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闇渡りのイスラと蒼炎の御子  作者: 井上数樹
第四部/黎明編

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【第二四四節/足跡】

 二人にとって、生まれて初めて迎えた、本物の朝だった。


 イスラもカナンも、朝日を浴びただけでこんなにも感覚が澄み渡るのだという事実に驚かされた。一日二日では到底癒えないような疲れのはずなのに、陽溜まりに出ると途端に身体が軽くなった。


 ぼろぼろの服のまま寝こけていたので、まずは清潔な服に着替えることから初め、ついでにパンと水だけを口の中に詰め込んだ。その間も、二人の周りでは絶えずいびきが鳴っていた。日が暮れるまで遺体の埋葬や負傷者の手当てに奔走し、暗くなってからは夜魔に怯え続けていたのだから、無理からぬことだった


 天幕から出る時、イスラはつい手癖で黒い外套をかけそうになった。だが、思い直して放り捨てた。闇渡りとしての記憶をいとうたからではない。単に日差しが暑かったからだ。


 カナンにしても、手持ちの服は全て着潰してしまったため、ヒルデの法衣を借りて着ていた。ゆったりとした長い袖は肘まで折り上げている。だが、肘から先は全て包帯で保護しているので、あまり涼しくはなかった。


 先に出ていた彼女は、地面にしゃがんで花を編んでいた。


「イスラ、あれは?」


「持ってきた」


 イスラは右手に提げていた剣と革袋を持ち上げた。革の剣帯に納められたそれは、刀身が炭のように黒く変色している。月桂樹アウレア・ラウルスと呼ばれていた頃とは、今や全くの別物と化してしいる。


 ここまで共に旅を続けてきた明星ルシフェルは砕けてしまった。月桂樹にしても、最早剣としての使い道は無いし、そのように使う心積もりも二人には無かった。


「行くか」


「ええ」


 法衣の裾についた土を払いながらカナンは立ち上がり、イスラの右腕に自分の腕を軽く絡ませた。彼の左腕は布で固定されている。散々に折られてしまったため、天火の回復力をもってしても治り切らなかったのだ。奇跡の力が無くなった今、あとは自力で、時間をかけて修復していかなければならない。


「怪我人には怪我人で、ちょうど釣りあいがとれるな」


 そう言ってイスラは苦笑した。つくづく、こうして歩けている自分は頑丈だな、と思った。


 まだ夜の中にあった頃は、ペヌエルの地形を冷静に観察するような余裕は無かった。遺跡や岩の目立つ荒涼とした場所だと思っていた。しかし全てが晴れ渡った今は、それらを覆う青草や隙間に咲いた花々に視線が向いた。


 夜闇に覆われて頃の陰鬱さは最早無く、鳥や羽虫たちは何事も無かったかのように飛び交っている。あのおぞましい夜魔たちの痕跡であった灰ですら、今は一つまみも見つけられない。まるで夜の間に、誰かの手によって掃き清められたかのようだった。


 色付いた世界の中では、今まで当たり前のように浴びてきた風ですら、感触以外のものを伴っているように思えた。暑い、寒いというだけではない。色は風に匂いを添える。だから遠く離れた場所にある物も、まるですぐ近くにあるかのように感じられる。


 そして風は、これまでに通り過ぎてきた記憶を再び運んでくるものであり、同時にこれから来るであろうものを予期させもする。平面的な距離の問題を越えて、人間に今生きている時間そのものを実感させる。


 夜魔の灰はもうどこにも無い。だが、大気の中に微かに血の残り香を嗅ぎ取ってしまえる程度には、二人は戦いに慣れていた。


 ここで流された血はいつか乾き、その名残も消えて行ってしまうだろう。全ては押し流されてしまうのかもしれない。それが時の流れというものだ。


 だからこそ人は、記憶の中に過ぎ去っていった人々を繋ぎ止めておこうとする。



「知らなかったことばかりですね」



 カナンは呟いた。イスラも「そうだな」と素っ気無く返した。よくこれだけ多くのものを見落としたまま、今まで生きてこられたものだ。カナンはくすくすと笑った。自分の見聞きしたことや、知っていることなど、本当に笑えるほど些細なものなのだ。


