旦那がメガネになりました
私の旦那が死んだ。死因はメガネによる窒息死。だが、旦那はまだ生きている。私を一人残して成仏はできなかったらしい。私のメガネに憑依して、現在は私と共に生活している。私のメガネとなって。
私と旦那はどちらも近視がひどく、メガネかコンタクトなしでは日常生活を送ることはできない。私はコンタクトをしているが、旦那はメガネをかけていた。
私は目が悪く、メガネをかけることもあるので、メガネをかけている人を見て喜ぶメガネフェチの気持ちはわからない。メガネは重いし、すぐ曇るし、好きではない。
だが、旦那のメガネ姿を見てメガネフェチの気持ちがわかった気がした。メガネをかけている旦那は知的でクール。メガネをかけていなくても、知的でクールのイケメンなのに、メガネをかけると、さらにイケメン度が増すとは知らなかった。旦那限定でメガネフェチになりそうだ。
なぜ、私がこんなにメガネについて話しているかというと、メガネによって、人生が変えられてしまったからだ。
その日、旦那はメガネを新調したいと言って、メガネ屋に出かけた。私もちょうど新しいメガネを注文していて、今日ぐらいに出来上がると聞いていた。どうせなら一緒に行こうと誘ったが、旦那は一人で出かけてしまった。ここで旦那を引き留めて一緒にメガネ屋に行けば、それとも今日はメガネ屋じゃなくて、他の物を買いに一緒に買い物に行こうと誘えば良かったのか。どちらにしろ、一人でメガネ屋に行かせるべきではなかった。そのせいで旦那は事件に巻き込まれ、死んでしまったのだから。
事件は旦那がメガネ屋にいるときに発生した。家事を終え、メガネ屋に私も行こうと準備していると、不意に電話が鳴った。番号を確認すると、知らない番号である。一応、電話に出る。
すると、相手は私が旦那の妻なのかを確認してきた。なんと、相手は病院からだった。「はい。そうですが」と答えると、相手は旦那が緊急事態だと伝えてきた。私は急いで旦那が搬送された病院へ向かった。とんだ災難だ。緊急事態とはいかほどか。ついさっきメガネ屋に送り出したばかりなのに。
病院に着くと、旦那は緊急治療室に搬送され、手術を受けていた。私はただ、無事を祈ることしかできない。今朝までいつも通りの日常で、いつものように旦那に「いってらっしゃい」と声をかけ、旦那も「いってきます」と返してくれた。それがこうも突然、奪われてしまうとは思ってもみなかった。
結局、病院の人の努力むなしく旦那は亡くなってしまった。医者は「最善を尽くしましたが」などと言っていたが、言葉が耳に入らない。旦那が死んでしまった。もうこの世にいない。ショックで何も考えられない。
旦那の死因は、メガネによる窒息死だったようだ。事件の概要はこうだ。メガネ屋でメガネを盗もうとした男に旦那は声をかけ、注意したらしい。すると、男は逆上して旦那に棚に置かれていたメガネを投げつけてきた。とっさのことに旦那は腕で顔を守った。その隙に男は旦那を押し倒し、馬乗りになった。そして、わけのわからない言葉を発して、なんとメガネを旦那の口に押し込んだのだそうだ。それを見た店員が慌てて男を取り押さえ、その場にいた客が救急車を呼び、警察を呼んだ。
犯人の男は、警察の事情聴取に次のように述べている。
「あいつが止めなければ、今頃家で俺のかわいい嫁たちにメガネをプレゼントできたのに。あいつのせいだ。そうだ、あいつみたいなメガネ男子がいるから、俺たち不細工メガネがもてないんだ。お前みたいなイケメンメガネにもてないメガネ男の何がわかるっていうんだ。それにメガネはかわいい女子がかけてこそ、メガネの真髄を発揮する。メガネの良さをあいつは何もわかっていない。」
男の部屋からは供述通り、かわいい「嫁」がたくさんいたそうだ。どれも等身大の人形で人間のメガネを装着可能な大きさである。さらに、男は重度のメガネフェチだったらしく、部屋には無数のメガネが散乱していた。
どれだけメガネが好きなのだろう。あまりの数に警察も驚いたそうだ。ただ、事件は男の突発的な犯行のようで、計画的ではないことがわかった。男はメガネを盗もうとは計画していたが、まさか人を殺してしまうとは思ってみなかったと言っている。
何とまあ、好き勝手言いたい放題である。ただ、旦那はこの男のせいで死んでしまった。この男は一生許さない。
こうして私は最愛の旦那を失ってしまった。幸い、私たちには子供がおらず、私は仕事をしていたので、経済面について支障はなかった。ただ、あまりに突然旦那を失ってしまい、ショックでしばらく放心状態であった。
葬式については、滞りなく行うことができたと思う。何しろ、その時のことはほとんど覚えていないのだから、うまくできたとしか言いようがない。葬式に来た人々は口々に「ご愁傷様」「若いのにお気の毒に」などの言葉をかけてくれたが、そのどれも私の耳には届かなかった。写真の旦那はメガネをかけていて、輝かしい笑顔を浮かべていた。
