とある怪談が終わるまで
私たちはミラーハウスに戻って来た。「今さら?」と嫌そうにしていた帝釈紫苑も、特に反対はしなかった。ただ私のことをじっと見て、「たぶん大丈夫かな」とぼやいていた。
私はそのとき、本当に心底安心した。
現実を思い知るまでは。
「なんでっ……」
声を荒げれば、舞夜が驚いたように目を丸くする。
「なんで入れ替われないの!!?」
怒鳴り散らす私の前、舞夜を庇うようにして帝釈紫苑が立つ。ミラーハウスのなか、鏡に二人の姿が輝く。たったそれだけの光景が苦しいくらいに目障りで、私は二人を睨み付けた。やっとここまで来たのに。やっとここまで――。
現状が分かっていないのか目を丸くしている舞夜の顔にも、当たり前みたいに彼女を背中に隠す帝釈紫苑にも、なんだか無性にイラついた。
「帝釈紫苑、あんたのせいね……!」
「違う。というかすぐ他人の所為にしないでほしいんだけど。いや、そういう考え方は今の君らしいと言ったら君らしいのかな」
「なに訳の分かんないこと言ってんの」
「……まだ分からないかな。君、もう殺されてるんだよ」
「んなもん分かってるわよ! ここで鏡の奴に入れ替わられて、」
「違う。お前は人間に殺されたんだ。鏡なんて関係無い」
断言する帝釈紫苑に、私の中からあらゆる言葉が消えた。
瞬きすら忘れた私をよそに、彼は滔々と続ける。
「よく知ってるだろ? 君の彼氏だった谷田って男。そいつが犯人だ」
は?
「だから……手野響子は、このミラーハウスで、谷田アツシの手で殺害された」
文節で区切りながら、ゆっくりと語りかけるような語調だったが、その言葉は空虚なくらい静かに響いた。
私はしばらくぽかんとしていたが、やがてふつふつと怒りが湧いてくるのを感じた。戦慄く手を抑えつけるように、きつく拳を握った。
「何ふざけた嘘ついてるの。笑えない」
「認めないってこと?」
「事実じゃないってだけ。私は、噂通り、ミラーハウスで入れ替わられたの。体を盗られたの。だから私は最後に、私の体と、彼氏を、見送ったの。鏡越しに、そうよ、鏡に映ったあの二人を見送って、」
「君が見送ったのは他人だ。……手野響子を殺害したあと、谷田アツシは現場を後にした。浮気相手である加賀美レイナと一緒にね」
加賀美レイナ。私と同じくらいの身長と体重。似たような髪型のセミロングヘアー。でも私の髪質の方がずっと綺麗だったし、私の方が細くてスタイルも良かったし、それに顔だって、私の方がずっと可愛かった。
私は最後に、歩き去る二人の背中を見送って。
「そしてミラーハウスに残されたのは、いや、今でも取り残されているのは――」
その言葉が示す事実に、私はぞっとして立ち尽くした。彼の冷ややかな双眸の前では、私の背負う無数の鏡像も最早意味をなさなかった。
そんなこちらの心境を知ってか知らずか、いやどうでもよいのだろう、紫苑は淡々と続ける。
「……鏡の中の自分に入れ替わられたあと。その『自分』と谷田が歩き去るのを、君は鏡越しに見送った――。つまり、鏡の中に閉じ込められたはずの君が、鏡の外から、鏡に映る二人を見送ったってことになる。おかしいよね?」
「記憶がごちゃごちゃになってて、それで、ただの勘違いでしょ」
「はは、入れ替わられた瞬間も、記憶がごちゃごちゃしてて覚えてなかったり? ……入れ替わられただの閉じ込められただの、漠然としたことばかりで、具体的な話なんて一つもなかったもんね」
「何が言いたいの」
「何も? ただ、ずいぶん都合がいいなーって」
私はミラーハウスにいる。入れ替わりの噂を覚えている。
――ミラーハウスから出てきたあと「別人みたいに人が変わった」って人が何人かいるらしいよ。なんというか、まるで中身だけが違うみたいだって……。
私は入れ替わられてしまった。体を取られてしまった。鏡の中に閉じ込められている。最後、私じゃない『私』と歩き去る、谷田くんの背中を鏡越しに見送った。
私は鏡に閉じ込められている。ここから動けない。鏡に入れば移動できるが、鏡からは出られないのだから、つまり私は鏡に閉じ込められている。私は。
『地縛霊』
誰かの呟きが蘇る。
思わず唇を噛みしめた。血が出ればいいとさえ思った。もちろん痛みもなかった。
「恋人と遊園地に遊びに来て、そいつと浮気相手に殺された挙げ句数年間放置されてんだから、怨霊になっててもおかしくないけど。自分がまともじゃなくなってるって自覚ある?」
なぜか、観覧車の噂を思い出す。小さな声で、子どもが縋る。「出して」。どこに?