 二人は雲の影の形を知らなかった。だから、草原の上を流れていく曖昧な形の影を踏むたびに、何だか奇妙な心地になるのだった。


 何となく、それが白いということをイスラは知っていた。月明かりが特にまぶしい日は、そのように見える時もあった。加えてカナンは、雲が水蒸気に近しいものであるという事実を知っている。


 だが太陽に照らされると、その端々に神秘的な光彩を宿すことまでは、二人とも知らなかった。


 言葉に出来ないような光景は、夜に覆われた世界にさえ溢れていた。ましてや陽の光の下では、千変万化という表現では追いつかないほどの色彩がそこかしこにある。大地に、空に、そして光にかざした己の手の中に。


 二人は草原を通り越して、その果てるところに辿り着いた。


 そこは、空と海とを臨む断崖だった。あたかも天空に向けて架けられた橋のようにも見える。


「ここで良いよな」


「はい」


 イスラは革の剣帯から月桂樹を抜き、体重を掛けて岩と岩の間に深く切っ先を埋めた。カナンはその柄に、編んだ花の環を掛けた。


 革袋の栓を抜いて中身を振りかける。オーディスは白の葡萄酒を好いていた。嗜好品の類はほとんど底をついていたが、イスラが残った荷物を漁って見つけてきた。せめてこの程度の手向けは用意してやりたかったのだ。



「いずこかにいまします我らの神よ 願わくば、この小さき祈りに耳を傾け給え


 地より去り逝きし我らの友を 死の澱みより引き上げ


 御国の岸辺に入らせ給え……」



 カナンの祈りの言葉に合わせて、イスラも目を閉じた。まだ祈るという行為には慣れていなかったが、そうしていると自然と、記憶や想いは整理されていった。




◇◇◇




 弔いを終えた二人は、そのまま居留地に戻るでもなく、あたりをぶらつくことにした。


 崖の下には純白の砂浜が広がっている。まるで、夜の間だけ空に浮かんでいた半月が、仕事を終えて横たわっているかのようだった。


 その、大地の月の上を、二人は歩く。


 カナンは裾が濡れるのも気にせず波を蹴った。裸足の爪先が水飛沫を散らす。水玉は陽光を浴びて硝子のように輝いた。波と風の音に織り込まれた彼女の笑い声を聞きながら、イスラは砂の上に放り投げられた靴を拾い上げた。白い砂がさらさらと零れ落ちた。


「なあ、カナン」


「何です?」


「俺はオーディスみたいになりたかった……って言ったら、笑うか?」


 返答は笑い声そのものだった。


「笑うなよ」


 イスラは憮然と言う。「笑うか? ってきいたの、イスラでしょ?」と言い返された。


「どうして?」


 少しだけ真面目な顔で、カナンはたずねた。


「それは……あいつが、俺の持ちたいと思うものを全部持ってたからだよ」


「イスラの持ちたかったものって?」


「お前の隣にいるための資格。知識とか、立ち居振る舞いとか、まあそんなのだよ。俺は全然持ってないから。だから、ずっとどこかに不安があったんだ。これで良いのか、って」


 カナンは波に足を浸したまま、微笑を浮かべてじっと彼の言葉を待っていた。まるでお話を催促する子供のような表情だった。


 しばらくイスラは自分のなかに相応しい言葉を見つけだそうと努力し、形になったところから順番に並べていった。



「オーディスみたいになれたら、俺はお前の隣にいることに何の(わだかま)りも持たずに済むのかって、何度も思った。今だって、あいつを超えてみたいと思う部分が俺の中に残ってる……それは、そのままで良い」



 けどな、と言葉を繋いだ時、イスラはオーディスの面影に溶け込んでいた不均衡を思い出した。



「ずっと前から、あいつの中に、あいつ自身意識していない引っ掛かりがあったんだ。俺はそれに気づいていた。ただ、それを言葉に出来なかった。


 もし、もっと早くにそれを言い当てていられたら、あいつがエデンの罠に嵌まることも無かったかもしれない」



 ラヴェンナから旅立つ直前、彼と神についての話をしたことを思い出した。オーディス自身は自らの思い描く神について語っていたのかもしれない。しかし彼の行動原理は、徹頭徹尾、一人の人間のためにあった。



