砂漠の地下の七門守護賢人
荒涼たる砂漠の夜空が美しく見えるのは何故であろうか?
昼間の皮膚がひりひりとする暑さとはうって変わって、そこには静寂と時折、吹き抜ける風がこの代わり映えのしない景色を微かに変えていくことを旅人達は知っている。ここには我々の文明とは違う時間が流れているのかと錯覚するほどに太古の昔より連面と続く景色が横たわっている。万古の昔を想像しようにも、ここがかつて緑豊かな土地であったことを証明する手がかりを得るのは困難である。今はただ、この厳しい環境に適した生き物達が僅かな獲物を探して待ち受けているだけであろう。
かつて、この土地を行き来した隊商達の駱駝の連なる様も、杖と北極星を頼りに行き来した求道者達も今では夢の後の僅かな痕跡を少しだけ、この広大な土地に残したにすぎない。
ここに待ち構えている夜を見方につけた生き物達は、およそ我々の知る常識とはかけなはれた生態をもっている。
彼等をかつては古代神達の末裔であると恐れた純粋にして無垢な諸々の人々はもういないのかもしれない。
蠍や毒のある昆虫、或いは爬虫類は古の神であるクトゥルーの落とし子とも、ニャルラトホテプが人間をいたぶって殺すためにこの世界にばら蒔いたといわれるものも、もはや伝説を通り越し、忘却の彼方へ誘う事さえ出来ないのである。これらは新興勢力の宗教にとって変わられ、徹底的に破壊され、忌避され、そして忘れ去られた。今はただ過ぎ去った時の長さを懐かしむ懐古趣味を通り越し、口にすれば狂人扱いされる有り様である。
シルクロードと呼ばれる道なき道も今や観光地と化し、主要な貿易路の役目は終わったのだろうか?
もはや人類には距離と時間を越えて、話したり、自分が見聞きしたものを一瞬にして世界中に流す事の出来る手段を持っている。
貴重だったはずの遺跡はある一部の人間の興味を引くだけで、金にならなければほったらかしにされ、かつての古代神達の面影を見ても今なお信仰心を持ち続けるのは不可能である。
しかし、新たな宗教にとって変わられるまで、確実に古代神達は存在し人々の畏怖の念を一心に集めていた。いまでも僅かな種族が細々と多くの人々に意味嫌われながら、その教えを守っているといわれるが真偽の程は定かではない。
しかし、いつの世にも今ある既存の価値観や社会通念、或いは多くの人々に信じられている常識という名前の洗脳に抗うものがこの世界から絶えた事はない。彼等は既存の価値観に疑問を感じ、悩み、苦しみながらこの世界の真実や真理を僅かでも探ろうという求道者である。そして、その数は昔から変わらずに存在し、今なお一部の人間の熱烈に欲するところである。
故に熱心な人々は一部は考古学者とよばれ、古の王や神と崇められた人々の墓を掘り返しては、一喜一憂するのである。
しかし、昔から墓を荒らす者がいることは当たり前の事だった。
故に身分の高い人々は色々な細工を施し、自分が時を経て蘇るまで荒らされる事がないように細心の注意を払った。
それは物理的な防御策とある種の呪術的なものとに別れるのである。今なお解読されない文字の中に昔の護符が含まれているのかもしれない。古代の人々はいつかこの世界、或いは新たなる神の世界をそして、その存在を信じることを躊躇わずに同時にその世界の神に対抗する暗黒神達の存在を信じていた。彼等の心配事は墓を荒らされて宝物を盗まれる事ではなく、自分が蘇る事が出来ないように死体を破壊されることを最も恐れたらしい。
約束のその日まで、自分の魂の帰ってこれる体を子孫が守ってくれることを切望して、果てていったのであろう。だから、壁に書かれたのは自分の生まれや信仰していた神の姿、そしてそれと戦う勇ましき軍神達が選ばれたと考えるのは想像の飛躍だろうか?
意外なことかもしれないが光がある以上は闇が存在し、神が存在する以上は暗黒神も存在していた。どちらか片方だけではないのである。昼があれば夜が。光があれば闇が。人間を守る神がいればその反対の神が居ることは彼らにとって自然な事だったのかもしれない。今の人間によって都合よく内容が改ざんされた教えを記す本を紐解いても、かつての神の教えを知ることは不可能である。また、預言者の役目や言葉も時代と共に人間に都合よく改ざんされ、今や神に選ばれた預言者と呼ばれるかつての古代人が神にとって変わる勢いである。本当の神の教えとはなんだったのか?もはや知る由もない。あるのは物語と化した古代神話にその朧気な輪郭を観るに留まる。
そんな悠久の歴史の中で、人々は常に争い、奪い、犯し絶え間なく争いを続けてきた。これ程までに同種間で争う生き物が他にいるだろうか?