『外に出たらもう、中に戻ることなんて出来ない。後悔しても遅いの』
『現実を見てしまったら、もうどれだけ願ったって、何も知らなかった頃には戻れない』
私はなんで、舞夜に、あんなことを言ったんだろう。
「狂ったみたいな気分の上下差とか、仇である谷田アツシへの強い執着心とか、まともな判断力が欠けていることとか、異常性を挙げていったらキリがないけど……。そもそも誰かと入れ替わろうなんて馬鹿げたこと、どうして思いついたんだろうね。精神を入れ替える技術なんて持ってないくせに、すごい度胸だよねー」
知りたくない。聞きたくない。見たくない。放っておいて。
どうして私をこの夢の国から引きずりだそうとするの、と思いかけて、私が望んだからだと気付く。
『……出たいなんて、外を知らず、中にいるからこそ言える。その間だけしか言えない、勘違いの特権だってこと』
膝から力が抜け、そのまま床にへたりこんだ。やはり床の感覚は無かった。
「――馬鹿みたいに現実逃避して、そんなに殺されたことが信じられなかった? それとも、信じたくなかっただけかな」
ちがう。私は殺されてない。入れ替わられただけ。あんな奴らに殺されてなんかない。この私があんな奴らに殺されるはずがない。私は殺されてない。入れ替わられただけ。この私が、あんな奴らに殺されるなんて、ありえない!
「分かるよ。耐えられなかったんだよね」
猫なで声に目線を上げれば、帝釈紫苑が哀れむように私を見下ろしている。でも彼がそんな殊勝な性格じゃないと、私はこの短い付き合いでよく知っている。
彼は私を蔑んでいる。堂々と見下しながら、口調は馬鹿にしているみたいに優しい。なのに、私は目を、耳を、塞ぐことができない。
「辛いとか悲しいとか悔しいとかじゃない。死んだことより殺されたことより、自尊心を折るような事が現実に起こったってことに、耐えられなかったんだよね」
そうだ。その通りだ。『彼氏に裏切られ、浮気相手と手を組んで殺された』ことよりも、『この私が裏切られた』という事実の方が不愉快だった。
舐めていた男に裏切られたことも、そいつに私以下の女が選ばれたことも、それに殺される直前まで気付けなかったことも。なにもかもが、私にとっては認められなかった。我慢できなかった。
だから私は逃げ出した。外の現実から逃避して、自分の内側の世界に逃げ込んだ。
独りでミラーハウスに取り残されることには耐えられた。何年も。なのに屈辱的な現実には、たったの一瞬も耐えられなかったのだ。
現実を映す鏡に囲まれ、それに気づく機会はいくらでもあった。だけど見ない、聞かない、気付かないフリをした。果ての無い現実逃避。そのままでは耐えられなかったから、私は私の想像と妄想の鏡ばかりを見つめている。
ここは遊園地。夢の世界。現実から目を逸らすには、どこまでもうってつけだった。
「でも何も気にしなくていいんだよ。大丈夫。――だってもう、死んでるんだから」
私が本当に全てに絶望しきっていたら、手を伸ばしていただろう声だった。
死んでいるから、生きていないから、何も持ってはいないし何かを持つ必要もない。それはたぶん、意味もなく在る死人にとって唯一の救いだった。
屈辱的な現実も惨めな妄想も、外も中も、すでに私には関係ない。それは渇きながら見る湧水の幻のように、切実なほど尊く思えた。