私の仕事は教師だ。中学生に音楽を教えている。たとえ、旦那が死んだとしても、喪中期間が過ぎれば、学校へは行かなければならない。体と心にむちを打って、今日も私は学校へ向かう。
旦那が死んでから一カ月ほどがたった。人間、どんな状況にも適応するものである。旦那が居ない日常も徐々に慣れつつあった。そんなある日のことだ。
ふと、メガネを取りにいっていないなと思った。結局、あの事件当日はバタバタしていてメガネを取りに行くことはできなかった。事件が起きたメガネ屋だが、受け取るぐらいはできるだろう。私は事件のあったメガネ屋に向かうことにした。
メガネ屋は事件の後も営業は続けているようだった。店の中に入ると、中には客が一人もいなくてがらんとしていた。店の中には店員一人で暇そうにしていた。私は店員に注文したメガネを受け取りに来たと伝えた。店員は軽く頷くと、部屋の奥に行ってメガネを探して持ってきた。私はそれを受け取り、自分がかけていたメガネを外し、新しいメガネをかけてみた。店員が鏡を私の正面に持ってきてくれたので、どんな感じか確認する。うん、いい感じだ。あまりメガネメガネしていないし、きつくも見えない。お金を支払い、店を出る。
新しいメガネに新調したおかげでなんだか気分がいい。私は気分よく、帰途についた。
私は教師だが、教師として欠けているものがある。教師に必要なのは、人それぞれ考えが違うと思うが、私は名前を覚える能力だと思う。それが致命的に欠けている。何度授業をしても、生徒の名前を呼んでも、次の授業ではすっかり生徒の名前を忘れている。呪いでもかけられているかのように頭に入ってこない。これでは教師として失格だ。生徒の名前も覚えられないような教師は教師としてどうなのか。最近では、キラキラネームも多く、漢字とフリガナが一致しないケースも多い。漢字の読み通りに名前を呼ぶと、違うと言われることもある。一度だけでなく、二度も三度も間違えてしまっては、親から苦情が来てしまいそうだ。
ただ、それが今までなかったのは、「音楽」という特殊教科を教えているからだろうか。音楽の教師は大体、一つの学校に一人しかいない。そのため、全学年を教えることになる。全学年の生徒の名前を覚えることは大変だろうと思っているのか、今のところ、保護者から訴えられたことはない。
生徒の名前を覚えられず、あいまいに生徒の名前を呼ぶと、生徒は「違う、私の名前はそんな風に読まない、間違えすぎだ」といわれる。そのたびに「ごめんごめん、次からは間違えないようにするね。」と私は謝る。授業はこの繰り返しである。
生徒のことは嫌いではないのだが、なぜだろう。このまま教師をしていて大丈夫だろうか。教師生活を長年していくうちに不安は募っていく。
そんなことを考えながらも、私はそれでも生活のために学校へ行く。今日は新調したメガネをかけていこう。コンタクトもいいが、これを機にメガネにしてもいいだろう。目が痛くなることもないし、そうしよう。別に激しい運動をするわけでもないし。
メガネをかけて学校に行くと、生徒に口々にメガネについて言及された。
「先生、目が悪かったんだあ。メガネ、結構似合ってるよ。」
「先生がメガネなんて意外。どうして突然メガネなの?」
生徒たちの言及にはあいまいに答え、私は授業を進めていった。
その日、夢を見た。旦那が出てくる夢だ。夢の中で旦那が何かを必死に指さしている。旦那の指の先にはメガネが置いてあった。そして、必死に何かを叫んでいる。
目が覚めると、すでに朝であった。私は夢のことはすっかり忘れ、ベッドから起き上がり、新しく新調したメガネをかけた。
「○△□※※………。」
何か声が聞こえる。私の空耳だろうか。だが、確かにどこからかなぞの言語が聞こえる。それも私の耳元からだ。旦那が死んでとうとう私の精神も病み始めたか。
それでも仕事にはいかなくては生活していけない。仕方ない。朝の支度をするか。
「○△◇※………。」
やはり、耳元から何か声のようなものが聞こえる。学校帰りに耳鼻科によって耳を調べてもらった方がよいのだろうか。それとも、言ったことがないがここは精神病院に行ってみてもらった方がよいか。そんなことを頭では考えながらも、身体はしっかりと学校の準備を行っている。朝食を食べ、化粧をして服を着替える。
「行ってきます。」
私は誰もいない玄関に向かって挨拶した。これはもう習慣である。もう、見送ってくれる旦那はいないが、挨拶は習慣になっている。いつも通り、誰のいない玄関に向かって挨拶をした私は車でいつも通り学校へ向かった。
