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闇渡りのイスラと蒼炎の御子  作者: 井上数樹
第一部/煌都ウルク―相剋編

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【第六十五節/一人で】

 サラの気配が消えたのを確認してから、カナンは剣を納めてトビアのもとに駆け寄った。仰向けに寝かされたトビアは意識を失っているが、顔は苦しげだった。脂汗が鳶色の髪を額に張り付かせ、唇や頰は蒼褪めつつある。


 すぐ側に跪いたカナンは手の平から天火の光を当てて傷口を癒す。多少は止血出来たが、傷が大き過ぎたせいか、完全な治癒とはなっていない。床に広がった血の量も相当なもので、彼の上半身を真っ赤に染め上げていた。


 天火による治療とて完璧ではない。継火手本人か、あるいは秘蹟サクラメントによって天火を付与された人間以外では、十分に力が伝達されないのだ。それに失われた血液まで増やすことも出来ない。今のカナンには目に見える傷を塞ぐことが限界だった。


「あんな無茶をしてまで……」


 カナンには、トビアの行動がサラを守るためのものだと分かっていた。カナンの力は夜魔に対して絶対有利、その夜魔を宿した夜魔憑きに対しても同様だ。最後の奇襲とて、訓練と実戦で経験を積んだカナンには、到底通用しない攻撃だった。


 二人の戦力差はトビアも分かっていたのだろう。だからこそ身を呈してまでサラを撤退させたのだ。


「……どう? 助かりそう?」


「何とか止血はしましたけど、それでも絶対安静です。出血が多過ぎて……」


「そうか……悪いけど、他の奴も見てやって。あの影のせいで、だいぶやられた」


 そう言うオルファの額からも血が流れていた。首には締められたような痕がある。カナンの視線に気付いたオルファは、苦笑しながら手をひらひらと振った。


 一緒に動力塔を出た十人のうち、無傷なのはカナンも含めて三人だけだった。他の者は不死隊やサラの影に攻撃され何かしらの傷を負っている。中には脇腹を斬り裂かれた者までいた。


 カナンは一人一人の傷に天火を当てて回った。軽傷者はすぐに歩けるようになったが、中にはまだ立つことさえままならない者もいる。カナンにとっては楽な相手だったが、やはり常人が相手をするには荷が勝ち過ぎていたのだろう。


 そして、この先にはあのサラを上回る敵が待ち構えている。負傷者を連れたまま進むことは、彼らだけでなく味方全体の命取りになりかねない。


「オルファさん、ここから転移魔法陣までは遠いですか?」


「いや、上に向かうよりは早く着けると思う……あんた、まさか」


「ここから先は、私一人で行きます。オルファさん、トビアさんを守ってあげてください」


 決然とした表情でカナンは言った。オルファは当然否定しようとしたが、その澄み切った視線に圧されて言葉を詰まらせてしまった。


 カナンは少しだけ唇を釣り上げて見せた。


「大丈夫、向こうについたら他の抵抗組織の人たちと合流します。一人きりで何もかもしようだなんて、思ってませんから」


「……本当だね?」


「ええ。絶対に生きて追いかけます」


 カナンの表情を見ていると、その決意の固さが伺えた。自暴自棄や自信過剰などではなく、純粋な意思と理性によって導き出された答えなのだと分かる。オルファは改めて、この娘は綺麗だな、と思った。顔立ちではなく、内面から現れる魅力が彼女を輝かせている。


 もっとも、そんな風に余裕が持てているのは、心のなかにあの闇渡りに対する信頼があるからだ。彼女一人ではこんな大言壮語は吐けないに違いない。心の一部を彼の存在が支えているからこそ、カナンは前に進むと言い出せるのだ。


「妬けるよ、まったく」


 オルファはカナンを抱きしめ、背中を軽く叩いた。「死ぬんじゃないよ」「はい、待っていてください」少し照れくさそうにカナンは答えた。




◇◇◇




 カナンの背中が通路の奥へと消えていく。霞む視界のなかにその姿をとらえたトビアは固く手を握り締めた。それでさえろくに力が籠らず、一層無力感を強めることになった。




 ――強くなりたい、もっと。イスラさんみたいに。




 弱い自分が嫌だった。守られるばかりで、一人の少女さえ説得することも出来ない無力さがつくづく恨めしい。


 少年の心の中に、力に対する渇望が芽生え始めていた。

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