だけど私には希望があった。彼の見せた希望が。そしてそれは、今も、手を伸ばせば届く距離に実在している。
「ねえ、」
私は這うような心地で彼女に近づく。
「助けてよ。私、私、生き返りたいの。生きたいの。生き返れると思ったの。思っちゃったの。あんた達のせいで、できるって思ったの!」
私を見下ろす彼女の表情は分からない。首が持ち上がらない。頭上で何か喋っているのが聞こえるが、もはやそれに耳を澄ませる余裕も無い。
完全に口を噤んだ私に、
「最期だけど。何か言い残すことはある?」
間近に聞こえた声に顔を上げると、しゃがみ込んだ帝釈紫苑が、私に笑いかけていた。
――思わず、私は乾いた笑みを零した。
「……弱点」
「え?」
「弱点、考えたけどよく分かんなかったの。だけどあんたは、ただの生きてる人間だから――」
見れば帝釈紫苑は訝しげな表情を浮かべている。私の敵。立ち向かう相手。勝てる気はしなかった。だけどお前なんかに負けている場合でもない。
私はこの勝負のために、できる限りのことを考えておいた。もちろん、このミラーハウスの中でできることに限られていたけれど。
だけど、十分だ。
「――ねえ、友達を連れて来れないの、『こんな危ない所は無理』って理由だったわよね。建物が崩れる可能性もあるし、分かるわよ。だけどそれ、あんたも同じよね? ……あんたも潰れたら死ぬわよねぇ!?」
「げっ」
地響きを立てて揺れる、私の住処、ミラーハウス。私の城、私の世界だった。今日までずっと。
崩壊のために起こる振動に耐えきれず、いくつもの鏡にヒビが入っていく。連鎖するように次々と鏡面が崩れていくなか、私は独り息を吐いた。
「私、こんなことも出来たのね……」
それもそうか。『鏡に閉じ込められた哀れな被害者』じゃなくて、怨霊だもんね。
私はこんな状況ながらちょっと笑ってしまった。余裕ぶった帝釈紫苑の顔が思いっきり引き攣ったのが、あんまり気分よかったから、つい。
くすくす笑う私を見て、帝釈紫苑は合点がいったかのような声を上げる。
「もしかして、生前から怨霊みたいな思考してた? すごいなー、正気に見えたはずだよ。褒めてないけど」
私のこと観察して、『たぶん大丈夫かな』なんて言ってたものね。ざまあ見ろ!
勝負には勝てなかったけど、やっぱり敵はブッ飛ばしたい。というか、この鬱憤くらいは晴らさせてもらわないとね!
「ふふ。そっちこそ、最期に言い残すことはある?」
「……じゃあ一つだけ。谷田アツシのどこがよかったの?」
「ねぇ、私みたいな女と付き合える?」
「絶対無理」
「うん。それが理由だったの」
モテないわけじゃなかったけど、この本性を知り尽くしてなお告白してくるような男、彼くらいしかいなかった。見下してたし、大して好きでもなかったけど。それでも私の彼氏だった。私の。私だけの。
……谷田くんのばか。私がもっと自由に動けてたら、絶対に殺してた。
「そういえば私、加賀美レイナにもそんな質問したっけ」
いつだったか、よく覚えてない。
――あんな大したことない男のどこがいいの。顔はよくて中の上、性格だってありえないくらいヘタレ。気弱だから便利なところもあるし、命令くらいなら聞いてくれるけど。
『そんなことで選んだわけじゃない』
加賀美レイナはすっぱりとそう言い切った。……いや他人のモノ選んでんじゃねーよバカ。
それから圧倒するくらい色々罵ったっけ。