学校で授業をしている最中も謎の声はなり止まない。どうしても気になって仕方ない。たまたま今日は半日授業だったので、授業後、すぐに家に帰ることにした。家に帰って、近所の耳鼻科、または精神病院を探していってみよう。ずっと、耳元でささやくような謎の言語が聞こえていると、さすがにいらいらしてくる。
家に帰ると、これまた誰もいない玄関に向かって「ただいま」と声をかける。そして、靴を脱いで家に入る。すると、突然、めまいがして倒れそうになった。慌てて、倒れないように壁によりかかる。今日はいったい私の身に何が起こっているのだろうか。めまいなんて、健康だけが取り柄だった私には縁のなかったことだ。貧血でもないし、風邪をひいているわけでのない。いたって体は健康である。めまいがするこの状態では病院へも行けない。仕方ないが、今日は病院には行かずに休もう。私はふらふらになりながらも寝室へ足を運び、着替えもせずにベッドにダイブした。そして、そのまま気を失うように眠ってしまった。
また、夢を見た。昨日の夢とは違い、今度は旦那の声がよく聞こえる。旦那は謎の老人と何かを話している。
「どうか、妻のもとにいさせてください。妻がひとりでいるかと思うと、心配で心配で。」
「それは無理だよ。死んだら、天へ行って、それから転生の準備をしなくてはならないし。この世に残るということは、いわゆる幽霊になってこの世に残る他ならない。それだとたいがい暴走して悪霊になり、人の世に迷惑をかける存在になる。見たところ、奥さんは君がいなくてもちゃんと生活できているようだし、君がこの世に残る必要はないと思うが。」
「そこを何とかしてくれませんか。まだ結婚して間もないのにもうお別れなんて僕が寂しすぎます。お願いします。何でもしますから。」
「なんでもとはいってもね。ああ、君の死因はメガネだね。そうか、メガネね。一つ君がこの世にとどまる方法を見つけた。それでも良ければ、この世に残してもいいよ。」
「それでいいです。妻とまた一緒に過ごせるならなんだっていいです。」
「それなら、君は今日からメガネの妖精だね。契約成立、今日から君は彼女のメガネだ。」
そう言って、謎の老人は旦那に呪文のような言葉をつぶやいた。そして、消えた。文字通り、どろんと姿かたちなく消えた。旦那もそれにつられるように消えていった。
「待って。メガネって何。この世に残れるならなんだってするって言われても。そこまでしなくても私は平気だから。私のことは気にしなくていいから、ちゃんと成仏して次の人生を歩んでよ。」
私は必死に旦那に向かって呼びかけた。旦那は消えゆく姿の中で、ようやく私の存在に気付いたようだ。にっこり私に笑顔を向けると、「○□△※………。」と朝に私の耳元で聞こえた謎の呪文と同じ言葉をつぶやいた。
目が覚めて、あたりを見回すと、気を失ってからそれほど時間は立っていないらしい。外を見ても太陽の位置はあまり変わっていない。あれは何だったのだろう。旦那はこの世に残りたがっている。果たしてそれは良いことなのだろうか。だが、現実に考えてそれはありえない。幽霊などを信じていない私にとってそんなことは考えられない。とりあえず、学校から帰ってきてそのまま倒れてしまったから、着替えなければ。ベットから起き上がり、メガネをかける。
すると、私の目の前に死んだはずの旦那がいるではないか。私はとうとう耳もおかしくなったが、目までおかしくなってしまったのだろうか。それとも、幻覚でも見ているのだろうか。
目をこすり、もう一度見てみる。やはり何度見ても旦那である。先ほど見た夢のせいか、私は旦那に声をかけてみた。
「久しぶり。葬式以来だね、また会えると思っていなかったから、会えてうれしいよ。」
「………。」
旦那は何かを話そうと口を開いたが、また閉じてしまった。そして、自分の顔の眉間に手を当てた。何か考えているようだ。そして、私の顔を指さし、それからまた眉間に手を当てた。何かを訴えている。
そのジェスチャーから私は夢の中で旦那と老人がメガネについて話していたことを思いだした。メガネに何かあると察した。私がメガネに手をかけると、嬉しそうにほほ笑んだ。そして、夢の中のように私の目の前から消えた。
「ようやく会えた。僕もまた瞳にあえてうれしいよ。」
突然、耳元で旦那の声が聞こえた。私はようやく気付いた。夢の中で老人が言っていたことを理解した。旦那はメガネに憑依して、この世に残ることができたようだ。
旦那がメガネ。まあ、これで私のそばにはいられるわけだが、旦那はこれでよかったのだろうか。私はなんだかんだ、旦那がいなくて寂しいと思っていたので、旦那がこの世に残ってくれてうれしいが。
こうして、私の旦那はメガネになって私のもとに残ってくれたのでした。