とある怪談が終わるまで2
どうしようもない回想のあと。私は今まで大人しく黙っていた舞夜に目をやった。
あんたがそんな男と一緒にいる理由も全然分からないけど。聞けばもしかしたら、加賀美レイナと同じようなこと言うのかもね。
「ごめんね舞夜、あんたも殺しちゃう」
舞夜はふと面食らった顔をして、やがて微笑んで口を開いた。
微笑んだ?
「大丈夫ですよ」
「え?」
「だって死なないもの」
私はそこでふと目を見張った。舞夜は今まで大人しくしていた。ミラーハウスが今にも崩れようと地響きを立てているのに、それでも静かに。
視界がどろりと溶け落ちていく。
舞夜の濃紺色のタイツと革靴が視界に入り、それからフロアに頬が落ちる。頭が重くて上げていられない。視界が歪む。床には鏡の破片が無数に散らばっている。
しかしその全ての鏡面に、私の姿は映らない。ただ立ち尽くす二人の像が、影のように浮かんでいるだけ。地に伏した幽霊は映らない。
伸ばした指先は、今もそこにあるのに。
誰も掴んでくれない。誰も――。
「……溶かす? フツー」
「文句言わないでよ。手っ取り早いでしょ」
腰に片手を当てながら、少女はさらりと髪を払い上げた。
そのありとあらゆる要素から溢れる違和感に、紫苑は思わず顔を顰めた。
「いつまでその格好してんの。もう終わっただろ? さっさと戻れよ」
「いいじゃない。可愛い顔、さらっさらの髪、若くて華奢なカ・ラ・ダ! ……はーあ。男って、ほんと面食い」
なんて軽い調子で嘆き、俯いたかと思えば、次に上げた顔はまるで別人のものへと変化していた。
「んーっ」
ぐっと背を逸らす肉体から少女の軟さは消え、しなやかに上背の伸びた、成熟した女性のそれへと変貌を遂げた。高い位置で結い上げられた、色素の薄い赤茶の髪は、光に透けると金色に輝く。
女は溜息を吐きながら肩を鳴らした。
「はあー、疲れた。人使い荒いんだから。年寄りなんだから気遣ってよ」
「人じゃなくて狐だろ」
「年寄りであることに変わりはないしー」
ふふんと軽く笑いながらあしらって、女は歩を進める紫苑の後についていく。
もうここには、人を惑わす鏡像は一つもない。無数の鏡面が破壊され尽くしたため、このミラーハウスから脱出するのはあまりにも容易かった。
外に出ると、ゆるやかな風が紫苑と狐の髪をさらった。
「てゆーか、私の『変化』に文句があるなら本人を連れてきたらよかったのに。あの怨霊だってそれを望んでたんでしょ?」
「あんな見え見えの引っ掛けに釣られるわけないだろ? こんな所に友達を連れてくるほど馬鹿じゃないっての」
こんな所ねぇ。ぼやきながら、女は背後を振り返る。夕焼けの赤い影に沈む、朽果てたミラーハウス。赤と黒のコントラストは奇妙なほどの静寂に包まれていた。
「……それに本物の舞夜を見て、怖気づいて鏡に引っ込まれても困るし」
「どういうこと?」
「方言」
端的な回答に、ああ、と狐は納得した声を上げる。手野響子は知る由もなかったが、本物の柊舞夜は狐が化けたそれとは異なり、関西寄りの方言を話す。
「どれだけ慎重に入れ替わったとしても、そこまで完璧に真似することは出来ないだろうしね」
響子はその可能性にまで目を向けないでいてくれた。
だからこそ逃げずにここまで来てくれたし、そのお陰で手早く退治することも出来たのだが。
「それじゃあこれでお仕事おしまい?」
「まだかな」
「ええーっ? 怨霊も居なくなったしもうやり残したことなんて、」
「依頼人に報告しないとね」
「と、いうわけでですね。お宅の娘さん――加賀美レイナさんの変化は、彼女が過去に殺人に関わった結果だ、という仮説が立てられました」
紫苑は淡々と、若干にこやかに説明した。
依頼人の男性――加賀美レイナの父親は、若干俯いたまま何も言わない。ただ瞬き一つせず、組んだままの己の手に視線を落としている。
「裏野ドリームランド自体に原因はありませんでした。調査した噂ですが、加賀美レイナさんに直接関係するようなものはありませんでした。多少異常はありましたが、『ミラーハウスの入れ替わり』も、ただの噂話でしょう。加賀美レイナさんは谷田アツシさんと共に、一人の女性を殺した。その罪の意識のせいなのかは知りませんが――」
「……と?」
「え?」
「それで私にどうしろと?」
加賀美レイナの父親は顔を覆った。
人が変わったような娘。彼女に何が起こったのか。記憶を遡る。裏野ドリームランド、遊園地に出かけていった。おかしな噂のある、今やもう廃園と化した遊園地。今の恋人、谷田アツシとデートでもしたのだろう。
しかしあれから、様子がおかしい。
裏野ドリームランドでは、一人の行方不明者が出ている。手野 響子――レイナと同じ大学に通う少女。彼女が消息を絶ったのは、裏野ドリームランドでのことだった。