もしや、太古の古代神は滅びたのでも、去ったのでもなく、今なお存在し、人間達が愚かに争う様を見て、愉悦の夢に浸っているのではと疑わざるを得ない。
僅かな巻物の類いがそれを微かに指し示している。
そうだ。彼等は今なおこの地球上或いは、別の次元から虎視眈々と我々の築いたこの世界を狙っているのかもしれない。
かつて狂人と呼ばれたアルハザードは本当に狂人だったのだろうか?もし、彼が遥か万古の昔に神によって選ばれた預言者ならば、その恐ろしさの余りに人々に教えを伝えず、そのために人々の見ている前で頭からかじられるという罰を敢えて受け入れたと考えるのは、思い上がった人間の考える愚考なのだろうか?
そうだ。人間は忘れてしまった。わずかばかりの繁栄のために費やされた時間と労力は何十億年と続いた地球環境を破壊し、多くの種を絶滅に追いやり、ついには禁断の扉を開けるに至ったのではなかろうか?
人間には本当に天敵はいないのだろうか?
もし、地球を一つの生命体とするなら、もはや人間こそが癌細胞なのではないだろうか?であるならば、何かしらかの防御本能が働きつつある時代こそが今なのではないだろうか?
かつて、歴史上、栄えたが神の怒りをかって滅びたとされる都市の伝説は世界中にあるが、いまなお終末論が生き続けるこの世界に人間を狩る為に現れる存在がいてもおかしくないと思えてしまうのは己の愚かさを知る人間だからだろうか?
今ある宗教の前にあったとされる神々の歴史を紐解くのは無理かもしれないが、断片的に世界中に残る神話や伝説には共通性のあるものが多々ある。
例えば世界は三人の神によって作られたとする伝説である。
日本やインド、北欧神話に共通している、これらの事象は単に伝説で済ませられるものなのだろうか?
また、登場する神々の行いや姿がゾロアスター教以前では決して現代の信じられている神の行いや姿とはかけ離れている。正直に言って余りに人間臭いのである。例えば浮気したのが妻にばれて、怒られるかと思いきや、女神は浮気した神ではなく浮気相手の人間の娘を罰している。いまの清廉潔白な神の行いや姿とはかけ離れているこれらの神々の歴史を読むにつけ、神は決して人間にばかり都合が良い存在ではなかったことを知る。今の信じられてる神の姿に疑問を抱くのは僅かな一握りの人間達だけなのだろうか?
もし、神という存在がいたとして本当に全てに対して平等であるならば、祈りを捧げた人間や寄付をした人間のみが天国に召されるというのもおかしな話だ。動物や植物がいつ祈りを捧げて寄付をしたというのか?そうしなければ天国に辿り着けないと誰が決めたのだろうか?それは一部の人間の都合から始まっているのではないのか?
自分達だけが正しく、他の宗教を信じるものは救われないと縄張り争いばかりしているのを良識ある人は見て、何を思うのだろうか?人間の限界とはこんなものなのだろうか?可能性は無いのか?この争いこそ、クトゥルーやニャルラトホテプの思念波のなせる技なのだろうか?
ルルイエに眠るとも閉じ込められてるとも伝えられるクトゥルーの思念波は深い海の中からでも届き、人間の心に或いは魂に自分の破壊の喜びを伝えて久しいのか?
ニャルラトホテプは人間を嘲笑うために、数々のこの地球にはいなかった生き物をばら蒔いたというが、その記憶が見ただけで意味嫌う生き物を産み出したのだろうか?
