってこないと、判断できません…」
「こちらでお召し上がりですかー?」
「いつ帰ってくるのよ、その責任者は!?」
「いらっしゃいませ、こんにちはー」
「間もなくだとは思うのですが…」
「お持ち帰りですね、ご注文をどうぞー」
昼時だ。
他にもお客が来店し始め、カウンター周りに人が増え始める。
いつの間にかバックヤードに消えた同僚も戻ってきた。
やっぱり隠れてやがったなちくしょう!
他のお客もチラチラとクレーマーババアを横目に見る。
人が増え始め、周りの視線が気になりだしたのかババアがソワソワし始める。
さぁ帰れ!!
いまお前は、周囲の好奇の目にさらされているわよ!
いたたまれないでしょう!?
そろそろ限界でしょう?
とっとと帰るのよ!!!
私は心の中で畳みかけるようにババアに唱え続ける。
「いいから、早くよこしなさい!!」
叫ぶと同時に、ババアがカウンターを力いっぱい叩いた。
バンッ!!とおおきな音がして、周囲が静かになる。
このまま引くと思っていたから、不意を突かれ私はかなり驚いた。
怖い!!! 目の奥がキューンとなって泣き出しそうになる。
店長!!!この人キチガイです!!!!てんちょーうーっ!!早く帰ってきてぇえ!!!
「あの、失礼ですが、ちょっと強引だと思いますよ。お代はきちんと支払うべきだと思います。アルバイトさんを困らせるのは大人げない」
だれも助けてくれないと思っていた私に、思いがけず味方が現れた。
クレーマーババアの肩を叩いたのは、さっき同僚からコーヒーのお替りを貰っていたお客さんだ。
ずっと状況を見ていて、いい加減呆れたのか仲裁に入ってくれたのだ!
なんて勇気のあるお方!!!
オレンジにも見える茶髪のロングストレートヘアは、カラーリングのせいか縮毛矯正のせいか見るからに毛先が傷んでいる。
きりりと描かれた眉は弧を描き、つけまつげがバッチリされたメイクやその明るい髪色から座っているときは学生かと思っていたが、ちゃんと見るとピシッと着込んだタイトなパンツスーツとテーブルの上にある封筒やタブレット、名刺ケースから、どうやら社会人であるようだ。
「な、なによ、部外者は関係ないでしょ!」
第三者の登場にクレーマーババアが少し引いた。
「たしかに関係ないですけど、店内でこんなに騒がれたら迷惑です。警察、呼んで仲裁してもらいましょうか?」
オレンジの会社員は携帯電話を顔の位置まで持ってきてババアに見せた。
凄いスマホだ。
この時代にこんなに激しいデコレーションをしている人がいるのか…
スワロフスキーやラメでごってり黄色やピンクに光り輝くそれはものすごく重そうだ。
しかもなんかストラップもたくさんついている。
おもにネコとかウサギとか、ファンシーなマスコット類。
凄く通話しづらそうだ…
「!!」
そのスマホの重厚感にビビったのか、警察という単語にビビったのか、(まぁ、多分警察だとは思うけど)ババアはあっさり引いて、そのまま風の速さで店を後にした。
「騒々しくて申し訳ありませんでした。とても助かりました!!」
スマホが重量級で、まつ毛も重量級なそのオレンジ様に、私はカウンターを飛び出してフロアでぺこぺこと何度も頭を下げた。
ババアが去ったことで、店内は落ち着きを取り戻し同僚たちが何事もなかった様にお客様をさばいていく。
私が少し時間をかけて救世主に頭を下げたところで、問題ないだろう。
「大丈夫ですよ。そんなに頭を下げないでください。」
私があまりにも何度も深く頭を下げるので、オレンジ様は少し恐縮したように言った。
「でも、本当に、どうなることかと思っていたので… ご迷惑をおかけしました」
私は感極まって、今も涙目だ。
外はいい天気で、嫌なこともあるけど、助けてくれる親切な人もいる。
世界はなんて素晴らしいんだろう!!!
舞い上がるような気持でオレンジ様を見ると、彼女はまじまじとこちらを見ている。
しっかりと目があって、気恥ずかしさを感じて目を逸らした。
それでもこちらを遠慮なしに見つめてくる。
一体なんだと言うのだ…?
「あの、私そろそろ仕事に戻りますね、どうぞごゆっくりなさっていって下さい」
とりあえずこの場はこれで、と仕事に戻ろうとした私にオレンジ様は突然跪いた。
まるで中世の騎士が姫君にでもする、アレみたいな感じだ。
「え!?え!?あの、どうし…え!?」
私は意味も解らず慌ててオレンジ様を立たせようとその腕を掴もうとした。
と、逆にオレンジ様に手を取られる。
さっきとは違う注目を店内で集める。
「師団長がご無事であれば、私は満足です。こうして再び相見えることが出来、光栄です。今度はお側を離れません。」
ちょっと何を言っているか全く理解できないが、そういって顔を上げたオレンジ様は、私以上に潤んだ瞳をしていた。
「お、なんだ?友達か?お姫様ごっことかするなら、店内はやめてくれよー」
暢気な声で、銀行から帰ってきた店長がフロアに声をかけてきた。
おっせーよ!!!!
「とても残念なのですが、私はこれから取引先に挨拶に行かねばなりませんので師団長のことをご自宅までお送りすることが叶いません。これは私の現在の連絡先です!後ほど連絡をいただければ、改めてご挨拶に参ります!」
オレンジ様はそう言って私にケータイの番号とメルアド、メッセージアプリのIDを書いた、メモを渡し名残惜しそうにドーナツ屋を出て行った。
メモ用紙は、可愛らしい猿が何匹も手をつないで円を描いているフレームが付いていた。
私はアーケードの商店街のドーナツ屋のアルバイトを、
辞めた。
理由はクレーマーババアとオレンジ様に再び会うのがなんか怖いから。