そう、娘とその恋人が出かけた先で、その日に――。
「加賀美さん、薄々勘付いてはいたんですよね? ……おかしいとは思っていたんですよ。家が依頼を受けたのは、娘さん自身ではなく、裏野ドリームランドを調べること。裏野ドリームランドの何かのせいで変わってしまった、という確信があるならまだしも……ただ可能性があるかもしれないという、その程度の曖昧な理由のために、安くない金を積んで。自分で言うのもなんですが、家みたいな怪しいところに調査を依頼する。――娘が変わってしまった原因を知りたいにしては、あまりにも遠回し過ぎる」
依頼を受けたときから、なんとなく紫苑も気付いていた。
この依頼人が求めているものは、何が起こったか、という現実では無いということを。
『娘の様子が変わった原因を探ってください。それはきっとあの、裏野ドリームランドにあるに違いない。ですから、依頼しましたとおり……』
『……遊園地の噂を、調べればいいんですね?』
『はい』
『……、本当に、それだけでいいんですか?』
『何の、話でしょう』
紫苑は改めて、机に出された写真の日時を確認する。
『依頼時に名前が出されていた、裏野ドリームランドについて調べました。加賀美レイナさんと谷田アツシさんが裏野ドリームランドに向かったその日、一人の行方不明者が出ている』
『レイナと同じ大学の、手野響子さんですよね? 娘と同い年です。可哀想に』
『よくご存知ですね。まあ少し調べれば、すぐに出てくるような内容ですけど。……何か思い当たることは?』
『ありません』
あの時、静かに言い切った男性の瞳は揺るぎなかった。
しかし今は。
「親に、」
「?」
「親に子を責めろとおっしゃるのですか……」
きつく指を組んだ手が震える。爪が食いこみ、血管が浮いた手。この両手で、彼は娘を育て上げてきたのだった。
「放っておけるわけないじゃないですか。一人きりの娘です。あの子は何もしていない、悪くないと、それだけのことを信じるために金を積むのは、おかしいことでしょうか。文字通り、『人が変わっただけ』。それだけならどれほど良かったか。そうしたら、私はただあの子を助けに行くだけでよかったのに。……まあ、分かったのは最悪の現実だけでしたが」
加賀美レイナの父は自嘲するように吐き捨てた。
紫苑は知っている。現実から目を背け、夢の世界に逃げ込んだ者の末路を。頭の中で作り上げた希望だけを見据え、有りもしないそれだけを求めていた彼女のことを。――彼らはよく似ている。
しかしこの先は、紫苑には関係のない話だった。
最後に、依頼時に預かった写真を返した。男性は、その中の一際大きな一枚を手に取って眺めていた。
アトラクション――『アクアツアー』の、急降下する瞬間を撮ったものだ。飛び散る水飛沫のなか、谷田アツシと加賀美レイナは手を繋ぎ、表情を強張らせながらきつく目を瞑っている。右下には、写真を撮ったその日時が印字されている。
二人が手野響子を殺した後の写真だった。
手野響子にもああいう人間が一人でもいればな、と紫苑は思った。そうしたら紫苑みたいな奴が仕事として助けていたかもしれないし、味方になっていたかもしれない。行方不明の彼女を捜し出してくれというような人間が誰か――と思いかけて、彼は頭を振った。
恐らく谷田アツシが、唯一そうなる可能性がある存在だったのだろう。そしてそれが現実となれば、彼女もよほど救われたに違いない。またあれこれ自分勝手なことを喚き散らしながら、しかし現実逃避なんてせず、割りとすんなり自分の死を受け容れたんじゃないだろうか。
まあ、これこそ勝手な想像だ。現実には、手野響子はそのような人間関係を一つも築けていなかった。死ぬ間際も死んでからも、誰にも手を差し伸べられない――そのような一生を送る人間は少なくないけれど。
狐が独り、真面目な調子で零していた。
「若いが故、自業自得と断ずるには少しばかり哀れな気もする」
未だ高校一年生の紫苑からすれば、大学生なんてもう落ち着くことを覚えてもいい歳だろうとしか思えないが、長く生き過ぎた化け狐からすれば、その感覚もまた異なるらしい。
最後はお前が手をかけたんだろ、と思わなくもない。
「ま、しょうがないかぁ。それよりお仕事お疲れんこーん!」
「は?」
「レンコンと狐のコンコンを掛けてみました。どお?」
「最悪だね! あと邪魔。退いて」
吐き捨てながら、帰路と真逆の方向に進む紫苑の背中を、狐は慌てて追いかけた。
「えっちょっと、どこ行くのよ。帰らないの?」
紫苑は笑った。
「確かめてない噂が、まだ一つだけあるだろ?」
もうちょっとだけ続きます