「あいつは死者の記憶に囚われていた。何でそんな風になったのかは……そりゃ、あいつにとって掛け替えのない女だったのかもしれないけど……そいつだけが世界の全てってわけじゃない。


 って言い切れるうちは、まだまだ子供だよな」



 イスラは肩をすくめ、少し恥ずかしそうに笑った。彼女に泣き顔を見られたのはつい昨日のことなのだ。


 自分にはオーディスの弱さを嗤う資格は無いし、彼が嵌まり込んだのと同じ陥没に沈まないとも言い切れないのだ。


 だが、自分の中に新しい弱さを見出したことで、かえってオーディスという人間のことが良く分かったような気がした。そしてそれだけに、彼が最期の瞬間にとった振る舞いの意味も、理解出来たような気がした。



「あいつには二つの顔があった。俺がずっと嫉妬してたのは、あいつが必死に創り上げた仮面の方だったんだ。素顔の方じゃない。だから俺は……結局、何も見えちゃいなかったんだ」



 そうしてイスラは沈黙した。しばらくの間、波と風の音だけが二人を包んだ。


 やがて、意を決して口を開こうとしたのは、カナンの方だった。


 それをイスラは押し留めて、言った。




「いつまでなんだ?」




 彼女はハッと目を見開いた。一瞬、悲しみが波のように顔を覆い、そしてひいていった。後に残ったのは、全てを受け容れた者だけが持つ、透徹とした、美しい覚悟だった。


 朝日に照らされた海がどれほど煌びやかに輝く波を寄せようとも、その時彼女が纏っていた光輝を薄れさせることは出来ないはずだと、イスラは思った。しかしそれは最早、人の持ち得る美しさを超えたものであるとも思った。



 この世にいられない者だけが持てる美しさなのだ。



「……気付いていたんですね」



 彼女が口を開くと、飛んで行ってしまいそうなほどの超越性は幾分薄れた。だが、言葉は冷酷な事実を突きつけるものだった。



「俺たちは奇跡を否定したんだ。もうこの世界では、あんな都合の良いことは起こらない。もしそれが起きたのだとしたら……それは多分、長くは続かない」



 一言ずつ口にするたびに、自ら剣で臓物を抉っているかのような痛みを覚えた。イスラはなるべくそれを顔に出さないよう努めたつもりだったし、実際、表情は変わらなかった。だが、それで誤魔化せるほど、彼とカナンの関係は浅くは無い。カナンには彼の心が手に取るように分かったし、同時に、彼が覚えたのと同じ痛みさえも感じたのだった。



「……私にも分からないんです」



 嘘偽りがないことは、彼女の仕草から見て取れた。本当に知らないのだ。だが、仮に彼女が嘘をついたとしても、イスラはその嘘を丸ごと呑み込んでしまっただろう。


 カナンはもう何もかもを受け止めている。自らの命数を知っているにせよ、知らないにせよ、それが必ず訪れるのだということを覚悟している。


 もし知らされていたならば、それは残酷なことだ。処刑台に乗るまでの段数を数えるようなものである。終わりが近づくにつれて、気が狂うほどの恐怖を味わうことになっただろう。


 だからといって、何も知らないままその日(・・・)を迎えるかもしれないというのも、全く別の残酷さを伴う話だ。何となれば、今この瞬間にでも、カナンはこの世界から飛び去ってしまうかもしれないのだから。



「私の命は借り物です。きっと、そう長くは生きられない」



 言いながら、彼女は少しだけ顔を伏せた。


 カナンの中にも、不安や恐れが無いわけではなかった。それは遥か遠くに見える雷雲のように、常に心の中の一角を暗くしている。生きている限り、そしてその生が豊かである限り、立ち込める暗雲と影も大きく膨らんでいくだろう。




「それでも」




 カナンは顔を上げた。そして両腕を広げて、海と空に満ちた大気を胸いっぱいに吸い込んだ。血が全身を駆け巡り、頭がくらりとした。両腕の傷跡が疼いた。そして言葉によって刻まれた傷は、なおも深い場所でその存在を叫び続けている。


