快楽の匣
遠い未来の地球、かつては地を埋め尽くすほどいた人間の姿は見えない。だが人間が絶滅してしまった訳ではない。1000億人の人間の殆どは地下の施設にいる。彼らは一人一人が「快楽の匣」と呼ばれる仮想現実体験装置に収容されている。内部の人体はAIによって完璧な状態で保存され、300年は生き続けることができる。彼らは五感全てが仮想世界に接続された状態で「夢」を見ている。
「夢」と呼ばれるのはその仮想現実が単に脳内の錯覚であるだけでなく、匣に入った人間の思いのままになるからである。「夢」の中ではどんなことも可能であるし、どんな願いも思い通りになる。どんな料理も食べられるし、理想の異性と遊ぶことも、あらゆる娯楽を体験することも、「夢」の中で神になることすらできる。装置が自動的に施す完璧な医療措置のおかげで、脳内麻薬によって快楽の中毒になることもない。
この時代、人間は生まれてから15年間地上の施設で過ごす以降は残りの人生をずっと匣の中で過ごしていた。
ある男がいた。彼も他の人間と同じように匣の中で何十年も過ごし、その間ずっと考えうる限り最高の体験と快楽を受け続けていた。しかし彼は、かつての人間が決して手に入れられなかった「幸福感」のなかで、一つの疑問を浮かべていた。それは現実世界に関するものだった。彼が持つ最古の記憶の一つ、地上にいた時を思い出す。何十年もの間、究極の理想の世界で暮らしていたため思い出すのは難しかった。けれども彼は現実世界にある種の憧憬を抱いていたのだ。それは完璧ではないものの、文字通り確かな現実感を持っていた。彼の疑問、それはあらゆる快楽を受け続けることが幸福なのだろうかということである。快楽とはある意味で客観的なものである。しかし幸福とは主観的なものだ。快楽が100%幸福に変換されるというのは誰が決めたのだろうか?たとえ欲求が満たされていなくても、そこに幸福を見出すことは可能ではないのか?
彼は匣の外に出ることを決めた。外の世界には匣の中で決して感じられなかった何かがある。そこに幸福があると信じて。
「夢」の中で彼は叫ぶ。「もういい、ここから出してくれ」匣が答える。外に出る理由、「夢」を見ることは決して不利益につながらないという説明、外の世界で受ける可能性のあるあらゆる危険性、外の世界のつまらなさに関するありとあらゆる文句。それでも彼は匣の外に出ることを選んだ。
視界が暗転し、同時にAIの声も聞こえなくなった。それは仮想現実と五感の接続が切れたことを意味する。扉が開き、彼は外へ一歩踏み出す。完璧な身体管理によって筋力が衰えていることはなかったが、それでも体が重く感じられた。
彼は自分の入っていた匣を見て、それから周りを見渡した。同じような匣がどこまでも並んでいる。しかし前の壁には外への通路が示されていた。
もう彼は理想の世界にいないし、絶え間なく快楽を受けることもない。しかし彼は不思議と幸福感に満ちていた。彼は夢の世界から抜け出し、ついに現実に帰ってきたのだ。
「快楽の匣」は今日も1000億人に夢を見せ続ける。殆どの人間には理想の世界と最高の快楽を。そしてごく一部の例外には別の快楽、例えば理想の夢の世界に打ち勝ち、現実世界へと帰還する達成感を。