ともあれ今、この荒涼とした砂漠を一人の老人が進んでいる。
名前はロマーニ・プレッツィオ。その道では知らぬものはいない魔導師だ。
彼は何故か背中に眠っている赤子を背負いながら砂漠を進んでいた。
その足取りは決してしっかりした物ではなく、杖をついてようやくなんとか砂漠の砂に足をとられながらも進んでいるといった状態だ。首からはおびただしい数の模様の描かれた護符らしきものを下げている。それが何かを科学者が尋ねたらきっと笑いこけるであろうが、魔導師の彼はそれを正気の状態で当たり前に行っているだけなのだ。
彼にとって恐れるのは、蠍や毒のある昆虫や蛇だけでなく、列をなして獲物を探して待ち受けている死霊や、古の伝説の生き物達、それから魔導師を狙い獲物としている他の宗教の信徒達、それらすべてが彼等のの的であり、また、彼にとってはこの世に実在する敵なのである。
そして、これから彼が訪ねようとしている地下の七門守護賢人達の居所を誰かに知られる訳にはいかない。だから細心の注意と最大限の魔術を使って自分の存在をこの世界から消しているのだ。
彼がどんな魔術を駆使してるか想像するしかないが、現に砂漠に彼の足跡は残っておらず、明るい月夜と星の瞬きにも彼の影は出来ていない。また、赤子もぐったりとはしているが眠っているようにも見える。
彼が七門守護賢人の元を最後に訪れて教えを乞うたのは何十年も前の彼が若かりし頃の事になる。
しかし彼が七門守護賢人達に教えを乞うたのは正確には数えきれない。何故ならば、彼もまた転生の魔術を使って何度も肉体が古くなると弟子を騙して、その身体を乗っ取り生き長らえてきた古代の魂だからである。故に彼にとって年齢とは何の役にも立たない、愚かで哀れな寿命のある人間の物差しであるにすぎない。
そんな彼が怖れるのはきっと、この七門守護賢人達と彼が復活を願ってやまない暗黒神達であろう事は推測に難くない。
彼は今、間違いなく最短距離でその場所を目指していた。おぼつかない足取りは、この肉体の劣化の為であるのか、それとも自らの存在を消して後をつけられないようにするためなのかは彼しか知らない。現に彼はこの夜の砂漠の中で傷を一つも負わずに進んでいた。普通なら死霊に身体に傷を気づかないようにつけられて、生気を吸われ、気がついたら全身が血で濡れて拭った手が血まみれになる、現地ではそう信じられている。
しかし、それを抜きにしても蠍や毒のある昆虫、蛇などから身を守れているのは確かだ。そして、彼の進んでる道の先に目指すべき七門守護賢人達がいるのは間違いなく、でなければこんな辺鄙な所を老人がうろうろとしているだけで盗賊どもの格好の餌食となるはずだ。
彼には星と月の位置、それから第三の眼による霊視によって首から下げている護符が引き合い、この道で確かなことを告げているのを感じる能力があった。故に躊躇も戸惑いもなかった。
この渇いた台地の下に彼が目指すべき所、シュブ・ニグラスの子宮と名付けられた神殿は存在するのである。
ようやく入り口付近に近づいた。彼は何気なく佇む石と石の間を杖でつついた。すると現代では読めない文字に彩られた円盤状の物体が出てきた。彼はそれを見つけると急いで砂に埋もれないうちに掘り始めた。そして、円盤状のものが見えると、杖の先で金庫の扉を開けるように右に回したり、左に回したりした。するとその円盤状の物が光り、ある場所を指し示したのである。
ロマーニは急いでその場所にいくと呪文を唱えた。
「レンに続く第一の門、高みの都市へと続く第二の門、ルルイエに続く第三の門、ユゴスに続く第四の門、アトランティスに続く第五の門、カダスに続く第六の門、アルビオンの神殿に続く第七の門を護りし七門守護賢人達に慎んでお願いいたします。いま、あなた達の忠実なしもべ、か弱く愚かな魔導師が古の誓いを守るべく帰って参りました。何卒、シュブ・ニグラスの子宮の入り口を開き我をお導きください。何卒、御前に私をお導きください。ラー・ルルイエ・クトゥルプトゥル・フタグン!」
すると地面の一部が蟻地獄のようにすり鉢状になり入り口が現れた。それは大人がようやく寝そべって通れる程の広さしかなかった。ロマーニは急いでその中に入ると入り口があっという間に姿を消した。そして元の荒涼たる砂漠の一部へとかえっていったのである。まるで今、あったことが幻であったかのように…。
中を進んでいくと色々な侵入者を防ぐための仕掛けが本来はある。しかしロマーニはその何れにも引っ掛からずに、一番奥の蝋燭が燃え盛る広い神殿へと足を踏み入れた。中は薄暗く渇いているにもかかわらず、どこからかそよ風のような物がこの来訪者の訪問を歓迎してるかのようだった。