 まだ自分の心臓は確かに脈打っている。そして記憶に焼き付けられたあの嘆きと絶望に相対することに、彼女は苦痛を覚えなかった。




「私はこの命が尽きるまで戦い続けたい。私に出来る戦いを」




 彼女の晴れやかな表情を見て、イスラはつくづく「馬鹿真面目」だと思った。



「あれだけ戦って、まだ戦うっていうのか?」



 イスラは呆れ交じりの苦笑を浮かべた。彼女の言わんとしていることは分かる。世界が元通りに動くようになったからといって、人の世がただちに安定するわけではない。むしろ、不安定なまま、決して完成を見ないまま、どこまでも続いていくのかもしれない。そしてその過程でまた自分のような闇渡りが生まれてくるのかもしれない。


 そしてカナンは、そんな人間たちに、何度でも手を差し伸べようとするのだろう。自分にそうしたように。



「……至高天で力を使い果たした後、ベイベルに会いました。


 言われましたよ、死んだ方が楽になれるって。辛いこととか苦しいことを目にしないで済むからって。


 そして私たちのやったことが、長い目で見れば多くの人間の苦しみを生んでいくことになるんだ、って……それが、世界を救う罪と罰だと」



 えいっ、とカナンは跳んだ。着地際に砂に足をとられてこけそうになり、イスラに抱き留められた。




「そんなの、認めたくないじゃないですか」




 イスラの胸に額を擦りつけたまま、カナンは怒ったように言った。彼の体温を手繰り寄せるかのように、背中に指を這わせた。この安堵を、匂いを、温もりを、無為なものだとは言わせない。あの長い旅の全てが、虚無や絶望に繋がっているのだと言わせはしない。


 もしそれを証明しようとするものが現れるならば、何度でも胸を張って言いたい。自分は幸せなのだ、と。そしてそれは、死によってもたらされる安らぎよりも、なお価値のあるものなのだと。




「私はとことん、自分のために生きていくつもりです。


 私は絶望の言葉に負けたくない。きっと……生きている限りきっと、それを打ち負かす言葉を探し続けて見せます! だから……!」




「認めたくないのは、俺も同じだよ」




 イスラはくしゃくしゃになった彼女の前髪を梳いてやった。今、自分はどんな表情を向けられているのだろう、と自問する。悲しみや動揺を隠しきることは出来ていないだろう。


 だからせめて、それだけになってしまわないように、いくらかの優しさを込めて見つめ返してやりたいと思った。




「一緒に歩かせてくれるよな?」




 よもやここまで来て否定されるとは思わない。彼女が肯定してくれるのは分かり切っていた。




「……はいっ!!」




 それは、この長い旅の間、何度も聞いてきたお馴染みの台詞だった。夜闇に包まれた世界でも燦然と輝いていた、跳ねるような、歌うような同意の言葉。


 だからやはり、イスラは少し泣きそうになってしまった。そして心底自分は、カナンを愛しているのだな、と思った。


「……じゃあ、あいつらを起こしにいくか。とりあえずやらなきゃいけないことは山積みだもんな」


 うん、とカナンは頷いた。二人は手を繋いだまま砂浜を歩き始めた。


 寝こけている仲間たちを揺り起こして、生活を始めなければならない。かつてエデンと言われていた土地に街を造り、人を呼んで、そして荒れ果ててしまった世界を立て直していかなければならない。


 その長い過程の中で、きっと自分は今よりも強くなれているだろうと、イスラは思う。いつかオーディスが抱えたのと同じ弱さに向き合う日が来ても、きっと乗り越えられるに違いない。


 だが、今日の自分にはまだ、涙を微笑みに変えられるような強さは無い。


 だからこそ、一緒に歩き続けていかなければならない。いつかこの足跡が一つだけになるその日に、立ち止まらず進めるように。歌を、言葉を、温もりを、祈りを、お互いに積み重ねていかなければならない。



 悔いることなく愛したのだと、その日に言ってあげられるように。

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[一言] いつまでか、ソレは全ての人がそうであるように、でしょうか。
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