中は広くドーム状になっている天井からは地下だというのに、砂が一粒も漏れることなく、悠久の歴史の長さをたたえていた。
この地下の神殿がいかなる技術で作られたのかを知る術は最早、ない。しかし中には七つの椅子と門のレリーフがあった。
その椅子は如何なる材質で出来たものであろうか。黒耀石か黒の大理石に見えるほどよく磨かれており、その周りにはびっしりと古代の文字と思われる物が刻まれている。ロマーニは知っていた。この文字は賢人達に寿命を与えること、敵の呪いから身を守ること、そして古代の暗黒神達からのお告げを聞くために必要な紋様であることを。
そして椅子の後ろには門のレリーフが刻まれていて、その上にとてもこの世の者とは思えない、いかなる石工が想像しようにも出来ない生き物が彫られていた。ロマーニはこれが古代神の真の姿であることを信じて疑わない、それは長年にわたり転生を続けてきた魔導師さえも直接、見たこともない存在ではあるがそのレリーフからでさえただならぬオーラが漂っているからである。
今、ロマーニは七人の賢人が半円状に並んでいる所のちょうど中心辺りに膝まづいていた。そして、わなわなと震えていたのである。ロマーニとて、地上ではその道の者ならば知らぬものはいない大魔導師である。しかし、それは地上においてであって、この古の悠久の歴史を生きる賢人達の前では赤子も同然であった。
第一の門の賢人が口を開いたようだ。開いたようだと言うのは、体全体をいかなる材質で出来たものか分からぬが、黒いローブに頭巾で覆われ、顔には布を垂れ流しているために、顔が見えないからだ。
「久しいのか?それとも短いのか?」
「はっ。私は人間の魂しか持たぬ故にお久しぶりでございます。」
すると、第二の門の賢人が言った。
「それで?成果はあったのか?」
「それが…。ネクロノミコンは偽物ばかりでして…。」
第三の門の賢人が言った。
「つまり、成果はなしという事だな?」
「いっいえ!何もなかったわけではありません。しかし…。」
第四の門の賢人が言った。
「追っ手の邪魔が激しいから成果をあげられぬと?」
「いっいえ!勿論、私の力不足もございます。」
第五の門の賢人が言った。
「愚かな魔導師が!シュブ・ニグラスを目の前にして、夢魔と間違えるとはな!」
「え?あれは暗黒神の一人ではなくてシュブ・ニグラスだったのですか?」
第六の門の賢人が言った。
「役にも立たない者がどんな運命を辿るか知っているであろうな?」
「おっお待ち下さいませ!あの罰だけはお許しを!死してなおも魂まで苦痛を味わうあの刑罰だけは何卒、お許しを!お願いでございます。」
第七の門の賢人が言った。
「では、いかにしてほしいのか?選ばせてやろう!」
「お待ち下さいませ!何卒、お許しを!今日は土産としてある夫婦の初子を土産として持って参りました。これを誓いの儀式通りに捧げますゆえ、何卒、お怒りをお静め下さいませ!お願いでございます!何卒!」
大魔導師のロマーニ・プレッツィオが床にひれ伏し、ガタガタと震えていたのである。死語も続く苦しみの刑罰とは如何様なものであろうか?想像するのは難くない。無限に続く地獄の苦しみなのだろう。
「ふむ、捧げ者は貰っておく。我らの依り童としてな!お前はもう帰れ!大して期待はしておらぬが、我らの主、クトゥルプトゥルを蘇えさせる惑星の配列は何時になるのか調べろ!惑星の毒さえ除けば、我等が主、七神も目覚めるであろう!」
「ははっ。必ずや調べて参ります。この体も古くなりましたので次に来るときは、違う姿かも知れませんがお許しを。失礼致します。」
そう言うとロマーニは来た道とは違う道で帰るように促され、その指示に従った。
そうだ。古代の暗黒神達はまだ滅びたわけではない。どこかで復活を願ってやまない者がいる限り必ずや復活するであろう。今の人間の繁栄など星を破壊するとまで言われる暗黒神からすれば僅かに瞬きする間の出来事なのだ。そして、きっと一度目覚めれば為す術なく人間は滅びるだろう。かつて人間同士の醜い争いに神が出て来て止めたことがあるだろうか?
ないはずだ。古代の暗黒神が眠っている間に神もまたどこかにいってしまったらしい。
ゾロアスター教では今は混沌の時代と言えるらしい。
神は世界を造ったときは完璧であったという。しかし、暗黒神が現れて毒を撒いたために、地上は正義と悪が両方存在するようになった、そんな伝説を信じるか信じないかは自由だがこのまま世界が進んでいく先に輝かしい未来があるとは決して限らないのだ。今、こうしている間にも最後の時は迫っているのかもしれない。